前ページへ/表紙へ


4月14日(月) 「吾妻鏡」第一 治承四年 袖書

ついに、「吾妻鏡」第一巻からの再開です。

いやぁ、狭い教室に全部でどれくらい?100名くらいはいらっしゃるのでしょうか・・・勿論おじさん・おばさんというよりはおじいさん・おばあさん・・・申し込みの時に私の友人が、「たぶんあなたが一番お若いのじゃないかしら」と世話役さんに言われてましたから(^^ゞ

実は当日は、第三十二の歴任元年12月の分が残っていて、そこから入ったので、第一はホントに触りだけになってしまいました。(その分は、別のページに)
で、まあ、一応、それが終わって、では、第一回から、というところで、先生から解説が入りました。


――☆☆☆――

この「吾妻鏡を読む会」は、昭和54年にNHKの大河ドラマ「草燃ゆる」の時に鎌倉市の教育委員会が募集して、始めは市民講座としてスタートしました。その時は週に一回づつ20回くらいで、確か1月から3月くらいまで、抜粋で面白そうなところをやりました。それが終わった四月から、初めからちゃんと読みたい、ということで、自主講座として4月から月一回で年に11回、今日で263回です。その時からずっーと、残っている方が四名いらっしゃいます。(とご紹介!!一同大拍手!!)
と、いうわけで「吾妻鏡」第一は始まりました。
5月12日の第264回の折、今回の前解説に当たる部分がかなり重複したので、その分をここに加筆して、5月12日の分は「袖書」本文の解説からにします。)

筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体でアップできないもの、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用。けっこう写し違えてそのまま当用漢字を本文中に使ったりもしていますのでm(__)m)

まず、、ここで使う「吾妻鏡」は吉川弘文館の「国史大系」本です。「国史大系」というのは、最初は鎌倉幕府の時代に出来たと想われますが、誰が書いたか、最初から歴史書として出来ていたか、というのは不明です。「原本」がないんですね。「写本」その後に出来た「版本」「古活字本」「木活字本」などというのは残ってますが、「原本」はなくなってしまっている。
「写本」は金沢文庫には、室町時代に写された質の良いものが残っています。島津家・毛利家・伏見家にも残っています。毛利家の「吉川本(きっかわぼん)」なんていうのは有名です。一番ちゃんとしたものが小田原の北条氏のもので、黒田如水が手に入れて、その後徳川家に献上して、今、国会図書館の「内閣文庫」に「北条本」として収蔵されています。これを「底本」として、さらにいろいろな「本」を参考にして作られたのが「国史大系」です。

資料を見てください。「年表 日本歴史」という筑摩書房から出ている年表の本の第3巻の治承2年の分から建仁2年までの分です。
「吾妻鏡」は、治承4年から始まりますから、その一寸前から乗っています。
三っつ目の資料は地図・系図・その他の資料集です。これの綴じ方は・・・(ご説明がありました・筆者注

<吾妻鏡第一 袖書>
安徳天皇。<諱言 仁>高倉院第一皇子。御母建礼門院。<太政大臣清盛公・女>。
 治承四年二月廿一日受禪。同四日廿二日・□位。<春秋三歳>。
 壽永二年八月廿日。新帝踐祚。
 文治元年三月廿四日於長門國門司關沒入海水。<八>
攝政内大臣。<基通公。>六條攝政一男。<母從三位藤原忠隆卿女>。
 治承三年十一月十六日任内大臣。<元二位中将>。爲関白氏長者。十七日敍二位。 □授牛車随人。同日可列左大臣上之由被 宣下。
・・・・・
・・・・・
・・・・・
 以上當將軍一代。<自治承四年。至正治元年。帝王攝關奉載一處也>。
征夷大將軍正二位源朝臣<頼朝>于時前右兵衛佐 從四位下行左馬頭兼播磨守義朝三男母熱田大宮司散位藤原季範女

治承四年<庚子>

―「袖書(そでがき)」というのは、各将軍の時代の周囲の政情・政権リストです。頼朝が生きていた時代、どういう人が天皇であった、関白であった、という、ね。(今回は読みませんねえ。次の講義のときに読むのかしら?・・・筆者の呟き
―「以上當將軍一代。」というのは、「以上は頼朝将軍時代の帝王」ということです。
(5月の折には「各将軍の時代の周囲の政情・政権リスト」といってらっしゃいました―筆者注)
―征夷大将軍というのは武家としての最高位です。臨時の位ですが一番初めに坂上田村磨がもらったんです。その頼朝が征夷大将軍の時代の袖書である、という。
―治承四年(1180年)に頼朝が鎌倉に入った年から、正治元年(1199年)に頼朝が死ぬまでの20年間の「各将軍の時代の周囲の政情・政権リスト」です。
―治承四年というのは、頼朝が鎌倉に入った年です。治承四年、1180年に頼朝は伊豆で兵を挙げます。これが33歳の時ですね。
1159年にお父さんの義朝が平家に敗れて、頼朝は捉えられホントは殺されるところを池禅尼という清盛のお母さんに助けられて、また、13歳だからということで、伊豆に遠流になります。それから20年「貴種再興の年」といいます。13歳になるまでは、京都でいい暮らしをしていたんですね。源氏の若君ですからね。
―頼朝が生まれたのは京都です。熱田神宮に「頼朝生誕の地」という碑がありますが、これは母親が熱田神宮の大宮司の娘だからでしょう。京都で生まれたと言っていい。
―それで、伊豆に遠流になって、13歳から33歳まで、政治活動は出来ないけれど、自由に暮らしていた。あっちこっちの女性と仲良くなったり、伊東祐経の娘とも交渉がありました。祐経が怒って引き裂かれちゃうんだけども、それから政子と会うんですね。
―北条時政、当時は平時政です―は「流人」としての頼朝を見張る立場だったんですね。北条氏は軍事力も経済力も無いままに、政子を通じて源氏に勢力をを持つんです。
―そこに源行家が以仁王の令旨を持ってきます。
宣旨というのは天皇の命令。院宣というと上皇です。令旨というのは、皇族の命令ということで、以仁王は親王にもなれなかった人なんですね。
―そんな人の命令ですからたいした威力も無くて、頼朝も敗走して、石橋山の木の中に隠れているところを梶原景時に助けられて、安房に逃れます。真鶴港から土肥実平の采配で漁船で、これが「七騎落ち(しちきおち)」です。
―これを今度やろうと思っています。ホントに真鶴から船に乗って行きます。真鶴の漁業協会と話がつかなかったんで、腰越の漁協が協力してくれることになったので、わざわざ腰越から真鶴に船を回して真鶴から安房まで行きます。

というところで、次回になりますか・・・。では今日はありがとうございました。
って感じだったんですねで、264回はもうちょっと突っ込んでいきます。―筆者注―まず、ここからもう一度、)

―北条時政、当時は平時政です、は「流人」としての頼朝を見張る立場だったんですね。北条氏は軍事力も経済力も無いままに、政子を通じて源氏に勢力をを持つんです。
―正治元年(1199年)1月13日に、頼朝が死にます。53歳で死因不明です。ちょっと変でしょ?これがですね・・・もっと変なのは1999年の前、1196・97・98年と1199年の正月まで3年と一ヶ月「吾妻鏡(の記録)」が無いんです。これは、どうも、建久七年のこれが関係あるのではないか、資料見てください。
―建久七年(1196年)11月25日関白九条兼実が罷免され、とありますね。その前日11月24日中宮任子、内裏より退出、とあります。中宮任子というのは九条兼実の娘で後鳥羽天皇の奥さん、正妻ですね。実はこの前の年(1195年)子供を出産しているんですが、それが女の子だったんです。同じ頃後鳥羽天皇のもうひとりの奥さん在子というんですが源通親の娘です。土御門通親です。在子がやはり出産している。こちらは男の子です。そのために、兼実は通親に敗れたんですね。11月26日は兼実の弟であの有名な慈円も天台座主を辞任しています。これを「建久七年の政変」というんですが、これに頼朝が絡んでいる。九条兼実は親鎌倉の公家です。これは京都と鎌倉の戦いです。西と東、公と武、朝廷と幕府の戦いです。幕府というのは、もとは朝廷から軍事政権を委託された組織だったんですが、朝廷に対抗して力を持つまでになつた。京都に親鎌倉派の公家達を通して朝廷を動かしていたのが、ここで親鎌倉派の公家(九条兼実)達が一掃されてしまう。此れに関連して、頼朝迄一挙に、ということも考えられるかもしれないんですね。

筆者の呟き―確かに在子が為仁親王〜後の土御門天皇を生んだことは大きいと思いますが、それだけだったのかな・・・と言う気もします(^^ゞ 大体、在子は通親の実の娘ではありません。母親の藤原範子が在子と妹を連れて通親に再縁したのですが、ぬぁ〜んと、この範子さんは後鳥羽天皇の乳母だったんでございますよ!ねぇ・・・これはちょっと触れて頂きたかった事なのですが・・・(^_^; まあ、母親が再縁した時はもう15歳くらいだったのに他の貴族に縁付きもさせず、それから10年くらい手許でお后教育かなんかしちゃって、後鳥羽天皇の成長を待って入内させちゃった、と考えればねぇ・・・しかも、そこから土御門・後嵯峨と天皇を出したんだからあんた、やるもんだね!という(^_^; )

―参考―(筆者注―↓というサイトで興味深い関連記述がありました。ご参考までに―筆者

「後深草院二条−中世の最も知的で魅力的な悪女について−

――前略――村上源氏1000年の歴史の中で、特筆すべきは源通親(みちちか.1149〜1202)という極めて魅力的な人物です。この人は、源頼朝に対して、いかにも貴族的な方法で反撃した人物として有名です。

 晩年の頼朝は、娘を後鳥羽天皇の妃として入内させることに固執するなど、次第に本来の貴族的性格を露わにして、御家人との間に疎隔を生じるようになっていったのですが、この頼朝の弱点を巧みについて、九条兼実らの頼朝シンパの貴族を一挙に失脚させた天才的な政治家が源通親です。

 誰が言い始めたのかよく分かりませんが、いろいろな本に、この人こそ日本史上最も悪辣な陰謀家、マキャベリストと書いてあります。

―筆者注―実はこのサイト、大変なお宝サイトで中世の政治史・文学史の資料の宝庫です(^^)vでも、あまり詳しい事を書き込んでいるとキリが無いので、興味のある方は実際にいらしてみてくださいませm(__)m

―「吾妻鏡」の空白と言うことで言えばたくさんあります。
「吾妻鏡」は治承四年(1180年)から文永三年(1266年)まで87年間に亘ってかかれていますが、鎌倉幕府自体は1180年から1333年までの154年間ですね。その154年間のうちの87年間。
―途中に大きな欠落がたくさんあって通算12年間は「吾妻鏡が無いんです。」その空白の最大の物が、この1196年から1999年正月までの3年と一ヶ月です。他にも一年・二年というのはありますが、こんなに長い空白はない。出来上がったのはいつか、というのもはっきりしていない。文永三年(1266年)が最後だから、時宗の時代に世の中が騒然となってくる、元寇もあったりして書けなくなったのではないか、と考えられるます。日記の態勢を取っているが後日編纂した物である、ということはわかりますね。

(――というところで、「資料集」を参考に「袖書」本文の方に移っていきました。ので、5月の分にそちらを書くことにしました―筆者注)


次ページへ/表紙へ