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4月26日(土) 「吾妻鏡」番外編
「よみがえる幻の中世都市・大航海時代の東アジア文化交流」
―鎌倉・博多・草戸千軒・十三湊・一乗谷

今回は、NPO法人の「地域振興協会」というところの主催でした。例の「吾妻鏡」の八幡教授が副理事長ということもあり、近年の鎌倉あたりの遺跡発掘に力を得て、歴史上のエアポケットになりやすい鎌倉時代に繁栄した地方都市の様子を知らせたい、ということらしいです。
鎌倉・博多はともかくも、草戸千軒・十三湊・一乗谷・・・いずれも名前を聞いてはいても実体を知らないところばかりです・・・お恥ずかしい(^_^;ちょうどいい機会と思い参加してきました(^^)
パワーポイントなどを使って、当時と現代の各都市の形状・繁栄の様子・出土品の様々を見せながら講演は進みました。
以下―

はじめに

歴史の研究、というと
  @「文献」です――文字研究・古文書・編纂などですね。
  A「考古学」というと―先史時代の研究というのが従来の常識でした。歴史考古学というのね。この頃は近代考古学(明治時代なども含む)というものに焦点が集まってきました。
  B水中考古学―海底に沈んでいる沈没船・遺跡出土物を引き上げてきたことによって研究が進んできた。沈没船というのは、中国製か日本製かという造船技術などで、「大きな船」を作った造船技術などを見て文化の交流がわかります。
表題の鎌倉・博多はともかくも、草戸千軒・十三湊・一乗谷各都市の各都市の性格を異にする地域の都市から、今私達は何を受け取るか、ということですね。

1. 日本の中世都市

資料より
中世になると京都・奈良意外に、鎌倉をはじめ各地に地方の拠点となる都市が成立。都市が発展する契機は農村の変化や交通商工業の発展など。
※東アジアの交易都市―朝鮮半島・中国大陸

2. 各論―発掘調査によってよみがえった幻の中世都市

鎌倉―東国武家の本拠地
鎌倉というのは、中世(1180年〜1192年くらいにかけて)に鎌倉幕府が開かれた都市です。1985年(昭和60年)、御成小学校の新校舎建設のために発掘調査が行われました。その時天平五年の銘の入った荷札が出て(鎌倉の)歴史が奈良まで遡りました。現在の鎌倉、というのは江戸時代以降の鎌倉です。
筆者の呟き―そうなんですよ!!それって何時も忘れられてるのです。私たちは江戸歌舞伎のなかで、江戸時代の鎌倉と言う立場をちょっとでもかじれるんですけれど、一般認識としては、鎌倉は鎌倉時代のままで止まっているのです(^_^;江戸はちゃんと東京になっているし、千年の都京都だって、現代の京都にちゃんとなっているのに・・・まあ京都は江戸・明治からから現代に飛んじゃっている所がありますが、それにしても一続きになっているのに鎌倉は、鎌倉時代から止まったままなんです。これはおかしいですよね(^_^;いまの鎌倉は江戸時代以降の鎌倉である、ということは大事なチェックポイントですよね。)

博多―古代以来の東アジアの交易拠点都市

古代から、外交の表玄関ですが、貿易の港としても大変な役割を果たしていました。執権北条氏が大宰府の湊を抑え博多を手にした。
清盛が大宰府の役人になっているのもそれですね。頼盛なんか現地に赴任してます。アジア交易の権限を平氏が奪ったということです。福原遷都も大輪田の泊も博多から都への交易のポイントを抑えるということなんです。
筆者の呟き―平家が日宋貿易でしこたま財を成したのは有名ですがね北条氏もそうだったんですね(^_^;迂闊でした。大体北条氏は例の松下禅尼の障子の切り張りやら、時頼が酒の魚に味噌を舐めた、なんてビンボー臭い話ばかりがクローズアップされて、どうも貿易で潤っていた、というのは気がつきませんでした(^_^;おまけに元寇もあるし、鎌倉時代って一種の鎖国状態かな・・等と無知でしたm(__)mもっとも、だから、日明貿易で蓄財した足利氏が室町時代を築いたんだろうとも思っていましたけど(^^ゞ

草戸千軒―瀬戸内の中世港湾都市
13世紀後半、洪水のため瀬戸内の川底に埋没していた港町の遺構が出てきました。芦田川の川底に江戸時代の民衆の生活がそのまま残っていたんです。昭和5年の芦田川の改修工事で中州の町がよみがえった。平成元年にはこの町から発掘した遺跡をもとに、(場所は違いますが)福山市に県立博物館が建設されて、そこに当時の鍛冶屋とかいろいろな店などの街並みがが復元されています。

十三湊―北の中世港湾都市

安藤氏という鎌倉御家人が派遣されて、鎌倉末から南北朝(13〜15世紀)にかけて栄えた湊です。近くに平泉がありますが、その発掘調査以前は京都・奈良くらいしか文化の中心はないと思われていたんですね。だから、博多から入った海外の文化も京都を経て東北に行った、と思われていました。ところが、平成3年(1991年)、佐倉の国立民族歴意博物館の65万uに亘る発掘調査によって、その出土品などから、どうやら南から経由して来るのではなく、東北方面・北海道が、朝鮮半島から、直接文化導入をしていた、ということが分かりました。今は大陸との交流に活躍した船が出てくるのではないか、と期待されています。
筆者の呟き―ふうん、ということは航跡はあるものの、船は出ていないんだ・・・とすると北前船なんてのが一丁噛んでる、ということもありえたりして・・・北前船の中に、当然もっと多くの利益を求めて、密貿易まがいに雄飛しようとした物があってもおかしくないよね。でも肝心の北前船の歴史って何時頃からだろうか?

資料より―
十三湊(とさみなと・青森県北津軽郡浦村)
半島状に発達した南北に延び砂州上に立地した北の中世港湾都市。
東は津軽平野を貫流した岩木川が収束する十三湖(後潟=うしろがた)。西は日本海に面して発達した七里長浜との間に前潟・内潟・明神沼と呼ばれる小湖沼。これらが水路として機能した。内陸平野部とアジア・北方(アイヌ)世界との結合を示す国際都市。安藤氏は鎌倉幕府の下で、津軽下国・出羽上国の両安藤氏が蝦夷沙汰代官に任ぜられ、室町時代には「日の本将軍」と称されて、津軽十三湊を本拠に北方世界を支配した。
平成3年(1991年)国立民族歴史博物館による学術調査開始。65万平方メートルの国際港湾都市の全貌が解明されつつある。北からの大陸文化摂取ルート。

一乗谷―戦国大名朝倉氏の城下町
福井県の木戸の内町に越前朝倉氏、五代百年に亘る城下町、15〜16世紀の街がそっくり残されていました。これは小田原北条の五代百年と同じような時代ですね。いろんな城下町ー小田原・仙台・姫路など・・・いろいろな城下町がありますが、町の雰囲気は残っていても、その時代に住んでいる人の生活に合わせて街も変化します。
ところが、ここは、1967年(昭和42年)から始まった昭和の発掘で―柴田勝家によって滅ぼされてから、勝家は隣の北ノ庄に築城しましたから、隣国の北ノ庄に繁栄が移って―手付かずのままで残ったタイムカプセルなんですね。北の港町としての庶民の生活・職人の生活などがよく残っています。400年〜500年ぶりに蘇った当時の港町の様子を、現地にそのまま復元しています。

資料より―
越前朝倉氏一乗谷遺跡(福井県福井市)15〜16C
天正元年(1573)に五代100年余の戦国大名朝倉氏滅亡。柴田勝家は北ノ庄に築城したため、その後一乗谷は水田化し歴史上から忘れられた。
昭和5年 朝倉遺跡と湯殿跡・諏訪館跡・南陽寺跡の3庭園が国史跡指定。
  42年 朝倉氏遺跡整備事業委員会設立。本格的学術調査に入る。奈文研。
  47年 278haが国特別史跡指定。
戦国大名の居城(一乗谷城)、居館(朝倉館)、武家屋敷、町屋、寺院、その他の遺跡が完全な状態で保存されていた。戦国時代の城下町の存在が全国で始めて実証された。そしてその町並みの一部が初めて遺跡上に立体復元された。出土資料はやく150万点を越える。

3. 中世資料から見た東アジア交流―唐船派遣の事情と背景

東アジアの交易都市
<朝鮮半島>
西京―今の平城ピョンヤンです。高句麗の都だったところ。(当日資料より―427年高句麗長寿王が都に定めた。)。新羅に滅ぼされて高麗の時代に西京になりました。
東京―現在の韓国慶州。南州という新羅の中心地だったところ。(当日資料より―辰韓の斯盧はこの地で発展して新羅となり、のち半島の大半を領有した。高麗は新羅を併合して慶州と改め、ついで安東・東京・鶏林とも称した。)
漢陽―現在のソウルです。(当日資料より―高麗時代には揚州・南京・漢陽府と呼ばれた。水運の便に恵まれ、政治・経済・文化の中心地として繁栄した。)

<中国大陸>
揚州―隋の時代に北京に通じる大運河がができたことで栄えた街です。マルコポーロもここに来ています。鑑真和上が日本に向けて船出したのもここからですね。何度も渡海に失敗して、やっと5回目に成功して、日本についた時には失明してましたね。
(当日資料より―夏・周の時代には現在の江蘇・安微省あたりの区域を揚州と呼んだが、春秋時代以後多くの王帝がここに築城。隋のころ江南の米を北京に運ぶ大運河が掘られたのにつれ大運河と揚子江の交差点に位置していた揚州は基地として大いに栄えた。元代にはマルコポーロもここを訪れている。南京から100km。)
寧波―「ニンポー」という呼び方で知ってるでしょ。浙江省にあります。一時メイシュウ(資料によると明州らしい)といった四つの大きな名山があるからです。焼き物を運ぶ港として栄えました。焼き物と一口に言いますが、中国の焼き物には民窯と官窯があります。民窯は日用雑器、官窯は天目茶碗などね。
(当日資料より―浙江省東部の省轄地。余桃(よよう)江と奉化江が合流する地点の港市で、余桃(よよう)江を通じて杭州とは運河で結んでいる。唐代には州としたが8C前半には明州と改めたる明の洪武14年に寧波府と改称されたるこの地は古くから朝鮮・日本などとの海上交通の発着港となり、唐代には南海路経由の遣唐使船も入港した。南宋時代には市舶務が置かれ、外国貿易を管理した。また明代には日本の遣明勘合船の来航地に指定された。)
福州―(当日資料より―福建省の省都。BC3C末の前漢時代から栄えた都市で、東冶(とうや)と呼ばれていた。福州の名は唐時代以降であるが、馬尾を外港として対外貿易で繁栄するのは明・清時代のことである。1842年の南京条約では、5港の一つとして欧米に対して開港された。)
泉州―泉州も福建省です。ここもマルコポーロが来たところ。「東方見聞録」には確かザイトンと書いてある。海外交通史博物館があり、沈船から引き上げた物などが展示されています。(当日資料より。福州の南方約200kmに位置する。3C後半より国際貿易港として名があるが、唐代には陶磁器や茶など地元の生産物の輸出港として知られた。11C初に創建された中国最古のイスラム教寺院も現存する。泉州には、発掘された宋時代の貿易船や輸出用の陶磁器・輸入品の香料や生薬などの資料を展示する海外交通史博物館がある。)
筆者注―沈没船からの引き上げ資料の有り難味というのは、先日の尾崎先生の「鑑真渡海の折の難破船に積まれていた目録」でも良く分かりましたが、沈没船というのは、そのままタイムカプセルなのだ!と納得しました。その時その船に乗り合わせていた人たちにとっては大変なことだけれど、歴史的に見ると、船が沈むと言うことはけっこう意義あることでもあるのですね。残酷!!)
広州―香港・マカオなどを含む中国の中心的な州ですが、沈没船の多いところでもあります。今回NETで「中国の沈没船」と検索したら100以上のHITがあって、!?と思ったら、みんな中国・北朝鮮の不審船でした。そういうところです。アジアの中で日本が期待されていることはたくさんありますが、今は何だと思います?今日的視点で言えば体温計とマスクですね。製造が追いつかないそうで、業者は大喜びだそうです。(笑)
(当日資料より―海南島を含む中国南端の広東省の省都。華南最大の都市で、中国の南の玄関口。珠江の三角州の上にある港町で、南海貿易の拠点として知られている。秦始皇帝時代から登場するが、唐代には中国南海や西方のベンガル湾、アラビア海、ペルシア湾あたりまで進出した。北宋には中国最大の貿易港なり、内外の貿易船が盛んに往来した。明治以降、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスなど列強による植民地化が進んだ。)

4. 沈船による交易の実態

海のシルクロード」〜商業と交通の発達
アジアと日本の水中遺跡からいろんな事を知ることが出来ます。
文字のなかった先史・考古の時代、日本は中国史を参考にするとどうも大陸と交通があった。(筆者注―この辺よく聞きとれませんでしたm(__)m)
その後、日本は遣隋使・遣唐使を送ります。最初は日本の船で行きますが唐船が来るようになります。実朝は船を作って中国に渡ろうとしました。これは唐船です。失敗しましたが海外へ行こうという気持ちがあった。
唐船は、日本の人々がいかに海外ブランドを愛好していたか、ということですね。もともと日本の寺社を修復するための費用捻出のために中国へ船を出した。唐物を輸入してそれを売りさばいた利潤で修復費用にする、ということでした。
資料に「金沢貞顕書状」というのがあります。時間がないので読み下しにしたほうを読んで下さい。「幕府の評定」閣議ですね、それが終わり次第、称名寺で入手した唐物を見せて欲しい、って言ってるんですね。
で、ここで「吾妻鏡」ですね。「吾妻鏡」が出てくればこっちのもんですね(笑)。
文治元年十月。平泉の伽藍を頼朝が見回った時のことです。唐錦・唐綾・唐墨・唐筵ね・・・。御家人達が平泉の宝蔵を略奪した時にも唐物が多かった。(筆者注―後日別項にて部分掲載
もうひとつ建長6年四月。唐船をむやみに出してはいけない、という「唐船事沙汰あり」というのね。全面的に禁止してしまうと反発があるから、五艘まではよい、という、北条氏執権が貿易の実権を独占した、ということです。その北条氏の命を受けた幕府の奉行が政所と問注所の役人に当てて出した文書です。(筆者注―「吾妻鏡」建長6年の項参照

今回の資料作りのために、ネットで検索して「沈没船」と入れたら100件以上も出てきました。おーっと思ったら、みんな中国や北朝鮮の不審船でした。(笑)

○新安沖海底引き揚げ
新安沖の沈没船の中からは日本政府の寺社建立だけでなく、博多の日本商人や在日中国人の私的取引があったことがわかったんですね。
水中考古学の調査システムというのは・・・(筆者注―ここから図解になるのでm(__)m、水深20〜30メートルくらいのところにネットを張っておき基地になる船「台船」にクレーンを乗せて作業するそうですが)

資料より―
○新安沖海底引き揚げ文物 (大韓民国全羅南道新安郡智島邑道徳島沖合)
1976年 沈船発見。韓国政府調査団(文化広報部文化財管理局)及び海軍の支援により、第一次(1976年)〜第8次(1982年)に亘る大規模な海底調査、引揚げ作業。
・引き揚げ資料―中国陶磁器(宋・元時代、一万数千点)、銅銭(十数トン)、高麗青磁(瓶・碗)、古瀬戸(瓶)、金属製品(瓶・香炉・鏡)、漆器(木簡)
・文字資料―「至宝三年」(1323、木簡墨書年号)。「東福寺」(木簡墨書)。
「新安沖沈没船引き揚げ品について」は、石野さんの 「中国歴史あら?カルト!」に詳しくまとめられています。

○南海一号船 (広東省台山県南海川山郡島付近沖)
1987年 沈船発見。海底引揚げ文物は247点(中国陶磁器・銅器・錫器・鍍金製品・鉄器)。南海は南西太平洋の北端に位置し、東にフィリピン、南にインドネシアやマレー半島に及ぶ。典型的な季節風地域である。沈船海域は福建省西部から広東省東部を経て西部にかけての沿岸懐炉の中間に位置し、海上貿易の重要拠点の一つ。中国歴史博物館と日本水中考古学研究所が共同で第一次予備調査を1989年に完了。陶磁器及び沈船の年代は中国宋・元時代。

○渤海湾元代沈船 (遼寧省綏中県三道崗海沖)
1991年 沈船発見。海底引揚げ文物は磁器47点(磁州窯系白地鉄絵・黒釉鉢など)。木造船板材の放射性炭素年代の測定の結果、沈船の年代が元時代と判明した。
1992年 中国歴史博物館水下考古学研究室が本格調査。沈船は中国北方の磁州窯産の大量の磁器を積載した元代の船。磁州窯製品は中国各地及び東アジアとくに朝鮮半島における磁器生産に多大な影響を与えている。この沈船の調査によって磁州窯製品の対外流通状況や中国北部における造船と航海についても貴重な資料を提供した。

新安沖海底引き揚げの「東福寺」というのは、その木簡の年号至宝三年(1232年)、鎌倉幕府滅亡の10年前、東福寺炎上があつて、その再建のために、博多の末寺承天寺を基地に中国船をチャーターして交易をしようとしたんです。木簡には「公物目録」という宝物の目録です。寧波から出航したと思われます。
船底には800万枚の銅銭28トン。黒檀・紫檀1000本、瀬戸の壷・高麗青磁が積荷の底の底に納められていた。
30メートルくらいの船を7つの壁で8室に区切って唐物2万点。最高品は香料・薬品です。

5.東アジア交易による日本中世文化への影響

筆者から――ここは全編パワーポイントによる画像での説明になっていたのですが、草戸千軒や一乗谷など各遺跡から発掘された絵画・磁器・漆器など・・・さまざまなものが唐物であったり、大陸の影響を色濃く残した物である事が良くわかりました。パワーポイントでの説明の際に配布資料集の表紙の内外の見開きに使われている写真などは、この講演会のためにNPOの方たちが苦労して作成されたものだということもご説明がありました。
ただ、「北から入ってくるものと南から入ってくるものとは一寸違います。それから超一級の焼き物は当時の博多では出てこない。やはり京都」というのが印象的でした。

 ・草戸千軒の中州の様子、鎌倉ではうかがえない庶民の暮らし・鎌倉〜室町にかけての時代の推移と街の状況変化。銭刺しなども出土するそうです。「出土の陶器は関東に比べると白っぽい。備前の瓶などもあります。今でも備前福岡に焼き物市が立つてしょ。」とのことでした。
 ・十三湊の地図から安藤氏の館・町屋の跡〜「湊を経由して商業中心の貨幣経済が発展した行った」という解説もありました。
 ・一乗谷については克明な地図が出て、一乗川をはさんで峡谷になった朝倉氏の領内の様子―山城をはじめ朝倉隆景の麓の館・下の木戸・上の木戸―「戦国城下町の典型的な姿」「その場所で実物大の復元が出来た」という解説がありました。
 ・鎌倉については「和賀江島」というのが鎌倉の港だったそうです。初耳!無知!!無恥!!!m(__)m
和賀江島というのは、ひき潮の時には本土にくっついてしまうような浅瀬の港で、実際にはすぐに○○(聞きとれなかったm(__)m)に役目を奪われてしまったらしいです。
で、たまたま、先生のお住まいの近所だそうで、まだ「かわらけ溜」というものがあり、粘土をこねて作った日用品の破片が出土しているそうです。
 ・博多のところでは、「鴻臚館跡などでは大唐街」「蕃昌百街」という白磁の溜まりがある、というお話がありました。

―大特急で、もう最後のほうは先生も大変にあせっていらっしゃいましたが、会場はけっこう満足げ(^^)先生もその気になって、まだ一時間くらいいいのかな?みたいなこと笑いながらおっしゃつってましたが、これだけではとても話したり無いので、次の機会を持ちたい、というような締めの言葉がありました。私も、アンケートに次回があるならぜひまた参加します、と書いて提出してきました(^^)
ホント!!忙しくて、メモもかなりいい加減でしたけどよかったです(^^)
しかし、パワーポイントで説明する時はメモは難しいですね(^_^;




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