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5月12日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 袖書

休講空けの10月20日の分も併せて付記しました。その授業再開の模様は10月20日の分に掲載しています。

吾妻鏡」第二回は、「え〜、今日で、吾妻鏡も264回ですね」という先生の一声から始まりました(^^ゞ
そうかぁ・・・私たち新入生にとっては、前回が第一回で、巻一から始まると期待していたのが、巻三十二の終わりを延々とやられて、
「そりゃぁ、いつかは、ここにたどり着くとしてもだよ、今日が初回なんだから、ちゃんと年度末にケジメつけといてくださいよぉ〜!!」とばかりに不満顔だっのだけれど、ずぅ〜っと最初から本との第一回から出ている方たちにとっては、第一回・第二回ではなく、昨日に続く今日というか、前回に続く今回の264回なんですね(^^ゞ
で、また、この先生は空とぼけていらっしゃるのか、本ボケなのかよく数字を読み間違えたり書き間違えたりなさるのですが、良くした物で、シッカリモノの秘書みたいな女性がついていらっしゃるのです。テキスト代集めたりしてくださったのもこの方でした。この女性がこの会時代の世話役なのか?大学での先生の教え子なのか?はたまた本物の秘書なのか?ってそんなはずはないよね(^_^; Yさんちのご主人も I さんちのご主人も秘書なんていないもの(^_^;
まぁ、詮索はそれくらいにして・・・・
。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜


筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用)

えー、「吾妻鏡」も今日で263回?ん?264回になりました。昭和53年?あ、昭和54年から始まって、もう24年ですね。この本(吉川弘文館の「吾妻鏡」)でいうと400ページあります。4冊あるから1600ページですね。どんなに頑張っても一回で2〜3ページですから、まず40年はかかりますね。
と、おっしゃりながら前回と同じような解説を始めてしまわれました。復習かな?と思っていたのですが、全く重複して、勿論付加したところもありますが、殆どWるので、前置きの解説は省略して袖書のところから始めます。付加された部分は前回4月14日分に加筆しましたm(__)m―筆者注)

安徳天皇。<諱言仁>。高倉院第一皇子。御母建礼門院。<太政大臣清盛公・女>
  治承四年二月廿一日受禪。同四月廿二日・[p卩]位。<春秋三歳>。
  壽永二年八月廿新帝踐祚。
  文治元年三月廿四日於長門國門司關。沒入海水。<八>

――安徳天皇。諱は言仁(ときひと)。高倉院の第一皇子。御母(おんはは)は建礼門院。太政大臣清盛公女。
安徳天皇というのは後白河院と建春門院との間に生まれた高倉院の子供です。建春門院というのは平滋子、8ページの平氏の系図で見て、清盛の奥さんの時子の妹に当たります。この平滋子が後白河院と結婚して生まれたのが高倉院。で、その高倉院に清盛と時子の娘の徳子、「とくこ」とか「とくし」といわれます。この徳子が結婚して生まれたのが安徳天皇です。
――「諱(いみな)」というのは、亡くなってから本名を憚って言うんです。
――治承四年二月廿一日受禪。同四月廿二日・即位。<春秋三歳>。
「受禪」は位を譲り受けた、ということ。「禪」は譲ると言う意味です。「春秋三歳」−「春秋」は年と言う意味。
――壽永二年八月廿新帝踐祚。
新帝は後鳥羽院。
「受禪」「即位」「踐祚」という言葉の意味は重要です。「受禪」は帝位を譲り受けること。「踐祚」は三種の神器を譲り受けること。「即位」は三種の神器を譲り受けた事を天下に知らせること、ということです。現代の皇室典範には「踐祚」の規定はありません。天皇が崩じた時は後嗣が直ちに即位する、となっています。
――文治元年三月廿四日長門の國、門司の關に於て。海水に沒入す。<八才>
山口県下関市赤間が原の隣に阿弥陀寺という寺が建立されました。
三歳で天皇になって八歳で入水しちゃうんですね。吾妻鏡には二位の尼が抱いて入水したのではなく按察の局が抱いていたと書いてあります。

攝政内大臣。<基通公>。六條攝政一男。<母從三位藤原忠隆卿女>。
  治承三年十一月十六日任内大臣。<元二位中将>。爲關白宇治長者。十七日敍二位。  [来力]授牛車随身。同日可列左大臣上之由被  宣下。四年二月廿一日改關白爲攝政。  [来力]授兵仗如故之由  宣下。四月廿一日敍從一位。<御[p卩]位次>壽永元年四月廿四日賜内舎人二人爲随身。六月廿七日上表内大臣。  [来力]許。四年八月廿日更爲攝政。<法皇詔>。十一月廿一日停攝政。

――攝政は内大臣。基通公。六條攝政一男。母は從三位藤原忠隆卿の女。
基通と言う人は、四度も攝政になります。頼朝と後白河院の中で凄腕を振るいます。
――治承三年十一月十六日内大臣に任ず。元二位の中将。關白宇治長者と爲す。十七日二位に敍す。勅して牛車随身を授かる。同じ日左大臣の上に列すべき之由宣下せらる。四年二月廿一日關白を改め攝政と爲す。勅授兵仗故(もと)の如くの由。四月廿一日從一位に敍す。ご即位に次ぐ。壽永元年四月廿四日内舎人二人を賜り随身と爲す。六月廿七日内大臣を上表す。勅許。四年八月廿日更に攝政と爲す。法皇の詔。十一月廿一日攝政を停む。
――基通という人は六條攝政の長男。この六條攝政は基実という人ですが、清盛の娘の盛子を養母にしている関係で、平氏とも関係がよかった。(ここで10月20日配布の系図をチェック(^^ゞこのぶんは10月の追加です―筆者注
基実という人は五摂家の近衛家の始祖になる人です。藤原道長の子の頼道の子に關白師実というのがいます。その子孫で、九条兼実の兄です。その基実の子が基通です。
母は從三位藤原忠隆卿の女、忠隆というのは「枕草子」に出てくる中宮定子の弟の隆家の子孫です。
――宣下は院宣、その上一字空けるのは敬意を表すことです。

後鳥羽院。<諱尊成>。同第四皇子。御母七条・院。<贈左大臣修理大夫信隆公女>。
  壽永二年八月廿日踐祚。<春秋四歳>。元暦元年七月廿八日[p卩]位。<五>。文治元年正月三日御元服。<十一>。建久九年正月十一日御脱[尸の中に徒]。承久三年七月 日遷御鳥羽院。同八日落御餝。<御法名>同十三日遷御隠岐國。延応元年二月廿二日崩御。<六十>。五月廿九日追號顯徳院。仁治三年七月八日改顯徳院爲後鳥羽院。

――後鳥羽院。諱は尊成(たかひら)。同じく第四皇子。御母は七条・院。<贈左大臣修理大夫信隆公の女>。
壽永二年八月廿日踐祚。春秋四歳。元暦元年七月廿八日即位。五才。文治元年正月三日御元服。十一才。建久九年正月十一日御脱履(ごだっし)。承久三年七月 日鳥羽院に遷御す。同八日御餝(ごほう)を落とす。御法名。同十三日隠岐國に遷御す。延応元年二月廿二日崩御す。六十才。五月廿九日顯徳院と追號す。仁治三年七月八日顯徳院を改め後鳥羽院と爲す。
――御母は七条・院、殖子(しょくし)という人です。初め建礼門院に仕え二人の○○の母となりました。
筆者注―ここは、天皇とおっしゃったのか、上皇とおっしゃったのか定かでない・・・よく聞きとれませんでしたm(__)m一応、後鳥羽天皇と後高倉院の母であり、土御門天皇・順徳天皇も、更には後高倉院の子の後堀河天皇と三人の孫が天皇になっています。きゃあ!!で、殖子本人は臣下としては立后なき准三后からの女院号宣下の初例となった由―増鏡)

攝政内大臣。<師家公>。<菩提院禪閤三男。母前太政大臣忠雅公・女>
  壽永二年十一月廿一日任内大臣。<元大納言>。爲攝政并長者。十二月一日 [来力]授帶釼八日敍從二位。聽牛車・賜兵仗。元暦元年正月六日敍正二位。廿二日停攝政内大臣。貞永元年九月六日出家。嘉禎四年四月四日薨。

――攝政内大臣。<師家公>。<菩提院の禪閤の三男。母は前太政大臣忠雅公の女>
  壽永二年十一月廿一日内大臣に任ず。<元大納言>。攝政并びに長者と爲す。十二月一日 帶釼を[来力]授す。八日從二位に敍す。牛車を聽され(ゆるされ)。兵仗を賜る。元暦元年正月六日正二位に敍す。廿二日攝政内大臣を停む(とどむ)。貞永元年九月六日出家。嘉禎四年四月四日薨ず。
――短期間なのに政権を取れたのは、義仲が入京したためです。義仲をバックに得て攝政になったんですが、義経の入京によって落とされたんです。それが元暦元年です。

攝政前内大臣。<基通公>。<第二度>。元暦元年正月廿二日還着。文治二年三月十二日停攝政。三年三月一日給随身兵仗

――攝政前内大臣。<基通公>。<第二度>。元暦元年正月廿二日還着(かんちゃく)。文治二年三月十二日攝政を停む。三年三月一日随身兵仗を給わる。

攝政右大臣。<兼実公>。<法性寺關白三男。母家女房。加賀。大宮大進仲光女>
  文治元年十二月二十八日被下内覽 宣旨。二年三月十二日爲攝政并氏長者。十六日列左大臣上。賜随身。聽牛車。十月十七日上表右大臣。五年十二月十四日任太政大臣。建久元年四月十九日上表太政大臣。二年十一月十七日改攝政爲關白。准攝政。七年十一月廿五日停關白。建仁二年正月廿八日出家。<法名圓證>。承元々年四月五日薨。<年五十九>。

――攝政右大臣。<兼実公>。<法性寺關白三男。母は家の女房。加賀。大宮大進仲光女>
  文治元年十二月二十八日内覽の宣旨を下さる。二年三月十二日攝政并びに氏の長者と爲す。十六日左大臣の上に列す。随身を賜り。牛車を聽さる。十月十七日右大臣に上表す。五年十二月十四日太政大臣に任ず。建久元年四月十九日太政大臣に上表す。二年十一月十七日攝政を改め關白と爲す。攝政に准ず。七年十一月廿五日關白を停む。建仁二年正月廿八日出家。<法名圓證>。承元々年四月五日薨ず。<年五十九>。
――法性寺關白三男というのは藤原忠通。九条兼実です。
――建久七年十一月廿五日關白を停む、これは、失脚したんです。なぜかというと、中宮に立っていた娘の任子が子どもを産んだけれど女の子だった。同じ頃後鳥羽天皇のもうひとりの奥さん在子というんですが源通親の娘です。在子がやはり出産している。こちらは男の子です。そのために、兼実は通親に敗れたんですね。(前回4月14日の講義で詳しく触れられています。参照―筆者注
通親は後白河上皇の時代に鎌倉と張りあつた京都の公家です。久我(くが)と書いて「こが」と読みます。久我通親です。土御門帝即位に伴い、高階栄子ー丹後之の局ですが、、これと連携して兼実を失脚させます。クーデターですね。

關白前内大臣。<基通公>。<第三度>。建久七年十一月廿五日更爲關白。九年正月十一日改關白爲攝政。

――關白前内大臣。<基通公>。<第三度>。建久七年十一月廿五日更に關白と爲す。九年正月十一日關白を改め攝政と爲す。

土御門院。<諱爲仁>。後鳥羽院第一皇子。御母承明門院。<内大臣通親公女。實法印能圓女>。
  元久二年正月三日御元服。<十一>。承元四年十一月廿五日御脱□。承久三年七月十三日遷御阿波國。十一月一日遷土佐國。後日遷阿波國<云々>。寛喜三年月日落御餝。<御法名>。同十月十一日崩御。<三十七>。

――土御門院。<諱は爲仁(ためひと)>。後鳥羽院の第一皇子。御母は承明門院。<内大臣通親公の女。實は法印能圓の女>。
  元久二年正月三日御元服。<十一>。承元四年十一月廿五日御脱[尸の中に徒](ごだっし)。承久三年七月十三日阿波の國に遷御す。十一月一日土佐の國に遷る(うつる)。後日遷阿波の國に遷御す<云々>。寛喜三年月日落御餝。<御法名>。同十月十一日崩御す。<三十七>。
――内大臣通親、土御門通親です。源通親ともいいます。九条兼実とともに親鎌倉派の公家です。(?兼実は親鎌倉だけど、通親はこの時はまだ反鎌倉ではなかったでしょうか?まあ、後には自分の子を将軍にするんだけど・・・この時はねぇ(^_^;)
――内大臣通親公女は在子です。實は法印能圓の女、というのは、坊さんの娘です。坊さんに娘がいたんですね。
御脱[尸の中に徒](ごだっし)は「脱履」・・・孟子な心「舜視棄天下猶棄弊履」(破れた履を脱ぐように愛着無き意)帝王が位を去ること―広辞苑より)

攝政前内大臣。<基通公>。<第四度>
  建仁二年十一月廿七日停攝政。建永元年三月十九日賜兵仗随身。承元二年十一月五日出家。<法名行理>。天福元年五月廿九日薨。<年七十四>。

――攝政前内大臣。<基通公>。<第四度>
  建仁二年十一月廿七日攝政を停む。建永元年三月十九日兵仗随身を賜る。承元二年十一月五日出家。<法名行理>。天福元年五月廿九日薨ず。<年七十四>。ここで基通も亡くなります。

  以上當将軍一代。<自治承四年。至正治元年>。帝王攝政奉載一處也。
征夷大将軍正二位源朝臣<頼朝>于時右兵衛佐 從四位下行左馬頭兼播磨守義朝三男母熱田大神宮司散位藤原季範女。

――以上當将軍一代。<治承四年より。正治元年に至る>。帝王攝政一處に載せ奉る也。
征夷大将軍正二位源朝臣<頼朝>時に右兵衛佐(うひょぅえのすけ) 從四位の下 行左馬頭兼播磨守義朝の三男 母は熱田大神宮司散位(さんみ)藤原季範(すえのり)の女。
――以上當将軍一代、というのは、以上は頼朝将軍時代の帝王、攝政も入ってますが、ここに載せ奉る。
――治承四年より、正治元年に至る・・・1180年から1199年までるの20年間に亘る記録です。実際は頼朝の死後に書かれた。
――征夷大将軍というのは、武家としての最高位。時に右兵衛佐(うひょぅえのすけ)という肩書きの時もあった、その時代の袖書きである、と言うことです。
――從四位の下 行左馬頭兼播磨守というのは父の義朝のことで、頼朝は三男です。 母は熱田大神宮司散位(さんみ)藤原季範(すえのり)の女。

あんまり、袖書ばかり詳しくやっていると、いつまでたっても本文に入れないから、このヘンにしておきましょう。
筆者注―授業再開の時、「袖書」を詳しく注釈なさったのは、ここを取り上げたのは、この二十数年間で初めて、ということだったんですって!皆様もびっくり!「前回の時も○○からで」というのが聞こえなかったのですが、それで先生としては積年の恨み?いえいえ、心にかかるところだったのですね。)


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