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5月18日(日)古文書解読中級講座 「一紙文書」の読み方 小松郁夫 (県立公文書館)

「一紙文書」の解説を書いた部分がどこかに行っちゃいました・・・というより「一紙文書」の定義を聞いたでしょうか(^_^;

「生活に根ざした文書は大事です」
「年貢などの政治・経済に関したものばかりが資料ではありません」
ということだけはメモしてありますが・・・要するに武家文書などに対して庶民の文書ということだったのかな(^_^;

                      相州愛甲郡
                       半縄村
                         百姓
                           七右衛門
                         〃 佐之吉
                         〃 藤太郎
                         〃 伊之助
                         〃 平士郎
                        同村之内
                         字坂本
                          〃 久次郎
                          〆六人
(石は漢字のヘンの一部欠字下の“村”とのバランスから)石
                        上依知村
                          百姓
                            市五郎
                            外 四人
                            〆五人
右のもの共儀去る十五日荻野村御陣屋放火以堂し候節自火と
存駆付候處賊徒共に被呼上ヶ夫より手ニ附最寄村々押歩き
物持ち共用金等申付多分之金子奪取月十六日夕七ツ時
頃下平井村久保田喜右衛門へ罷越同人方江泊り月十七日朝同所
出立昼九ツ時頃八王子宿江罷越夫より宿ヽ人馬継立帰府

以堂し候砌右名前之者共通し人足ニ被連候趣尤市五郎外九人は
十七日夜内藤新宿問屋之前にて暇出同所旅籠屋ニ泊り
翌十八日帰村以堂し候且半縄村百姓七右衛門儀は暇不差出
同夜赤羽根有馬様御屋敷内迄供以堂し罷越昨十八日
夜九ツ時頃漸々暇出賃金弐分貰請罷帰候且又
外十人之者共ハ内藤新宿ニテ賃金十両貰請候由尤宿払等ハ
右金十両之内ニテ相払候由申○候
有馬様御屋敷内ニ大将与相見候侍四人内三人惣髪都て侍
躰之者少く博徒共多く罷居候由凡見請候人數壱百人
余罷居(欠字3字分位)内候様へ迄壱人宛上役有之趣其外追々

奪取溜      左ニ
一、 西洋筒    五百挺程
一、 車座附大炮  四挺
一、 和筒      二百挺程
一、 玉薬長持   七棹程
一、 玉箱      四千(十)箱
一、 具足      數不知
一、 此度所々ニテ奪取金凡四千両程之内
一、 日々多人数ニテ三拾匁玉を賜多分ニ貯え置き候由

一、 馬七疋飼置日々早朝稽古以堂し候
一、 昼より一同ニテ剣術之稽古以堂し候
一、 賭奕は堅禁候由
一、 夕刻より酒肴等取寄下々迄酒盛以堂し候由
一、 日々身分をかね五府内其外在中へ候内密見廻之もの
   多人数差出置候由
一、 所々ニテ奪取候品赤羽根橋迄人足ニ為持同所ニテ請取
   夫より御屋敷内より多人数罷立持込候由
一、 平日御門夜中出入以堂し候者共其時々賊徒屯所より
   印鑑相渡通行之由御門番も同□之由御座候
右は過刻溝口村ニテ差留置候賊徒共ニ被連江戸表
彼之御屋敷○○以堂し罷越候相州半縄村百姓
七右衛門相糺候処書面之通ニ御座候間此段申上候以上
                     綱島村
                       名主
      卯十二月十九日        同 飯田助大夫
        白根村
         大惣代名主
          高橋勘右衛門様 
 相州愛甲郡は今も残る地名です。相州は相模の国です。
 郡があって村があります。        半縄村
                          百姓
                            七右衛門
                          〃 佐之吉
                          〃 藤太郎
                          〃 伊之助
                          〃 平士郎
                         同村之内
                          字坂本
                          〃 久次郎
                          しめて六人
                       (相州愛甲郡)と読む
 (ホントはこの村の名も半分消えていた)上依知村
                           百姓
                             市五郎
                             外 四人
                             しめて五人
右の者共儀 去る十五日荻野村御陣屋放火いたし候節、
自火と存じ駆け付け候處、賊徒共に呼上げられ、
それより手に附き最寄り村々押し歩き物持ち共 用金等 申し付け、
多分之金子奪い取り月十六日夕七ツ時頃、
下平井村久保田喜右衛門へ罷り越し、同人方へ泊り 
月十七日朝同所出立、昼九ツ時頃八王子宿へ罷り越し 、
それより宿々人馬継ぎ立て帰府致し候みぎり
右名前之者共 通し人足にて連れられ候趣き。
尤も市五郎外九人は
十七日夜内藤新宿問屋之前にて暇出し、同所旅籠屋に泊り
翌十八日帰村いたし候。且つ半縄村百姓七右衛門儀は暇差し出さず
同夜赤羽根有馬様御屋敷内迄供いたし、罷り越し昨十八日
夜九ツ時頃 漸々(ざんざん)暇出し賃金二分貰い請け罷り帰り候。且つ又
外十人之者共は 内藤新宿にて賃金十両貰い請け候由。尤も
宿払い等は
右金十両の内にて相払い候由 申○候。
有馬様御屋敷内に大将と相見え候侍 四人内三人 惣髪 
都て 侍躰(さむらいてい)の者少く博徒共多く罷り居り候由。
およそ見請け(みうけ)候人數壱百人余り
罷り居り(欠字3字分位)内候様へ迄壱人宛 上役これある趣其の外追々

奪い取り溜め(欠字四文字分くらい)左に
一、 西洋筒    五百挺程
一、 車座附大炮  四挺
一、 和筒      二百挺程
一、 玉薬長持   七棹程
一、 玉箱      四千(十)箱…千か十かはっきりしない
一、 具足      數不知
一、 此度所々にて奪い取りし金およそ四千両程之内
一、 日々多人数にて三拾匁玉を賜多分に貯え置き候由

一、 馬七疋飼い置き 日々早朝稽古いたし候
一、 昼より一同にて剣術の稽古いたし候
一、 賭奕(ばくへん)は堅く禁じ候由
一、 夕刻より酒肴等取り寄せ 下々迄 酒盛いたし候由
一、 日々身分をかね五府内其の外在中へ候。内密見廻りの者
   多人数差し出で置き候由
一、 所々にて奪い取り候品 赤羽根橋迄 人足に持たせ
同所にて請け取り
   それより御屋敷内より多人数 罷り立ち持込み候由
一、 平日御門夜中出入いたし候者共 其の時々賊徒屯所より
   印鑑相渡通行之由。御門番も同□(様と読むか)之由、御座候
右は過刻溝口村にて差し留め置き候賊徒共に連れられ江戸表
彼の御屋敷○○いたし罷り越し候相州半縄村百姓
七右衛門相糺し候処 書面の通りに御座候間 此の段申上候以上
                      綱島村
                       名主
      卯十二月十九日        同 飯田助大夫
        白根村
         大惣代名主
          高橋勘右衛門様

――字は読みにくいが内容は掴みやすい。言った言葉そのままが書いてある、わかりやすい文書です。
これは、神奈川県史に載っているような有名な事件です。時代は幕末。薩摩藩が世情を混乱させるためにやった「荻野山中藩焼き討ち事件」と言います。
――荻野村御陣屋というのは、荻野山中藩一万三千石、小田原(大久保家)の支藩です。
――東海道を混乱させるために起こした同時多発テロの一環です、他には、山梨県甲府、栃木県いずる山と、そして此処です。大久保家というのは譜代で、しかも不在藩。やりやすかったんですね。神奈川県としては、由比正雪の乱以来の大事件です。
――相模の国は百姓一揆もない珍しい国です。幕領・天領・旗本領・寺領・・・様々な利害が絡んだ土地、いろんな領地が入り組んでいるんです。関八州取締役(出役)という役人が、どんなところにも出入りできるというオールマイテイの権限を持って取り締まっていました。
――荻野村は明治16年の地租改正で三多摩と平塚と厚木に分かれましたが、もともと、自由民権運動の基盤になった土地でもあり、新撰組ができた処でもあります。いまでも小島資料館という処には新撰組の資料が残っています。
――文末の差出人とあて先の飯田・高橋の両家は最末端の行政機関です。
――この文書の中心とする略奪品のリストは欠字が多く虫食いだらけ。同時多発テロを企てた薩摩藩が何人ぐらいいてどんな武器を持っているか、ということを調べた報告書です。

――右のもの共というのは、名前の挙がっている7人と五人。
――「以堂し」・・・この文書では何度も出てくる変体仮名の「いたし」です。形で覚えてしまいます。
――被呼上ヶ=呼び上げられ=捕まってしまった
――久保田家は有名な造り酒屋。喜右衛門=読む時は「きえもん」。
――有馬様御屋敷―と言いますが薩摩屋敷です。そこで薩摩藩が中心だが他藩の脱藩者が寄り集まっている。
――暇不差出は解放しない
――夜九ツ時=夜中12時頃
――弐分(二分)=一両は四分、二分は一両の半分に当たる農民にとっては大金です。ここでおかしいのは、半縄村百姓の七右衛門だけが二分で途中解雇されないで、他の10人は新宿まで供して倍貰うわけです。何でかな、という疑問ですね。働きが悪かったんでしょうか。まあ、そのへんのことから、こういう質問というか尋問に答えたのかもしれませんね。
――侍躰之者少く博徒共多く・・・水戸藩の脱藩浪士などで、名前もわかっています。
――(欠字3字分位)内候様へ迄壱人宛上役有之趣・・・其の内一人宛上役これある趣と読まれたようですがそうなると「候様へ迄」はどうなるんでしょうねぇ・・・筆者の疑問

――西洋筒 五百挺程。薩摩藩は英国から武器を買っていたが、盗んだんですね。
――車座は大砲、和筒は種子島。車座附大炮も種子島も弾丸が流線型でなく丸い玉なので空気抵抗で余り跳びません。まあ、音だけで脅かすんです。
――玉薬というのは火薬です。玉箱が四千か四十か。銃や大砲の数にしたら十では少ないが、箱が大きければおかしくはありません。
――「奪い取る金凡そ四千両」と言いますが、厚木の長野家が(天皇行幸の)行在所(あんざいしょ)の文書では500両、厚木の中丸家は400両、厚木の下川野の佐野家は700両吹っかけられたが此れしかない、と言って570両、津久井では久保田家・・・・名主は持っている!!村人を道案内に使って持っている家を狙うんです。古い家で、家の周りに塀をめぐらしているような家です。
――同□之由御座候は□の字は「様」と読むか?ちょっと崩し方がおかしい。疑問は疑問として残すのが正しいんです。読めないものは□にする。
――日付は慶應三年丙卯年です。十二月十九日となっていますが、事件があったのは12月15日です。当時としては大変な速さで報告がされた、ということです。事件はオーバーに言う傾向があります。緊急性があるので字が汚い。でもわかりやすいですね。
――飯田家は「旧家(きゅぅけ)」です。「旧家」というのは広い地域に名前が轟いている、ということです。「飯田家文書」と言います。
――飯田家から高橋家へ報告され、高橋家から、幕府へ報告が行きます。飯田・高橋というだけで近隣の人はわかるんです。

――こういう文書―博徒・賊徒などの単語を見て、リストなどの中味を見て―埋没しやすい。
――もっと秘密性が高まると横に細長くなって小さくたたんでありますから、もっとわかりづらくなる。
――旧鎌倉街道から甲州街道に沿って江戸へ入って、政治の状況を知る。東海道の事情・情報を送る。
――剣術をする道場があった、政治に詳しい関心のある地域であった、お金もあって時間もある→単なる農民ではない余裕のある人々。そういう人たちに支えられていた行政の末端機関。


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