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9月26日(金) 「万葉集を読む」 第一回 「たまゆら」

去年から受講させて頂いている国文学研究資料館の秋季連続講演です。
それが・・・ですね、今年は「万葉集」ということで大変だろうな、と思っていたら、なんと抽選で六割の方が落ちたんだそうです(^_^;
その方たちのためにも無駄に出来ないわ!!と思っていたのです。
ところが始まったら、なんだか、ボソボソ声で、出だしがなんだか、川端康成だか、朝のテレビ小説だかで、
つまらなくて・・・嗚呼!!今年は外れた(^_^;
もう来週から来るのよそう、今日はもう寝て帰ろう(^^ゞ
と、思っていたら・・・と本題に入っていったら、此れが大変な御宝授業!!
オメメぱっちり、頭スッキリ、一生懸命聞いてきました(^^)
でも、先生の御話しのとおりではちょっと?なので、もう、これは私風受講録ですm(__)m
つまり、私の受け取った意味で筆記してある、ということですね。

まず、先生は、冒頭に
「万葉集はいろんな数え方がありますが、大雑把に行って4516首あります。
これをなるべくたくさん、というのは諦めて、深めながら読んでいきます」とおっしゃいました。
「諦めて」!!と言う御言葉が、のっけから出て笑っちゃいました(^_^;そりゃそうだよね・・・4516首ですもの(^_^;

で、「万葉集」の共通認識の確認です。
万葉集の時代は、ひらがなも生まれていない時代である、ということ。つまり・・・
@ルビはない A区切りの空間はない B筆で書いてある
ですから、まず解読すること!!
「てにをは」を復元して歌の形にする→意味を取る→表層の意味→深層の意味まで

まず、今回のキーワードは「玉響」
これをどう読むのか?ということでした。
普通に言い伝えどおり読めば「たまゆら」なのだそうです。
これは、帰宅して、広辞苑を引いてわかったのですが、「たまゆら」と引けばふつうに「玉響」と書いてあるのです。
このPCでも一回で変換できます(^^)v

はてさて「玉響」は「たまゆら」なのか?!

これをですね、先生は、「30年位前、NHKのテレビ小説で・・・」と始めちゃったのです(^_^;
そんなんじゃなくて、普通に授業始めてくださればよかったのに(^^ゞ
まあ、このテレビ小説が「たまゆら」という題名で、川端康成の同名の短編小説と他のいくつかを繋ぎ合わせたものである、
ということ、
先生としてとしては、川端康成という日本文学の美を象徴する作家に対してのオマージュとして、
この講義を捧げたい、という意味合いがあったのでしょうか?
とにかく、その中に「たまゆら、というのは玉と玉が触れ合って響く音、という表現」があるのだそうです。
川端康成は、日本語に対して特別の思い入れをする人なので自分が表現した言葉に、
学者から鑑賞される事を嫌がった、とおっしゃいます。

万葉集には「玉響」という表記をしてある歌が一首あって

2391 玉響 昨夕 見物 今朝 可 恋物   
訓読として( たまゆらに きのうゆうべに みしものを けふのあしたは こふべきものか)を当てる  
(ちなみに、↑11文字31音というのは、万葉集の一番古い表記形態、だそうです)

新古今集選者の藤原定家が母の死にあって、「たまゆらの/露の涙も/ととまらす/なき人こふる/やとの秋かせ」
と詠んだ歌があるそうです。
新古今集の頃は、そういう意味もあったのか?
「白玉」(と言う意味の)の或る時代からの言葉なのか?

@「玉響」は「たまゆら」である、という決定的証拠はない、昔から、そう呼ばれた証拠はない、そうです。
A「たまさか」と読めば意味はとおるが、でっち上げ(臭い)、とのことでした。
B玉と玉がぶつかった音は爽やかな音がする、だから「まさやかに」と言う説もある。
C(「玉響」という言葉は)「万葉集」の他にないそうで、平安時代になると「たまゆらとは“しばし”のことなり」と言って、
「しばし」と言う意味で愛用されたそうです。

資料の挿絵に「石山寺縁起絵巻」の源順の石山寺参詣図なのですが、この説明に、
「漢字ばかりで書いてある万葉集を読み解くことは平安時代の人々にとって難事業であった」とありました。
源順が勅命を受けて石山寺に参詣し、その下向の途中に「左右」を「まで」と呼ぶヒントを得た、という伝説を描いた物です。
(は?左右が「まで」?と、思うでしょ・・・読めませんよね・・・この説明は次回にしてくださってます)
つまり、それほど万葉集の解読は難しい、ということなんですね・・・先生のおっしゃりたいことは(^^ゞ
而、「玉響はたまゆらか?」という事になるわけです。

「たまゆら」と言うことばに「玉がユラユラ揺れている様」を連想するのは現代人であって、
万葉時代には、「玉」に対して「ゆら」と言う言葉を使うのは、「玉に対してジャラジャラという擬音が近いか」
というのは(先生達?)学者さんの考え方。

そこで、万葉集・日本書紀などに用いられる「古代語」の「ゆら」の意味&使い方ということで

ゆら―擬声語。玉や鈴などの触れ合う音をあらわす。二を伴って副詞として用いる。「足玉も手珠も由良に織るはたを(万2065)
ゆらかす(動四)―玉などを触れさせてゆらゆらと音をたてさせる。鳴らす。次項「ゆらく」に対する他動詞。
ゆらく(動四)―ゆらゆらと鳴る。玉や鈴などが揺れ、触れ合って清らかな音を立てる。
ゆらら―擬声語。玉や鈴が触れ合って鳴る音をあらわす。ユラを重ねたユラユラの約であろう。二を伴って副詞として用いる。
「手に巻ける玉も湯良羅に白□の袖振る見えつ(万3243)」

「玉響をたまゆらと読んでいいのか」と言うことは、江戸時代、蒲池正純・賀茂真淵によっても検討された問題であったようで、
賀茂真淵は「たまかぎる法」・「たまかぎる法の補」ということで
「この文字たまゆらと読み来たれど、ゆらくとも読む例はあれども・・・玉の声をゆらゆらとも・・・古語の確かにたがえんぞ」
と、述べているらしい(^_^;
はっきり聞きとれなかったんですが、要するに、
賀茂真淵はんも、たまゆらと読んできたけど、あてにならんでぇ、というてはるぅ、ということでんなぁ(^_^;

それで、真淵は、これは「烏玉(からすだま)」ではないか、と言う説を打ち立てたらしいのです。
つまり、真っ黒―「ぬばたま」ですね。
原文は「烏玉」という字だったのが写本の過程で「玉烏」になって、それをまた誰かが「玉響」と直したって・・・あなた!!
「万葉集のテクスト原文は残っていないが、平安〜鎌倉時代にかけて、
まだ純度の高い写本が残っている時代でも、一切そういう例はない!!」
・・・ってそうでしょう(^^)
そりゃあ、そうだべ!!いくらなんでも、議論のための議論ですよ・・・(^^ゞ
しかし、ここでも写本の正確性・誤写確率みたいなものが大問題なんですね(^_^;
「源氏物語」でさえ、あれだけ問題があるのだから、それより古い、字体の確立もおぼつかなかった時代の万葉集は大変です。
先生も「学者泣かせ、というのか学者を喜ばせる問題、というのかな」と、おっしゃつてましたぁ♪

それでも、大正時代、島木赤彦の万葉集解説本「書名忘れましたm(__)m」は「ぬばたま」説を採用しているようです。
勿論、現代では殆ど不可能で、その説を取る方は何方もいないそうです。
土屋文明は「たまゆら」と言う読み方。斉藤茂吉も。
茂吉は、昭和14年「柿本人麻呂」の解説本で、「たまゆら」という読み方を取り上げ、
「100パーセント確信ではなくとも、感じのいい読み方ではないか。この読み方を尊重して遺しておきたい」と言っているそうです。

武田祐吉の「万葉集全注釈」では「玉響―玉と玉とがぶつかる→たまたま→“偶然”でよいのではないか」と述べている。

澤瀉久孝(おもだかひさたか)、佐竹先生の恩師だそうで(^^ゞ「玉と玉とがぶつかる爽やかな音だから“まさやか”

柳田国夫の弟の松岡静雄(人類学者)は「日本古語大辞典 昭.4」の中で、
「古い読み方は“たまゆら”だが、木に竹を接いだような恨みがある。賀茂真淵は“ぬばたまの”と読んで夕べの枕ことばにしたが、この歌の趣から言えば、響という言葉を間違えて“たまかぎる―玉隔”と言う言葉を写し誤ったのだろう」と言っているそうです。
佐竹先生は、「↑これはいいセンスだと思う」そうです♪

こうして「玉響」という言葉は@たまゆらAたまひびくBぬばたまCたまたまDまさやかに・・・
といくつもの読みを持つことになったそうで、
「これはヒッタイトの文字解読も一緒です。こういうのを蓋然単語法と言います」
とのことでした。大変だ・・・フゥ(^_^;

で、今度は「玉響」は「たまかぎる」なのか?

「たまかぎる」と言う言葉が「夕べ」の枕詞に使われた例は、万葉集に二例あるそうです。

45 ―前略―玉限 夕去来者 三雪落 ―後略― 
          (たまかぎる ゆふさりくれば みゆきふる)
 1816 玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞たなびく 
     (たまかぎる ゆふさりくれば さつひとの ゆつきがたけに かすみたなびく)

問題は「蓋然単語法」として「たまかぎる」という言葉を入れることは魅力的だが、
「玉響」という表記に対して「たまかぎる」という音を当てるのは如何なものか、と言うことだそうです。
というわけで、現在は 「 玉+たぎる=玉かぎる=玉が輝くor輝く 」 という意味で使われているのではないか、という説も。
「たぎる」は輝きなど光に関係ある言葉ではなかったか、とおっしゃるのです。
そこで、出てくるのが、柿本人麻呂の代表作

48 ―東  野炎  立所 見而  反見爲者  月西渡
  (ひんがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば つきかたぶきぬ)

「かぎろひ」はかげる陽=照り輝く陽・燃える火陽
「万葉集」では枕詞として@「夕」にかかった A「ほのか」を導く物にかかる B「人目」に続いている場合もある。
が、要するに「照り輝く」という意味合いを持つ、と言うことらしいです。

では、「玉が照り輝く」という意味と「玉響」と言う表記は結びつくのか?
松岡氏の「たまかぎる」という読み方はふさわしいが表字と表音の解釈の仕方に問題は残る。
しかし、「光る」ということと「鳴り響く」ということは結びつけることは不可能ではない。

先生は、フランス語の学習中に「´eclater」という単語に出会って確信したそうです。
これは音に対する擬音語だそうですが、光る、と言う意味も持ち、照り輝く、という意味もある、のだそうです。
フランス語でも遡ると、違う形の綴りが何段階もの変化をして「音が鳴る」という意味を持つ単語になるそうです。
だから、「玉響≒たまかぎる」という図式が成り立たないこともないらしい・・・ということで、
先生は「↑2391 玉響 昨夕 見物 今朝 可 恋物 」に対して
  「 たまかぎる きのうゆうべに みしものを けふのあしたは こふべきものか」というルビを振っていらっしゃる、と言うことでした。

中国の院政時代(ん?、て何時だ?)に成立した「類従両義詳」という辞書では
「玲瓏玉の如」の「玲瓏」は音と玉の光を意味している言葉で、「玉声也トナル」「明見(めいけん)トナル」という意味を持つ。

で〜、御馬鹿な私は当然雷を連想しておりました(^_^;
雷は音と光を伴うものねぇ・・・美しい光と音が一緒にというのは宗教でも一緒ですよね。
お能だって気随の表現に月光や暁の光の中に鼓が響き渡るような演出があるな・・・とか、ボーっと連想しておりました(^_^;

――お〜、ここで国文学研究資料館から、ストップがかかっちゃった!!
時間には煩いのです・・・こういうところ(^_^;
というわけで、次回のお楽しみ・・・ひょっとして、全会「たまゆら」で終わっちゃうのでしょうか(^_^;

10月10日(金)追加記事です♪
↑のような状態で、尻切れトンボで終わってしまった講演に、
先生のほうからクレームがついたらしいです。
で、この日の冒頭に、松田館長からお詫びの御言葉が。
実は、佐川先生は病後半年ということで、館長以下大変気を遣っていらっしゃるそうなのです。
「ご高齢と言うこともありますが、そういうことで、先生の方はいくら大丈夫だ、とおっしゃっても、私どもとしては、
やはり、御疲れが出ないように、と心配致しまして・・・で皆様にもご理解いただきたいと・・・」
と、冷汗三斗と言う感じでのご挨拶でした(^^ゞ

で、また、その後、講演のはじめに先生が、ご自分のご病気の説明の後、
「病後、病後と言ったって、御医者様さんに、講演や旅行をしてもいいですか、と伺って、
いいと言われたんですから、大丈夫です」と、強気のご発言(^^ゞ
まあ、子の心親知らずみたいなものでしょうか(^^)

でも、その後、「実は・・・」とありまして、
先日御亡くなりになった同じ万葉学者の伊東博先生は、京大の同期入学で、↑の澤瀉先生の相弟子という間柄。
高遠に御住まいの伊東先生からは、この時期毎年林檎が送られてくるのだそうです。
それが、今年の林檎が届いた日、その二時間後に、伊東先生の奥様から訃報の御電話が入ったそうで・・・。
先生は淡々と御話しになって、
人に親切にするばかりの奴だったから、私に親切の仕納めをして逝ったんでしょう。
今ごろ、あの世で澤瀉先生に褒められているかもしれませんな。
――とのことでした。最後は笑顔で言っておいでになったのですが、どんな御気持ちだったでしょう。
まして、ご自分の病後のことですから・・・・。

五味智英先生のなくなられた時、寺田透先生のお詠みになった歌というのが、ありまして、大変心撃たれたのですが、
「口悪き五味のみことの罷り道に集ふ知りびと老いぬはあらず」
(「国文学ー古歌を読む」の山本健吉vs大岡信両氏の対談より)
なんとなく、思い出して、ジンとしてしまいました。
伊東先生のご冥福と、佐竹先生のご健康を心よりお祈り申し上げます。

そのせいもあってか、今日は、最期突っ走る先生に資料館の方でも目をつぶっていたか、
先生がお止めになるまでご講演は続きました。
どうぞ、お疲れになりませんように、心からお祈りいたしております。


○賀茂真淵については、浜松市の公式HPから、賀茂真淵記念館と真淵自身の紹介記事に飛べます。
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/lifeindex/study/culture/mabuchijinbutu.html

○斉藤茂吉・島木赤彦等についてもそれぞれ記念館があり、YAHOOで検索できます。



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