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10月10日(金) 「万葉集を読む」 第二回 

前回のまとめ
先生から次のようなまとめをして頂きました。

前回は、「万葉集を読む」という一つの例として「玉響」という表記に「たまゆら」という読み方がある。
しかし、それは確実な証拠ー傍証のある読み方ではなく、
平安朝初期の誤読から生まれた美しい歌言葉である。
この誤読から生まれた美しい歌言葉のことをGohstWordという。
(・・・よく見ると足元(証拠or根拠)がない、ってことだそうで(^^ゞ)いくつかの傍証によれば
「夕べ」の枕詞として「たまかぎる」でも良いのではないか。
「たまゆら」というのもGohostwordのひとつである。

更に、「たまゆら」について、
鴨長明は「方丈記」の中で「いずれの心を占めていかなる技をしつつ・・・」という中で
「しばし=たまゆら」という使い方をしているそうです
中世の歌学者達は、「たまゆらはしばしである」という説が多く、中世歌人たちは「しばし=たまゆら」と説く。
新勅撰集「かきくらしたまゆらやまず降る雪の(しばしもやまず降る雪の、と言う意)」などと言う使い方をしているとのことです

「玉響=たまゆら」という万葉集の読みをした最古の例は、「古今和歌六帖」という平安初期の私選集「類従和歌集」です。
で、この編者が紀貫之とその女の紀内侍、具平親王・・・という当時の最高歌人、これに源順が加わっていたことが重要です。

万葉訓点史
万葉集は平安初期には既に読めないものになっていた!
それが村上天皇の御代に、万葉集を読みたい、という風潮が強くなって、
源順が勅命により、梨壷の五人と共に万葉集を読もうとするのですが、その時読めた歌は730首くらいだそうです。
その後、歴代の歌人や学者達によって解読が進んで、この時の「梨壷の五人」のつけた読み方を「古点(こてん)」といい、
それ以後の、平安朝の研究者の読み方を「次点(じてん)」、
鎌倉時代の僧・仙覚が残りの(まだ読み方が出来ていなかった)歌全部を読み、これを「新点(しんてん)」というそうです。
で、これを「万葉訓点史」というのだそうです

で、資料に出ている「石山寺縁起絵巻」の解説になります。
源順が「左右」と書かれたものを読みあぐねていたところ、石山寺参詣の帰途、
荷馬の荷主が、「両手で〜しろ」というところを「までよりつけよ」と言ったのを聞き、
おぅ〜、「左右」と書かれているのは「まで」と読むのか!!と、ひらめいた、と言うわけです(^^)v
「まで」という意味は両手・左右を意味する。
真手は片手に対する「真」だそうで・・・「真帆・片帆」と言うでしょ、とは先生の御言葉・・・ではなく私のひらめき♪
真名に対するカタカナと、先生も追加例!!
言われてみれば、ねぇ・・・なんでも言われてみればの世界です♪
コロンブスの卵はコロンブスでなければ立たなかったのですよね・・・この場合源順君!アンタは偉い!

「古今和歌六帖」

10世紀終わりごろ、990年代、と思われる頃、「古今和歌六帖」というものが編纂された。
全歌、約4500首のうち、万葉集〜1000首、古今集〜700首、新古今〜400首、拾遺集〜250首という、
万葉時代から平安中期流布した歌を集めた・・・いわゆるアンソロジーですか(^^ゞ
と、思ったら↓では次のようにおっしゃってます。
「万葉集研究史」の最古の意識を感じる集で、古点・次点・新点と、300年かかって一応の読みが完成された、
と言っていいものだそうです。
でも、江戸時代、賀茂真淵も本居宣長も蒲池正純も、万葉集の研究はしても、「古今和歌六帖」というのはシランフリ。
近代になって、今井義純氏は、肝心の「古今和歌六帖」の研究が不十分だと嘆いている、そうです

「角川や岩波・新潮・小学館・・・今出版される「万葉集」を読み比べれば1000箇所くらいの読み方の違いがあるだろう、。
もしかしたら、4516首は10000首くらいになってしまうだろう。」との御言葉でした。
そうそう、今でも完全に読めない歌が100首くらいあるそうで、難訓歌(なんくんか)という。
4493 始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎
    (はつはるの はつねのけふの たまばはき てにとるからに ゆらくたまのを)
の様に一字一音の詠みやすい歌というのは稀である。
但し、この歌も「始春」という漢語が使用されていて、それを日本語読みに治していかなければならない。
「始春」には、漢詩に出典があり、当時の歌人達は当然知っていて、「はつはるの」と読むことが出来た、ということでした

そうそう、「万葉集」ほか、色々の和歌集に付いているシリアルナンバーは、
全ての歌をどこから引いてもわかるように、ということで、それぞれの歌集にナンバーを振って、
万葉集の何番、古今集の何番、といえばどこからでも引けるように、と
明治時代に松下大三郎という国文学者が完成された「国歌大観」というものだそうで、
ナンバー自体を「国歌大観番号」というそうです。

ここまでの筆者のまとめとしては・・・
「玉響」という表記と「たまゆら」という読みの関係ですね。
T.「玉響」という表記に関して従来言われている「たまゆら」とその他の読み方の推敲。
先生としては「玉響」の読みとしては「たまかぎる」を当てたい。
U.「たまゆら」という表音から、それが「美しい音を表す」ということや「しばし」、
という意味を持ったことがある、と言うことなど、
この両面について絞って検討されたわけです。
V.「万葉集」の解読に大きな力のあったのが源順をリーダーとする「梨壷の五人」ということ。
W.当時の万葉集の研究史としての「古今和歌六帖」と言う歌集と、「国歌大観」による番号付けによる歌の索引の容易化。


で、次は万葉集の言葉を紐解く第二弾「まさ」

ということで、ここで「紐解く」歌が出てきたのでしょうか・・・「玉響」のまとめを考えていて、ボ〜っとてしまったのかな(^_^;
私としてはあら唐突な(^_^;と思ったのですが、

3715 獨のみ 著ぬる 衣の紐解かば 誰かも結はむ 家遠くして
    (ひとりのみ きぬるころもの ひもとかば たれかもゆはむ いえとおくして)
一字一音で、解読しやすい歌だが、「きぬる」は「来る」の「来ぬる」なのか、「着る」の「着ぬる」なのか、解読上の混乱が起こる。
「まあ、両方の意味があるんでしょうが」とはおっしゃりながら、
一字一音の表記では無理が多い、と御嘆きの言葉もありました。
それより、この歌の意味の解説で、
「旅先で紐を解く、というのは貞操を破る、と言う事を意味する」という表現でおっしゃっていらして、
妻がしっかり結んでくれた紐を旅先で解いてしまったら、誰が結んでくれるだろうか、
という一人旅の寂しさを詠んでいる、とおっしゃって
浮気とか、不倫とかいう言葉を御使いになりませんでした!!
これは誠に良い感じでした(^^)
貞操は女性だけじゃなく男性にも当然あるべきものですもの!!
先生の高雅な人間性が伺えて大変感動しました。

そこで、大津皇子の歌から、不倫、とまでは行かないけれど二人の男性が一人の女性を争う歌でねぇ(^^ゞ
万葉集は多いですよね、二人の野男性に愛される・・・額田王とか、真間の手児奈とか・・・女性上位だったのかな、
と思うけど、雄略天皇の行き当たりばったりのプロポーズで一生を棒振っちゃったような例もあるし・・・まあそれぞれですか(^^ゞ

大津皇子
105 吾勢枯乎 倭邊遣登 佐夜深而 鶏鳴露尓 吾立所霑之
    (我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし)
106 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 独越武
    (二人行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ)
107 足日木乃 山乃四付二 妹待跡 吾立所沾 山乃四附二
    (あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに)
108 吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山乃四附二 成益物乎
    (我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを)

     大津皇子、密かに石川女郎(この資料ではこう書いて郎女と読ませている)に婚(あ)ふ時に、
     津守連通(つもりのむらじとほる)、その事を占へ露はすに、皇子の作らす歌一首<未だ詳びらかならず>
109 大船之 津守之占尓 将告登波 益爲尓知而 我二人宿之
    (大舟の 津守が占に 告らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し)

      大津皇子被死之時、磐余池陂流涕御作歌一首
    (大津皇子の死(ころ)されし時に、磐余の池の陂(つつみ)に流涕(りゅうてい)して御作(つくりたまひし)歌一首)
416 百伝 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去年
    (ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ)

このあたり、先生は大津皇子が御好きなのでしようか(^^ゞ
大津皇子に関しても解説があり、歌一首づつ、さっとですが解説されていらっしゃいました(^^)
やっぱり、「万葉集」の中の悲劇のヒーローとしたら大津ですからねぇ・・・\(^o^)/
大体、女好きがするシチュエーションが多いでしょ。
それと、姉の大伯皇女も絶対男性として大津を愛してるよね♪大津だって愛してますよね、おねえちゃま♪
あの時代、異母兄妹(姉弟)なら当然で、同母だってタブーとはいえ、実際ありますからね・・・天智天皇と間人皇女とかさ・・・(^_^;
「立ち濡れし」ってそういう意味もあると、今回の先生はおっしゃいませんでしたが、聞いた事あります。
人麻呂がどれだけ草壁を悼んだとしても、やはり大津の人気には叶わないと思います。

105・106番はその大伯皇女が、死を予感して逢いに来た弟を一人帰すのは偲び難い、という哀憐の歌です。
大伯皇女は天武天皇の皇女として、初代の斎宮になった人でもあります。
当時としては大変な神聖な巫女なんですが、この105の歌からかもしだされる艶めかしさはどうでしょう?
―ってそう感じるのは私だけ(^_^;
106番の歌は、105番の歌の艶めかしさを受けて神罰を受けるなら二人で受けたい、という思いもチラホラ感じます(^^ゞ

アハハ・・・私のエッセイのっけてどうする!受講録だよ!というわけで、脱線m(__)m

先生の講義です♪
107番の「山のしづくに」と第二句と第五句に同じ言葉が入っているのは「古代和歌」の特徴だそうです。
で、この107番と108番は大津皇子と石川郎女の相聞歌なのですが、
この石川郎女が、大津のライバル草壁皇子の愛人だったからさあ大変!もひとつ大変なことには、
草壁は持統天皇(まだその時は皇后のまま称制を執っていた)の秘蔵息子で皇太子という立場にあったこと!!
そして、もっともっと大変なことは、大津が草壁より断然優秀で多くの人々から絶大な人気があったこと!!!
スミマセン・・・大津のことになると私も脱線してしまいます(^_^;
でも、先生も↑というようなことおっしゃってましたよん↓

大津皇子は其処(資料)にも書いてあるとおり、
「皇子は淨御原帝の長子なり。状貌魁梧、器宇峻遠。
幼年にして学を好み、博覧にして能く文を属(つづ)る。壮に及びて武を愛(この)み、多力にして能く剣を撃つ。
性頗る放蕩にして、法度に拘らず、節を降して士を礼(そん)ぶ。是に由りて人多く付託す。」
身体容貌大きく逞しく、人品高く奥深い、大変剛毅な人であって、人望もあった。
そこで、新羅の行心という僧侶から、
「太子の骨法、是人臣の相にあらず、此れを以って久しく下位に在らば、恐るらくは身を全くせざらむ」といわれて、
その気になって謀反をするのじゃないか、と恐れられたのです――と、いうことです。

当時そういう風に恐れられた、ということは謀反の疑いをかけられたんです。
思えば、「光源氏」もこれを受けてますなぁ・・「源氏における高麗人の予言」にも別の出典があるのですが、
ここから、ダイレクトに受けたとしたっていいですねぇ(^^ゞ
しかも、皇太子の愛人を取っちゃうところなどピ〜ッタシカンカン♪
ただ、「下位に在らば、恐るらくは身を全くせざらむ」というところは、
源氏は臣下に下ったたからこそ、生涯を全うしたわけなのですが。
でも、辞世の歌は歌は「雲隠れなむ」ですし・・・(^^ゞ

109番の歌は、詞書にあるように、大津皇子が石川郎女と会った、と占いに出たといわれた時、
「おう、会ったとも」「二人で寝たぞ」と宣言するような歌を詠んでいる・・・というようなおっしゃり方はしません、先生は(^^ゞ
これは反抗的な歌でもあり、激しい愛の宣言の歌でもある、とはおっしゃいました。
大体「あう」というのは便利な単語で、面白い表現です、ともおっしゃってました(^^)
尾崎先生も、「源氏」の講義の時、いつもおっしゃいますよね(^^)
「『会う』でいいんです。現代のことばにわざわざ置き換える必要はありません!」って(^^)
「あう」という言葉でこのPCでもいろいろな漢字が出ます。それぞれに意味がありますが、
その全てをふくんで「あう」なのだ、と私も思います。脱線m(__)m

それと「津守が占」の「が」という格助詞には意図がある!そうで、「の」と「が」の間には尊敬と軽侮の意味があるのだそうです。
室町時代のポルトガルの宣教師・ジョアン・ロドリゲスが気が付いて、辞書に入れたそうです。
これは、ビックリ!!へぇへえへ〜♪

ここで416番の歌なんですが、
「万葉集」では天皇や皇太子・貴族達が死んだ時「死」という言葉は使わない!!そうです
柿本人麻呂は「柿本人麻呂の死にし時」と使ってますが、あの人は六位以下だから―ああ、そうでした、とうなづいていると
法律で、六位以下の人が死んだ時は「死」という。ええ!!そんな法律あったんですか?
親王などが死んだ時には「新しい室を御作りになった」などという。
悼む時にも死ぬとは言わない。
大体、天皇は崩御、親王・大臣クラスで薨去・、貴族や高官は卒去等という。
あ、そうです、そうです・・・そういうことか(^_^;
「過ぎる」という言葉はよく使う。pass awayですね。
そのかわり、恋の歌では「死」を使う時がある。今でもそうでしょう。――はいそうでした(^^ゞ
それで、この歌の結句の「雲隠れなむ」というのが、死ぬことの敬避表現というもので、自らの死に付いてはふさわしくない。
したがって、この歌は大津皇子自身の作ではなく、後になって作られたものだろう、ということでした

で、そこから、本日の本題に入って行くのですが・・・

その109番の歌にもある「まさしに知りて」という表現なのですが、第二句の「津守が占に」を受けていることを指して、
「占い」と「正」という言葉は深い関係がある、と考えられる―ということでした。
 109 大船之 津守之占尓 将告登波 益爲尓知而 我二人宿之
    (大舟の 津守が占に 告らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し)
2506 言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹はあひ寄らむ
    (ことだまの やそのちまたに ゆうけとふ うらまさにのる いもはあひよらむ
2507 玉鉾 路往占 占相 妹逢 我謂
    (たまぼこの みちゆきうらの うらまさに いもはあはむと われにのりつも )

「占門」(うらとえば)だと意味が通じる
「占相」(うらなえば)というと、そんな読みはない。
但し中国の漢籍に「占相(せんそう)」という単語があるそうで、「占った結果」という意味があるそうです。
「相」の訓に「正に」と言う意味があるか?というところが問題点で・・・あるのだそうです(^^)v
鎌倉時代の「類従量秘抄」という辞書に!
そうすると、占正=占相で・・・「その占いは正にぴったりという意味になる」先生、しゃれてる場合じゃないです(^^ゞ
フムフム・・・つまり、占相という言葉に中国では「占いの結果」と言う意味がある。そこから意訳で「うらなえば」と使った、
と、こういうことでよろしいですか(^_^;

先生は、「この歌には仮名表現は一つもない。占うの『なう』だけが日本語表記」
「これは漢語で書かれた漢語表記の歌」で「相」を「まさ」と読むことに興味がある、とおっしゃいます。
「正」「正し」は中世では、「占いが正しく当たる」という決まりがある。
「万葉集」でも「正」が出てくると、多くは占いに関する、そうです。
古語辞典で、「正し(まさし)」を引くと「占いが正しい」と出る、と先生がおっしゃいます。

そう?ちょっと引いてみます。
小学館の噂の古語辞典では、
@予想が当たる、見込みどおりであるA正当である、間違いない、正しいB現実に起こっている、確実である
・・・ということで、当たっているのはなさそうでしたが、
@の例に「かく恋ひむものとは我も思ひにき心の占ぞー」と出ていましたので、なるほどこれか、と(^^ゞ

あらら・・・先生のおっしゃったお歌でした。ノートにも書いてありましたm(__)m
「かく恋ひむものとは我も思ひにき心の占ぞ正しかりけり」(古今集)、もうひとつ
「ふけとさや夕占(ゆふけ)の神にものとえば過ぎ行く人を占正にせよ」
あらら・・・ここはノート取ってなかったのでしょうか(^_^;
今、古語辞典をついでに引いたら、
「ゆふけ」ー「夕占・夕卜」とありまして、「(「ゆううら」とも)占いの一つ。夕方道端に立って、通行人の言葉を聴いて吉凶を占うこと。夕方にする辻占」とあります。
いっけね・・・、そういえば、「辻占云々・・・」というお言葉聴いた記憶があります(^_^;
なにやってんの<私!!

「御伽草子」の「厳島」の巻に「夕つげの占と申すことこそ・・・に侍り」或いは「占正しかり夕つげの神」という文があるそうです。
また琉球本こうけん集(字が不明m(__)m)には「正しとは占いが的確であること」という文が見えるそうです。

先生の結論としては、
古典で「正し」が出てきたら、前後を見て、「占い」と関係がないかと考えるのは有効である、ということでした。



明治時代に流行った「有馬」という占いの集団も「有正」のことではないか、とおっしゃいます。
東北方面で「有吉」「有正」など「有」の字がつくと占いに関係のある人です、と言うお話もありました。
てぇと、有吉保先生なんて方も占いの御家柄?卜部とか忌部とかのご出身?
どっかにそんな話あったでしょうか(^_^;
家に帰ってアサって見なくちゃ(^^ゞ

今回のチラシには「万葉集」ということで柿本人麻呂の像が載せられていますが、
これは、室町時代、人々に人麻呂信仰が上昇してきた頃の像です。
影供(えいぐ)といって、影像に供物を捧げて祭ったりしました。
人麻呂は特に多かった。・・・影供歌合せとかあったんですよね〜(^^ゞ

ここで、ふと、先生がこれは3時半まででしたな・・・冒頭の先生の意気に恐れをなしたか、
今日は資料館からストップがかからなくて、只今3時45分です(^^ゞ
先生も、ちょつと照れながら、
私は途中で休憩が入ると後の講義に調子が出にくいので休憩ナシでいってますが・・・とおっしゃってましたが、
面白いご講義なので文句もナシでした(^^)

この後、八戸市立図書館所蔵の「読本展」開催中のお知らせが資料館からあって、
見に行ってきました♪
それは「観覧記」の方にアップする予定です。
大変な充実度で、なんで八戸がこんなものに力入れてんだろう?と、不思議です。
「奈良絵」が粗末に扱われていて、海外から評価されて、慌てて一生懸命になり出した、とか、
江戸の版本などはみんな襖の下張り等に使われちゃって残ってない、だから近世は大変なんです、とか
中野先生が嘆いていらしたではありませんか!?
八戸図書館の学芸員にはよっぽと目利きがいらしたということなのでしょうね。

ついでに、去年の「百人一首」の井上先生、
その前の「西鶴」は、やはりこの資料館の名誉教授の長谷川強先生という方がなさったそうですが、
両方とも、本が出るそうです(笠間書院)!!
でも、あなた、2300円ですよ!!
考えちゃうなぁ・・・そりゃぁ、井上先生のあれだけの講義を2300円と聴けば安い!と思うけど、
いざ本に2300円というのはねぇ・・・(^_^;
まあ、この講演会が無料ですから・・・私は交通費2000円くらいかかってますけど、それでも5回で1万円か・・・(^_^;
そう思ったら買えるかなぁ・・・(^_^;
微妙だ!!


参考
○梨壷の五人 「梨壷」は内裏五舎の一つ。「昭陽舎」の異称。951年、村上帝の勅命により、撰和歌所がおかれ、寄人(よりうど)として、五人の歌人が選ばれた。大中臣能宣・清原元輔・源順・紀時文・坂上持城で、後撰集の選集と万葉集の附訓にあたった。(広辞苑よりまとめました)

○古今和歌六帖  6巻からなる私選集。編者は未詳であるが兼明親王・源順説が有力。成立も未詳だが貞元・永延年間(976〜988)といわれている。総歌数は現存諸本では重出歌を除き、他資料からの拾遺42首を含めて4370首。選歌範囲は「万葉集」「古今集」「後選集」で、これらが総歌数の半数以上を占め、特に「万葉集」との重出歌がおよそ1100余首あり、万葉歌の古点などとの問題でも注目に値する。名を顕している作者はおよそ193名。六帖からなり、第一帖は歳時天象、第二・三帖は地儀、第四・五帖は人事、第六帖は動植物。これらを計25の項目に分け、さらに計517の題に細分し、各題のもとに相当する歌を分類配列している。作歌の手引書としての類題和歌集である。現存諸本は全て藤原定家所持本の系統から出ていると考えられ、写本・刊本共に大きな移動はない。(別冊国文学「古典和歌必携」芦田耕一著より)





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