10月10日(金) 「万葉集を読む」 第二回
前回のまとめ
先生から次のようなまとめをして頂きました。
前回は、「万葉集を読む」という一つの例として「玉響」という表記に「たまゆら」という読み方がある。 しかし、それは確実な証拠ー傍証のある読み方ではなく、 平安朝初期の誤読から生まれた美しい歌言葉である。 この誤読から生まれた美しい歌言葉のことをGohstWordという。 (・・・よく見ると足元(証拠or根拠)がない、ってことだそうで(^^ゞ)いくつかの傍証によれば 「夕べ」の枕詞として「たまかぎる」でも良いのではないか。 「たまゆら」というのもGohostwordのひとつである。 |
4493 始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎 (はつはるの はつねのけふの たまばはき てにとるからに ゆらくたまのを) |
3715 獨のみ 著ぬる 衣の紐解かば 誰かも結はむ 家遠くして (ひとりのみ きぬるころもの ひもとかば たれかもゆはむ いえとおくして) |
105 吾勢枯乎 倭邊遣登 佐夜深而 鶏鳴露尓 吾立所霑之 (我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし) 106 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 独越武 (二人行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ) 107 足日木乃 山乃四付二 妹待跡 吾立所沾 山乃四附二 (あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに) 108 吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山乃四附二 成益物乎 (我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを) 大津皇子、密かに石川女郎(この資料ではこう書いて郎女と読ませている)に婚(あ)ふ時に、 津守連通(つもりのむらじとほる)、その事を占へ露はすに、皇子の作らす歌一首<未だ詳びらかならず> 109 大船之 津守之占尓 将告登波 益爲尓知而 我二人宿之 (大舟の 津守が占に 告らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し) 大津皇子被死之時、磐余池陂流涕御作歌一首 (大津皇子の死(ころ)されし時に、磐余の池の陂(つつみ)に流涕(りゅうてい)して御作(つくりたまひし)歌一首) 416 百伝 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去年 (ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ) |
109 大船之 津守之占尓 将告登波 益爲尓知而 我二人宿之 (大舟の 津守が占に 告らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し) 2506 言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹はあひ寄らむ (ことだまの やそのちまたに ゆうけとふ うらまさにのる いもはあひよらむ 2507 玉鉾 路往占 占相 妹逢 我謂 (たまぼこの みちゆきうらの うらまさに いもはあはむと われにのりつも ) |
参考 ○梨壷の五人 「梨壷」は内裏五舎の一つ。「昭陽舎」の異称。951年、村上帝の勅命により、撰和歌所がおかれ、寄人(よりうど)として、五人の歌人が選ばれた。大中臣能宣・清原元輔・源順・紀時文・坂上持城で、後撰集の選集と万葉集の附訓にあたった。(広辞苑よりまとめました) ○古今和歌六帖 6巻からなる私選集。編者は未詳であるが兼明親王・源順説が有力。成立も未詳だが貞元・永延年間(976〜988)といわれている。総歌数は現存諸本では重出歌を除き、他資料からの拾遺42首を含めて4370首。選歌範囲は「万葉集」「古今集」「後選集」で、これらが総歌数の半数以上を占め、特に「万葉集」との重出歌がおよそ1100余首あり、万葉歌の古点などとの問題でも注目に値する。名を顕している作者はおよそ193名。六帖からなり、第一帖は歳時天象、第二・三帖は地儀、第四・五帖は人事、第六帖は動植物。これらを計25の項目に分け、さらに計517の題に細分し、各題のもとに相当する歌を分類配列している。作歌の手引書としての類題和歌集である。現存諸本は全て藤原定家所持本の系統から出ていると考えられ、写本・刊本共に大きな移動はない。(別冊国文学「古典和歌必携」芦田耕一著より) |