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10月20日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 四月小

待望の講義再開です\(^o^)/
先生が会議室に入ってらした時は、一斉に拍手が起りました(^^)
先生も、ベージュのスーツ(及びシャツ&タイも)にびしっと決めて、颯爽のご登場♪という感じで、気合の入り方がわかりました(^^ゞ
それと、休講のお詫びに、ということで資料三枚追加!!
で、ご病気のご様子のこととか、今だから笑って言えるあれこれをお話になっても幹事さんをあらためてご紹介のなったので、
ああ、先生の入院中、いろいろ御見舞いやら、連絡やら大変だったから、先生としても幹事さんに拍手を、ということなのねん(^^)と思って、拍手していたんですけど、この理由が後でわかった勘違いの元!!
勿論↑そういう幹事さんに対する労いの御気持ちも十分含めての話しだったのですが・・・(^_^;

というわけで、講義は「袖書」の続きからですが、そちらは、5月12日の分に一緒に入れました。
これはその5月の分にも書きましたが、「袖書」を詳しく注釈なさったのは、ここを取り上げたのは、この二十数年間で初めて、ということだったんですって!皆様もびっくり!「前回の時も○○からで」というのが聞こえなかったのですが、それで先生としては積年の恨み?いえいえ、心にかかるところだったのですね。

で、まず読みから入ったのですが・・・最初は幹事さんや前の席の方の生徒さん(受講生のおじ様、おば様たち)たちに言われて、座って御話していらしたのですが・・・熱が入るうちにとうとう立ち上がっちゃって(^_^;
幹事さんから、「奥さんにチクっちゃおう♪」などという嬉しそうな声も飛んで・・・ん〜、先生、元気、元気(^^)v  
それを見て、幹事さんも生徒たちも嬉しくてニコニコでした\(^o^)/

今日配布のプリントは藤原氏の細かい系図(ことに五摂家・閑院家まで出ている、これは珍しい代物!)と、天皇家系図は中宮がどこから出ているかがよくわかる優れもの!!北条氏は細かい系図は既に頂いてあったのですが、大掴みの分がなかったので、これはこれで見易いお宝系図になっています(^^)v

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用)

やっと本文に入れましたねぇ♪
と、いうのが、本文の読みの第一声でした♪先生も病院のベッドでヤキモキしていらしたのでしょうねぇ、う〜ん、よかった、よかった(^^ゞ)

治承四年。<庚子>
四月小○九日辛卯。入道源三位頼政卿可討滅平相國禪門<清盛>由。日者有用意事。然而以私計畧。太依難遂宿意。今日入夜。相具子息伊豆守仲綱等。潜參于一院第二宮[以仁王]之三條高倉御所。催前右兵衛佐頼朝以下源氏等。討彼氏族。可令執天下給之由申‐行之。仍仰散位宗信。被下令旨。而陸奥十郎義盛。<廷尉爲義末子>折節在京之間。帶此令旨向東國。先相‐觸前右兵衛佐之後。可傳其外源氏等之趣。所被仰含也。義盛補八條院藏人<名字改行家>

―治承四年。<庚子>
―四月小。
―九日辛卯(しんう)。入道源三位頼政卿平相國禪門<清盛>を討滅すべき由。日者用意の事有り。然れども私の計畧を以って。太いに宿意を遂げ難きに依って。今日夜に入りて。子息伊豆守の仲綱等を相具し。潜みて一院の第二の宮[以仁王]之三條の高倉御所に參りて。前の右兵衛佐頼朝以下源氏等を催し。彼の氏族を討ち。天下を執らしめ給うべきの由これを申し行う。仍って散位宗信に仰せ。令旨を下さる。而るに陸奥十郎義盛。<廷尉爲義末子>折節在京之間。此の令旨を帶し東國に向う。先ず前の右兵衛佐に相‐觸れし之後。其外の源氏等に傳うべきの趣。仰せ含めらるる所なり。義盛八條院の藏人に補す<名字行家と改む>

―治承四年は1180年、頼朝が鎌倉に入つた年。後白河法皇に認められて8ヵ月後です。1159年13歳で配流されて20年。貴種最高の年、というのは前回言いましたね。
―四月小の月。太陰暦の小の月で、あっても29日まで。その9日。
―入道源三位頼政は、76歳。頼光の玄孫にあたる・・・ここで今日配った系図見てください。
―「平相國禪門<清盛>」の「相国」は大臣の唐名。「禅門」は禅宗の門に入った人です。
―「以仁王」は時に30歳。
―「散位宗信」―「源平盛衰記」には「佐の大夫」と書かれているが詳しいことはわかりません。「令旨」というのは、上皇なら院宣、天皇は宣旨ですね。親王以下は令旨といいますが、以仁王は親王でもないので正式な物ではないんですね。

―「陸奥十郎義盛」は新宮十郎行家です。
―「廷尉」は検非違使という令外の官です。「尉」はその三等官ということです。

○廿七日壬申。高倉宮令旨。今日到-著于前武衛「將軍」伊豆國北條館。八條院藏人行家所持來也。武衛裝束水干。先奉遥拜男山方。謹令披閲之給。侍中者。爲相觸甲斐信濃兩國源氏等則下向彼國。武衛爲前右衛門督信頼縁坐。去永暦元年三月十一日。配當國之後。歎而送二十年春秋。愁而積四八餘星霜也。而項年之間。平相國禪閤恣管領天下。刑罰近臣剰奉遷。仙洞於鳥羽之離宮。上皇御憤。頻惱 叡慮御。當于此時。令旨到來。仍欲擧義兵。寔惟天與取、時至行謂歟。爰上野介平直方朝臣五代孫北條四郎時政主者。當國豪傑也。以武衛。爲聟君。専顯無二忠節。因茲。最前招彼主。令披令旨給。
  下 東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所
  應早追討清盛法師并從類叛逆輩事
右。前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣。奉
最勝王勅□。清盛法師并宗盛等以威勢。起凶徒亡國家。惱亂百官万民。虜掠五畿七道。幽閇 皇院。流罪公臣。斷命流身。沈淵込樓。盗財領國。奪官授職。無功許賞。非罪配過。或召釣於諸寺之高僧。禁獄於修學之僧徒。或給下於叡岳絹米。相具謀叛粮米。斷百王之跡。切一人之頭。違逆 帝皇。破滅佛法。絶古代者也。于時天地悉悲。臣民皆愁。仍吾爲一院第二皇子。尋天武天皇舊儀追討 王位推取之輩。訪上宮太子古跡。打亡佛法破滅之類<矣>。唯非憑人力之構。偏所仰天道之扶也。因之。如有 「帝王」三寳神明之冥感。何忽無四岳合力之志。然則源家之人。藤氏之人。兼三道諸國之間堪勇士者。同令與力追討。若於不同心者。准清盛法師從類。可行死流追禁之罪過。若於有勝功者。先預諸國之使節。御即位之後。必隨乞可賜勸賞也。諸國宜承知依宣行之。
   治承四年四月九日        前伊豆守正五位下源朝臣仲綱<仲綱>

―27日壬申(じんしん)。高倉宮の令旨。今日前の武衛(ぶえ)「将軍」伊豆の国の北條の館(たち)に到着す。八條院の蔵人行家持ち来たる所なり。武衛水干を装束し。先ず男山の方を遙拝し奉るの後。謹んでこれを披閲 せしめ給う。侍中(じちゅう)は。甲斐・信濃両国の源氏等に相触れんが為。則ち彼の国に下向すと。。武衛 は前の右衛門の督信頼の縁坐として。去んぬる永暦元年三月十一日。当国に配すの後。歎きて二十年の春秋を送る。愁えて四八余(しはちあまり)の星霜を積むなり。而るに項年(きょうねん)の間。平相国禅閤恣(ほしいまま)に天下を管領し。近臣を刑罰す。剰(あまつさえ)仙洞を鳥羽の離宮に遷し奉 る。上皇の御憤り。頻りに 叡慮を悩ませ御う。この時に当たり、令旨到来す。仍って 義兵を挙げんと欲す。寔(まこと)にこれ天の與うるの時至りて行うを謂うか。 爰に上野の介平の直方(なおつね)朝臣五代の孫北條四郎時政主(ぬし)は。当国の豪傑なり。武衛を以 て聟君と為し。専ら無二の忠節を顕わす。茲(これ)に因って。最前に彼の主を招き、令旨を 披かしめ給う。
   下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所
     早く清盛法師並びに従類の叛逆の輩を追討に應ずる事
右。前の伊豆守正五位の下源の朝臣仲綱宣す。
最勝王の勅を奉るにいわく。清盛法師並 びに宗盛等。威勢を以て。凶徒を起こし。国家を亡ぼし。百官万民を 悩乱し、五幾七道を虜掠す。皇院を幽閉し。公臣を流罪し。命を断ち身を流し、淵 に沈め楼に込む。財を盗み國を領し。官を奪い職を授く。功無くして賞を 許し、罪非ずして過に配し。或いは諸寺の高僧を召しこめ。修学の僧徒を禁獄す。或いは叡岳の絹米を給下し。謀叛の粮米に相具し。百王の跡を断つ。一人の頭を切り。帝皇を違逆し。佛法を破滅するは。古代に絶えぬ者なり。時に天地は悉く悲しむ。臣民は皆愁う。仍って吾一院の第二皇子。天武皇帝の旧儀を尋ね。王位推取の輩を追討せん。上宮太子の古跡を訪ね。仏法破滅の類を打ち亡ぼすは。 ただに人力の構えを憑(たの)むに非ず。偏に天道の扶けを仰ぐ所なり。これに因りて。如(もしや)「帝王」三宝神明の冥感有らば。何ぞ忽ちに四岳合力の志無からん。然れば則ち源家の人。 藤氏の人。兼ねて三道諸国の間、勇士に堪うる者、同じく輿力追討せしめ。もし同心せざるに於いては。清盛法師従類に准じ。死流追禁の罪過に行うべし。もしや勝功有るに於いては。先ず諸国の使節に預かり。ご即位の後。必ずや乞いに従いて勸賞賜うべきなり。 諸国は宜しく承知し宣に依ってこれを行うべし。
     治承四年四月九日       前の伊豆守正五位下源の朝臣


―高倉の宮の令旨を持ち来る、これは社会情勢の変化の一つです。既に東国社会の機運が上昇していて、頼朝は担がれただけだったんですね。頼朝はうまく担がれたんです。現実には動かない。指揮官として鎌倉にいるんです。ただ一度動いたのは東北の藤原氏を討ちに行った時です。武将というよりは政治家です。京都ではない関東とという地で新しい組織を作った。
―「武衛(ぶえ)」は兵衛府の唐名。「伊豆の国の北條の館(たち)」は伊豆の国田方郡。守山四日市村、御所ノ内です。ここに流罪されて20年いたんです。北条氏は見張り役だったんですね。生活は自由だったんです。その生活を支えたので比企氏と安達氏だったんです。
―高倉の宮は以仁王のことです。
―「武衛」は頼朝。兵衛府の唐名
―「伊豆國北條館」は伊豆の国田方郡守山四日市村御所ノ内と言うところです。そこに流罪二十年。その見張り役が北条氏です。遠流ではあるが生活は自由です。その生活を支えたのが比企氏・安達氏だったんですね。
―「侍中は」は行家です。
―「永暦元年」は1160年。「当国に配す」というのは遠流。
―「四八余(しはちあまり)の」というのは32年余ということです。頼朝挙兵の年まで。
―「仙洞」は後白河法皇。
―「叡慮」の前の空白は尊敬の空白。
―「北條四郎時政主(ぬし)は」というのは、北条氏に敬意を表して書いてある。後日、北条氏寄りに書いてある。後出の北条
―「当国の豪傑」というのは、豪族と書くべきところだが豪族ではなかったから、こういう呼称を使った―豪族でないことの実証といえます。
―「早く清盛法師並びに・・・」というのは、「事書(ことがき)」という、全体を一行にまとめて書くものです。
―「令旨」と称する物・・・令旨の形式が整っているのかいないのか。「下す」とあるでしょ。「事書き」もありますね。「令旨」はこういう書き方をしません。これは「下し文」の形式です。
―「東海・東山・北陸三道」

で、時間ですね。
ワーっと大拍手♪これって不思議!!先生がご病気で休講になって、四ヶ月ぶりでちょっとは出席者が減るかと思ったら、、待ってました!とばかりにまた暑苦しいほどの出席率で、しかも生徒全員が先生に対して熱い眼差しなんですよ(^^ゞご多分に漏れず拙者も(^_^;・・・これで凄くクラスとしてのまとまりが出てきた感じがしました(^^)でも、とにかく、ご病気はない方がいいです(^^ゞ先生御元気で♪―筆者の呟き&御願い)


これ以後は11月10日の講義の分です

―「最勝王」は以仁王のことで、敬意を表して文頭に持ってきたんです。そういう名前のお経があるんです。「金光明最勝王経」にちなんだ。これは、国家鎮護のお経で、仏敵清盛を滅ぼす、と言う意味です。
―「最勝王の勅を」とありますが、「勅」というのは本当は天皇の命令です。ですから「以仁王の勅」ということが本来おかしいんです。
―「清盛法師并宗盛等」・・・このとき、清盛62才、宗盛33才。
―「五幾七道」というのは、畿内の五国(山城・大和・河内)と全国を七つのブロックに分けて東海道・東山道など(後は、北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道)ですね。
―「流罪」というのは近流・中流・遠流とあります。
―「奪官授職」というのは、奪っただけでなく、その奪った官職を一族のものに分け与える。
―「禁獄」は手足に枷をはめて動けなくすること。
―「斷百王之跡。切一人之頭」というのは、帝王の頭を切った、ということですが、本当に切ったわけではない。
―「一院第二皇子」といってますが、本当は第三皇子です。でもゴロがいいでしょ、さらに三条の高倉邸というの。こういう文章はそういうところ大事です。
―「尋天武天皇舊儀」は、壬申の乱(645)のことです。その後、672年の飛鳥浄御原律令を制定した。そのことです。
―「上宮太子」は聖徳太子です。聖徳太子が住んでいた宮殿を上宮というらしい。今は奈良に「上之宮」という地名が残っています。「厩戸(うまやど)の皇子」ともよばれていましたね。これは馬やの中で生まれたからだと言われていますが、そんなことではありません。それはキリスト様ですね。「うまやど」というのも地名です。
―「打亡佛法破滅之類」は古い歴史に倣って、仏教の敵を打ち滅ぼそう、ということです。これは政敵ということだけでなく、仏敵としてということで、そこから、自分自身も最勝王と名乗っているんです。
―「唯非憑人力之構。偏所仰天道之扶也」人力を頼むだけでなく天命を頼む、という。
―「三寳神明」神も仏も、ということ。三寳は仏・法・僧ですね。
―「四岳」は大きな山、そこから、大きなお寺です。○○山・・・比叡山、とかいいますね。
―「先預諸國之使節」・・・「諸國之使節」というのは国の司、国司として任命するという。
―「勸賞」論功行賞。
―「御即位之後。必隨乞可賜勸賞也」自分が位についたなら、官位や土地を与える、というんです。これが「源平合戦」の起爆剤になった!!

―「令旨」の形式というのがあります。天皇の命令は宣旨、上皇は院宣というのは言いましたね。その他の皇后・皇太后・太皇太后・・・これを三后と言いますが、それと皇太子・親王などの命令を令旨といいます。まず、「令旨云々」(というわけで、先生が書式を書いてくださいました。令旨は養老律令で、定められた皇太子以下の命令ですが、それが、平安中期になると「奉書形式」というものになって、皇太子や皇族が直接出すものでなく、家臣(蔵人?)に命令して、「皇太子のご意向は・・・のようでございます」と言う形にして出すようになりました。
(令旨については、「官制大観」さんのページに行くと書式と詳しい説明が見られます)

令旨云云(りょうじうんぬん)
   年 月 皇太子畫日。
奉令旨如右(右のごとく令旨を奉り)。令到奉行(ぶぎょういたせしむ)。
   大夫(かみー長)位姓名
   亮 (すけー次長)位姓名

  

被令旨■(令旨を被るに曰く)
ーー本文ーー
ーーー
      令旨如此(りょうじかくのごとし)
      執達如件(しったつくだんのごとし)
      御気色如件(ごきそくくだんのごとし)

あの以仁王の令旨というのと比べてみると違いますね。
@「下す」というのはむ「下し文」の形式である、ということ。
A「事書き」も本来はない。
B「源朝臣仲綱宣す」というのはおかしい。「太政官宣す」とか「○○の国(国主の事)宣す」と書くのはあるけれど、それは太政官宣布とか、国主・地方官の官布です。親王・皇太子が出すことはしません。
C「最勝王勅」という言い方はしない。「勅」というのは天皇の命令ですからね。正倉院など「勅封」などと言いますね。天皇の命令がないとあけられない。そういう時に「勅」を使います。
D「書き止め」が「諸國宜承知依宣行之」という書き方はおかしい。
・・・社会情勢が合っての話ではありますが、「玉葉」〜親鎌倉派の苦情兼実の日記ですが、そこには「山寺法師が作った偽ものだ」と書いてある。(年表P2〜3)「源平盛衰記」にもそのような記事があります。「吾妻鏡」は後から書いたものですから、そのあたりから採ったのかもしれない。
「山寺法師」というのは、三井寺(園城寺)の宗徒たち・・・そのあたりが書いたのではないか、と言うことになっています。なぜかと言うと、源三位頼政たちは最初、園城寺にたよったんです。

このことは、古代社会から中世武家社会への転換点となりました。東国社会の新しいうねりを頼朝がまとめて鎌倉幕府を創ったんです。
今まで265回やってきましたが、今まで読んでいたのは、時頼近辺の記録でしたね。第一の「袖書」からというのは初めて読んだんですね。
前回(10月20日)の講義の後で質問が来た。注意深い人がいて、「書き方が違う」というんですね。「吾妻鏡」は編纂物ですから、100年遡って書いているところもあります。資料の充実している所と資料のない所、書き手によってもかなり違う。そういうのは、ずっと読んでいなければわかりません。

では、5月10日ですね・・・(というわけで、そこからは、本来の11月10日の分に)



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10月20日の講義の後、

源氏の講義録の件から、講義録乗っけている所にご了解いただかなくては、と思いつつ、どうせ、言うんなら、ちっとは体裁整えて・・・と思っている間に時間が経ってしまって、次の講義が始まってしまったところが多いのです(^_^;
で、先生の体調不良で休講していた「吾妻鏡」も始まって、あー、お聞きしなくちゃ、と思っていたら、この講義再開の日は、例の休んだ世界史のテープを借りに行くことで頭が一杯だったんですよ(^_^;
先生の周囲も人垣いっぱいだったし、それで、とうとう申し上げるチャンスを逸して、家に帰って、ふと、先生のところにメールでも御問合せしてみよう、とYAHOOで検索したら、ナント二番目にうちがHITする!!
こりゃああかんわ、慌ててその夜即幹事さんのところに御電話したら、「あら、先生知ってらっしゃるみたいですよ」
が〜ン!!
それでは・・・どういたしましょう?下げた方がよろしいですか?と伺ったら、
「先生は、こんなのがあるよ、って、あの時もおっしゃってらしたじゃない」
ええっ?覚えてない(^_^;
「別に怒っていらっしゃるわけでもないし、先生に直接伺ってみたら」と、大変気軽に、先生の電話番号も教えてくださって、今度は先生のところへ電話をお掛けしました。
先生も大変気軽に、
「あの時、言ったの気が付きませんでしたか。ここ(講義の時)で言えばわかるかな、と思って、言ったんだけどな」
スミマセン(^^ゞ授業の準備で目一杯でした(^_^;
で、結局「いいですよ」とあっさり♪
体裁もあのままでいいそうでー・・・あちこちチェックなさった後のようでした!!
(内容のことはおっしゃいませんでしたが、けっこう先生の事おちょくってんのですよね(^_^;)
NPOの講演会がよかったという事を大変喜んでくださって(^^)v
御名前は出したほうがよいのでしょうか、出さないほうがよいのでしょうか、と伺ったら、
「みんなで御勉強しています、ということで、名前はなくてもいいんじゃない」という事になりました。

ほっとして、先の幹事さんに御電話入れてご報告。
「よかったじゃないですか。私も見に行こう」とご好意溢れるお声で(^o^)~ホ
もう感激!!感動!!

後日、ついでに国文学研究資料館(「百人一首」と「万葉集」)のと県立公文書館(「古文書解読講座」)にも問い合わせて許可を頂きました(^^)♪



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