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11月7日(金) 「万葉集を読む」 第四回

「まさし」から「大津」へそして「告る(のる)」

本日も先生は絶好調(^^)v
なんでぇ〜?と思ったら、どうやら、一番後ろに京大時代の教え子の方たちが聴講にいらしていたらしいです(^^)
教え子の方たち、と言っても、中野先生のこと考えると、皆様、いずれかの大学の先生をしていらっしゃるのでしょう。
フフゥ〜ン♪終わったら飲みに行くんだなぁ〜(^_^;とおばさんは考える!!
しかし、楽しそうです。
きつと、大学で教えていらした頃の、ご自分自身もお若くて研究や講義に絶好調だった頃にもどっていらっしゃたのでしょう(^^)
というわけで、こんなお話から始まりました(^^)

大昔、京大で講義していらした頃、たっくさんの本を抱えて歩く御姿が名物になっていらしたらしい!!
今ご自分がお持ちになっているカバンを指して、「だから鞄を買っただけで話題になりました」と楽しそうに。

はい。講義です!!前回の纏め&復習です。

「占い」に関することば「まさしい」について⇔「まさしい」という言葉が出てきたら占いに関することだと考えてよい。
「まさしい」という形容詞は、万葉集において「占い」にしか出でこない不思議な詞。
夢が的中している、と言う意味から「正夢」または琉球語でも「まさしい」は占いに限られていた。

2506 言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹はあひ寄らむ
    (ことだまの やそのちまたに ゆうけとふ うらまさにのる いもはあひよらむ
2507 玉鉾 路往占 占相 妹逢 我謂
    (たまぼこの みちゆきうらの うらまさに いもはあはむと われにのりつも )

占相(うらまさに、うらなえば)には、uraau or ura「masa」の読みがある→「うらまさに」と読んでいい。
「玉鉾の」は「路」にかかる枕詞でもある。華やかな、意味を表す。
万葉集を読み解くということは、第一に文学を読み解くことである。

で、そこから、本日のテーマに雪崩れ込んで行くのですが・・・その前にちょっとした脱線が・・・♪

109. 大船之津守之占尓 将告登波 益爲尓知而 我二人宿之
   (おおふねの つもりがうらに のらむとは まさしにしりて わがふたりねし)

「告る(のる)」というのはただ言うのではない。「天皇が宗教的・政治的に重要な発言をする場合」に使われる言葉で、
その「告る」が使われる歌に「まさし」という形容詞の終止形がきて、更にその後に「が」がつくというのはおかしなことなのだそうです。
成城大学の工藤力男先生は「益爲(まさし)」ではなく、「益爲(まさし)」ではないか、という説だそうです。
「岩波の古典文学大系」を一緒にやっていて相当激論を交わしたんです」
先生は、「『まさしく』では現代語に通じすぎる。正しいか正しくないかではなくて、
『たまゆら』ではないが、ゆかしいことばであれば、そのまま残してよいのではないか」ということで。
佐竹先生のほうが、
「いい加減面倒くさくなってきて」
「僕が折れて」
「意味が『知っていた』ということなのだからどっちでもいい」とおっしゃったら、
(アハハ・・・↑こういうの折れたというのでしょうか(^^ゞ)
「真面目な工藤君は」
「歌というものは言葉の芸術であります。ですから一字一語でも疎かにすることは出来ません」と頑張ったそうです♪
「師弟関係で、僕が押し切った、と言われているが」(ほらねぇ・・・そういうもんなんですよ(^^ゞ)
「工藤君は、先生に押し切られて悔しかったが、腹を切りたかったが刀がないので尺八で腹を切った、っていうんだ。
こういうのを尺八腹というんです」
と、ご機嫌(^^ゞ
これって師弟の惚気話です!!

で、先生は、「人生は妥協と敗北の連続です」なんてニヤニヤしながらおっしゃる!!
なんでも、結局その時は、先生の方があっさり譲ってしまわれたそうです(^^)
そしてまた、「一時期、先生のいう事は全部間違ってる、と学生が言う時代がありました。
僕には四人の教え子が居ましたが、その連中が、今みんな先生になってる。これをザマミロと言う」
場内クスクス笑いが蔓延中♪
先生も嬉しくて仕方ない、と言う雰囲気です(^^ゞ
ふぅん・・・ひょっとして、今日の特別聴講生は、その「連中」だったりして(^^)

先生は大病なさった後で、先生ご自身も教え子の方たちも、こういう時間が持てるなんてことを考えられなかったのではないでしょうか。
そう考えると、このはしゃぎっぷりは逆に胸が締め付けられるような気がします。
きっと最期の授業になるかもしれない今日の講義なのではないかな・・・と漠然と考えてしまいました。


はい。まじめに受講録♪

「告る」は大変大事な言葉で、うっかり使ってはいけないものなのだそうです。
万葉集 1 の雄略天皇の歌は

万葉集 1 の雄略天皇の歌
  籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳爾 菜採須兒 家吉閑名告紗根
  虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 吾許背歯 告目 家呼毛雄母
(籠もよ み籠持ち 掘串持よ み掘串持ち この岡に 菜採ます兒 家聞かな 名告らさね 
そらみつ 大和の國は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ居れ 吾こそは告らめ 家をも名をも)

 「告る」という言葉を使う歌で、「草を摘んでいるおじょうさん」という呼びかけで、始まっているのですが
「吾こそは告らめ」私こそは自分の名を告げよう、と言っているんですね。

「天皇が、草を摘んでいる女の子に自分の名を告げる、と言っている」
「ちょっとネエチャン(←先生がおっしゃったんですよ)」と言うような簡単なナンパではなく(←これも先生がおっしゃたのです)、
「天皇が大事な人に大事な言葉を使って問いかける」そういう言葉だそうです(^^)

そして、「菜を摘む=春」と言う季節をあらわし、しかも若い男女の求婚の歌、ということでおめでたい「祝歌」だそうです。
藤村の詩のように・・・と、また突然始まりました(^^ゞ
「子諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なす繁縷は萌えず若草も敷くに由無し」
「おいおい、○○君、この後どうだったかなぁ?」
もう会場はくすくす笑い充満中♪
で、「藤村の詩は嘘だらけ」でも「素晴らしい」っておっしゃったのでしたか・・・笑っていて聞こえない(^_^;

「今でも神様の前に祝詞を捧げるのも」・・・ああ祝詞ーのりと・・・「告るーと」か・・・合点(^^)v
「天皇が国民に勅語を賜るとき・・・諸々聞き給へ、朕ここに告る・・・と言います」・・・あっ、そういう言い方をなさるわけですか!!

そこで、「津守之占尓 将告登波 (つもりがうらに のらんとは)」というのは大事な言葉です、とおっしゃいます。
あれれ・・・また大津?と思っていると・・・

09 大船之 津守之占尓 将告登波 益爲尓知而 我二人宿之
    (大舟の 津守が占に 告らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し)

「大船の津守という奴の(「が」は身分の低い者に対してのことばで)占いに出たということだが、
それくらいのことは承知で寝たのだ」
「津守の占にそういう風に出ると知っていた。大津の方も戦いに勝てるかと占わせていた」
「占(うら)」は「浦(うら)」に通じるそうで、海岸と言う意味もあるそうです、が。
大津が殺されなければならない理由にもなる・・・

ん〜、ってことは「告る」という言葉を使ったという重みが、
大津自身が尊大さを誇示して、我に死を与えよ、と言う意味を持っているということなのですね。

国民的英雄は、常に国民的悲劇を味わう」・・・これ先生の名言(^^ゞ
↑出典不知m(__)m
「近くは西郷隆盛など国民的人気が高いからこその悲劇である」
そうです!!西郷の悲劇については、言いたいことございます。
彼は自分自身の悲劇を天命と知り、知っているからこそ、自分の天命を全うするために、自ら悲劇の道を辿ったわけですよ(^^)
そうか・・・そういえば、大津も自分の悲劇こそ天命だと悟っていたと考えられるんですねぇ(;_;)

「大津皇子について忘れてならないことは漢詩の名人であったことです」
「懐風藻」というわが国最古の漢詩集(751年編纂)に当時の(漢文の)実力者64人の漢詩が載せられていますが、
大津皇子は4首採られている。」
「大津が殺される時の辞世の漢詩は、韻の踏み方も殆ど間違っていない」
「人心が大津に集まっていくのは目に見えている。支配者にとっては最も危険因子である」
で辞世の五言絶句!

   五言。臨終。一絶。−−(ごごん、りんじゅう、いちぜつ)
 金烏臨西舎。−−金烏(きんう)西舎(せいしゃ)に臨(て)らひ。
 鼓聲催短命。−−鼓聲(こせい)短命を催(うなが)す。
 泉路無賓主。−−泉路(せんろ)賓主(ひんしゅ)無し。
 此夕離家向。−−此の夕べ離(たれ)か家に向かう。

「夕陽が西に傾き、鼓の音が死を知らせ、迎えてくれる主もいない、どこに行くと言う宛もなく一人、旅に行かねばならない」
「味わえば味合うほど孤独な詩。漢詩の初めとして素晴らしい」
「416番の歌とはやはり違う」
「416の歌は、大津の家臣が大津を偲んで詠んだ歌というのが今日の通説になっている」

・・・ん〜、先生も大津、好きですねぇ(^^ゞ
しかし、漢詩の才に優れているから、といって政治的危険因子になるのだろうか?
これがなるんですねぇ・・・要するに漢詩に長けているということは人心掌握に長けている、ということです。
しかも当時のインテリ階級の人心掌握に!!
やはり、持統天皇としてはほっとけないですよね・・・(^_^;


「万葉集」は日本語を表記する適切な文字を持っていなかった(^_^;

だから、漢字を使うしかなかった。
古事記の序文に稗田阿礼と太安万侶が書いた
「阿米都知(あめつち)」→「天地」という意味を知っていれば苦労がなかったのに、
「天地未開時(あめつちのわかれしとき)」という日本語の発音は、意味はわかっても、音がわからない。
そこで、人の墓の石盤を見て研究したそうです。
また漢文の訓読は「お経」の読み方だそうで(前回も出ましたが)、
「金光明最勝王」などは「金ム光明り最トモ勝王」という送り仮名を元にした、ということです。
とにかく「かなを生んだと言うことは大変な発明」

「男のすなる日記をしてみむとて→私は女だから漢字は書けない→だから仮名で書く」という着想の素晴らしさと、
「散文を仮名で書く」という文学史的重み、ですね。
「古今和歌集の序文を仮名で書いた」というもうひとつの文学史的重要事実。
先生は「作品の内容と言うことではなく、日本文化史・国語史の中の大きな事件」とおっしゃってました。


結局、万葉集は味わう以前の解読が第一番に大事、ということに落ち着きますねぇ(^_^;
まあ、よく言われることですが、
万葉集は素朴な歌ばかりで、引き歌だの本歌だの考えなくて良いから、素直にそのままを味わえばいい、と。
でも、その素直に味わう前の大仕事にも目を向けることが大事なんですね。
先生の繰り返しおっしゃるのも、そこのところだと思います。
最終的に、この連続講演のテーマはそこに落ち着く、と考えていいのかな(^^ゞ

あ、大津に関しては、繰り返しおっしゃるのは・・・やはり大津の歌が重要な意味を持っているということもあるのでしょうが、
やっぱり極々単純にお好きなんだと思います(^^)v

さて、来週は最後ですが・・・どうなっちゃうんでしょうか?
ちょっと不安なくもない・・・でも、もう一回?ん〜、2〜3回追加講義します、なんてことにならないでしょうかね(^^)





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