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11月10日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 五月大

四月廿七日の後半部分は、本日やったところですが、整理上前回(10月20日分)に併載しました。

今日は、お隣に座られた方が、テキストを間違えてお持ちになってしまったようで、ご一緒に見ながら受講しましたので、ちょつとまとめにくいのです(^_^;
ただ、その方は、もうずっと何年にも亘って受講されていらっしゃるらしく、本文もスラスラですし、筆者が資料を探してウロウロしていると、ここです、などとさっと指差ししてくださったのには最敬礼m(__)m
ただ、その方も、きっとやりにくかったと思うし、もしテキストを間違えたりとか、忘れたり、とかはありがちなことなので、フリーのバラにしてあるテキストがあるといいな、と思いました(^^ゞ
或いは、下の事務所でコピーができれば、それですみますし・・・私が忘れたときのためにも・・・あると助かりますが(^^ゞ


筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、この回から、読点と/を適宜入れました)

ただ今、ファイル入れ替え中につき、解説は整理中でもあり、本文と読み下し文のみ掲載いたします。
解説は後日

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

○五月大○十日辛酉。下河邊庄司行平進使者於武衛。告申入道三品用意事〈云云〉

―五月大
―十日辛酉(しんゆう)。下河邊の庄司行平。使者を武衛に進め、入道三品用意の事を告げ申すと云々。
―大の月ですから三十日まであります。
―「下河邊」は下総の国。今の茨城県古河市〜春日部・栗橋のあたり。
―「庄司」というのは荘園の管理人、「行平」は藤原行平。行義の子供。秀郷流藤原氏、関東に土着した藤原氏です。
―行平は頼朝挙兵依来の傘下の者で、梶原景時、これは頼朝を助けましたね。その後頼家の乳母夫になった。行平は実朝の武芸指導になった。こういう武士たちは「門葉(もんようー源氏一族)に準じて」という扱いを受けるんです。
―「使者を武衛に進め」は行平が文を送ってきたんですね、京都から。
―「告申入道三品用意事」源三位頼政が準備している、という。当時まだ、頼朝の挙兵前で、千葉氏やこの行平、ほかの関東武士達も京都警護の爲狩り出されて京にいるんです。これは第二情報、第一は何か、というと以仁王の令旨です。

○十五日丙寅。陰。可被配流茂仁王於土左國之旨。被 宣下。上卿三條大納言〈實房〉。〔身に職のつくり〕事藏人右少弁行隆〈云云〉。是被下平家追討令旨事。依令露顯也。仍今日戌剋。檢非違使兼綱。光長等。相率隨兵。參彼三條高倉御所。先之。得入道三品之告。逃出御。廷尉等雖追捕御所中。遂不令見給。此間。長兵衛尉信連取太刀相戰。光長郎等五六輩。爲之被疵。其後光長搦取信連。及家司一兩。女房三人歸去〈云云〉

―十五日丙寅(へいいん)。陰。
―茂仁王土佐の国に配流せらるべきの旨宣下せらる。上卿(しょうけい)は三條大納言(實房)。職事は蔵人右少弁行隆と云々。これは平家追討の令旨を下さるる事、露見せしむに依 ってなり。仍って今日戌の剋、検非違使兼綱・光長等、随兵を相率いて、彼の三條高倉 の御所に参る。これより先。入道三品の告げを得て。逃れ出で御う(たもう)。廷尉等、御所中を追 捕すと雖も。遂に見せしめ給わず。この間。長/兵衛の尉信連/太刀を取り相戦う。光長 が郎等五六輩。これが為に疵を被る。その後光長、信連及び家司一両人・女房三人を搦 め取りて、帰り去ると云々。
―「職事蔵人」というのは現物を取り仕切る右将監。右少弁行隆は中山中納言あき時の子。まだ中級役人です。
―「検非違使」は京都警護の役人。
―「長の兵衛の尉」長谷部信連。
―「郎等」・・・家之子・郎党といいますが、「家之子」は家来としても一族(血縁関係がある)。「郎党(郎等)」は血縁関係のない従者のことです。

―この十六日の前の部分に、このテキストでは出ていないのですが、国史大系のP217の文治二年四月四日の記事があります。(先生が途中までお読みになったのですが、一応拾ってきました。ー筆者注)

○四日辛亥。右兵衛長谷部信連者。三條宮侍也。宮依平家讒。蒙配流官府御之時。廷尉等。亂入御所中之處。此信連。有防戰大功之間。宮令遁三井寺御訖。而今爲抽奉公參向。仍感先日武功。態爲御家人。召仕之由。被仰遣土肥二郎實平〈干時在西海〉之許〈云云〉。信連。自國司給安藝國檢非違所并庄公畢。不可見放之由〈云云〉

―四日辛亥 (しんがい)右兵衛長谷部信連は三條宮の侍なり。宮、平家の讒に依って、配流の官符を蒙り御うの時。廷尉等。御所中に乱入するの処、この信連防戦大功有るの間、宮三井寺に遁れしせしめ御いをはんぬ。而るに今奉公を抽んぜんが為参向す。仍って先日の武功に感じ、態 と御家人として召し仕うの由。土肥の二郎實平(時に西海に在り)の許に仰せ遣わさ ると云々。信連国司より安藝の国検非違所並びに庄公を給いをはんぬ。見放すべからざるの 由と云々。
―これは、頼朝のところに来た六年間の働きに感じて御家人に加え、土肥実平に命じて信連を厚くもてなした、ということなんですね。頼朝は、小さな事例を忘れずに憶えていて何かの折に報いた。大勢の前では叱り飛ばしておいて、みんなの緊張感を高めたんです。
よけいなことばかりて゜すが、それがいいという人が多い!!
先生も照れくさそうですが、せっかく長いスタンスで取り組んでいるんですから、ふつうの講義では飛ばしちゃうような瑣末なことを教えていただけるのは皆さんも嬉しいのではないでしょうか(^^)ー筆者の呟き

○十六日丁卯。晴。今朝。廷尉等猶圍宮御所。破天井。放板敷。雖奉求不見給。而宮御息若宮。〈八條院女房三位局盛章女腹〉。御坐八條院之間。池中納言〈頼盛〉。爲入道相國使。率精兵。參八條御所。奉取若宮歸六波羅。此間洛中騷動。城外狼藉。不可勝計〈云云〉。

―十六日丁卯(ていう)。晴。
―今朝。廷尉等猶宮の御所を圍む(かこむ)。天井を破り板敷を放ち、求め奉ると雖も見え給わず。 而るに宮の御息の若宮(八條院の女房三位の局、盛章女の腹)八條院に御坐するの間。池中納言(頼盛)。入道相国の使いとして。精兵を率い。八條御所に参り。若宮を取り奉り六波羅に帰る。この間洛中騒動す。城外の狼藉。勝計う(あげておう)べからざると云々。
―「池中納言(頼盛)」というのは清盛の弟。母は池の禅尼、という頼朝を助けたひとです。
―「六波羅」は都のはずれ、平氏が所領していたところです。平氏を討った後、鎌倉幕府はわざわざ六波羅に(鎌倉幕府の)支所をおいたんです。平家物語の巻四「競(きそい)」「若宮の出家」にこのあたりのことが出ています。

○十九日庚午。雨降。高倉宮去十五日密々入御三井寺。衆徒於法輪院搆御所之由。風聞京都。仍源三位入道近衛河原亭自放火。相率子姪家人等參向宮御方〈云云〉。
○廿三日甲戌。雨降。三井寺衆徒等搆城深溝。可追討平氏之由。僉議之〈云云〉。
○廿四日乙亥。入道三品中山堂、并山庄等焼亡。

―十九日庚午(こうご)。雨降。
―高倉宮去んぬる十五日密々に三井寺に入御す。衆徒法輪院に於いて御所を構えるの由、京都に風聞す。仍って源三位入道は近衛河原の亭に自ら火を放ちて。子姪・家人等を相率い、宮の御方に参向すと云々。
―「近衛河原」は近衛大路の鴨川の河原、左京の上の方。法成寺、道長の建立したお寺で、平安時代には栄えたが、この時代にはもう衰えていた。「徒然草」には「無量壽院のみぞ」という文があります。
― 二十三日甲戌(こうぼ) 雨降。
―三井寺の衆徒等、城を構え溝を深くす。平家を追討すべきの由、これを僉議(けんぎ)すと云々。
―二十四日乙亥(いつがい)
―入道三品の中山堂並びに山庄等焼亡す。
―「中山堂」は源三位頼政の持仏堂。黒谷光明寺の真如堂のあたり。「源平盛衰記」巻十四に記述があって「吾妻鏡」がこれを使っています。

○廿六日丁丑。快霽。卯尅。宮令赴南都御。三井寺無勢之間。依令恃奈良御也。三位入道一族并寺衆徒等候御共。仍左衛門督知盛朝臣。權亮少將維盛朝臣巳下入道相國子孫。率二萬騎官兵追竸。於宇治邊合戦。三位入道。同子息〈仲綱、兼綱、仲宗〉。及足利判官代義房等梟首。〈三品禅門首。非彼面之由。謳歌云云〉宮又於光明山鳥居前有御事。〈御年三十云云〉。

―二十六日丁丑(ていちゅう)。快霽 。
―卯の刻。宮南都に赴かしめ給う。三井寺無勢の間、奈良の衆徒を恃(たの)ましめ給うに依ってなり。三位入道の一族並びに寺の衆徒等、御供に候す。仍って左衛門の督知盛朝臣。権の亮少将維盛朝臣已下(いか)。入道相国の子孫。二万騎の官兵を率いて追い競い。宇治の辺に於いて合戦す。三位入道。同子息(仲綱・兼綱・仲宗)及び足利判官代義房等を梟首す。 (三品禅門の首は。彼の面に非ざる由、謳歌すと云々)。宮また光明山鳥居の前に於いて、御事有り。(御年三十と云々)。
―「三品禅門首」違う人の首で、本人は逃げていったといわれている。六月か七月になってどこかで生きている、という情報が「玉葉」にも載っています。
―「光明山」は宇治近くのお寺ですかね。
―「有御事。」は死んだ、ということです。御年三十才。

○廿七日戌寅。官兵等焼拂宇治御室戸是三井寺衆徒依搆城郭也。同日。國々源氏并興福園城兩寺衆徒中應件令旨之輩。悉以可被攻撃之旨。於仙洞有其沙汰〈云云〉。

―二十七日戊寅(ぼいん)。
―官兵等宇治の御室の戸を焼き払う。これは三井寺の衆徒城郭を構えるに依ってなり。同日、国々の源氏並びに興福・園城両寺の衆徒の中、件の令旨に応ずるの輩、悉く以て攻撃せ らるべきの旨。仙洞に於いてその沙汰有りと云々。
―「御室戸」は御室戸寺(みむろとじ)。今は「三室戸寺」と書くのかな。光仁天皇が千手観音を祀る御室を賜る、ということからつけられ。藤原時代のすばらしい大和座りの観音像があります。西国観音霊場のひとつになっています。「大和座り」というのは今しがた呼ばれて座ったばかり、という形。もともと天台宗の寺門派で比叡山の山門派と仲が悪いんです。そんなこともあって源三位頼政たちをかくまった。頼政ー三井寺ー三室戸寺ー興福寺、という繋がりです。
―宇治のこのあたりは「源氏物語・宇治十帖」の舞台で浮舟や宇治の「莵道稚郎子(わきいらつこ)」のお墓があります。

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いやいや・・・本日も熱気むんむんという感じで会場が熱いです(^^ゞ先生も絶好調で、体調は完全に戻られているご様子です(^^)
面白かったのは、頼まさに肩入れした三井寺の内幕話ですね。まあ敵の敵は味方とよく言われますが、寺同士の勢力争いも(消極的理由にせよ)かかわっていたとは思いませんでした。当時の寺社の勢力とか政治的行動力はわかっているつもりでも、どうも見落としがちなので、いい勉強になりました。
後、「玉葉」の引用も多いので、ちゃんとチェックしなくちゃあきまへんなぁ・・・とこれは自戒(^_^;
ん〜、もっと自戒は、自分の専攻だった平家物語「競」と言われてわからなかった(^_^;大汗、赤っ恥!!なんだかなぁ・・・(ーー;)


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