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11月21日(金) 「万葉集を読む」 第五回 

和歌の形式

本日は「万葉集」連続講演最後の講義になりました(^^)
先生は相変わらず絶好調♪開口一番・・・

「二週間もたつと前回の記憶は薄れてきます。あと3日もたてば全く忘れてしまう。だからちょうどいいところでしょう」
「そのうち、私は今日朝ごはん食べたでしょうか、と聞くようになる」

もう〜・・・会場大爆笑\(^^)/

「和歌を短歌と呼び、長歌と区別してきた・・・和歌より長い歌を一括して長歌と呼ぶ大雑把な分け方をしてきた」
しかし、
「歌の一番古い形は今日ではわかっていない」
「短い歌でも歌い方などで、いくらでも伸ばせる、というのは今日の民謡などを聞いてもわかります」
ということで、
今の和歌の形(5・7・5・7・7)になったのは何時頃のことかはわからないそうです。
「古事記」の時代には確立されていたそうですが、7〜8世紀では短歌の形式だったそうです。
その短歌の形式というのは・・・

 (5+7)n乗+7
 はるすぎて なつきたるらし 
 しろたえの ころもほしたり 
 あめのかぐやま

「nはいくつも重ねていくことができる」・・・それが長歌の構成になるわけですね。
でも、「n=2の形式が一番好まれて定着してきた」。
「これを音数で数えると31音である。」

男が女に台詞で呼びかける形の「旋頭歌」が万葉集(巻十一の初め)にも62首あり、(この後不明m(__)m)

「続日本後記」には200回くらい続く歌の形が載っている、と、おっしゃってました。
「無意識に時間を長持ちさせることができる。」ということだそうです。
「万葉集」で一番長い例は巻2の199の柿本人麻呂が高市皇子が薨じた時に詠んだ歌だそうで、
後で本を見てびっくり・・・こんなのあったの気がつきませんでした(^_^;
殆ど見開き2ページですぜ!!

で、その31音を一字一音の万葉仮名で表記すると巻14ー3348東歌
「可豆思加乃麻万(かつしかの)=葛飾の真間乃」
読んで意味がわかっているのは本人だけ。
もともと本人がメモのために書いたかもしれない

「吉永小百合だって・・・」と急におっしゃったのにはびっくりしました!!
そしたら後世になったら、「小百合というのは“さゆり”か“こゆり”か、などと調べる」ことになるかもしれない、と。
結局日本語というのは、@漢字を意味で和訓する A或いは音だけを借りて読む、
というのが「その時代の了解事項」で、
突然木簡が出土して来ても、その時の了解事項がわからないと読めない。
両方を巧みに組み合わせて今の表記の仕方が成立する、とおっしゃいました。

先生ご自身、「戸越」と書かれた地名だけを見て、これは「とごえ」とよむのか「とごし」なのか、とお思いになったとか。
で、日本史の先生に聞くと「江戸の戸越えるで、江戸を超えるという意味になる。
つまりこのあたりで江戸を越えるから戸越」と言われたそうです。
ナント!!

「みそひともじ」のはじまりは

短歌は31音から成り立っている。一字一音で表記すれば31文字、これを「みそひともじ」という言い方をするが、
これは、いつごろから言われ始めた言葉なのか・・・と言うと
「調べるのは難しい」
「いつの間にか、こういう呼び方が成立していた!」そうです(^^ゞ
古今集仮名序」のでは「みそもじあまりひともじ」とという呼び方をしているそうです。
(すみません、全然気がつきませんでした(^_^;勝手に三十一文字と読んでいたのでしょう(^^ゞ)

「“三十一文字”と言う言葉の成立期は、ある辞典では「古い」と言う風に書いてあるが、
それは単純に万葉仮名で、たまたま31文字で書かれたものを“三十一文字”としているだけである。」
と、先生はおっしゃいます。
「中世には成立していた、と思われるが、室町期にはまだ(三十一文字という言葉は)出でこない」そうです。
「山田・・・さんの『言葉の履歴』(岩波新書)では、その難しさが出でいる」んだそうですが、
ここで、先生、山田俊雄さんの名前が出てこない(^_^;
それで、おっきな声で後方に向かって、
「○○君、山田孝雄(よしお)先生の長男の名前は何だっけなぁ」とお聞きになる(^^ゞ
女性のお弟子さんでしょう、「としおせんせいです」とお答えになるのですが、声が届かない!!
最前列の国文学研究資料館の担当の方が「俊雄先生です」とおっしゃるのですが、お聞きにならないんですよ・・・
聞こえなかったのかしら・・・で、まあ、「言葉の履歴」という書名だけおっしゃって、「まぁいいや・・・♪」

というのも、
佐竹先生が「三十一文字(みそひともじ)」と言う言葉の使用の確実例を発見なさったのは、おととしのことだそうで、
「江戸時代後期の随筆に一番確実な例を見つけました!!」と、舌なめづりせんばかりにお嬉しそうです(^^)v
それがなんと太田南畝の天命七年の歌集の序文に「三十一文字」と出てきたそうです。
「いずれにしても、文字の数で数えていることが面白い」とおっしゃいます。
つまり、音数で数えている、ということで音節で数えているのではない。
三十一文字(みそひともじ)
三十字余一文字(みそじあまりひともじ)
三十字一文字(みそじひともじ)

「土佐日記」の丞平五年2月5日の項に、船頭たちの間で

御船より 仰せ給ふなり あさぎたて 入れ漕ぐ先に 網手早引け
(みふねより おおせたぶなり あさぎたて いれこぐさきに つなではやひけ)

「ーという会話が交わされている、言葉が歌のようになっているので書き出してみると三十一文字余りなりけり」
「これは船乗りたちの普通の言葉で、その普通の会話が歌のように聞こえる」と言うんですね。

「三十一文字と言う言葉がいつから使われたかは今まではわからなかったが、江戸時代中期以降、と言うところまでは到達してきた」
「古今集の序では、すさのをのみこと〜八雲立つ出雲八重垣妻ごみに〜という時代から、
『みそもじあまりひともじはよみける』と、決まっていたようだ。」とおっしゃいます。

万葉集という歌集

これは前回もやった雄略天皇の
「籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持(籠もよ み籠持ち 掘串持よ み掘串持ち )・・・」と言う
「帝王の春のプロポーズの歌」に始まって、

 4516   三年春正月一日に、因幡国の庁にして、饗(あへ)を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首
      新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)
        右の一首、守大伴宿禰家持作る。

というように、最後の歌を家持の春のめでたい歌で締めくくっているそうです。
@ 「万葉集」の万葉というのは「よろずのことば」を意味し、たくさんの歌、と言う意味でもある、とのことでした。
また千年も万年も、という意味で「千葉、万葉」という使い方もあるそうで、そのあたりも加味されているらしいです。
A 「千載集」の「千載」も千年も伝われ、というところから来ているそうですが、「万葉集」もそういう意味ではなかったか?
「万葉集」と言う題名さえ@かAか決めかねる、と言うのが現実だ、とおっしゃいます。
両方の意味をかけてるんでしよ?と、単純に結論付けちゃうのは素人の悪い癖でしょうか(^_^;

しかし、この「三年」というのは天平宝字三年(759)のことで、そこから、
905年に古今集が編纂されるまで「国風暗黒時代」というそうです。
「その間150年間は日本史年表を開いてみても」さしたる国文学も生まれていないとか・・・はあ、なるほど、
「物語の親」という「竹取物語」でさえ、例の「源順」さんが作者になぞらえられたりするくらいですから、
古今集くらいまでは暗黒の時代なのですね(^^ゞ

で、ここで駆け込み的に・・・先生、後四十分くらいしかないと言うのに、「古今集かな序」を取り上げられて、
万葉集の歌人についてお話始めてしまわれました(^_^;
大丈夫でしょうか?

まず「柿本人麻呂」について

古(いにしへ)より、かく伝わる内にも、平城(なら)の御時よりぞ、広まりにける。かの御世や、歌の心を知ろし召したりけむ。かの御時に、正三位(おほきみつのくらゐ)、柿本人麿なむ、歌の仙(ひじり)なりける。これは君も人も、身を合はせたりと言ふなるべし。秋の夕べ、竜田河に流るヽ紅葉をば、帝の御目に、錦と見給ひ、春の朝、吉野山の桜は、人麿が心には、雲かとのみ覚えける。


万葉集の歌人としては、柿本人麻呂で、この人については疑問だらけなんですねぇ。でぇ・・・
「梅原猛氏が、その疑問について『水底の歌』という本でいろいろ推測をした」そうです。
これは、「万葉集」では六位以下の身分として扱われるのに、
「古今集」では「正三位」とされている、ということから推測して、
「人麻呂は、万葉時代に罪を犯して罰せられた」とする説を唱えているそうです。

(実は、これを書きながらちょっと面白そうな関連ページを見つけたのですが、
難しそうな感じで、ちょっとリンクをお願いする勇気がないのでご興味のある方はYAHOOで検索してくださいm(__)m)

で、「山部赤人」について

上の文の続きに、赤人について、次のように書かれています。

又、山の辺の赤人と言ふ人有りけり。歌に奇しく、妙なりけり。人麿は、赤人が上に立たむ事は難く、赤人は人麿が下に立たむ事難くなむ。・・・この人々を置きて、又優れたる人も、呉竹の、世々に聞こえ、片糸のより\/に絶えずぞ有りける。これより前の歌を集めてなむ、万葉集とぞ名付けられたりける。

で、ここで、人麻呂と赤人が取り上げられているのに、山上憶良が出でこない!これはなぜか?
佐竹先生はどう考えるか?
これがお答えが出ないんだそうです(^^ゞ

山上憶良について

春が来たとか、鳥が鳴いた、山にどうこう・・・という花鳥風月を歌うのは「日本人のよくやること」
しころが、代表作の「貧窮問答歌」に乗っているような
「歌の世界に、老人とか病人を詠むことは珍しい」
さらに、「貧窮問答歌」には「鼻びしびしに」などと濁音で始まる言葉が出てきますが、
「日本語で、濁音で始まる言葉は汚いものが多い」それを恐れずに使っているところが一筋縄ではいかないらしい(^^ゞ

これは憶良の特殊な生活が反映されているのではないか、とおっしゃいます。
「憶良と言う人は素晴らしい長歌を作るかと思えば漢詩も作る。和歌も上手で文学的才能は素晴らしい。
位はたいしたことはないが瞠目すべき天才です。」
と、先生の解説です。
「中国に留学したか、中国人が帰化したのか、天才的な人であるのに殆どは不明」であるそうです。
憶良の歌を中心に「万葉集」の歌を読んでもいい、と思われるそうです。


「万葉集初期の雄大な歌は人麻呂、繊細な自然は赤人(えっ?これ逆じゃないですか、と私(^_^;)
万葉集最末期のやや寂しげな没落貴族の歌は家持」とおっしゃいます。

「楽しそうな歴史を読もうとしてもふさわしくない。」
「日本文化は楽しさを謳歌するのは得意ではない。ライン川を下るドイツ民謡や舟歌の明るさや雄々しさは求められない。」
「中国文学の吉川幸次郎氏は、この“女々しさ”こそ東洋である、と言った。
この“女々しさ”を最初に発見したのは本居宣長である。彼の言う“ものの哀れ”こと“女々しさ”のことだ」そうです。

フーム、“ものの哀れ=女々しさ”と言われると、ちょっとなぁ・・・と思うところはありますが、
確かに日本文学は女々しくはありますねぇ(^^ゞ
最たるものは、あの「葉隠れ」!
あれは、一見雄々しい武士の魂じゃ♪みたいなイメージがありますが、
何の何の、実際読んでみると女々しいことこの上ない!!
西鶴が「武家義理物語」で喝破した、武士のいじましい保身の嘆きを偉そうな顔して書いてあるだけですもの(^_^;
ただ、“女々しさ”だけが“ものの哀れ”といわれると“ものの哀れ”が可哀想になるのは、
私も、語感にだまされているのでしょうか(^^ゞ



音と字義

既に平安朝には、万葉集は読めない歌集になっていた、と言うことをもう一度確認するようにおっしゃいます。
「さらに、それから千年経って、まだ100首や200首は読めない歌がある」とお嘆きです。
「ここで、唯一どうにもならないと、我々学者たちが手を焼いている歌があります。まあ、学者喜ばせの歌と言うのかな。」
と、ニンマリ(^^)
「これは、読めないということを知っている人の方がインテリです」
さらにニンマリ♪
で、それが、9の

 9 莫■圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲五可新何本 

と言う歌だそうです。(■は旧字体で出ない字です。)

「梨壷の五人」以来、「説」を出した人の数は数知れずですが、いろんな説が出ても根拠がないそうで、
読めるのは「吾瀬子」くらいだそうです。
「こうして読めない歌は百を下らない」・・・先生、ホントに「お楽しみはこれからだ♪」状態(^_^;

そして、結論
「よくそこまで読み解いた」と言うことと「千年かかっても百以上読めない歌がある」
と言うことだそうです。

そして、また、機会があればこの続きをやりましょう!って(^^)v
そうですね。そしたらまた是非伺いたいです!!
まず、先生、お元気でm(__)m

万雷の拍手のうちに終了しました。
私も一生懸命拍手して・・・
なんだか、私はウルウルしてきちゃった・・・どうやら、このおじいちゃん先生に惚れこんでしまったみたいです(^_^;


で、国文学研究資料館の方からのご挨拶で、
今回の講義には、毎回、奈良や京都から通っていらした方もあったそうです!!
ん〜、私も大変素晴らしい講義を受けさせて頂いて本当に幸せだったと思います。

失礼ですけど、一番最初の冒頭では、もう、こんなモゴモゴした話し方で、
何を言ってるのかわっからないようなジーちゃんに当たって、今年は大はずれだ、と思ったのに、
その講義の面白さに、眠るのも忘れて、せっせこノートとったんですよ!!
本物だけが持つ迫力って言うのをひしひしと感じました。

佐竹先生、本当にお元気で、次のご講義を待っておりますm(__)m

来年の連続講演は「平家物語」だそうで、これも楽しみなんですが(^^)V





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