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12月08日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 六月小・七月大

筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)


先生から、冒頭に「皆さんお元気ですか」と一言。「私から言うのも変ですが・・・」とテレながら「私は大変元気でして・・・あれから半年になるんですね」と感慨深気でいらっしゃる・・・そりゃぁそうだわ・・・危うくあちらの世界へ住み替えなさるところだったわけで・・・(^_^;
でも、そのために何十年来暖めてきた夢の実現が飛んじゃった!!というのは講義の中でも八・九月の下りをちょっと先取りした部分で、嘆いていらっしゃいましたけど(^^ゞ
(お元気だったら。九月に、真鶴から安房国平北郡獵嶋(りょうしまー今の館山)に、頼朝が落ち伸びて行く道筋を船で再現するはずだったんですよ!!そのためにご苦労して漁船と折り合いをつけて・・・大変だったらしいです (^_^;
まあ、夢は実現するためにあるわけで・・・生きているからこそ夢だって見られるのですぞ!!
ん〜、先生、今日の健康に感謝感謝、南無八幡大菩薩!!ですよぉ\(^^)/

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜
(で、いざ、読み出すとき・・・・・・)
えー、どこまで読みましょうか。六月・七月・八月・・・どこまででも行きますよ・・・ん〜、でも八月だけで10ページあるんですね。これは、八月が頼朝の旗揚げの月なんです。治承四年八月十七日ですね。ってことは・・・まだの時は旗揚げしていない、流人生活なんですね。
で、頼朝、このとき33歳、できれば八月まで行きたいんですけど・・・六月・七月は鎌倉幕府で活躍する人々がたくさん出てくるんですね。そうすると脱線が多くなるでしょう・・・でもねみんな、その脱線が良いと言うのね。脱線が多いほど良いです、って言われますから・・・
そう、おっしゃりながら、先生だって、けっこう楽しそうです(^^ゞー筆者の呟き)

○六月小
○十九日庚子。散位康信使者參著于北條也。武衛於閑所對面給使者申云「々」。去月廿六日。高倉宮有御事之後。請彼令旨源氏等。皆以可被追討之旨。有其沙汰。君者正統也。殊可有怖畏歟。早可遁奥州方給之由所存也者。此康信母者武衛乳母妹也。依彼好。其志偏有源家。凌山川。毎月進三ヶ度〈一旬各一度〉。使者。申洛中子細。而今可被追討源氏由事。依爲殊重事。相語康清〈稱所勞止出仕〉。所差進也〈云云〉

―六月小、六月は小の月、ということは29日まで。吾妻鏡は27日までです。
―十九日庚子。散位康信の使者、北條に参着す。武衛、閑所に於いて対面し給う。使者申して云く、去んぬる月の26日、高倉宮御事有りの後、彼の令旨を請けるの源氏等、皆以て追討せらるべきの旨、 その沙汰有り。君は正統なり。殊に怖畏有るべきか。早く奥州方に遁れ給うべきの由存ずる所なり者(てへり)。この康信の母は、武衛の乳母の妹なり。彼の好に依って、その志は偏に源家に有り。山川を凌ぎ、毎月三ヶ度(さんかど)〈一旬各一度〉、使者を進め、洛中の子細を申す。而るに今源氏を追討せらるべき由の事、殊に重事たるに依って、 弟康清を相語らい(所労と称し出仕を止む)、着進する所なりと云々。

―散位康信というのは、三善康信、出家して、善信です。三善の善と康信の信ですね。京都の公卿で文人だったんです。それが使者を送ってくるんです。
―康信の母は頼朝の乳母の妹です。康信は京都にいながら頼朝に心を寄せ、情報を送るんですね。山川を凌ぎ、ね、京都から鎌倉まで470キロくらい離れている。そこを月に三度づつ知らせてくる。
康信の母は頼朝の乳母の妹ってことは比企の尼の?と思ったら、そうではないらしいです。乳母といっても何人か(たぶん三人)いたわけですし、そのうちの一人の乳母、たぶん京都在住の乳母の妹だったんですねー筆者注)
乳母について、養和元年閏2月大7日もあります。ちょっと面白いので参照してください♪

―三善氏というのは、もともと、百済の王族の子孫です。古くに日本に渡来してきて、宿禰の姓をもらい、後には朝臣の位をもらいます。三善清行の時代に文学・法律に精通していると言うことから参議に叙せられます。百済の王族の子孫というのは、日本の国家の主要な部分にいますね。戦時中、万世一系なんて言ってましたけど、今そんなこと信じている人いませんね。朝鮮系・中国系の人たちがたくさんの文化と共に入ってきました。陶器や織物とかね。
そうかぁ・・・三善氏も帰化人ですか・・・平安朝初期の文化人は帰化人の系統が多いといわれていますが、三善清行も帰化人の家系だったのですね。−筆者の呟き)


―「々」の中はその下の「去月廿六日。高倉宮有御事之後。請彼令旨源氏等。皆以可被追討之旨。有其沙汰。君者正統也。殊可有怖畏歟。早可遁奥州方給之由所存也者。」が入る。
「々」をどう読むのか、ホント不思議でした(^_^;丸ごとおんなじ文章が入るよ、ということなんですね!!びっくりだぁー筆者の呟き)

―つまり、京都から追討令が出たので、弟の康清を所労と称して暇をとらせて、使者として送ってきた。これで京都からの情報は三段階に渡って入ってきたんですね。
最初は以仁王の令旨として、吾妻鏡で言うと4月27日です。次に入道三品の旗揚げということで、三度目が高倉宮が討たれ源氏に追討令が出た、という今度のです。

―義信は鎌倉幕府ができると問注所の執事になります。問注所というのは裁判所、執事は長官です。ちなみに侍所というのは武士をまとめるところで長官を別当といいます。これは和田義盛。政所というのも別当で、これは大江広元です。三善氏は代々問注所の別当を勤めて、十年後には町野氏・大田氏・矢野氏と分かれます。評定衆・引付衆など、北條氏が作った役所に代々勢力を保ちます。
―康清はもこの後「吾妻鏡」にはずっと現れませんが、出家して三善善清(三善の善、康清の清)として文治5年(1189)6月9日、7月17日に、後、承久3年(1221)5月13日、三善隼人介(善清)、鎌倉の留守居役として出てきます。

―「君者正統也」は源氏の一番の大将だ、ということですね。これはまだ、この時はわからないんです。「吾妻鏡」自体後日編纂したものですからね。頼朝の流れ以外にも源氏はたくさんあった。清和源氏の流れ、村上源氏・醍醐源氏・武田源氏というのもありますね。しかも、頼朝はこのとき島流しで無一物の状態です。地方に土着している源氏で金持ちはたくさんいた。誰が正当か、大将か、といのはわかりません。でも、とにかく「君は正当なり」だから、「早可遁奥州方給之由所存也者」早く東北に逃げろ、といってんですね。「奥州」というのは奥羽は陸奥(みちのく/青森〜福島)と出羽(秋田)で奥羽です。でも、どうなんでしょうね。源氏としては11世紀に「奥州十二年の役」というのがありましたね。「前九年・後三年の役」ですね。これは、北方の民族、アイヌといわれている安倍氏・清原氏、当時北海道まで支配していたといわれている、それを京都から、鎮圧のために源頼義と八幡太郎義家が行きましたね。義家は陸奥の守となりますが、清原氏に育てられた土着した藤原氏の藤原秀郷が力を持つんです。

この辺、やはりいろいろ疑問なんです。後になって、頼朝に追われた義経を藤原秀衡が匿いますね。それ以前に金売り吉次に伴われて義経が養育されるでしょ。そのあたりから、ちょっと不思議な気がしていたのです。奥州三代の栄華を築いた藤原清衡の母は安倍頼時の娘ですし、父は安倍氏に属して殺された亘理経清(藤原秀郷の末裔)なんですね。まあ、この清衡が家督相続で弟ともめた時、義家がこれを平定して(後三年の役)清衡が栄華の基を作ることになった、とは言うのですが・・・この地の人情は源氏を受け入れる土壌だったのかな・・・と・・・よくわかりません。

もひとつ、びっくりしたのは、この時点で「頼朝が源氏の大将であるかどうかということはわからない」と先生からおっしゃられてガーン!!え?義朝の正嫡であるということで万事0Kだと思ってました。もっとも○○源氏の多さにはアリリの状態で、武士になってしまった源氏のほかにも、京都で公家として続いている源氏もあり、例の久我通親などですね。これを一覧表にまとめたいと思っているのですが凄いのよ、これが・・・そのうちのお仕事です(^_^;ー筆者呟き

○廿二日癸卯。康清歸洛武衛遣委細御書。被感仰康信之功。大和判官代邦道右筆。又被加御筆并御判〈云云〉。

―廿二日癸卯。康清帰洛す。武衛は委細の御書(みしょ)を遣わし、康信が功を感仰せらる。大和の判官代邦道右筆。また御筆(ぎょひつ)並びに御判(ごはん)を加えらると云々。
―邦道というのは、藤原邦道。はじめ京都にいたんですが、下級の文官として北條に下向しました。大変有職故実に通じているんです。安達藤九郎盛長の推挙で頼朝の祐筆となりました。御判(ごはん)というのは花押です。手紙などは祐筆が書いて頼朝が花押を押すんです。
―邦道は大変に信頼されて、P.32を見てください。8月4日のところ、「兼日密々被遣邦道。々々者洛陽放遊客」とありますね。これは、散位平兼隆は伊豆の流人だったのが、父和泉の守の訴えにより平相国清盛の権力によって、要害の地をまかされるんです。そこへ、密使として行く。「邦道は洛陽放遊の客」つまり遊び人です。スパイに行ったんですが、気に入られちゃって引き止められて遊んでいるうちに、山川の地形、館の様子をしっかり得図面に写し取っちゃうんです。そして、三嶋大社の祭りに乗じて討ち込むんですね。。
このへん、先生は立川文庫のノリでおもしろそうにお話でした♪)

○廿四日乙巳。入道源三品敗北之後。可被追討國々源氏條。康信申状不可被處浮言之間。遮欲廻平氏追罰籌策。仍遣御書。招累代御家人等。藤九郎盛長爲御使。又被相副小中太光家〈云云〉。

―廿四日乙巳。入道源三品(げんざんぽん)敗北の後、国々の源氏を追討せらるべきの條、康信の申状、浮言(ふげん)に処せらるべからざるの間、遮(さへぎり)て平氏追討の籌策(ちゅうさく)を廻さんと欲す。仍って御書を遣わし、累代の御家人等を招かる。籐九郎盛長御使いたり。また小中太光家相副えらるると云々。

―入道源三品(げんざんぽん)の読みは源三位(げんざんみ)と書いてある本もあります。この本は(「国史大系本」ですー筆者注)そう書いてある、ということ。
―「浮言」は不確かな情報、源三位頼政が敗北してから、全国の源氏へ追討令が出たということを不確かな情報として、放っておくわけには行かない。先手を打って、こちらから東国の文書を送るんです。籌策(ちゅうさく)は数を数えるのに筮竹(ぜいちく)のような竹の棒を使います。それのこと。

―「藤九郎盛長」は安達藤九郎盛長ですね。頼朝の乳母の一人の比企の尼の娘婿で武蔵国に所領があります。安達氏の出自は不明。足立氏との関係も不明です。足立氏は上野国の国奉行・三河国の守護をやっていた。盛長はこのとき44歳。比企氏は安達氏・河越氏・伊東氏などと婚姻を結んで勢力を保ちます。北條泰時の時代までは三浦氏が食い込んでいたが、その後は安達氏と北條氏とが堅密になります。(系図参照)北條氏の中でも、金沢北條・宇都宮北條などとも、大江・二階堂などとも満遍なく姻戚関係を結びます。

―頼朝が正治元年(1199)に亡くなると盛長も出家します。鎌倉の尼縄に安達の邸があって、20年くらい前に発掘されたのですが報告書も出ていません。「蒙古襲来絵詞」の中に、九州御家人の竹崎末長が、恩賞が少ないと安達泰盛に談判しているところが載っています。(それほどの実力者という意味でしょうか?ー筆者注

―鎌倉幕府ができると、将軍は御家人に御恩を与える。つまり土地と官職を与えます。守護とか地頭とかという。御家人は将軍のために奉公をする。奉公とは、戦争になったら将軍のために働く、御家人としての大番役というのがあります。京都の内裏警護。鎌倉番役というのは鎌倉の警護です。守護というのは、京都警護の大番役は各地の御家人から順番に決めますが、その選定をします。「大犯(たいぼん)三ヶ条」のひとつです。
大犯三ヶ条とは、大番催促・謀叛人の検断・殺害人の検断の三か条ー筆者注

○廿七日戊申。三浦次郎義澄。〈義明二男〉。千葉六郎大夫胤頼〈常胤六男〉。等參向北條。日來祗候京都。去月中旬之比。欲下向之刻。依宇治懸合戰等事。爲官兵被抑留之間。于今遅引。爲散數月恐欝。參入之由申之。日來依番役所在京也。武衛對面件兩人給。御閑談移刻。他人不聞之。

―廿七日戊申。三浦の次郎義澄(義明二男)、千葉の六郎大夫胤頼(常胤六男)、等北條に参向す。日来京都に祇侯(しこう)す。去んぬる月の中旬の比(ころおい)、下向せんと欲するの刻(みぎり)、宇懸合戦等の事に依りて、官兵(かんぴょう)の為抑留せらるの間、今に遅引す。数月の恐鬱(きょううつ)を散ぜんが為、参入するの由これを 申す。日来は番役に依りて在京する所なり。武衛は件の両人に対面し給ふ。御閑談刻(とき)を移す。他人これを聞かず。

―三浦次郎義澄はこのとき三浦氏の当主で54歳。父親の義明は89歳、その二男です。千葉の六郎は、この時何歳かわかりません。父の常胤が62歳、兄(胤正?)が39才という事はわかっていますが胤頼はいくつかわからない。千葉氏は東氏(とうし)と言います。
―「日來祗候京都」といのは、京都から言われて、内裏警護のために上洛中、「日來依番役」つまり京都からの懲兵ということです。
京都に行っていたから、北條に来るのが遅くなった。まだ頼朝は北條にいる、鎌倉じゃないんですね。

―「御閑談移刻。他人不聞之」ね、「他人不聞之」ですよ。
三浦氏は水軍を持っていて豊か、情報も多い。頼朝は、この三浦氏を当てにして旗揚げしたといわれている。千葉常胤はこの段階では頼朝に従うか迷っているんです。
もともと千葉氏は平氏を祖としています。高望王の家系です。高望王の息子良文・その子忠頼、そしてその子が千葉忠常として、千葉氏の祖となります。常胤は忠常から数えて六代目の千葉氏の当主ですー筆者注

―P.41の8月26日に・・・(引用が長いので読み下し分のみ)
武蔵国畠山の次郎重忠、且つは平氏の重恩に報ぜんが為、且つは由比浦の会稽を雪がんが為、三浦の輩を襲わんと欲す。仍って当国の党々を相具し来会すべきの由。河越の太郎重頼に触れ遣わす。これ重頼は秩父家に於いては次男の流れたりと雖も、家督を相継ぎ、彼の党等を従うに依りて、この儀に及ぶと云々。江戸の太郎重長同じくこれに與す。今日卯の刻、この事三浦に風聞するの間、一族悉く以て当所衣笠城に引籠り、各々陣を張る。東の木戸口(大手)は次郎義澄、十郎義連、西の木戸は和田の太郎義盛、金田の大夫頼次、中の陣は長江の太郎義景、大多和の三郎義久等なり。辰 の刻に及び、河越の太郎重頼・中山の次郎重實・江戸の太郎重長・金子・村山の輩已下数千騎攻め来たる。義澄等相戦うと雖も、昨(由比の戦い)今両日の合戦に力疲れ矢尽き、半更に臨み城を捨て逃げ去る。義明を相具せんと欲するに、義明云く、吾は源家累代の家人として、幸いその貴種再興の代に逢うなり。この喜びを盍や。保つ所已に八旬有余(89歳)なり。余笄を計るに幾ばくならず。今老命を武衛に投げ、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、彼の存亡を尋ね奉るべし。吾独り城郭に残留し、多軍の勢を模して、重頼に見せしめんと云々。義澄以下涕泣度(はからい)を失うと雖も、命に任じ悉く以て離散しをはんぬ。
こういうの読まされると、グッと来てしまいます(^_^;89歳の老武者の壮絶な戦死です。確かに、自分の死を頼朝への千葉氏としてのアピールとさせよう、という思いもあるでしょうが、やはり、ここは「吾は源家累代の家人として、幸いその貴種再興の代に逢うなり」という言葉に泣かされます。歌舞伎でやれば大変なくどきです(^^ゞ筆者の呟き)

―P.43の9月4日に安西三郎景益が、頼朝が旗揚げに敗れて安房の国に逃れた時、安達盛長を常胤のところへやって、参上するように言いますが来ません。

―P.44の9月9日、「盛長自千葉帰参申云ー盛長千葉より帰参して申して曰く」(この後、引用が長いので横着して読み下し分のみー筆者m(__)m)
―常胤の門前に至り案内するの処、幾程を経ず客亭に招請す。常胤兼ねて以て彼の座に在り。子息胤正・胤頼等座の傍らに在り。常胤 具(つぶさ)に盛長の述ぶる所を聞くと雖も、暫く言を発せず。ただ眠るが如し。而るに件の両息同音に云く、武衛虎の牙の跡を興し、狼唳を鎮め給う。縡(こと)に最初にその召し有り。服応 何ぞ猶予の儀に及ばんや。早く領状の奉りを献ざるるべくてへれば、常胤云はく心中の領状は更に異儀無し。源家の中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ずる所に非ざるなりてへり。その後盃酒を有るの次いで、当時の御居所は、指せる要害の地に非ず。また御曩跡(ごのうそ)に非ず。速やかに相模の国鎌倉に出でしめ給うべし。常胤門客等を相率い、御迎えの為参向すべきの由これを申す。
―つまり、盛長が催促に行くと客間に通されて、常胤が座っているんですね。その横に二人の息子が座って、盛長が話をすると、常胤は「ただ眠るが如し」なんです。何も云わない。しかし、二人の息子が同音に武衛の旗揚げの時に最初にそのお召しに預かった、服応 何ぞ猶予の儀に及ばんや、というんですね。ここでやっと常胤が頼朝を支持したんですね。「心中の領状は更に異儀無し。源家の中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ずる所に非ざるなり」感涙に咽んで言葉が出ないって、巧い事言いますね。そして、鎌倉は要害の地で源氏縁の地だから、鎌倉に行くように進めるんです。そして十月に鎌倉にはいるんです。

―その前P.41の8月27日には、(同じく読み下し分のみ
辰の刻、三浦の介義明(年八十九)、河越の太郎重頼・江戸の太郎重長等が為に討ち取らる。齢八旬余なり。扶持するに人無きに依ってなり。義澄等は安房の国に赴く。北條殿・同四郎主・岡崎の四郎義實・近藤七国平等、土肥郷岩浦より乗船せしめ、また房州を指して、纜を解く。而るに海上に於いて舟船を並べ、三浦の輩に相逢い、心事の伊欝を述ぶると。この間景親(大庭景親、まだ平氏についているんですねー先生注)数千騎を率いて、三浦に攻め来たると雖も、義澄等渡海の後 なり。仍って帰去すと云々。
―三浦氏は三浦と房総、平塚にも拠点がある。東京湾をはさんで巨大勢力を持つ相模の大きな武士団です。頼朝にとっては大変頼りになる。平塚というのは中村党の娘をもらっているんですね。
  

○七月大五日乙卯。天霽。風靜。昨日遣御書。被召走湯山住侶文陽房覺淵。今日參向北條御亭。武衛被談仰于件龍象而云。吾有插心底而法華經之讀誦。終一千部之功後。宜顯其中丹之由。雖有兼日素願縡巳火急之間。殆難延及後日。仍轉讀分八百部、故欲啓白佛陀。如何者。覺淵申云。雖不滿一千部。被啓白條。不可背冥慮者。則供香花於佛前。啓白其旨趣。先唱表白云。君者忝  八幡大菩薩氏人。法華八軸持者也。稟八幡太郎遺跡。如舊相從東八箇國勇士。令對治八逆凶徒八條入道相國一族給之條在掌裏。是併可依此經八百部讀誦之加被〈云云〉。武衛殊感嘆欽仰給。事訖賜施物。判官邦通取之。及晩。導師退出。至門外之程。更召返之。世上無爲之時。於蛭嶋者。爲今月布施之由仰。覺淵頻有喜悦之氣。退出〈云云〉

―七月大五日乙卯(いつぼう)。天霽(てんはれ)。風静なり。昨日御書(みしょ)を遣わし、走湯山の住侶文陽房覚淵を召さる。今日北條の御亭に参向す。武衛は件の龍象に談じ仰せられて云く、吾心底に插むこと有り。而して法華経の読誦 一千部の功を終えて後、宜しくその中丹を顕わすの由。兼日の素願有りと雖も、縡已(ことすで)に火急の間、殆ど後日延及し難し。仍って転読分(てんどくぶん)八百部、故に仏陀に啓白せんと欲す。如何者(てへり)。覚淵申して云く、一千部に満たざると雖も、啓白せらるるの條、冥慮背くべからず者(てへり)。則ち香花を仏前に供え、その旨趣を啓白す。先ず表白を唱えて云く、君は、忝なくも八幡大菩薩の氏人、法華八軸持つ者なり。八幡太郎の遺跡を稟け、旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、八逆の凶徒、八條入道相国一族を退治せしめ給うの條、掌裡に有り。これ併せてこの経八百部読誦の加被に依るべしと云々 。武衛は殊に感嘆欽仰し給ふ。事訖(ことおわ)りて施物を賜う。判官の邦道これを取る。晩に及び 導師退出す。門外に至るの程、更にこれを召し返す。世上無為の時、蛭島に於いては 今日の布施を爲るべきの由仰す。覚淵は頻りに喜悦の気有り、退去すと云々。

○十日庚申。藤九郎盛長申云。從嚴命之趣。先相摸國内進奉之輩多之。而波多野右馬允義常。山内首藤瀧口三郎經俊等者。曽以不應恩喚。剰吐條々過言〈云云〉

―十日庚申。藤九郎盛長申して云く、厳命の趣に従りて、先ず相模の国内、奉りて進むの輩これ多し。而るに波多野の右馬の允義常・山内首藤瀧口の三郎経俊等は、曽って以て恩喚に応ぜず。剰え(あまつさえ)條々の過言を吐くと云々。


○廿三日癸酉。有佐伯昌助者。是筑前國住吉社神官也。去年五月三日配流伊豆國。先是。同祠官昌守。治承二年正月三日、配當國〈云云〉。而彼昌助弟住吉小大夫昌長初參武衛。又永江藏人大中臣頼隆同初參。是太神宮祠官後胤也。近年在波多野右馬允義常之許。近曾有向背主人事參上〈云云〉。此兩人奉爲源家。兼日顯陰徳之上。各募神職之間。爲被仰御祈祷事。令聽門下祗候給〈云云〉。

―廿三日癸酉。佐伯の昌助と云う者有り。是は筑前の国住吉社の神官なり。去んぬる年の五月三日伊豆の国に配流す。是より先、同祠官昌守は、治承二年正月三日当国に配すと云々。而るに彼の昌助の弟住吉の小大夫昌長は、武衛に初参(ういさん)す。また永江の蔵人大中臣頼隆同じく初参す。是太神宮の祠官の後胤なり。近年波多野右馬の允義常が許に在り。近曾(ちかごろ)主人に向背する事有りと参上すと云々。この両人は源家の奉為(おんため)、兼日陰徳を顕わすの上、各々神職を募るの間、御祈祷の事を仰せられんが為、門下の祇侯(しこう)を聴(ゆる)さしめ給うと云々。

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜
けっこう、あちこち関連のページに飛んだので、結局七月分は読むだけで終わってしまいました(^^ゞ後は来年のお楽しみ♪
来年は1月19日です。一時間目だけで講義を終えて二時間目は茶話会になるそうで、どこまで行くか・・・微妙です(^^ゞ
まあ、ゆっくり楽しみながら・・・ねぇ u(^^)




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