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2004年
1月19日(月)「吾妻鏡」第一 七月大&お茶会


実は、12日の夜中にメニエル氏病の発作を起こしてしまい、今回はお休みしてしまったのですm(__)m
メニエル氏病というのはそれぞれ症状が違うらしいのですが、私の場合比較的軽い方で、大体吐くのが1〜2日吐いて、起き上がれないような眩暈が2〜3日、 ・・・で大体収束するまで十日前後、というところですか(^_^;
今回は、12日の夜中から、吐き気がちょっとあっただけで全然吐かなかったので凄く楽でした(^^)もう〜、後は眩暈が治まるまで寝ているだけですから(^^ゞただ、今回は症状が楽だった分頭痛が治まったのは、ホントに最近・・・27日頃、あっ、頭痛がなくなってる、 って気がついたので・・・ハハハ、なんて鈍感(^_^;

それが・・・12日に発作がおきて15日に「紫式部日記」と宝塚がありまして、さすがに、宝塚は無理だと思って諦めたのですが、「紫式部日記」だけは、と思って出かけたのです。自分ではなんとか大丈夫!!と気合入れて出かけたのですがこれが、字はまっすぐ書けてないわ、講義何話されたのか記憶ないわ・・・というわけで骨折り損のクタビレモウケ・・・というか、案の定、その午後からまたちょっと具合悪くなって・・・嗚呼、こんなことなら寝てればよかった・・・と後悔しても後の祭りでした。
で、もう19日は諦めて、寝てましたm(__)m

と、申しましても・・・二十日は歌舞伎だったので、勘九郎の「高杯」と玉三郎・勘九郎の「戸無瀬とお石の対決」は見ないわけにゃぁいかでしょう(^^ゞというわけで頭痛があったけど、グリーン車奮発して行って来ましたm(__)m

というわけで、後日、幹事さんに「今回はどこまで」とお伺いのお電話をいたしましたところ、「二時間目はお茶会でしたからたいして進んでないですよ。よかったですね」とのお優しいお言葉でしたm(__)m
で、結局七月までだったそうで・・・それは私もそうなんじゃないか?と予想していたんですよ(^^ゞだって、こないだも「八月だけでこんなにあるから」とおっしゃって「読み」を七月までにしといて、解説は六月までだっんですよ。ははぁ〜、これはお茶会の一時間目用に残しておいたんだなぁ♪と迷推理していたくらいです(^^ゞだけとね、そういう時こそ、歴史の表に出ない瑣末なお話をしてくださるのではないかと・・・それが大事なんですよ!!歴史の教科書に載るようなお話は、書いてある本を読めばいいわけで、本に書かれてないような、「先生の内緒話」が貴重なんですねぇ・・・まして茶話会ではどんな話題が出るか(^_^;
惜しかった(;_;)号泣!!

でぇ〜、本日はこの講義以外で伺った「吾妻鏡」関連事項(^^ゞ
吾妻鏡番外編ということでm(__)m

「国文学研究資料館連続講演・百人一首」では、I 先生が、

「鎌倉武士というのは字が読めるものが少なかった。さすがに偉くなると読み書きはできるが、教養として和歌を知っているか、というとそこまではいかない。そのために何千もの和歌を覚えるのは大変だから、最低これくらい知っておけば困らないだろう、という意味での『百人一首』でもあった」というような解説をなさってました。

これはねぇ・・・ビックリしました(^_^;大体、坂東武者は教養がない、というのは言われていましたが、字くらいは読めると思っていましたよ!!字も読めないって、へぇ〜(^_^;の世界です。だって、江戸時代頃(17〜8世紀)の農民の記録が残っている、なんて、世界でも珍しい識字率の高さ、って事だったのに、そのちょっと前までは武士でも字が読めなかったのですね(^^ゞ
だから、例の「衣のたては綻びにけり」と読みかけられた安倍貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」なんて答えたとか、都に囚われた宗任は、公卿にからかわれて、梅の花を見せられて、この花を知っているか、と問われた時「わが国の梅の花とは身ゆれども都の人はなんといふらん」と答えてぎゃふんと言わせた、なんて話は、ほ〜んとにメルヘンなんだわぁ(^_^;


先日受講したK女の「鎌倉学」講座の「隠者の人生論」で、O先生が、

「鎌倉武士と言うのは文字が読めなくて書けないわけですね。『吾妻鏡』なんか、京都から下ってきた下級公家が官僚になって編纂したものです。梶原景季みたいな、みんなから嫌われているような人に書ける人がいます。それが鎌倉時代の面白さなんです。」といってらっしゃいました。

もうひとつ
「吾妻鏡」文治二年八月十五日の条「十五日 己丑 二品鶴岡宮にご参詣。しかるに老僧一人鳥居の邊に徘徊す」という記事から、

A――西行の時は勧進?
O――西行の時はそこまで行っていなかった。
A――勧進の時なら(銀の)猫も(お金にして)勧進の中に加えればよかったのにと思いますけど・・・。
O――あの時は勧進の許可も鎌倉に受けに行かなければならなかったので立ち寄った、ということでしょう。
A――頼朝は西行に一晩話を聞いてもらえるくらいの教養はあったと・・・。
O――それはあったということでしょうね。一応頼朝あたりになれば。

その前年の講演では、時頼の人格と教養についての問答が作家のA先生(当日司会)と東大のM先生との間で交わされてました。

A――時頼は二面の顔、良い政治家と権謀術数の顔を持っていましたが、いろいろと教えを請うていますね、名僧に。
M――時頼と無学祖元の問答がたくさんあります。禅で「コウアン」というものがある。中国の古い禅僧の言葉を使っている教えですが、あるとき、時宗が「コウアンなんか捨てろ」と言われて困惑する。それに対して無学が教える。水は平らかではない、水が波立つ状態では悟りなど開けない、と。
A――時宗の中には、それに応えられる教養があったんでしょうか?
M――そうです。

で、この年に↑作家のN先生が、
「私見だけれど、そもそも頼朝が兵を挙げる時どこに頼ったか、というと三浦氏でした。○○先生(人名聞き取れず)が、300人準備出来るのは三浦氏くらい。北条氏は50人程度。頼朝は、北条氏は妻方の親衛隊ではあっても、一番頼りになるのは三浦氏と考えていました。義朝がいたのも三浦です。伊豆で挙兵して勝っても負けても三浦氏の許へ行く。鎌倉が三方山に囲まれ、一方は海、という地の利があっても、三浦の庇護を受けられる、ということが大きかった。」と、おっしゃっていました。
「三浦氏も頼朝を仕上げた、という自負がありました。北条氏は政子を頼朝の妻にやって自分の力を残した。(鎌倉幕府は)三浦か北条か、どちらが主権を握るかという、安定していない状況にあった。北条は謀略を巡らして畠山を倒したり、三浦氏は駿河の守になったり、最終的には対決をしなければ成らない状況でしたが、三浦義村はまだまだと思っていたのでしょう。自分の小説では実朝暗殺に関係した、と書いています。」
「実朝の乳母は阿波の局ですが、この乳母というのは大きな勢力なんです。院の近親団は乳母の夫です。平清盛の妻時子、二位の尼も二条天皇の乳母です。実朝の乳母の阿波の局は北条氏出身。しかも、夫は頼朝の異母弟今若、義経の同母兄です。頼家は比企一族に関係が深かったし、梶原景時も乳母夫(筆者注・これも“めのと”と呼ぶ)でした。梶原氏失脚の時には、阿波の局がうちにいた。頼家は景時を失い、比企一族も失い、外堀を埋められたんです。(実朝を暗殺した)公暁の乳母は三浦氏です。乳母の後ろには御家人がいる。これも三浦氏が悪いのではなく、封建社会はピラミッドですから。一番があって二番はないんです。」
「義村が死んだ時を狙って三浦氏を滅ぼします。これは、安達一族、時頼の母、松下禅尼の実家です。頼朝の法華堂に集まって、三浦氏全部が自殺するんです。首をとられても顔がわからないように自分の顔を傷だらけにして自刃します。これで北条氏は安心して政治に向かえたんです。建長寺は、三浦氏を倒した勝利のモニュメントです。」

これは、前回の「吾妻鏡」で三浦の介義明が89歳で壮絶な戦死を遂げたところを先生から伺いましたが、ちょうど、そのへんのことです。

そうそう、私が「吾妻鏡」の講義を受けたい、と思ったのは、N先生が講演の終わりに
「皆さん、吾妻鏡というと北條氏が自分の都合のいいようにまとめた歴史で、資料的価値がない、と言いますが、たしかに北條氏よりではあっても、読んでいけば事実が透き通って見えてくるものです。チャンスがあったら、ぜひ読んでみてください」とおっしゃったことからでした。

「吾妻鏡」は確かに退屈な本で、一人で読むのはしんどいですが、こうしてよい機会にめぐり合えて、あれこれ茶々入れながらノートを取っていくと楽しく読めます♪


もうひとつ、番外の番外ということで「へぇ〜♪」編

――京下りの公家と言う、たくさんの知識人が招かれる文筆官僚として、ですね。経済的にも裁判を起こすと「十六夜日記」のように鎌倉の来ないと解決がつかない。京から鎌倉までの旅日記がたくさん残っています。
――「入道」というのが中世後半に出てきますが、室町時代に将軍に仕えた同朋衆などは身分を越えて、出家が特殊な第二の社会を作ってしまった。日本では出家ではなくなってしまった。本当に修行を積んでいる人が、これが本当の出家だろうか、と疑問を持つ人が出てきて、その寺から更に出家する。これを遁世という。こういうひとに憧れて、貴族社会から出家遁世する人が出て来た、ということでしょう。
一度俗世で活躍していた人が出家すると入道といいます。本当の出家は、奈良のお寺に篭って学問ばかりして、源平合戦を知らなかったと言う。
――そういえば、上杉謙信もそうでしたね。禅尼というのは在家の尼だというのを前回伺ってびっくりしました。
――死にそうな病気になったら、出家をすれば病気が治る、と言いましたね。
――京下りの公家と言う、たくさんの知識人が招かれる文筆官僚として、ですね。経済的にも裁判を起こすと「十六夜日記」のように鎌倉の来ないと解決がつかない。京から鎌倉までの旅日記がたくさん残っています。

「禅尼というのは在家の尼だというのを前回伺ってびっくりしました」と伺って私もびっくり(^_^;へぇ〜♪この「前回」というのは欠席していて、お話伺ってないのですが、禅尼って在家の尼さんかぁ(^_^;「禅尼」と広辞苑を引いても「仏門に入った女子」としか書いてません♪
「優婆夷(うばい)」というのが在家の尼って意味の仏教語かと思ってました(^^ゞ当然「優婆塞(うばそく)」が在家の男性の仏教信者。「源氏物語」の「宇治の八宮」は優婆塞の宮とか出てこなかったっけ(^^ゞ
聞いてみなくちゃワッからないもんだわぁ(^^ゞ


と、いうわけで、本日はおばさん節炸裂の「吾妻鏡」番外編でしたm(__)m
先生の講義を期待してお読みになった方、ごめんなさいm(__)m


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