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2月16日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 七月大・八月小

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)

先生がちょつと遅れてこられたのですが、ナント、新しい史料です♪三浦・佐々木両氏の系図と先生手書きの三浦半島の地図です(^^)
A3判で二つ折りにしてもA4ファイルから飛び出しそうな大きさですが、史料集にくっつかないよ・・・どうしましょう(^_^;これは地図がこの大きさじゃないと必要事項が入りきらないんですネェ・・・というわけで地図に合わした大きさなので・・・致し方ない(^_^;
でも、この三浦半島の地図はなかなか便利そうです。

でぇ〜講義開始!!

「今日は269回目ですね。どこからでしょう。はい八月二日から・・・」と少し読み出したら、「そこやりました」の声!えっ!聞いてないよ!!八月からだったはずでしょ。でも「八月六日からです」の声。先生も「八月二日と言う人もあり六日と言う人もあり、どっちなんでしょうねぇ」と、ちょっと考えていらして、「まあ、やったという人もいるから六日からでいいですか」というわけで六日からになりました(;_;)号泣
なので、四日の読み下しは筆者です。

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

○八月小○二日壬午。相摸國住人大庭三郎景親以下。依去五月合戰事。令在京之東士等。多以下著<云々>。

――八月小。二日壬午(じんご)。相摸國の住人、大庭三郎景親以下。去んぬる五月の合戰の事に依り。在京せしむの東士等。多く以下著すと<云々>。
――「去んぬる五月の合戰」というのは以仁王の挙兵のことです。
――「在京せしむの東士等」というのは京都の御所の警護(大番)を勤めるため、京都に在京していた東国武士たちが帰ってきた。
――在京していた東国武士たちが以仁王の挙兵のことを聞いて帰ってきた、ということです。

○四日甲申。散位平兼隆〈前廷尉号山木判官〉者。伊豆國流人也。依父和泉守信兼之訴。配于當國山木郷。漸歴年序之後。假平相國禪閤之權。輝威於郡郷。是本自依爲平家一流氏族也。然間。且爲國敵。且令[挿or插]私意趣給之故。先試可被誅兼隆也。而件居所爲要害之地。前途後路。共以可令煩人馬之間。令圖繪彼地形。爲得其意。兼日密々被遣邦道。々々者洛陽放遊客也。有因縁。盛長依舉申。候武衛。而求事之次。向兼隆之舘。酒宴郢曲之際。兼隆入興。數日逗留之間。如思至山川村里。悉以令圖繪訖。今日歸參。武衛招北條殿於閑所。置彼繪圖於中。軍士之可竸赴之道路。可有進退用意之所々。皆以令指南之給。凡見畫圖之躰。正如莅其境<云々>。

――四日庚申(こうしん)。散位平兼隆〈前廷尉山木判官と号す〉は、伊豆の國の流人也。
――父和泉守信兼の訴えにより、當國、山木郷に配于さる。
――漸く年序に歴しての後、平相國禪閤の權に假し、威を郡郷に輝かす。
――是れ本自り平家一流氏族として依る也。
――然る間。、且つ、國敵と爲れり。
――且つ私の意趣を■り令め給ふの故、先ず試みるに兼隆を誅せらるべき也。
――而るに件の居所、要害の地を爲し、前途後路、共に以って人馬煩わしむべきの間、彼の地形を圖繪せしめ、其の意を得んとす。
――兼ねて密々に邦道を遣わさる。
――々々(邦道)は洛陽放遊の客也。
――因縁有りて、盛長の舉げ申すに依りて、武衛に候ふ。
――而して事の次に求め、兼隆の舘に向かう。
――酒宴郢曲の際、兼隆興に入り、數日逗留するの間、思ふがごとく山川村里に至り、悉く以って圖繪令しめ訖(おわんぬ)。
――今日歸參す。
――武衛、北條殿を閑所(せきしょ)に招き、彼の繪圖を中に置き、軍士の竸赴(きょうそう)すべきの道路、進退の用意、有るべきの所々、皆以って、これを指南せしめ給ふ。
――凡そ畫圖之躰を見る。正に其の境、莅(のぞむ)の如し<云々>。


――山木の兼隆は、平兼隆。もともと伊豆の流人だったが、父、伊豆の守信兼の訴えにより、当国の山木郷に配置された。「山木」は「源平盛衰記」では「八牧」と書いてある。牧場の牧ですね。(八巻じゃなかったのかな(^^ゞ・・・筆者)
――山木城、城と書いてあるところを見ると要害の地であったんですね。

というところで6日に飛んでしまったのですが、結局、平氏の権勢を嵩に来て当国で好き放題にしているから、まずあいつから源氏旗揚げの血祭りに挙げよう、ということで、山木の城は要害の地であるので、まず偵察に人を出す。で、そのスパイが、6月12日の所に出てきた「邦道」なわけです・・・筆者注・・・あの時の先生の解説は・・・)

――邦道というのは、藤原邦道。はじめ京都にいたんですが、下級の文官として北條に下向しました。大変有職故実に通じているんです。安達藤九郎盛長の推挙で頼朝の祐筆となりました。御判(ごはん)というのは花押です。手紙などは祐筆が書いて頼朝が花押を押すんです。
――邦道は大変に信頼されて、P.32を見てください。8月4日のところ、「兼日密々被遣邦道。々々者洛陽放遊客」とありますね。これは、散位平兼隆は伊豆の流人だったのが、父和泉の守の訴えにより平相国清盛の権力によって、要害の地をまかされるんです。そこへ、密使として行く。「邦道は洛陽放遊の客」つまり遊び人です。スパイに行ったんですが、気に入られちゃって引き止められて遊んでいるうちに、山川の地形、館の様子をしっかり得図面に写し取っちゃうんです。そして、三嶋大社の祭りに乗じて討ち込むんですね。。

――頼朝が邦道を送り込んで酒宴の間に全ての地形を記録させた。

で、本日

○六日丙戌。召邦道。昌長等於御前有卜筮。又以來十七日寅卯尅。點可被誅兼隆之日時訖。其後工藤介茂光。土肥次郎實平。岡崎四郎義實。宇佐美三郎助茂。天野藤内遠景。佐々木三郎盛綱。加藤次景廉以下。當時經廻士之内。殊以重御旨輕身命之勇士等各一人。次第召抜閑所。令議合戰間事給。雖未口外。偏依恃汝。被仰合之由。毎人被竭慇懃御詞之間。皆喜一身抜群之御芳志。面々欲勵勇敢。是於人雖被禁獨歩之思。至家門草創之期。令求諸人之一揆給御計也。然而於眞實密事者。北條殿之外無知之人<云々>。

――六日丙戌(へいぼ)。
――邦道・昌長等を御前に召し、卜筮(ぼくぜい)有り。
――又、來る十七日、寅卯の尅を以って、兼隆を誅せらるべきの日時を點め(決め)訖(おわんぬ)。
――其の後、工藤介茂光、土肥次郎實平、岡崎四郎義實、宇佐美三郎助茂、天野藤内遠景、佐々木三郎盛綱、加藤次景廉以下、當時經廻士(けいかいし)の内、殊に以って御旨を重んじ、身命を軽きの勇士等各一人、次第に閑所(関所)に召抜し、合戰の間の事を議せしめ給ふ。
――未だ口外せざると雖も、偏えに汝を恃む(たのむ)に依って、仰せ合わさるの由、人毎(ひとごと)に慇懃に御詞を竭(げち)さるの間、皆、一身抜群の御芳志を喜び、面々に勇敢勵(はげ)まんと欲す。
――是れ人に、獨歩の思いを禁ぜしむと雖も、家門草創の期に至り、諸人之一揆を求めしめ給ふ御計い也。
――然而(しかして)、眞實の密事に於いては、北條殿の外、之(これ)を知る人無しと<云々>。

――邦道は頼朝の祐筆で大和の判官代、昌長は住吉社の神官です。このとき、初めて御前に呼ばれて、卜筮(ぼくぜい)をする。事務官と神官を蛭が小島に呼んで占いをしたんです。
卜筮の「卜」は卜法(ぼくほう)、鹿の肩甲骨や亀の甲羅を○櫻の木を焼いて、その火であぶり、皹(ひび)の入り方を見て占う。
筮法(ぜいほう)というのは筮竹を数えて卦を占うんですね。
――それで、「來る十七日、寅卯の尅」17日の、寅の刻は4〜6時、卯の刻は6〜8時、だから4〜8時の間に打つ、と言うことを決めたんです。
――その後、工藤介茂光は伊豆の大仁にいた藤原南家の武士。藤原氏といっても北家・南家・式家とありますね。其のうちの南家です。
――土肥次郎實平は桓武平氏で湯河原に居たんです。桓武平氏というのは、桓武天皇から出た平氏。史料8を見てください。
平氏と一口に言ってもいろいろありまして・・・桓武天皇から出て葛原(かつらばら)親王がいます。そこから、高見王、高棟王と二人出ています。その高見王の子どもに高望王が居て、この人が上総の介になって関東に下ります。ここから坂東平氏が出ます。これらの武士になった平氏を地下(じげ)平氏と言います。一方、高棟王の系統は宮廷に居て、そういう宮廷に居る平氏を堂上平氏と言います。平氏には桓武平氏の他に文徳天皇から出た文徳平氏、仁命天皇から出た仁命平氏、光孝天皇から出た光孝平氏があります。清盛は・・・高望王の子どもに良望(よしもち)と言うのが居ます。これは国香とも言いますが、そこから、貞盛ー惟衡というのが伊賀・伊勢に所領をもらって伊勢平氏となります。清盛はその五代末裔です。

源氏も清和源氏というのは清和天皇から出た源氏で、宇多天皇から出た宇多源氏、村上天皇から出た村上源氏があります。

――岡崎四郎義實は、三浦から平塚に来ていた三浦氏。今日配った資料・・・何番になるのかな?三浦氏の系図があります。一番上に三浦義明から書いてありますが、このが衣笠、爲清と言うのが芦名、義行が津久井、一番左側に義実という人がいますが、これが三浦半島の怒田(ぬた)と言うところに居たのですが平塚の岡崎城に転進してきた。岡崎四郎義實はこの人です。

――宇佐美三郎助茂というのは宇佐美に居た。
――天野藤内遠景というのは伊豆長岡の天野というところに居た藤原南家の工藤流の武士。後に九州を奉行するために鎌倉から派遣される。
――佐々木三郎盛は今日配った史料を見てください。後で詳しくやります。
――加藤次景廉は加賀にいた藤原氏で加藤という説もある。加藤氏を研究している人もいてそういう説があるそうです。加藤氏はよく出てきます。ここでは加藤次景廉ですが、次というのは次郎、加藤の次郎景廉(かねかど)です。他に加藤五というのは加藤の五郎、加藤太は加藤の太郎、太郎が長男で、次郎が次男で・・・ということですね。
――以下、當時經廻士(けいかいし)の内、「經廻士(けいかいし)」というのは、頼朝の周りに個々に警護の役についている「殊に以って御旨を重んじ、身命を軽き」いつ死んでも良いという勇士達ですが、
――「各一人、次第に閑所(関所)に召抜し」・・・それらを自分の官舎にひとりづつ呼んで、
――「未だ口外せざると雖も、偏えに汝を恃む(たのむ)に依って、仰せ合わさる」・・・まだ情報を流すことはしないが、お前が頼みだ、と言ったんですね。
――ひとりひとり呼んでこっそり言うから、みんなもう喜んで「一身抜群の御芳志を喜び」で、「勇敢勵(はげ)まんと欲す」
――「是れ人に、獨歩の思いを禁ぜしむと雖も」・・・これは人によって一人歩きするのを禁じていたけれど諸氏の力を頼る。なぜなら「家門草創の期」だからですね。
――「然而(しかして)眞實の密事に於いては、北條殿の外、之(これ)を知る人無しと」・・・しかし、真実の秘密については、北條氏のほか知る人はない!みんな、その気になったけれど、北條氏は他の氏族とは違う立場だった、という、ここは有名な下りです。「吾妻鏡」は北條氏の文書です。

北條氏の文書として嫌らしい、というのはないんですよね・・・自分家の文書なら手前味噌で当たり前だから(^_^;でも、ここに出てく頼朝像って凄く嫌らしい!勿論、「家門草創の期」だからというのがわからないわけではないけれど、また人心掌握術として当然といえば当然なんだけどさ・・・でも、これじゃ、義経なんて逆立ちしたって敵いっこないわよね・・・筆者の呟き

○九日己丑。有近江國住人佐々木源三秀義者。平治逆亂時。候左典厩御方。於戰場竭兵略。而武衛坐事之後。不奉忘舊好兮。不諛平家權勢之故。得替相傳地佐々木庄之間。相率子息等。恃秀衡〈秀義姨母夫也〉。赴奥州。至相摸國之刻。澁谷庄司重國感秀義勇敢之餘。令之留置之間。住當國既送二十年畢。此間。於子息定綱盛綱等者。所候于武衛之門下也。而今日、大庭三郎景親招秀義談云。景親在京之時。對面上総介忠清〈平家侍〉之際。忠清披一封書状。令讀聽于景親。是長田入道状也。其詞云。北條四郎。比企掃部允等。爲前武衛於大將軍。欲顯叛逆之志者。讀終。忠清云。斯事絶常篇。高倉宮御事之後。諸國源氏安否可糺行之由。沙汰最中此状到著。定有子細歟。早可覽相國禪閤之状也<云々>。景親答云。北條者已爲彼縁者之間。不知其意。掃部允者早世者也者。景親聞之以降。意潜周章。與貴客有年來芳約之故也。仍今又漏脱之。賢息佐々木太郎等。被候于武衛御方歟。尤可有用意事也<云々>。秀義心中驚騷之外無他。不能委細談話。歸畢<云々>。

――九日己丑(きちゅう)。
――近江の國の住人、佐々木源三秀義といふ者有り。
――平治逆亂の時、左典厩の御方に候ふ。
――戰場に於いて兵略を竭(つく)す。
――而して武衛、事に坐するの後、舊好を忘れ奉らず兮、平家權勢に諛(へつら)わざるの故、相傳の地、佐々木の庄を得替するの間、子息等を相率いて秀衡〈秀義の姨母の夫也〉を恃(たの)み、奥州に赴く。
――相模の國に至るの時、澁谷の庄司重國、秀義の勇敢に感ずるの餘り、之を留め置かしむの間。、當國に住みて既に二十年を送り畢(おわんぬ)。
――此の間、子息定綱・盛綱等に於いては、武衛之門下に候所也。

――而して今日、大庭三郎景親、秀義を招いて談じて曰く
――「景親在京之時、上総介忠清〈平家侍〉に對面するの際、忠清は一封の書状を披き、景親に讀み聽かせしむ。
―是れ、長田入道の状也。其の詞に云わく
――『北條四郎、比企掃部允等、前武衛を大將軍として、叛逆之志を顯わさんと欲す者(てへり)。』
――讀み終りて、忠清云ふ。『斯事は常篇(じょうへん)に絶える。高倉宮の御事の後、諸國の源氏の安否を糺し行ふの由、沙汰の最中に此の状、到著す。定めて仔細有らんか。早く相國禪閤に覧ずべきの状也と云々』
――景親答えて云ふ。『北條は已に彼の縁者と爲るの間、其の意を知らず。掃部允は早世者也』と者(てへり)。
――景親、これを聞きて以降、意潜(こころひそか)に周章す。貴客與の(との)年來の芳約有るの故也。
―仍(よって)、今又これを漏脱す。
―賢息佐々木太郎等、武衛の御方に候われん歟(か)。
―尤も用意有るべきの事也<云々>。」

――秀義心中驚騷の外、他無し。
――委細の談話能ず。歸り畢(おわんぬ)<云々>。

――「近江の國の住人、佐々木源三(ささきのげんざ)秀義といふ者有り。平治逆亂の時、左典厩の御方に候ふ。」・・・左典厩というのは、左馬の守。左馬の守義朝の許で働いて、世の中が変わっても靡かず、佐々木氏は、蒲生郡ーここは琵琶湖の東です、その蒲生郡の佐々木の庄で京に近く目に付きやすい。そこで、平氏は領地を取り上げ他のものに与えたんですね。それで、佐々木秀義は奥州の藤原秀衡を頼って東北に行こうとします。
――藤原秀衡は「秀義の姨母の夫也」・・・姨母というのはおばさん(叔母or伯母・・・知らず?)です。つまり秀衡は義理のおじさんで大変近い関係だったんですね。
・・・ここで、今日配った資料を見てください。
佐々木秀義(1112ー84)。佐々木氏は宇多源氏から出て近江に住み着いた近江源氏です。秀義は源為義女を妻にした、ということは、源為義は源義朝のお父さんなんです。だから、義朝が平治の乱で戦うと「戰場に於いて兵略を竭(つく)」し、義朝が敗れてからも、平氏に従わず、とうとう奥州に下ることになります。
――そこで、「相模の國に至るの時、澁谷の庄司重國、秀義の勇敢に感ずるの餘り、之を留め置かしむ」・・・相模の國を通りかかった時、高座渋谷(の庄)の管理人だった重国は、秀義の心意気に感じて、自分の領国に引き止めた。
――そこで「當國に住みて既に二十年を送り」・・・その後二十年間ここにとどまり、其の間に長男定網・三男盛綱は頼朝の部下となり、既に勤めていた。
そこで資料P8です。(下の系図は先生のお話から自作したもの・・・ったって、どうせ系図なんだから同じにしかならないんだけど(^^ゞ)

        為義――義朝 ――頼朝
             |
             ―為義女
                | |   ┌――定網 (長男)
                | |――┼――盛綱 (三男)
                | |   └――高綱 (四男)
      ┌―母――秀 義 
       |         | |  | | ―――経高 (次男)
      └―姨母     | |  | |   
         | |      | | 宇都宮女
       藤原秀衡   | |
                 | |―――――義清 (五男)
                | |         | |
              重国女      | |
                        大庭景親女
                        
                ☆母が不明・・・厳秀(六男)

秀義は三人妻があって、一人は先ほどの為義女で、これが長男・三男・四男の母です。また重国女を妻にして、五男の義清が生まれています。これが、この後出てくる大庭の娘を妻にしている。他に宇都宮女を妻にして次男の経高が居るんです。この時代、母というのは大変大事で、軍事力を握ったり、領地を支配したりしているんです。

なるほど、20年渋谷の庄に留まるからには、重国女も妻にしているわけですね。こういうときの「為義女の妻」の立場ってどうなんでしょうネェ。この時代の妻の立場って、やはり第一夫人と第二夫人ではなく、正室と側室ですからねぇ・・・。勿論身分から言えば、重国女より為義女の方が身分は高いし、先に妻になっているわけですから問題ないといえばないんだけれど。そういえば、後に出てきますが、為義女腹の長男定網は、宇都宮に客居していた、とあるんです。宇都宮女も秀義の妻になって次男経高を生んでいるわけですから・・・まあ、本家の大事な跡取りを分家で預かっている、という具合なんでしょうが・・・微妙(^_^;)

で、ここから、そういう秀義と大庭景親との対談の場になるわけですが、その対談の中で、さらに大庭が京都に居た時の平忠清との対談の模様を秀義に話して聞かせるのです。「吾妻鏡」で自分だけで読んでいたら、ちょつとわかりにくかったと思います・・・筆者注)

――「大庭三郎景親、秀義を招いて談じて曰く」・・・大庭影親が、秀義を招いて言うには、
――「景親在京之時、」・・・景親ー自分が京都に居る時
「上総介忠清〈平家侍〉に對面するの際、忠清は一封の書状を披き、景親に讀み聽かせしむ。」というのは、忠清が景親に
一通の書状を見せて読み聞かせた。
――「是れ、長田入道の状也。」・・・長田入道というのは長田忠致(ながたただむね)、義朝の首をはねたです。其の書状には
――『北條四郎、比企掃部允等、前武衛を大將軍として、叛逆之志を顯わさんと欲す者(てへり)。』
・・・北條四郎、「吾妻鏡」では、北條氏を北條殿と書いていますが、これは、この長田入道の手紙の文章ですからね。
・・・比企掃部允は比企の尼、頼朝の乳母の夫です。北條四郎、比企掃部允等は、前武衛を大將軍として謀反の心をあらわそうとしている、というんです。(乳母の夫も「乳母夫」と書いて「めのと」と読むそうです・・・筆者注
――読み終わって、忠清は、これは異常なことだ、「常篇(じょうへん)に絶える」当たり前のことでない。高倉宮=以仁王の謀反の後、諸国の源氏の様子を調査しようと思っていたところへ、この書状が到着した。早々に清盛公に見せなくてはならない書状だ」というので
――景親ー自分は、「北條は已に彼の縁者となっているんだから、其の心はわからない。比企氏は早死にしてしまったではないか」
――景親はー自分は、これを聞いてから心ひそかにあわてた。
――「貴客與の(との)年來の芳約有るの故也」・・・これが、大庭景親の娘と秀義の五男義清との婚姻のことです。
――「仍(よって)、今又これを漏脱す。」・・・だから、これを今教えるんです。
――「賢息佐々木太郎等、武衛の御方に候われん歟(か)。尤も用意有るべきの事也<云々>。」長男の定網たちは既に武衛の家来になっていますから、準備をすることもあるだろう、ということです。
――秀義は「心中驚騷の外、他無し。」驚いてビックリするしかなく「委細の談話能ず」何も言えずに帰ってきた。

このあたりに来ると、平氏に仕える形になっている東国武士の駆け引きがけっこうきわどく感じられます。大庭がただ、佐々木との関係を重視して教えてくれた、というより保険をかけている、という匂いが強く感じられます(^^ゞそれにしても、もはや、この段階で佐々木は長男と三男を頼朝の下に送り込んでいる!平氏に逆らって所領まで取り上げられても靡かなかったという貞操堅固な上に、まあ形の上で一応叔父甥の形になるので当然と言えば当然ではありますが。そして、それを知りつつ其の佐々木と婚儀を結ぼうと言う大庭の動きね、これはもはや平氏を見限っている、と思っても無理ないでしょ・・・筆者の呟き)

○十日庚寅。秀義以嫡男佐々木太郎定綱。<近年在宇津宮。此間來澁谷。>昨日景親所談之趣。申送武衛〈云々>。

――十日庚寅(こういん)。
――秀義、嫡男、佐々木太郎定綱<近年宇津宮に在り、此の間澁谷に來る。>を以って、昨日、景親の談ずるところの趣を、武衛に申送ると<云々>。
――秀義の長男の佐々木太郎定綱は、近年宇津宮に住んで、此の間澁谷に來ていた。その定網を以って、昨日、景親の言っていたこところの趣を、武衛に知らせたんですね。

○十一日辛卯。定綱爲父秀義使。參著北條。景親申状。具以上啓之處。仰云。斯事四月以來。丹府動中者也。仍近日欲表素意之間。可遣召之處參上。尤可有優賞。兼亦秀義最前告申。太以神妙<云々>。

――十一日辛卯(しんぼう)。
――定綱は父秀義の使いとして、北條に參著す。
――景親の申し状、具(つぶさに)以って上啓するの處、仰せて云わく、
――「斯の事、四月以來、丹府動中の者也。
―仍(よって)、近日、素意を表わさんと欲するの間、召遣す(めしつかわす)べきの處參上す。尤も優賞有るべし。
―兼亦(かねてまた)、秀義、最前の告申(こくしん)は、太以(はなはだもって)神妙なりと<云々>。

――定網は秀義の使者として北條につきました。
――そして、景親の言っていたことを「具(つぶさに)以って上啓するの處」・・・「上啓」は上に啓する、目上の人に申し上げる。
――「丹府動中者也」・・・「丹府(たんぷ)」は以仁王。
――(頼朝が)自分が旗揚げしようと、佐々木一族を呼び寄せようとしていたが、自分の方からやってきた。もっとも手厚く褒め賞した。
――佐々木源三が最も早く、その情報を持って来てくれたのは神妙なことだ。

○十二日壬辰。可被征兼隆事。以來十七日。被定其期。而殊被恃思食岡崎四郎義實。同與一義忠之間。十七日以前。相伴土肥次郎實平。可參向之由。今日被仰遣義實之許<云々>。

――十二日壬辰(じんしん)。
――兼隆を征せらるべきの事、來る十七日を以って、其の期と定めらる。
――而して殊に被恃思食(たのみおぼしめさるる)岡崎四郎義實、同與一義忠の間、十七日以前に土肥次郎實平を相い伴い、參向すべきの由、今日義實之許へ被仰遣(おおせつかわさる)<云々>。

――17日に山木を討つことに決めた。
――岡崎と土肥は近いから誘って来い、と言うんですね。

「被恃思食」で頼み思しめさる、と読むんだそうです(^_^;「頼み思し」はわかるだよ♪「被」とあるから使役になるちゅうことも想像つきますが、「食」で「召す」とは考えられません!想像できません!はぁーーームッツカシイモンダワナァm(__)m)

○十三日癸巳。定綱申明暁可歸畢之由。武衛雖令留之給。相具甲冑等。稱可參上。仍賜身暇。仰曰。令誅兼隆。欲備義兵之始。來十六日必可歸參者。又付定綱。被遣御書於澁谷庄司重國。是則被恃思食之趣也。

――十三日癸巳()。
――定綱は明暁、歸畢すべきの之由申す。
――武衛はこれを留めしめ給ふと雖も、甲冑等相具し、參上すべきと稱す。
――仍(よって)身の暇(いとま)を賜る。
――仰曰(おおせていわく)、「兼隆を誅せしめ、義兵の始めに備えんと欲す。來る十六日、必ず歸參すべし」と者(てへり)。
――又、定綱に付けて、御書を澁谷の庄司重國に遣わさる。
――是則(これすなわち)、被恃思食(たのみおぼしめさるる)の趣也。

――定網は帰りたいと言いますが、武衛はこれをとめるけれど。甲冑ー鎧や兜を持って着てないから、甲冑を持って参上します、と応えます。
――「仍(よって)身の暇(いとま)を賜る。」・・・そこで年次休暇をもらうんですね。
――「兼隆を誅せしめ、義兵の始めに備えんと欲す。來る十六日、必ず歸參すべし」前日までに必ず帰って来いよ、と言います。そして、渋谷の重国に当てて御書を預けます。
さあ・・・どうなるでしょうネェ。佐々木は帰ってくるか?岡崎や土肥は間に合うか?楽しみですネェ。
では、今日はここまでにしましょう。


。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

アハハ・・・♪
先生、乗っちゃって、だんだん講談立川文庫です!!
しかし、ホントにそういう感じですね(^^)v

佐々木兄弟は歌舞伎の「盛綱陣屋」でも、主役になって、盛綱と高綱の兄弟愛、高綱の子供の小四郎の父を思う健気さと、戦に対する盛綱・高綱の母微妙(これが源為義女ということかな)の怒り(歌舞伎の三婆といわれる老女の大役です)と、小四郎の母篝火の悲しみが大変哀しく美しく描かれています。
これは、当然、江戸期に書かれた「近江源氏先陣館」の八段目という浄瑠璃ものですが、源家と北條との戦いがバックにあるんですよ(^^ゞつまり,時政擁する実朝がたにつこうと言うのが盛綱、このへんの政治に全く無関心なようで、鋭い突込みをしているのは近松半二、三好松洛との合作だということですが、政治感覚もなかなかのもの。もともと武士だしネェ(^^ゞしかも、これ、実はモデルは佐々木兄弟だけでなく、実際のモデルとしては、関が原の真田信幸・幸村兄弟なんだそうです。でぇ、何を隠そう、時政のモデルこそ徳川家康なんだそうです。
今のところ「吾妻鏡」の佐々木兄弟はかなりビンぼったらしいですが、この後は立派になるのでしょうか(^_^;それでも源氏に対する忠誠はかなりのものですねぇ・・・♪

でぇ〜、いろいろ資料も増えてきて、ノートの取り方も、あっちこっちひっくり返すのは面倒なので、古文ノート式に傍注方式にしてしまいました。これは、本文を正確に書き写すのが面倒だけど、勉強にもなるし、何より、メモを取るのに楽になって、テキスト手放しで資料とこれだけだと大変楽チン♪資料の番号も、ちょっとした資料を余白に書き写すこともできるので、大変便利なんです(^^)後で復習する時もテキストとあわせなくても済むからどこででもネッコロガッテ!?読める、という大々メリットがあります♪

ただ、「正確に」というところがネックになるのと、授業中、何ページの何行目と言われる時がちょっと辛いんですけど、メリットは大きいので、この方式にしました。でも先生が「一ページくらいはやりたいね」とおっしゃってましたが、ノートに筆写すると丁度7ページ分でした(^^ゞ
まあ、メモ用の余白が多いからですが・・・けっこう大変(^_^;んーがんばらなくっちゃ\(^^)/



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