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3月15日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 七月大・八月小

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)

「今日で270回ですね」という先生のお言葉から始まりました。前回は、ちょっと出足が遅くて一時に行ったら、けっこう良い席を取れたのに、今日は同じ時間なのにもう席がありません(^_^;全体で100人越えていると思いますが、例の市役所の会議室などで使う横長机に三人がけで、ぎっちり横三列、縦がどの列も12〜3列ありますからね・・・多少空気が薄い(^_^;ハァー

「新しい方が入られました」と二組三人ほどご紹介。ご夫婦でいらっしゃっているのも、この会の特徴ですね。何組かいらっしゃるようです。「古文書解読講座」もご夫婦参加というのは数組いらっしゃいましたが、「源氏物語」をご夫婦で、というのはちょっと聞いたことがないです。やはり、歴史好き夫婦というのはあっても、文学好き夫婦というのは、あっても志向が違ったり、いろんな意味で文学観を共有する、というのは成り立たない部分が多いのですね(^_^;
歴史好きと言うご夫婦であれば、互いの史観に多少の相違があったとしても、歴史を見る立場というのは共有できますから(^^)v

○十六日丙申。自昨日雨降。終日不休止。爲明日合戰無爲。被始行御祈祷。住吉小大夫昌長。奉仕天冑地府祭。武衛自取御鏡。授昌長給<云々>。永江藏人頼隆勤一千度御祓<云々>。佐々木兄弟。今日可參著之由。被仰含之處。不參兮。暮畢。彌無人數之間、明暁可被誅兼隆事。聊有御猶預。十八日者。自御幼稚之當初。奉安置正觀音像。被専放生事。歴多年也。今更難犯之。十九日者。露顯不可有其疑。而澁谷庄司重國。當時爲恩仕平家。佐々木与澁谷。亦同意者也。感一旦之志。無左右被仰含密事於彼輩之條。依今日不參。頻後悔。令勞御心中給<云々>

――16日丙申。昨日より雨降る。終日休止にず。明日の合戰の無爲(ぶい)を爲さんと、御祈祷を始行さる。
――住吉小大夫昌長、天冑地府祭を奉仕す。
――武衛は自ら御鏡を取りて、昌長に授け給ふと<云々>。
――永江藏人頼隆、一千度の御祓(おんはらえ)を勤むと<云々>。
――佐々木兄弟、今日、參著すべきの由、仰に含まさる之處、參らず。暮れ畢(おわんぬ)。
――彌(いよいよ)人數無き之間、明暁、兼隆を誅さるべきの事、聊か御猶預あり。
――十八日は、御幼稚之當初より、正觀音像を安置し奉り、放生を専らとさる事、多年に歴ぶ(およぶ)也。
――今更之を犯し難しと雖も、十九日は、露顯の疑い有るへからず。
――而るに澁谷庄司重國は、當時、平家に恩仕せんが爲に、佐々木は澁谷と、亦た同意の者也。
――一旦之志に感じて、左右無く密事を彼輩に仰せ含まさる之條、今日の不參に依りて、頻りに後悔す。
――御心中勞せしめ給ふと<云々>。

――住吉小大夫昌長は筑前一之宮神社の神官の弟、永江藏人頼隆は、伊勢大神宮の神官の後裔。いずれも7月23日の項に初参の記事があります。ふたりとも神官で、彼らに祈りをさせた。
――天冑地府祭というのは、陰陽道でいうところの、天冑は天の神、地府は地の神、冥界の神です。閻魔とか六道の神ね。
――ここにがあります。これは、ここまでの記事と、この後の記事は別だと言う印です。
――佐々木兄弟が到着する予定の日だ、ということを伝えさせたけれど、参らず、日も暮れてしまった。
――いよいよ、人数が少なくて攻撃が出来ないんです。
――18日は、幼児の頃から、何年もの間、ずぅっと、正觀音像を安置して、放生を続けている。
――「正觀音像(しょうかんのんぞう)」というのは「聖観音像(しょうかんのんぞう)」とも書きます。観音様は33種の姿に変えて現世に現れるという伝説があります。馬頭観音とか十一面観音とかいいますね。そういういろいろのお姿に変えて観音様が現れますが、その観音様の元のお姿を正觀音というんです。
――で、今更、これを変更しがたいというけれど、(そういう行事をやっていれば、ということですか、ね・・・筆者の?)19日は(攻撃の計画が)露見することはない。
――しかし、澁谷庄司重國は、当時平家に仕えているため、また佐々木と渋谷は同心の者である。
――(佐々木の)一旦之志に感じて、左右無く密事を彼輩に仰せになったことを、今日の佐々木の不參に依りて、頻りに後悔す。
――内心心配になったんですね。
って、これ嫌な奴だと思いません、頼朝って(^_^;男が一度信じて打ち明けたら、もう腹をくくるべきなのにさ、また、これだけの密事を打ち明けるなら、それくらいの覚悟して打ち明けなさいよ、と思うじゃないですか!!・・・筆者の呟き)


○十七日丁酉。快晴。三嶋社神事也。藤九郎盛長爲奉幣御使社參。無程歸參。〈神事以前也。〉未尅。佐々木太郎定綱。同次郎經高。同三郎盛綱。同四郎高綱。兄弟四人參著。定綱。經高駕疲馬。盛綱。高綱。歩行也。武衛召覽其體。御感涙頻浮顔面給。依汝等遅參。不遂今暁合戰。遺恨萬端之由被仰。洪水之間不意遅留之旨。定綱等謝申之<云々>。戌尅。藤九郎盛長僮僕於釜殿。生虜兼隆雜色男。但被仰也。此男日來嫁殿内下女之間。夜々參入。而今夜勇士等群集殿中之儀。不相似先々之形勢。定加推量歟由。依有御思慮如此<云々>。然間。非可期明日。各早向山木。可決雌雄。以今度合戰。可量生涯之吉凶之由被仰。亦合戰之際。先可放火。故欲覽其煙<云々>。士率已競起。北條殿被申云。今日三嶋神事也。群參之輩下向之間。定滿衢歟。仍廻牛鍬大路者。爲徃反者可被咎之間。可行蛭嶋通者歟。武衛被報仰曰。所思然也。但爲事之草創。難用閑路。將又於蛭嶋通者。騎馬之儀不可叶。只可爲大道者。又被副住吉小大夫昌長〈著腹巻〉。於軍士。是依致御祈祷也。盛綱。景廉者。承可候宿直之由。留御座右。然後蕀木北行。到于肥田原。北條殿。扣駕對定綱云。兼隆後見堤權守信遠在山木北方。勝勇士也。与兼隆同時不誅戮者。可有事煩歟。各兄弟者。可襲信遠。可令付案内者<云々>。定綱等申領状<云々>。子尅。牛鍬東行。定綱兄弟留于信遠宅前田頭訖。定綱。高綱者。相具案内者、〈北條殿雜色、字源藤太〉。廻信遠宅後。經高者進於前庭。先發矢。是源家征平氏。最前一箭也。于時明月及午。殆不異白晝。信遠郎從等見經高之競到射之。信遠亦取太刀。向坤方逢之。經高弃弓。取太刀向艮相戰之間。兩方武勇掲焉也。經高中矢。其刻定綱。高綱。自後面來加。討取信遠畢。北條殿以下進於兼隆舘前天滿坂之邊。發矢石。而兼隆郎從多以爲拜三嶋社神事參詣。其後至留黄瀬川宿逍遥。然而所殘留之壯士等爭死挑戰。此間。定綱兄弟討信遠之後馳加之。爰武衛發軍兵之後。出御縁。令想合戰事給。又爲令見放火之煙。以御廐舎人江太新平次。雖令昇于樹之上。良久不能見煙之間。召爲宿直所被留置之加藤次景廉。佐々木三郎盛綱。堀藤次親家等。被仰云。速赴山木。可遂合戰<云々>。手自取長刀。賜景廉。討兼隆之首。可持參之旨。被仰含<云々>。仍各奔向於蛭嶋通之堤。三輩皆不及騎馬。盛綱。景廉任嚴命。入彼舘。獲兼隆首。郎從等同不免誅戮。放火於室屋。悉以燒失。既曉天。帰參士率等群居庭上。武衛於縁覧兼隆主從之頚<云々>。

――十七日丁酉。快晴。
――三嶋社の神事也。(安達)藤九郎盛長奉幣の御使として社參す。程無く歸參す。<神事、以って前也。>
――未尅(ひつじのこく)。佐々木太郎定綱。同次郎經高。同三郎盛綱。同四郎高綱。兄弟四人參著す。
――定綱、經高は疲馬(やせうま)に駕し、盛綱、高綱は歩行也。
――武衛は其體を召覽し御感涙、頻りに顔面に浮かび給ふ。
――汝等の遅參に依りて、今暁の合戰を遂げず。遺恨萬端之由仰せらる。
――洪水之間、意(こころ)ならず遅留之旨、定綱等、これを謝し申すと<云々>。
――戌尅(いぬのこく)。(あだち)藤九郎盛長の僮僕、釜殿に於いて、兼隆の雜色の男を生け虜らる。但し仰せに依りて也。此の男は日來、殿内下女之嫁の間に、夜々參入す。
――而るに、今夜、勇士等、殿中に群集する之儀、先々之形勢を相い似ず。
――定めて推量を加うる歟の由、御思慮有るに依りて此くの如しと<云々>。
――然る間、明日を期すべからず、各(おのおの)早く山木に向かい、雌雄を決すべし。
――今の度の合戰を以って、生涯之吉凶をるべきの量之由、仰せらる。
――亦た合戰之際、先ず火を放つべし。故(ことさら)に、其煙を覽ぜんと欲すと<云々>。
――士率、已に競い起つ。
――北條殿、(頼朝に)申して云く、今日三嶋の神事也。群參之輩、下向する之間、定めて衢(ちまた)に満つる歟(か)。
――仍って、牛鍬大路を廻りて、徃反者の爲に咎さるべき之間、蛭嶋通を行くべき歟(か)と者(てへれば)、
――武衛は、報じ仰されて曰く、思ふところ然る也。但し、事之草創爲として、閑路を用い難し。
――將に又、蛭嶋を通らんとすと者(てへり)。
――騎馬之儀は叶ふべからず。只、大道爲るべき者(てへり)。
――又住吉小大夫昌長〈腹巻を著す〉、軍士に副へらる。是に御祈祷を致すに依って也。
――盛綱、景廉者(は)、候宿直に候べき之由承りて、御座右に留る。
――然る後、蕀木(ばらき)を北行し、肥田原に到る。
――北條殿は、駕(うま)を扣(ひか)えて、定綱に対して云く、兼隆の後見、堤の權の守、信遠は山木の北方に在りて、勝れたる勇士也。兼隆と同時に誅戮せず者(ば)、煩わしき事有るべき歟。
――各(おのおの)兄弟者(は)、信遠を襲ふべし。案内者付けしむべしと<云々>。
――定綱等領状申すと<云々>。
――子尅(ねのこく)。牛鍬を東行す。定綱兄弟は信遠宅の前の田頭に留まり訖(おわんぬ)。
――定綱、高綱者(は)、案内者<北條殿雜色、字源藤太>を相具し、信遠宅の後に廻り、經高者(は)、前庭に進み、先ず矢を發つ。――是れ、源家の平氏を征するの最前の一箭也。
――時に明月は午に及び、殆ど白晝に異ならす。
――信遠の郎從等、經高之競い到るを見て之を射る。
――信遠は、亦た太刀を取り、坤方(ひつじさるのあいだ)に向いて之にたち逢う。
――經高は弓を弃(す)て、太刀を取りて、艮(うしとら)に向かいて相い戰ふ之間、兩方の武勇は掲焉(けちえん)也。
――經高は矢に中る。
――其の刻、定網、高綱、後面より來たり加わり、信遠を討ち取り畢(おわんぬ)。
――北條殿以下、兼隆舘前天滿坂之邊りに進みて、矢石を發す。
――而るに、兼隆の郎從は、多く以って三嶋社の神事を拜せんが爲に參詣す。
――其の後、黄瀬川の宿に至り留まり逍遥す。
――然而(しかれども)、殘留する所之壯士等、死を争い挑戰す。
――此間、定綱兄弟、信遠を討つ之後、之に馳せ加ふるに、爰に武衛は軍兵を發する之後、御縁に出て、合戰の事を想い令め給ふ。――又、放火之煙を見令めんが爲、御廐の舎人の江太新平次を以って、樹之上に昇らせしめんと雖も、良久(ひさしく)、煙見ること能わず之間、宿直として留め置かさる所之加藤次景廉、佐々木三郎盛綱、堀藤次親家等を召して仰せられて云はく、速やかに、山木に赴き、合戰遂げるべしと<云々>。
――自ら長刀を取りて、景廉に賜る討兼隆之首を討ち、持參すべき之旨、仰せ含めらると<云々>。
――仍って、各(おのおの)蛭嶋通之堤に奔向す。
――三輩皆騎馬に及ばず。
――盛綱、景廉は嚴命に任せて、彼の舘に入り、兼隆の首を獲る。
――郎從等、同じく誅戮を免れず。火を室屋に放ち、悉く以って燒失す。
――既に曉天。帰參の士率等、庭上に群居す。
――武衛は縁に於いて兼隆主從之頚(くび)をご覧ずと<云々>

――十七日丁酉。快晴。
――三嶋社の神事也。(安達)藤九郎盛長奉幣の御使として社參す。程無く歸參す。<神事、以って前也。>
――未尅(ひつじのこく)。午後の二時ごろ、佐々木兄弟がやっと到着した。
――その格好は、というと、定網・高綱は疲馬(やせうま)に乗って、盛綱、高綱は歩行也。歩いてきたんですね。
――武衛は其の體をご覽になって御感涙、頻りに顔面に浮かび給ふ。大変に泣いた。
――お前たちが遅れたために今暁の攻撃が出来なかった。これは大変遺みに思うことだと仰せらる。
――そこで定網が、洪水之間、意(こころ)ならず遅留之旨、これを謝ったんですね。洪水なんてあったかなぁ?
と先生の呟きに、生徒席より「16日は雨です」の声♪「あ、そうだ雨でしたね」場内の雰囲気が緩んできて・・・フフフ・・・先生やったぁ(^^ゞ・・・筆者の呟き
――戌尅(いぬのこく)。午後の八時頃、(あだち)藤九郎盛長の僮僕、僮僕は男の子の召使、釜殿というのは台所、男の子の召使が、台所で、兼隆の雜色の男を生け虜らりにした。但しこれは勝手にやったのではなく仰せに依りて、命令によって也。此の男は日來、ご殿の内の下女之嫁の所に、毎夜来ていたんです。山木と蛭が島は近いんです。だから、嫁が蛭が島にいて男は毎晩通ってきていたんです、。
――いつもは流人の館で靜可なのに、今夜は、勇士等、殿中に群集する。これはいつもと様子が違う。
――定めてどうしたかと、推量を加うる歟の由、御思慮があってこのように生け捕った。
――こんなことだから、、明日を待たず、各(おのおの)早く山木に向かい、雌雄を決すべし。
――今の度の合戰の勝敗を以って、生涯之吉凶を占おうと仰せらる。
――亦た合戰之際、先ず火を放つべし。故(ことさら)に、其煙を覽ぜんと欲すと、火を放って合図とするんでしょうかね。
――士率、已に競い起つ。
――北條殿は、頼朝に言ったんですね。「今日は三嶋の神事也。参拝客で混雑するだろうから、牛鍬大路を廻りて、行き帰りの人々に邪魔されないように、蛭嶋通を行ったほうがいいだろう」と者(てへれば)、と言うと。

(「(ちまた)」という字が良くわからなかったのですが、意味は@道の分かれ道・辻A街路Bところ・場所<角川漢和辞典>なんだそうです。巷ではないんですね。ひとつ利口になりました(^_^;・・・筆者注

――武衛は、「お義父さん」と言ったかどうか、義父ですからね。北条殿は時政。政子のお父さんで、武衛には義父です。
「お義父さん、貴方の考えはもっともです。但し、事之草創ーことの始めとして、閑路ー靜かな道、裏道を用い難し。」
事の始め、合戦の旗揚げだから正々堂々と大道を行こう、というんですね。「牛鍬大路」というのは、今の136号線より一本手前の通りです。今の136号線というのは伊豆急が走っている通りです。その一つ手前。狩野川に沿った古い道があります。その道のことだと思います。
――將に又、蛭嶋を通らんとすと者(てへり)。
――馬に乗ることはできないだろうが大道であるべきだ、と言った。

――又住吉小大夫昌長〈腹巻〉、軍士に副へらる。是に御祈祷を致すに依って也。
腹巻、というのは腹を巻くように出来ている簡単な鎧のことです。一口に鎧といってもいろいろあって大将の鎧とは違います。大将の鎧というのは、「大鎧(おおよろい)」といって、右側があいている。これは弓を射るときの型からみて、右側は空けていても大丈夫だということです。
(あれぇ?そうだっけ(^^ゞ大将と一平卒の鎧が違うの位は映画などて知ってますが、あ〜ら、右側が開いてんですか、鎧って?!


――盛綱、景廉者(は)、候宿直に候べき之由承りて、御座右に留る。
――然る後、蕀木(ばらき)を北行し、肥田原に到る。
蕀木(ばらき)は韮山町の原木(ばらき)。延喜式の式内社(という神社リスト)にも載っている荒木神社から来ていると思われます。「和名類従抄」には「むばらき」と書かれています。
肥田原は田方郡肥田郷で、伊豆急の駅名にもあります。「平家物語」には「ひた川原」と書かれていて、頼朝の軍勢が山木を攻略するのに通った道とされています。後に北條五郡と言われる「蕀木・山木・肥田・中條・南中條」はこの蕀木と肥田原です。

――北條殿は、駕(うま)を扣(ひか)えて、定綱に対して云く、兼隆の後見、堤の權の守、信遠は山木の北方に在りて、勝れたる勇士也。兼隆と同時に誅戮せず者(ば)、煩わしき事有るべき歟。
――各(おのおの)兄弟者(は)、信遠を襲ふべし。案内者付けしむべしと<云々>。
――定綱等領状申すと<云々>。
――子尅(ねのこく)。牛鍬を東行す。定綱兄弟は信遠宅の前の田頭に留まり訖(おわんぬ)。
――定綱、高綱者(は)、案内者<北條殿雜色、字源藤太>を相具し、信遠宅の後に廻り、經高者(は)、前庭に進み、先ず矢を發つ。――是れ、源家の平氏を征するの最前の一箭也。
雑色(ぞうしき)というのは、下僕のような、スパイのような者で、字(あざな)は源藤太というんです。

――時に明月は午に及び、殆ど白晝に異ならす。17日は待月夜ですから、殆ど満月に近い〜ということは、つまり明るいんです。
――信遠の郎從等、經高之競い到るを見て之を射る。
――信遠は、亦た太刀を取り、坤方(ひつじさるのかた)に向いて之にたち逢う。坤方(ひつじさるのかた)というのは未と申の間、つまり南西の方向です。裏鬼門に当たります。鬼門というと東北ですね。これがつぎの艮(うしとら)。
――經高は弓を弃(す)て、太刀を取りて、艮(うしとら)に向かいて相い戰ふ之間、兩方の武勇は掲焉(けちえん)也。艮(うしとら)は丑と寅の間。東北を指します。これが鬼門。「鬼門」というのは陰陽道で、鬼が出入りすると言って万事に忌み嫌う方角で、北東すなわち艮の称です。鎌倉は北東の鬼門の方向に江柄天神を祀って鎌倉を守る。南西は裏鬼門。
ここで、先生が、方角と時刻とを組み合わせた十二支表を、さっとボードに板書してくださいました。これ書いてもらうと、うんうん知ってる、と思うんだけど、じゃあ、自分で書けよ、と言われると書けない・・・m(__)m恥・・・筆者

――經高は矢に中る。
――其の刻、定網、高綱、後面より來たり加わり、信遠を討ち取り畢(おわんぬ)。
――北條殿以下、兼隆舘前天滿坂之邊りに進みて、矢石を發す。
――而るに、兼隆の郎從は、多く以って三嶋社の神事を拜せんが爲に參詣す。
――其の後、黄瀬川の宿に至り留まり逍遥す。どうです、参詣して、まっすぐ帰るんじゃなく、黄瀬川の宿に至り留まり逍遥しています。
黄瀬川というのは、当時の交通の要所で歓楽地ですね。建久四年の富士の巻狩り、曾我兄弟の討ち入りの時ですが、その時にも黄瀬川から遊女を呼んだりして遊んでいます。

――然而(しかれども)、殘留する所之壯士等、死を争い挑戰す。
――此間、定綱兄弟、信遠を討つ之後、之に馳せ加ふるに、爰に武衛は軍兵を發する之後、御縁に出て、合戰の事を想い令め給ふ。――又、放火之煙を見令めんが爲、御廐の舎人の江太新平次を以って、樹之上に昇らせしめんと雖も、良久(ひさしく)、煙見ること能わず之間、宿直として留め置かさる所之加藤次景廉、佐々木三郎盛綱、堀藤次親家等を召して仰せられて云はく、速やかに、山木に赴き、合戰遂げるべしと<云々>。
こういう時、なんと言って説明したか、日常生活で使われた言語は不明です。食物も不明。なんでもないことは何も書かれず残っていないので不明です。本当はこういうことが大事なんですが・・・(先生、ため息です。これは源氏の先生も歎いていらっしゃったことですね。書かれているものは解読できるけれど、書かれていないものはどうしたってこうしたって解明のしようがありません(^_^;それでも「吾妻鏡」は歴史書としての観点から考証するからいいんでしょうが、「源氏」の場合は文学的見地からの解明が主ですから・・・筆者の呟き)

――自ら長刀を取りて、景廉に賜る討兼隆之首を討ち、持參すべき之旨、仰せ含めらると<云々>。
――仍って、各(おのおの)蛭嶋通之堤に奔向す。
――三輩皆騎馬に及ばず。もう蛭が島と山木は近いですからね、馬に乗らなくてもすぐ行ける。
――盛綱、景廉は嚴命に任せて、彼の舘に入り、兼隆の首を獲る。
――郎從等、同じく誅戮を免れず。火を室屋に放ち、悉く以って燒失す。
――既に曉天。帰參の士率等、庭上に群居す。
――武衛は縁に於いて兼隆主從之頚(くび)をご覧ずと<云々>

○十八日戊戌。武衛年來之間不論諍不諍有毎日御勤行等。而自今以後。令交戰場給之程。定可有不意御怠慢之由被歎仰。爰伊豆山有号法音之尼。是御臺所御經師。爲一生不犯之者<云々>。仍可被仰付日々御所作於件禪尼之旨。御臺所令申之給。即被遣目録。尼申領状<云々>
 心經十九卷、
 八幡  若宮  熱田  八劔  大筥根  能善  駒形  走湯權現  <雷電>礼殿  三嶋<第三、第二>
 熊野權現  若王子  住吉  冨士大菩薩  祇薗  天道  北斗  觀音<各一巻、可法樂云云>
 觀音經一卷  壽命經一卷  毘沙門經三卷  藥師咒廿一反  尊勝陀羅尼七反  
 毘沙門咒一百八反<已上。爲御所願成就御子孫繁昌也>  阿彌陀佛名千百反<一千反者。奉爲父祖頓證菩提。百反者。左兵衛尉藤原正清得道也>。

――十八日戊戌。武衛は年來の間、諍不諍を論ぜず、毎日(ひび)の御勤行等有り。
――而して自今以後、戰場に交わせ令め給ふの程、定めて意(こころ)ならず御怠慢有るべきの由歎き仰せらる。
――爰に伊豆山、法音と号すの尼有り。是は御臺所の御經師、一生不犯之者と爲す<云々>。
――仍って日々の御所作を件の禪尼に仰せ付けらるべきの旨、御臺所申さ令め給ひ、即ち目録を遣さる。尼領状申すと<云々>
 ――心經十九卷、心經というのは「般若心經」・・・般若波羅密多・・・というあれですね。
 ――八幡=八幡宮  
    若宮=鶴ヶ岡  
    熱田=熱田神宮  
    八劔(やつるぎ)=熱田の別ぐう  
    大筥根(おおはこね)=箱根権現。箱根三所権現というのは、大筥根・能善・駒形  
    能善  
    駒形  
    走湯權現=伊豆山神社  
    <雷電>礼殿(らいでん)=上に同じ伊豆山神社  
    三嶋<第三、第二>=三嶋神社
 ――熊野權現=那智の滝をご神体としています。「熊野三山」とか「三熊野(御熊野)詣で」と言います。平安末期には大変流行った。京都から淀川を下って大阪に出て、そこから和歌山に入る。そこから熊野に行きます。後白河天皇は生涯で29回、後鳥羽上皇は31回、政子は60才近くになってから行ってます。
    若王子(にゃくおうじ)=那智大社の分社。京都から熊野に行く途中に99の休憩所(王子)があります。(これ、きゅうけいじょと聞こえたので休憩所、と打ったのですが、中継所かも(^_^;広辞苑によると「京都から熊野神社に参詣の途中の処々に若王子を勧請して祀ってある土地」あるのです・・・筆者注)  
    住吉(すみのえ)=全国に住吉神社というのがあります。海の神様。住吉三神というと表・中・底です。もともとは中国の神さまで、厳島や三崎の神にもなります。
表筒男命うわつつのおのみこと・中筒男命なかつつのおのみこと・底筒男命そこつつのおのみこと、というらしいです・・・筆者も良くわからないm(__)m) 
    冨士大菩薩=浅間神社、富士山をご神体としている。  
    祇薗=牛王天皇(ごずてんのう)  
    天道(てんとう)=日の神と大日如来が合体 
    北斗=北斗星を神格化した  
    觀音<各一巻、可法樂云云>
 ――觀音經一卷  
    壽命經一卷  
    毘沙門經三卷  
    藥師咒(やくしじゅ)廿一反  
    尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)七反  
 ――毘沙門咒(びしゃもんじゅ)一百八反
    <已上。御所の願、成就。御子孫繁昌と爲すと也>  
    阿彌陀佛名=は仏の名号、南無阿弥陀仏など、それを千百反(1100ぺん)
 ――<一千反者(いっせんべんは)、父祖の頓證菩提の奉爲(ほうんため)。頓證菩提は追善供養のため。
 ――百反者(ひゃっぺんは)、左兵衛尉藤原正清得道也>。というのは鎌田正清の得道ー悟りを開くーため。鎌田正清というのは、義朝に仕えていたんですね。(平治の乱で敗走して)義理の父野間の莊司長田忠致を頼って、義朝を案内して行ったのですが、裏切られて義朝と一緒に殺されます。その忠義に免じて一緒にお経を唱えさせます。
というところで、来月ですね。
○○女子大の生涯教育セミナーの新学期の準備も進んでいます。「吾妻鏡」もあります。他に皆さんが関心のありそうなところだと「平家物語」があります。これは、もう大分以前から、是非講義をしてくださいとお願いしていた「平家物語」の権威の○○先生から、やっとオーケーが出て、やっていただけることになったんです。是非楽しみにしてください。


。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

今日は、ずいぶん進みました。ノートの取り方を傍注形式にしたので、かなり、がんばって写してきたのですが、ギリギリでした(^_^;
それにしても、このノートの取り方は、後が楽ですねぇ〜♪そのわりには、今月はイベントが多くて、纏めるのに時間を食ってしまいました(^_^;
どうも、吾妻鏡を読んでいくと、もともとあまり好きではない頼朝が、益々嫌いになりそうで困りますネェ(^_^;
それでもって、オ〜♪と思ったのは「平家物語」!これは、秋の国文学研究資料館が今年は「平家物語」!わぁ・・・どうしよう(^_^;
両方聞きたい!でも、そうするとかなり大変な日程になっちゃうよ(^_^;悲鳴、悲鳴・・・「世界史」が今度はフランス革命だし、「源氏」が毎週プラス一でかなり大変になるのに・・・・どうしよう(^_^;・・・悩む!!

佐々木兄弟もちょっとかっこよくなってきましたね(^^)v




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