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4月12日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 八月小

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

「今日で271回ですね」という先生のお言葉から始まりました。2月は、ちょっと出足が遅くて一時に行ったら、けっこう良い席を取れたのに、前回も今回ももう席がありません(^_^;
お隣に座られた奥様が怒りの形相で、「先に来られてお友達の席なんかとっている人がいるから足りなくなるんですよ。これじゃ早く来たってしょうがないわ。来た順に座るようにしてくださらなくちゃ」と、一人で怒っていらっしゃいました(^^ゞまあ・・・ごもっともとも思いますが、確実に来ることがわかっていたら、交替で席を取り合う、というのもありなんでしょう。私はそういうのは嫌いなので常に一匹狼なんですが。だから冷たい、と思われるわけで・・・。しかし、ぎっちり横三列、縦がどの列もギッチリで・・・・・・いつもと同じく空気が薄い(^_^;ハァー

でぇ〜、先生が今日は早めに来られましたので、とちょっと早い目にいらっしゃってびっくり(^^ゞ
それで、また懸案の韮山の地図をもってきてくださったのですよ♪で、幹事さんが、あらそれじゃコピーとって来ますよ、と気軽に素早く立ってくださって韮山の地図が届きましたm(__)m感謝、感謝です。

で、前回までに出てきた地名をチェックしました。伊豆の大仁から上の方に韮山反射炉があり、更にその辺りに南条という地域があって、狩野川に沿って北條氏邸後、願成就院跡、北條時政墓などがあります。伊豆箱根鉄道に沿っては蛭ヶ小島があり、その上に行くと、例の原木があります。蛭ヶ小島を東に平行移動した辺りに本立寺というお寺には東慶寺の鐘が残っているそうです。

○十九日己亥。兼隆親戚史大夫知親。在當國蒲屋御厨。日者張行非法。令惱亂土民之間。可停止其儀之趣。武衛令加下知給。邦道爲奉行。是關東事施行之始也。其状云。
   下 蒲屋御厨住民等所
     可早停止史大夫知親奉行事
   右。至于東國者。諸國一同庄公皆可爲御沙汰之旨。親王宣旨状明鏡也者。住民等存其旨。可安堵者也。仍所仰故以下。
     治承四年八月十九日
又此間。自土肥邊。參北條之勇士等。以走湯山。爲往還路。仍多見狼藉之由。彼山衆徒等參訴之間。武衛。今日被遣御自筆御書。被宥仰之。世上属無爲之後。伊豆一所。相摸一所。可被奉寄庄園於當山。凡於關東。可奉輝權現御威光之趣被載之。因茲衆徒等忽慰憤者也。及晩。御臺所渡御于走湯山文陽房覺淵之坊。邦道。昌長等候御共。世上落居之程。潜可令寄宿此所給<云々>

――十九日己亥。兼隆の親戚、史大夫知親。當國蒲屋(かばがや)の御厨(みくりや)に在り。日者(ひごろ)非法を張行す。土民を惱亂せ令むる之間。其の儀、停止すべき之趣、武衛、下知を加へ令め給ふ。邦道を奉行と爲す。是は關東の事、施行之始め也。其の状云く。
――下す。蒲屋御厨の住民等の所
――早く史大夫知親の奉行を停止すべき事
――右、東國に至りては、諸國一同庄公皆御沙汰爲すべき之旨、親王宣旨の状明鏡(あきらか)也と者(てへれ)ば、住民等其の旨存じ、安堵すべき者也。仍って仰する所の故、以下。
     治承四年八月十九日
――又此の間、土肥邊りより、北條に参ずる之勇士等、走湯山を以って往還路と爲す。
――仍って多く狼藉を見る之由、彼の山の衆徒等、參訴する之間、武衛は今日御自筆の御書を遣わされ、之を宥め仰せられる。
――世上が無爲に属する之後、伊豆一所、相摸一所、庄園を當山に寄せ奉つらるるべしと。
――凡そ關東に於いて、權現御威光を輝き奉るべく之趣、これを載せらる。茲に因って衆徒等、忽ち憤りを慰者也。
――晩に及び、御臺所、走湯山の文陽房覚淵の坊に渡御す。邦道、昌長等、御共に候ふ。世上落居之程、潜かに此の所に寄宿せしめ給ふと<云々>

――兼隆の親戚、史大夫知親、知親の名はここにしか出てきません。詳しいことはわからない人です。
――蒲屋(かばがや)の御厨(みくりや)、というのは伊豆の加茂郡にあった御厨という建物です。荘園に対して、食べ物を調達する場所を指します。神社等では、神にたいして供物(饌−にえ)を献納します。農民たちの支配ではなく、漁民(非農民)たちの支配していた神の神領。伊勢神宮の神領は全国に数百箇所あったといわれています。蒲が屋もその一つと思われます。
――で、その神領に知親が非法を行って土民たちを苦しめていたんて゜゛すね。そこで、頼朝が、知親の命令に従わなくていいよ、という御触れを出したんです。頼朝が、ああしろ、こうしろ、という命令を出したんじゃなくて、知親の命令に従わなくて良い、と言ったんですね。
――是は關東の事、施行之始め也、これは、頼朝が関東の行政にかかわった第一歩である、ということなんです。ここから、鎌倉幕府の基が始まったんです。
――その状には、「下す」というのは、頼朝の命令を下す、ということです。蒲屋の御厨の住人たちに命令を下す、ということです。
――で、その命令の内容は「知親の命令に従わなくて良い」ということです。
――右、東國に至りては、関東諸国においては、「庄公」の庄は荘園。荘園というのは私有地です。私有地も公領も頼朝のご沙汰によって(支配される)いうことは、「親王宣旨」で明らかなことだ、と言うんですね。この親王宣旨というのは、以仁王のあの令旨のことを言っているのですが、しかし、以仁王は親王でもないし、宣旨というのは天皇の命令のことですね。以仁王なら令旨のはずでしょ。
――「仍って仰する所の故、以下」これは頼朝の仰せを承って、部下が殊更に以って下す形にしているんです。と言って、「下し文」の形でもなく、「御教書」の形でもなく、宣旨の形でもない。古文書として不思議な形です。

(筆者の呟き――フムフム、なるほど♪この時代の変わり目というのは何でもありなんですねぇ♪大体、京都の知性教養権謀術数連戦練磨の長袖族に対して、単純明快素朴で無教養と思われる関東武士に対しては、令旨も宣旨も関係なく、親王だろうがただの皇子だろうが、要するに「天皇の血をひく京都の偉い人」の命令、というだけで結構な重みがあるんですね(^^)
それに、頼朝側から施政方針を打ち出した、と言うわけではなく、旧勢力の命令に従わなくて良い、という言い方をしたんだ、最初は(^^ゞそれでも、それが関東の政治に関わる大いなる一歩だったと言うのは納得です♪)

――「又此の間、土肥邊りより、北條に参ずる之勇士等、走湯山を以って往還路と爲す」ということで、街道を関東武士が往復するので、狼藉を働いたりいろんな不都合を巻き起こします。そこで伊豆山権現の神社から文句を言われます。そこで、頼朝は自筆の御教書を出してなだめます。それには、世界が納まって幕府が出来たら、伊豆の一所、相模の一所を寄進しますよ、と言う内容でした。そして、関東に伊豆山権現のご威光を輝かせますよ、と言われて、伊豆山権現の信者たちは、たちまち怒りを静めました。
――権現様、というのは本地垂迹の一つで、日本はもともと仏教だが、仏様が神の形を借りて日本に現れた、という風に結び付けてしまうんです。本当に頼朝は、伊豆山権現に土地を与えたか?といいますと、「吾妻鏡」にはそういう記録はありません。
10月11・16日には箱根権現に寄進の話があります。10月18日には伊豆山権現から狼藉に対する苦情があり、10月21日には三嶋神社に土地を与えています。

筆者の疑問――このへんの神社の勢力ってどんななんでしょうか?延暦寺や興福寺の僧兵のような者たちはいなさそうだし、ただ信者たちの結集が脅威になるほどだったんでしょうか?それとも、単に石橋を叩いて渡る用心深さから、とにかく敵は作るまい、としたのか?或いは母が熱田神宮宮司の娘で頼朝自身もかなりな縁起担ぎ、と言うところを見ると、まんざら不信心者が神社を利用した、ということでなくて本気で大事にしていたのか・・・?けっこう疑問です(^_^;)

――夜になって、御台所の政子が、走湯山の文陽房覚淵の坊にやってきます。邦道、昌長が御共についてきて、世上が落つくまでここに隠れていなさいと言うんです<云々>


○廿日庚子。三浦介義明一族已下。兼日雖有進奉輩。于今遅參。是或隔海路兮凌風波。或避遠路兮泥艱難之故也。仍武衛先相率伊豆相摸兩國御家人許。出伊豆國。令赴于相摸國土肥郷給也。扈從輩。
  北條四郎     子息三郎     同四郎        平六時定
  藤九郎盛長   工藤介茂光    子息五郎親光    宇佐美三郎助茂
  土肥次郎實平  同彌太郎遠平  土屋三郎宗遠    同次郎義清
  同彌次郎忠光  岡崎四郎義實   同余一義忠     佐々木太郎定綱
  同次郎經高   同三郎盛綱     同四郎高綱     天野藤内遠景
  同六郎政景   宇佐美平太政光  同平次實政     大庭平太景義
  豊田五郎景俊  新田四郎忠常   加藤五郎景員   同藤太光員
  同藤次郎景廉  堀藤次親家    同平四郎助政    天野平内光家
  中村太郎景平  同次郎盛平    鮫嶋四郎宗家   七郎武者宣親
  大見平二家秀  近藤七國平    平佐古太郎爲重  那古谷橘次頼時
  澤六郎宗家   義勝房成尋     中四郎惟重    中八惟平
  新藤次俊長   小中太光家
是皆將之所恃也。各受命忘家忘親<云々>

――20日庚子(こうし)。三浦介義明一族已下(いか)。兼日(けんじつ)に奉(うけたまわり)を進むる輩、有りと雖も、今に遅参す。是れは、或いは海路を隔て、風波を凌ぎ、或いは遠路を避けて艱難に泥む(なずむ)の故なり。
――仍って武衛は、先ず伊豆・ 相模兩國の御家人ばかりを相率いて、伊豆の國を出て、相模の國土肥郷に赴かせしめ給ふなり。
――扈従(こじゅう)の輩
   北條四郎    子息三郎    同四郎     平六時定   籐九郎盛長
   工藤介茂光   子息五郎親光  宇佐美三郎助茂 土肥次郎實平 同彌太郎遠平
   土屋三郎宗遠  次郎義清    同彌次郎忠光  岡崎四郎義實 同余一義忠
   佐々木太郎定綱 同次郎経高   同三郎盛綱   同四郎高綱  天野籐内遠景
   同六郎政景   宇佐美平太政光 同平次實政   大庭平太景義 豊田五郎景俊
   新田四郎忠常  加藤五郎景員  同籐太光員   同籐次郎景廉 堀籐次親宗
   同平四郎助政  天野平内光家  中村太郎景平  同次郎盛平  鮫島四郎宗家
   七郎武者宣親  大見平二家秀  近藤七国平 平佐古太郎為重 那古谷橘次頼時
   澤六郎宗家   義勝房成尋   中四郎惟重   中八惟平   新藤次俊長
   小中太光家
――是れ皆将の恃む所なり。各々命を受け家を忘れ親を忘ると<云々>。

――「今に遅参す」六月から旗揚げ準備をして、五月には源三位頼政の事件があって、しかしまだみんな到着していない。これは海路を隔てて、風波も激しく順調にこれなかった。
――兼日(けんじつ)に奉(うけたまわり)を進むる輩、かねてから平家討伐に応じると約束した連中のことです。
――扈従(こじゅう)の輩、「扈従(こじゅう)」今の頼朝に従っているのは、創世記の股肱の臣ですね。
――北條四郎、子息三郎というのは宗時、同四郎は義時です。工藤介茂光は伊豆の介です。土屋三郎宗遠は平塚の土屋。岡崎四郎義實は三浦氏だが、平塚の岡崎にいた。同余一義忠は真田ですが佐那田とも書きます。
――平六時定は「平六」ね。 
――大庭平太景義は平家物語では「大芭」と書かれています。
――是れ皆将の恃む所なり、46名、頼朝政権の核になった武士たちですね。

毎度地名が出るたびに吾妻鏡の土着性というか地縁の深さを感じますが、関東、ことに鎌倉・湘南地方に住む人は吾妻鑑必修ですねぇ・・・筆者の呟き)


○廿二日壬寅。三浦次郎義澄。同十郎義連。大多和三郎義久。子息義成。和田太郎義盛。同次郎義茂。同三郎義實。多々良三郎重春。同四郎明宗。筑井二郎義行以下。相率數輩精兵。出三浦參向<云々>

――22日壬寅(じんいん)。
――三浦の次郎義澄・同十郎義連・大多和の三郎義久・子息義成・和田の太郎義盛・同次 郎義茂・同三郎宗實・多々良の三郎重春・同四郎明宗・筑井の次郎義行以下、數輩の精兵を相率い、三浦を出て参向すと<云々>。

筆者注――三浦の系図を参照します。ここでリンクさせていただいたのは、「Area2」さんの三浦氏のこと纏めていらっしゃるサイトですが「情報のハブリンク」とのことで、いろんな時代のいろんな人脈・系図が網羅されています。この三浦氏の系図はごく一部です)


○廿三日癸卯。陰。入夜甚雨如沃。今日寅尅。武衛相率北條殿父子。盛長。茂光。實平以下三百騎。陣于相摸國石橋山給。此間以件令旨。被付御旗横上。中四郎惟重持之。又頼隆付白幣於上箭。候御後。爰同國住人大庭三郎景親。俣野五郎景久。河村三郎義秀。澁谷庄司重國。糟屋權守盛久。海老名源三季貞。曾我太郎助信。瀧口三郎經俊。毛利太郎景行。長尾新五爲宗。同新六定景。原宗三郎景房。同四郎義行。并熊谷二郎直實以下平家被官之輩。率三千餘騎精兵。同在石橋・邊。兩陣之際隔一谷也。景親士率之中。飯田五郎家義。依奉通志於武衛。雖擬馳參。景親從軍列道路之間。不意在彼陣。亦伊東二郎祐親法師率三百餘騎。宿于武衛陣之後山兮。欲奉襲之。三浦輩者。依及暁天。宿丸子河邊。遣郎從等。焼失景親之黨類家屋。其煙聳半天。景親等遥見之。知三浦輩所爲之由訖。相議云。今日已雖臨黄昏。可遂合戰。期明日者。三浦衆馳加。定難喪敗歟之由。群議事訖。數千強兵襲攻武衛之陣。而計源家從兵。雖難比彼大軍。皆依重舊好。只乞効死。然間。佐那田余一義忠。并武藤三郎。及郎從豊三家康等殞命。景親彌乗勝。至暁天。武衛令逃于椙山之中給。于時疾風惱心。暴雨勞身。景親奉追之。發矢石之處。家義乍相交景親陣中。爲奉遁武衛。引分我衆六騎。戰于景親。以此隙令入椙山給<云々>

――23日癸卯(きぼう)。 陰、夜に入りて甚雨沃(そそ)くが如し。
――今日寅の刻、武衛、北條殿父子・盛長・茂光・實平以下三百騎を相率いて、相模の國石橋山に陣し給う。
――この間件の令旨を以て、御旗の横上に付けらる。中四郎惟重これを 持つ。
――又、頼隆白幣を上箭に付け、御後に候ふ。
――爰に同国住人大庭の三郎景親・俣野の 五郎景久・河村の三郎義秀・澁谷庄司重國・糟屋權の守盛久・海老名の源三季貞・曾我太郎助信・瀧口の三郎經俊・毛利の太郎景行・長尾の新五爲宗・同新六定景・原 宗三郎景房・同四郎義行、并びに熊谷の次郎直實以下、平家被官の輩、三千餘騎の精兵を率い、同じく石橋・の邊に在り。
――兩陣之際(きわ)は一谷を隔つるなり。
――景親が士卒の中、 飯田の五郎家義、志を武衛に通じ奉るに依って、馳参ずると擬すと雖も、景親が従軍、道路に列なるの間、意ならず彼の陣に在り。
――亦た伊東の二郎祐親法師、三百餘騎を率いて、武衛の陣の後山に宿し、これを襲い奉らんと欲す。
――三浦の輩は、暁天に及ぶに依って、丸子河(まりこがわ)の邊に宿す。
――郎從等を遣わし景親の黨類家屋を焼失す。
――其の煙、半天に聳え、景親等遙かにこれを見て、三浦の輩の所為の由知り訖。
――相議して云く、今日すでに黄昏(こうこん)に臨むと雖も、合戰を遂ぐべし。明日を期(ご)せば、三浦の衆馳せ加わり、定めて喪敗し難き歟之由。群議の事訖。
――數千強兵、武衛之陣に襲攻す。
――而るに源家の從兵を計るに、彼の大軍に比べ難しと雖も、皆舊好を重んずるに依りて、只、を死を効すことを乞う。
――然る間、佐那田の余一義忠、并びに武藤の三郎、及び郎從豊三家康等命を殞す(おとす)。
――景親いよいよ勝ちに乗じ、暁天に至る。
――武衛は、椙山の中に逃れしめ給ふ。
――時に疾風は心を惱まし、暴雨は身を勞す。
――景親は、これを追い奉り、矢石を發するの處、家義は景親陣中に相交り乍ら、武衛を遁し奉らんが爲、我が衆六騎を引き分け、景親に戦ふ。
――この隙を 以て椙山に入らしめ給ふと<云々>。

――北條殿父子は、時政・宗時・義時です。
――實平以下三百騎、實平は土肥次郎。長男(太郎)は中村、三男(三男)は土屋、四男(四郎)は二宮を継ぐ。当時は所領の分割相続が認められていて、女子にも相続権があったんです。分割していくうちに土地が小さくなって分割できなくなった。女子が最初に切捨てられて、次男以下が切り捨てられていくんです
(長子相続制ですが、確か所領の分割を禁止する法も発布されましたよね・・・いつだっけ(^^ゞ――筆者の呟き

以下三百騎と言う時、各一騎に家之子郎党(郎従)がつくんです。
――御旗の横上に付けらる。中四郎惟重これを 持つ、中四郎は中原氏、惟重・頼隆、伊勢神宮の神官の親子が前後につけて進むんです。惟重が以仁王の令旨を旗につけ、頼隆が神社の御幣を持ってその後に続くんです。
――「伊東の二郎祐親法師、三百餘騎を率いて」とありますね。頼朝が蛭が小島に流されていた時、伊東の二郎祐親の娘との間に一子をもうけますが、引き裂かれてしまいます。「三百餘騎を率いて」とあります。頼朝がこの旗揚げにかき集めた武士団がやっと、三百騎ですか。伊東氏は一人でそれくらいの勢力があったわけですから、流人の頼朝などに娘はやれない、と思ったのは無理からぬことですね。
――丸子河(まりこがわ)というのは今の酒匂川(さかわがわ)です。
――「今日すでに黄昏(こうこん)に臨むと雖も、合戰を遂ぐべし。明日を期(ご)せば、三浦の衆馳せ加わり、定めて喪敗し難き歟之由。」今日はもう日も暮れたけれど、合戦をしてしまおう。明日に延ばせば三浦の衆が間に合って、勝ちが難しくなる、ということで、総攻撃をかけます。
――數千強兵、武衛之陣に襲攻す、それに対して源家の從兵を計るに、彼の大軍に比べ難しと雖も、大変少ないけれども、皆舊好を重んずるに依りて、只、を死を効すことを乞う。みんな命がけで、死を覚悟で闘おう、と言います。
――そうしているうちに、佐那田の余一義忠、并びに武藤の三郎、及び郎從豊三(ぶんざ)家康等命を落とします。佐那田の余一義忠というのは、平塚の真田にいた岡崎の息子で当年25歳。武藤の三郎はここにしか名前が出てこないのでよくわかりません。家康はこの時57歳。石橋山には義忠の墓の「余一塚」と家康、これは家安と書くとも言いますが、その家康(家安)の墓「豊三堂」が残っています。国の史跡になっています。頼朝が幕府を開いてから、三所詣でをする時、石橋山を通るたびに泣くので、詣でる道順を変えた、というほどだったと言います。

――この隙を 以て椙山に入らしめ給ふ、これが「鵐窟(しとどの岩屋)」という、今の湯河原の土肥椙山の岩窟のことです。足柄下郡足柄町鍛治屋、というところです。高さ5メートル、幅12メートル。入り口は滝のようになっていて、奥には観音さまや石仏が並んでいる。今は県の史跡になっています。


筆者よりー24日の分は豪く長いので、勝手に読み下し分の段落訳をして、更に解説を別立てにするとわかりにくいと思いますので、読み下し分に続けて書きました。)

○廿四日甲辰。武衛陣于椙山内堀口邊給。大庭三郎景親相率三千餘騎重競走。武衛令逃後峯給。此間。加藤次景廉。大見平次實政。留于将之御後。防禦景親。而景廉父加藤五景員。實政兄大見平太政光。各依思子憐弟。不進前路。扣駕發矢。此外加藤太光員。佐々木四郎高綱。天野藤内遠景。同平内光家。堀藤次親家。同四郎助政。同并轡攻戰。景員以下乗馬。多中矢斃。武衛又廻駕。振百發百中之藝。被相戰及度々。其矢莫必不飲羽。所射殺之者多之。箭既窮之間。景廉取御駕之轡奉引深山之處。景親群兵近來于四五段際。仍高綱。遠景。々廉等。數反還合發矢。北條殿父子三人。亦與景親等。依令攻戰給筋力漸疲兮。不能登峯嶺之間。不奉從武衛。爰景員。光員。景廉。祐茂。親家。實政等。申可候御共之由。北條殿。敢以不可然。早々可奉尋武衛之旨被命間。各走攀登數町險阻之處、武衛者令立臥木之上給。實平候其傍。武衛令待悦此輩之參著給。實平云。各無爲参上。雖可喜之。令率人數給者。御隠居于此山。定難遂歟。於御一身者。縦渉旬月。實平加計略。可奉隠<云々>。而此輩頻申可候御共之由。又有御許容之氣。實平重申云。今別離者。後大幸也。公私全命。廻計於外者。盍雪會稽之耻哉<云々>。依之皆分散。悲涙遮眼。行歩失道<云々>。其後。家義奉尋御跡參上。所持參武衛御念珠也。是今暁合戰之時。令落于路頭給。日來持經之間。於狩倉邊相摸國之輩多以奉見之御念珠也。仍周章給之處。家義求出之。御感及再三。而家義申可候御共之由。實平如先諫申之間。泣退去訖。又北條殿。同四郎主等者。經筥根湯坂。欲赴甲斐國。同三郎者。自土肥山降桑原。經平井郷之處。於早河邊。被圍于祐親法師軍兵。爲小平井名主紀六久重。被射取訖。茂光者。依行歩不進退自殺<云々>。将之陣與彼等之戰場。隔山谷之間。無據于吮疵。哀慟千萬<云々>。景親追武衛之跡。捜求嶺溪。于時有梶原平三景時者。慥雖知御在所。存有情之慮。此山稱無人跡。曳景親之手登傍峯。此間。武衛。取御髻中正觀音像。被奉安于或巖窟。實平奉問其御素意。仰云。傳首於景親等之日。見此本尊。非源氏大将軍所爲之由。人定可貽誹<云々>。件尊像者。武衛三歳之昔。乳母令參籠清水寺。祈嬰兒之将來。懇篤歴二七箇日。蒙[ヨの下に火]夢之告。忽然而得二寸銀正觀音像。所奉歸敬也<云々>。及晩。北條殿參著于椙山陣給。爰筥根山別當行實。差遣弟僧永實。令持御駄餉。奉尋武衛。而先奉遇北條殿。問武衛御事。北條殿曰。将者不遁景親之圍給者。永實云。客者若爲試羊僧之短慮給歟。将令亡給者。客者可存之人也者。于時北條殿頗咲而相具之。參将之御前給。永實献件駄餉。公私臨餓之時也。直已千金<云々>。實平云。世上屬無爲者。永實宜被撰補筥根山別當職者。武衛亦諾之給。其後以永實爲仕承。密々到筥根山給。行實之宿坊者。參詣緇素群集之間。隠密事稱無其便。奉入永實之宅。謂此行實者。父良尋之時。於六條廷尉禪室并左典厩等。聊有其好。因茲。行實於京都得父之讓。念補當山別當職。下向之刻。廷尉禪室賜下文於行實[イに]。東國輩。行實若相催者可從者。左典廐御下文云。駿河伊豆家人等。行實令相催者可從者。然間。武衛。自御坐于北條之比。致御祈祷。専存忠貞<云々>。聞石橋合戰敗北之由。獨含愁嘆<云々>。弟等雖有數。守武藝之器。差進永實<云々>。三浦輩出城來于丸子河邊。自去夜相待暁天。欲參向之處。合戰已敗北之間。慮外馳歸。於其路次由井浦。与畠山次郎重忠。數尅挑戰。多々良三郎重春并郎從石井五郎殞命。又重忠郎從五十餘・輩梟首之間。重忠退去。義澄以下又歸三浦。此間。上総權介廣常弟金田小大夫頼次率七十餘騎加義澄<云々>。

――24日甲辰(こうしん)。
――武衛は椙山の内、堀口の邊りに陣し給う。
――大庭の三郎景親、三千余騎を相率いて、重ねて競走す。
――武衛は後の峰に逃がれしめ給ふ。
――此の間、加藤次景廉、大見の平次實政、将の御後に留まり、景親を防禦す。
――而るに景廉の父加藤五景員、實政の兄大見の平太政光は、各々子を思い弟 を憐れむに依りて、前路を進まず、駕を扣えて(ひかえて)矢を発す。
――この外加藤太光員、佐々木の四郎高綱、天野の籐内遠景、同平内光家、堀の籐次親家、同平四郎助政、同じく轡を並べ攻戦す。
――景員以下の乗馬、多く矢に中り(あたり)斃れ(たおれ)死す。
――武衛はまた駕(うま)を廻し、百発百中の芸を振り、相戦わるること度々に及ぶ。
――其の矢必ず羽を飲まざること莫く、射殺す所の者これ多し。
――箭すでに窮まるの間、景廉御駕の轡を取り、深山 に引き奉るの処、景親の群兵は四五段の際に近づき来たる。
――仍って高綱、遠景、景廉等は、数反に還り合わせ矢を發す。

――北條殿父子三人、また景親等と攻戦せしめ給うに依りて、筋力漸く疲れ、峯嶺に登ること能わざるの間、武衛に従い奉らず。
――爰に景員、光員、景廉、祐茂、親家、實政等は、御共に候すべきの由を申す。
――北條殿は敢えて以て然るべからず、早く武衛を尋ね奉るべき旨命ぜらるるの間、各々走しりて數町の険阻を攀じ登るの處、武衛は臥木の上に立たしめ給ふ。
――實平は其の傍らに候ふ(さぶらふ)。
――武衛はこの輩の参着を待ち悦ばしめ給ふ。
――實平云く、各々無為の参上を、これを喜ぶべしと雖も、人数を率いしめ給わば、この山に御隠居するは、定めて遂に難きか。
――御一身に於いては、縦は旬月に渉る。
――實平は計略を加えて、隠し奉るべしと。<云々>
――而るにこの輩は皆御共候すべきの由を申す。
――また御許容の気有り。
――實平重ねて申して云く、今の別離は後の大幸なり。公私は命を全うし、計りを外に廻らさば、会稽の恥を雪ぐべけんやと<云々>。
――これに依って皆分散す。
――悲涙眼を遮り、行歩道を失うと<云々>。

――其の後家義は御跡を尋ね奉り参上す。
――武衛の念珠を持参する所なり。
――是れは今暁合戦の時、路頭に落せしめ給ふ。
――日来持ち給ふの間、狩倉の邊りに於いて、相模の国の輩多く以て見奉るの御念珠なり。
――仍って周章し給ふの處、家義はこれを求め出す。
――御感再三に及ぶ。
――而るに家義は御共に候ふべきの由を申す。
――實平は前の如く諫め申すの間、泣きて退去しをはんぬ。

――また北條殿、同四郎主等は、筥根湯坂を経て、甲斐の国に赴かんと欲す。
――同三郎は、土肥の山より桑原に降り、平井郷を経るの處、早河の邊りに於いて、祐親法師の軍兵に囲まれ、小平井の名主の紀六久重の為射取られをはんぬ。・・・北條三郎は、政子のお兄さん、この時殺されてしまいます。
――茂光は行歩進退せざるに依って自殺すと<云々>。・・・工藤茂光は疲れて歩けなくなって自殺してしまったんですね。
――将の陣と彼等の戦場と、山谷を隔つるの間、疵を吮うに拠無く、哀慟千万なりと<云々>。

――景親武衛の跡を追いて、嶺渓を捜し求む。
――時に梶原平三景時と云う者有り。・・・丁度その時梶原平三景時と言う者があったー初めて登場したんです。
――慥に(たしかに)御在所を知ると雖も、有情の慮(おもんばかり)を存じ、この山に人の跡無しと稱して、景親の手を曳き傍峰に登る。 ・・・確かに御座所を知っていたけれど、ここには誰もいないといって景親の手を引いて行ってしまった。この時景時が助けなければ、鎌倉幕府は開けたか?平家は誰かが討ったかもしれませんが、鎌倉幕府は開けなかったかもしれない。

治承5年の1月11日の吾妻鑑に、(景時が頼朝の命を救って) 「梶原平三景時、仰せに依って初めて御前に参す。去んぬる年の窮冬、實平相具し参る所なり。文筆に携わらずと雖も、言語を巧みにするの士なり。専ら賢慮に相叶うと。」とあります。文筆は言語を巧みとす、言葉が巧いんですね。賢慮に相叶う、頼朝の意にかなう人として幕府の御家人になった。頼朝の長男が生まれた時も乳母夫となる。屋島の戦いで義経に先を越されて意趣を含んで讒言する、ということになるんです。


――此の間、武衛は御髻(おんもとどり)の中の正観音像を取り、或る巌窟に安じ奉らる。・・・或る巌窟って鵐(しとど)の岩屋です。
――實平その御素意を問い奉る。
――仰せて云く、首を景親等に傳うの日、此の本尊を見て、源氏の大将軍の所為に非ざるの由、人定めて誹りを貽すべしと<云々>。・・・武将が神仏にすがっていたと謗られるのに耐え難い。だからここに安置して逃げる、って言うんですね。
――件の尊像は、武衛三歳の昔、乳母清水寺に参籠せしめ、嬰児の将来を祈り、懇篤に二七箇日を歴て、[ヨの下に火]夢(霊夢?)の告げを蒙り、忽然として二寸の銀の正観音像を得る。歸敬し奉る所なりと。 ・・・それで33歳の今日まで大事にしていた。(資料の参照)・・・鶴ヶ岡八幡所蔵の「銀造聖観音立像(髻観音)」の写真が載っていますが、江戸時代の造です。ただ時代を超えて頼朝の信仰心の深さを知る上でのひとつの資料として価値があります。

――晩に及び、北條殿椙山の陣に参着し給ふ。
――爰に筥根山の別當行實、弟僧永實を差し、御駄餉を持たしめ、武衛を尋ね奉る。・・・箱根権現の別当行實が弟の永實を北條殿の所へ差し向けたんです。
――而るに先ず北條殿に遇い奉り、武衛の御事を問 ふに、北條殿曰く、将は景親の囲みを遁れ給わず者(てへり)。
――永實云く、客はもし半僧が短慮を試さんとし給わんが為か。・・・もしや、あなたは私をスパイだと思っているのではないか。
――将亡ばしめ給わば、客は存るべからざるの人なり者(てへり)。・・・頼朝がしんでしまつたら、あなたがここにいるわけがないじゃないか、というんですね。
――時に北條殿頗る咲ってこれを相具し、將の御前に参り給ふ。
――永實件の駄餉を献ず。
――公私餓えに臨むの時なり。値すでに千金と<云々>。・・・困りきっている時で、その価値は値千金に及ぶ。
――實平云く、世上無為に属さば、永實筥根山別当職に撰補せられるべし宜てへれば、武衛またこれを諾し給ふ。
――その後永實を以て仕承(しじょう)と為し、密々に筥根山に到り給ふ。・・・仕承は案内者。
――行實の宿坊は参詣の緇素(しそ)群集するの間、隠密の事はその便無しと稱し、永實の宅に入れ奉る。

――謂わゆるに此れ行實は、父良尋の時、六條廷尉禅室並びに左典厩等に於いて、聊か其の好有り。茲に因って、行實京都に於いて父の譲りを得て、当山別當職に補せしむ。
――下向の刻、廷尉禅室下文を行實に賜ると稱す。
――東国の輩、行實、若し相催さば従ふべきと者(てへり)。左典厩の御下文に云く、駿河伊豆の家人等、行實相催さしめば従うべしと者(てへり)。・・・関東の武士たちは、もしその催しがあったならば従いなさい、ということであった。
――然る間、武衛北條に御坐するの比より、御祈祷を致し、専ら忠貞を存ずと。・・・頼朝のために祈祷していた。
――石橋合戦敗北の由を聞き、独り愁歎を含むと<云々>。・・・石橋山での敗北を耳にして行實はひとり哀しんでいた。
――弟等數有りと雖も、武芸の器を守り、永實を差進むと<云々>。・・・自分が出るわけにいかないので、弟が数人いる中でも武芸に秀でた〜試されてもそれを乗り切って頼朝に合えるような〜永實を差し向けた。

――三浦の輩、城を出て丸子河の邊りに来たり。・・・関東の武士は源氏に従っていたが、平治の乱の戦の後平氏に従った。三浦氏だけは、源氏に心を寄せて止まった。
――去んぬる夜より暁天を相待ち、参向せんと欲する處、合戦すでに敗北するの間、慮外(おもんばかりのほか)に馳せ歸る。・・・仕方なく引き返す
――其の路次由井浦に於いて、畠山の次郎重忠と數刻挑戦す。・・・石橋山の合戦の敗北を聞き帰る途中、由比ガ浜で畠山重忠と闘った。
――多々良の三郎重春并びに郎従石井の五郎等命を殞す。
――また重忠が郎従五十余■輩梟首の間、重忠退去す。
――義澄以下また三浦に歸る。
――此の間上総権の介廣常が弟金田の小大夫頼次、七十餘騎を率い義澄に加わると<云々>。・・・ 金田の小大夫頼次というのは、自分ひとりで74騎引き連れているだけの力を持っている。これが8月24日のことですが、9月19日には二万騎を率いることになります。頼朝は30騎を集めて、みんな相模・伊豆の小武士団で、石橋山で、景親の三千騎と闘う。甲斐源氏や○○は動かないんです。

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実は・・・本日は、どこまで行ったか、やったかゴチャゴチャして定かでないm(__)m
ノートに写していった本文がかなり足りなくて、先生が大幅に進度を上げてしまわれて、その書き写してなかった分がゴチャゴチャしてしまったのです(^_^;それと、写した文は読みにくい!!
テキストだと、すっと読めるのに、自分で書いた古活字体は読めないのですネェ(^_^;
この調子が続いたら考えなくてはなりませんなぁ・・・せっかくいい案だったのですが、やはり漢文形式というのは古文とは違うのよね(^^ゞ




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