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5月10日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 八月小24日〜29日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。


ぬぁ〜んと、本日は、講義の始めに先生からのプレゼント!がございました!最初は、・・・なんだか手帳みたいなのが山積になって、「歴史資料のハンドブックを配りますから、一人づつ取りに来てください」とおっしゃるので、ハテ?先生の顔で安く手に入る資料集でも買うことにしたのかな?と思ったら、これが、ナント、先生からの快気内祝い♪・・・つまりお見舞いのお礼ってことでしょうか(^^ゞ
去年、お倒れになったのが五月三十一日だったそうで、かれこれ一年、無事お元気になられて、そのお心祝い、ということ。それから、幹事さんが気を使って、何がしかのお見舞いを皆様の名前で送って下さったらしいので、そのお返し、というわけです(^^)

当然、お返し、だとかそんなことはおっしゃいません!「私も、ホントはこういうの作りたいと思っていたのですが、まあ○川書店という、こういう歴史資料集では有名な出版社でいいのがありましたのでね」とのお言葉(^^)
へぇ〜、これはまた洒落たことをなさるな、と思ったんです。それと、あ、やっぱり歴史の先生としては、こういうみんなが常備携帯という資料集って作りたいものなんだな、と納得♪
でぇ〜、先生、ホントに感無量、という面持ちで、「あれから一年たちますが、おかげさまでこんなに元気になりました」と、そういわれるとこちらまで感無量(;_;)いやいやめでたいことです。大事に使わせていただきますm(__)m

というわけで、本日の講義はこのハンドブックの使い方から始まりました。曰く、「これ一冊あれば何時間でも喋れます」\(^^)/
本当によくまあ集めに集めた日本史の資料諸々!おまけにナントルーペ付き!だって・・・こんなハンドブックって極小の活字で書いてありますからねぇ・・・中高生だってけっこう読むのは大変そうです(^^ゞ

というわけで・・・


。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

○廿四日甲辰。武衛陣于椙山内堀口邊給。大庭三郎景親相率三千餘騎重競走。武衛令逃後峯給。此間。加藤次景廉。大見平次實政。留于将之御後。防禦景親。而景廉父加藤五景員。實政兄大見平太政光。各依思子憐弟。不進前路。扣駕發矢。此外加藤太光員。佐々木四郎高綱。天野藤内遠景。同平内光家。堀藤次親家。同四郎助政。同并轡攻戰。景員以下乗馬。多中矢斃。武衛又廻駕。振百發百中之藝。被相戰及度々。其矢莫必不飲羽。所射殺之者多之。箭既窮之間。景廉取御駕之轡奉引深山之處。景親群兵近來于四五段際。仍高綱。遠景。々廉等。數反還合發矢。北條殿父子三人。亦與景親等。依令攻戰給筋力漸疲兮。不能登峯嶺之間。不奉從武衛。爰景員。光員。景廉。祐茂。親家。實政等。申可候御共之由。北條殿。敢以不可然。早々可奉尋武衛之旨被命間。各走攀登數町險阻之處、武衛者令立臥木之上給。實平候其傍。武衛令待悦此輩之參著給。實平云。各無爲参上。雖可喜之。令率人數給者。御隠居于此山。定難遂歟。於御一身者。縦渉旬月。實平加計略。可奉隠<云々>。而此輩頻申可候御共之由。又有御許容之氣。實平重申云。今別離者。後大幸也。公私全命。廻計於外者。盍雪會稽之耻哉<云々>。依之皆分散。悲涙遮眼。行歩失道<云々>。其後。家義奉尋御跡參上。所持參武衛御念珠也。是今暁合戰之時。令落于路頭給。日來持經之間。於狩倉邊相摸國之輩多以奉見之御念珠也。仍周章給之處。家義求出之。御感及再三。而家義申可候御共之由。實平如先諫申之間。泣退去訖。又北條殿。同四郎主等者。經筥根湯坂。欲赴甲斐國。同三郎者。自土肥山降桑原。經平井郷之處。於早河邊。被圍于祐親法師軍兵。爲小平井名主紀六久重。被射取訖。茂光者。依行歩不進退自殺<云々>。将之陣與彼等之戰場。隔山谷之間。無據于吮疵。哀慟千萬<云々>。景親追武衛之跡。捜求嶺溪。于時有梶原平三景時者。慥雖知御在所。存有情之慮。此山稱無人跡。曳景親之手登傍峯。此間。武衛。取御髻中正觀音像。被奉安于或巖窟。實平奉問其御素意。仰云。傳首於景親等之日。見此本尊。非源氏大将軍所爲之由。人定可貽誹<云々>。件尊像者。武衛三歳之昔。乳母令參籠清水寺。祈嬰兒之将來。懇篤歴二七箇日。蒙[ヨの下に火]夢之告。忽然而得二寸銀正觀音像。所奉歸敬也<云々>。及晩。北條殿參著于椙山陣給。爰筥根山別當行實。差遣弟僧永實。令持御駄餉。奉尋武衛。而先奉遇北條殿。問武衛御事。北條殿曰。将者不遁景親之圍給者。永實云。客者若爲試羊僧之短慮給歟。将令亡給者。客者可存之人也者。于時北條殿頗咲而相具之。參将之御前給。永實献件駄餉。公私臨餓之時也。直已千金<云々>。實平云。世上屬無爲者。永實宜被撰補筥根山別當職者。武衛亦諾之給。其後以永實爲仕承。密々到筥根山給。行實之宿坊者。參詣緇素群集之間。隠密事稱無其便。奉入永實之宅。謂此行實者。父良尋之時。於六條廷尉禪室并左典厩等。聊有其好。因茲。行實於京都得父之讓。念補當山別當職。下向之刻。廷尉禪室賜下文於行實[イに]。東國輩。行實若相催者可從者。左典廐御下文云。駿河伊豆家人等。行實令相催者可從者。然間。武衛。自御坐于北條之比。致御祈祷。専存忠貞<云々>。聞石橋合戰敗北之由。獨含愁嘆<云々>。弟等雖有數。守武藝之器。差進永實<云々>。三浦輩出城來于丸子河邊。自去夜相待暁天。欲參向之處。合戰已敗北之間。慮外馳歸。於其路次由井浦。与畠山次郎重忠。數尅挑戰。多々良三郎重春并郎從石井五郎殞命。又重忠郎從五十餘・輩梟首之間。重忠退去。義澄以下又歸三浦。此間。上総權介廣常弟金田小大夫頼次率七十餘騎加義澄<云々>。

――24日甲辰(こうしん)。
――武衛は椙山の内、堀口の邊りに陣し給う。
――大庭の三郎景親、三千余騎を相率いて、重ねて競走す。
――武衛は後の峰に逃がれしめ給ふ。
――此の間、加藤次景廉、大見の平次實政、将の御後に留まり、景親を防禦す。
――而るに景廉の父加藤五景員、實政の兄大見の平太政光は、各々子を思い弟 を憐れむに依りて、前路を進まず、駕を扣えて(ひかえて)矢を発す。
――この外加藤太光員、佐々木の四郎高綱、天野の籐内遠景、同平内光家、堀の籐次親家、同平四郎助政、同じく轡を並べ攻戦す。
――景員以下の乗馬、多く矢に中り(あたり)斃れ(たおれ)死す。
――武衛はまた駕(うま)を廻し、百発百中の芸を振り、相戦わるること度々に及ぶ。
――其の矢必ず羽を飲まざること莫く、射殺す所の者これ多し。
――箭すでに窮まるの間、景廉御駕の轡を取り、深山 に引き奉るの処、景親の群兵は四五段の際に近づき来たる。
――仍って高綱、遠景、景廉等は、数反に還り合わせ矢を發す。

――北條殿父子三人、また景親等と攻戦せしめ給うに依りて、筋力漸く疲れ、峯嶺に登ること能わざるの間、武衛に従い奉らず。
――爰に景員、光員、景廉、祐茂、親家、實政等は、御共に候すべきの由を申す。
――北條殿は敢えて以て然るべからず、早く武衛を尋ね奉るべき旨命ぜらるるの間、各々走しりて數町の険阻を攀じ登るの處、武衛は臥木の上に立たしめ給ふ。
――實平は其の傍らに候ふ(さぶらふ)。
――武衛はこの輩の参着を待ち悦ばしめ給ふ。
――實平云く、各々無為の参上を、これを喜ぶべしと雖も、人数を率いしめ給わば、この山に御隠居するは、定めて遂に難きか。
――御一身に於いては、縦は旬月に渉る。
――實平は計略を加えて、隠し奉るべしと。<云々>
――而るにこの輩は皆御共候すべきの由を申す。
――また御許容の気有り。
――實平重ねて申して云く、今の別離は後の大幸なり。公私は命を全うし、計りを外に廻らさば、会稽の恥を雪ぐべけんやと<云々>。
――これに依って皆分散す。
――悲涙眼を遮り、行歩道を失うと<云々>。

――其の後家義は御跡を尋ね奉り参上す。
――武衛の念珠を持参する所なり。
――是れは今暁合戦の時、路頭に落せしめ給ふ。
――日来持ち給ふの間、狩倉の邊りに於いて、相模の国の輩多く以て見奉るの御念珠なり。
――仍って周章し給ふの處、家義はこれを求め出す。
――御感再三に及ぶ。
――而るに家義は御共に候ふべきの由を申す。
――實平は前の如く諫め申すの間、泣きて退去しをはんぬ。

――また北條殿、同四郎主等は、筥根湯坂を経て、甲斐の国に赴かんと欲す。
――同三郎は、土肥の山より桑原に降り、平井郷を経るの處、早河の邊りに於いて、祐親法師の軍兵に囲まれ、小平井の名主の紀六久重の為射取られをはんぬ。・・・北條三郎は、政子のお兄さん、この時殺されてしまいます。
――茂光は行歩進退せざるに依って自殺すと<云々>。・・・工藤茂光は疲れて歩けなくなって自殺してしまったんですね。
――将の陣と彼等の戦場と、山谷を隔つるの間、疵を吮うに拠無く、哀慟千万なりと<云々>。

――景親武衛の跡を追いて、嶺渓を捜し求む。
――時に梶原平三景時と云う者有り。・・・丁度その時梶原平三景時と言う者があったー初めて登場したんです。
――慥に(たしかに)御在所を知ると雖も、有情の慮(おもんばかり)を存じ、この山に人の跡無しと稱して、景親の手を曳き傍峰に登る。 ・・・確かに御座所を知っていたけれど、ここには誰もいないといって景親の手を引いて行ってしまった。この時景時が助けなければ、鎌倉幕府は開けたか?平家は誰かが討ったかもしれませんが、鎌倉幕府は開けなかったかもしれない。

治承5年の1月11日の吾妻鑑に、(景時が頼朝の命を救って) 「梶原平三景時、仰せに依って初めて御前に参す。去んぬる年の窮冬、實平相具し参る所なり。文筆に携わらずと雖も、言語を巧みにするの士なり。専ら賢慮に相叶うと。」とあります。文筆は言語を巧みとす、言葉が巧いんですね。賢慮に相叶う、頼朝の意にかなう人として幕府の御家人になった。頼朝の長男が生まれた時も乳母夫となる。屋島の戦いで義経に先を越されて意趣を含んで讒言する、ということになるんです。


――此の間、武衛は御髻(おんもとどり)の中の正観音像を取り、或る巌窟に安じ奉らる。・・・或る巌窟って鵐(しとど)の岩屋です。
――實平その御素意を問い奉る。
――仰せて云く、首を景親等に傳うの日、此の本尊を見て、源氏の大将軍の所為に非ざるの由、人定めて誹りを貽すべしと<云々>。・・・武将が神仏にすがっていたと謗られるのに耐え難い。だからここに安置して逃げる、って言うんですね。
――件の尊像は、武衛三歳の昔、乳母清水寺に参籠せしめ、嬰児の将来を祈り、懇篤に二七箇日を歴て、[ヨの下に火]夢(霊夢?)の告げを蒙り、忽然として二寸の銀の正観音像を得る。歸敬し奉る所なりと。 ・・・それで33歳の今日まで大事にしていた。(資料の参照)・・・鶴ヶ岡八幡所蔵の「銀造聖観音立像(髻観音)」の写真が載っていますが、江戸時代の造です。ただ時代を超えて頼朝の信仰心の深さを知る上でのひとつの資料として価値があります。

――晩に及び、北條殿椙山の陣に参着し給ふ。
――爰に筥根山の別當行實、弟僧永實を差し、御駄餉を持たしめ、武衛を尋ね奉る。・・・箱根権現の別当行實が弟の永實を北條殿の所へ差し向けたんです。
――而るに先ず北條殿に遇い奉り、武衛の御事を問 ふに、北條殿曰く、将は景親の囲みを遁れ給わず者(てへり)。
――永實云く、客はもし半僧が短慮を試さんとし給わんが為か。・・・もしや、あなたは私をスパイだと思っているのではないか。
――将亡ばしめ給わば、客は存るべからざるの人なり者(てへり)。・・・頼朝がしんでしまつたら、あなたがここにいるわけがないじゃないか、というんですね。
――時に北條殿頗る咲ってこれを相具し、將の御前に参り給ふ。
――永實件の駄餉を献ず。
――公私餓えに臨むの時なり。値すでに千金と<云々>。・・・困りきっている時で、その価値は値千金に及ぶ。
――實平云く、世上無為に属さば、永實筥根山別当職に撰補せられるべし宜てへれば、武衛またこれを諾し給ふ。
――その後永實を以て仕承(しじょう)と為し、密々に筥根山に到り給ふ。・・・仕承は案内者。
――行實の宿坊は参詣の緇素(しそ)群集するの間、隠密の事はその便無しと稱し、永實の宅に入れ奉る。

――謂わゆるに此れ行實は、父良尋の時、六條廷尉禅室並びに左典厩等に於いて、聊か其の好有り。茲に因って、行實京都に於いて父の譲りを得て、当山別當職に補せしむ。
――下向の刻、廷尉禅室下文を行實に賜ると稱す。
――東国の輩、行實、若し相催さば従ふべきと者(てへり)。左典厩の御下文に云く、駿河伊豆の家人等、行實相催さしめば従うべしと者(てへり)。・・・関東の武士たちは、もしその催しがあったならば従いなさい、ということであった。
――然る間、武衛北條に御坐するの比より、御祈祷を致し、専ら忠貞を存ずと。・・・頼朝のために祈祷していた。
――石橋合戦敗北の由を聞き、独り愁歎を含むと<云々>。・・・石橋山での敗北を耳にして行實はひとり哀しんでいた。
――弟等數有りと雖も、武芸の器を守り、永實を差進むと<云々>。・・・自分が出るわけにいかないので、弟が数人いる中でも武芸に秀でた〜試されてもそれを乗り切って頼朝に合えるような〜永實を差し向けた。

――三浦の輩、城を出て丸子河の邊りに来たり。・・・関東の武士は源氏に従っていたが、平治の乱の戦の後平氏に従った。三浦氏だけは、源氏に心を寄せて止まった。
――去んぬる夜より暁天を相待ち、参向せんと欲する處、合戦すでに敗北するの間、慮外(おもんばかりのほか)に馳せ歸る。・・・仕方なく引き返す
――其の路次由井浦に於いて、畠山の次郎重忠と數刻挑戦す。・・・石橋山の合戦の敗北を聞き帰る途中、由比ガ浜で畠山重忠と闘った。
――多々良の三郎重春并びに郎従石井の五郎等命を殞す。
――また重忠が郎従五十余■輩梟首の間、重忠退去す。
――義澄以下また三浦に歸る。
――此の間上総権の介廣常が弟金田の小大夫頼次、七十餘騎を率い義澄に加わると<云々>。・・・ 金田の小大夫頼次というのは、自分ひとりで74騎引き連れているだけの力を持っている。これが8月24日のことですが、9月19日には二万騎を率いることになります。頼朝は30騎を集めて、みんな相模・伊豆の小武士団で、石橋山で、景親の三千騎と闘う。甲斐源氏や○○は動かないんです。

○廿五日乙巳。大庭三郎景親爲塞武衛前途分軍兵。關固方々之衢。」俣野五郎景久。相具駿河國目代橘遠茂軍勢。爲襲武田一條等源氏。赴甲斐國。而昨日及昏黒之間。宿冨士北麓之處。景久并郎從所帶百餘張弓弦。爲鼠被[冫食]切畢。仍失思慮之刻。安田三郎義定。工藤庄司景光。同子息小次郎行光。市川別當行房。聞於石橋被遂合戰事。自甲州發向之間。於波志太山。相逢景久等。各廻轡飛矢。攻責景久。挑戰移刻。景久等依絶弓弦。雖取太刀。不能禦矢石。多以中之。安田已下之家人等。又不免劒刃。然而景久令雌伏逐電<云々>。武衛、御坐筥根山之際。行實之弟智藏房良暹。以故前廷尉兼隆之祈祷師。背兄弟<行實永實>等。忽聚惡徒。欲奉襲武衛。永實聞此事。告申武衛与兄行實之間。行實計申云。於良暹之武勇者。強雖非可怖。及奉謀之儀者。景親等定傳聞之。競馳合力歟。早可令遁給者。仍召具山案内者。實平并永實等經筥根通。赴土肥郷給。北條殿者。爲達事由於源氏等。被向甲斐國。行實差同宿南光房奉送之。相伴件僧。經山臥之巡路。赴甲州給。而不見定武衛到著之所者。雖欲催具源氏等。彼以不許容歟。然者猶追御後令參上。自御居所。更爲御使。可顔向之由。心中令思案之。立還又尋土肥方給。南光者赴本山<云々>

――25日乙巳(おつみ)。
――大庭の三郎景親、武衛の前途を塞がんが為、軍兵を関に分ちて方々の衢(ちまた)を關固す。
――俣野の五郎景久、駿河の国の目代橘の遠茂が軍勢を相具し、武田・一條等の源氏を襲わんが為、甲斐の國に赴く。・・・俣野氏というのは一遍上人に所領を与えて保護した人です。
――而るに昨日昏黒に及んでの間、富士の北麓に宿すの處、景久并びに郎従帯する所の百余張の弓弦、鼠の爲に喰い切られ畢(おはんぬ)。
――仍って思慮を失うの刻(みぎり)、安田の三郎義定、工藤庄司景光、同子息小三郎行光、市川別當行房(ぎょうぼう)、石橋に於いて合戦を遂げらるるの事を聞き、甲州より發向するの間、波志太山に於いて景久等に相逢う。
――各々轡を廻らし矢を飛ばし、景久を攻め責む。
――挑戦刻を移す。
――景久等弓弦を絶つに依って、太刀を取ると雖も、矢石を禦ぐこと能わず。
――多く以てこれに中る(あたる)。
――安田已下の家人等は、また剱刃を免れず。
――然るに景久は雌伏せしめ逐電すと<云々>。


――武衛筥根山に御坐するの際、行實の弟智蔵房良暹(りょうせん)、故前の廷尉兼隆の祈祷師を以て、兄弟<行實永實>等に背き、忽ち惡徒を聚め、武衛を襲い奉らんと欲す。・・・惡徒は武力を持った武士です。箱根権現の別当一族も色々と分かれている、ってことですね。所領を持つ保守勢力としてどちらに就くか考え中なんですね。

――永實は此の事を聞き、武衛と兄行實とに告げ申すの間、行實は計らい申して云く、良暹の武勇に於いては、強ち怖るべきに非ずと雖も、謀り奉るの儀に及ばば、景親等定めてこれを傳え聞き、競い馳せ合力せんか。早く遁れしめ給うべしとてへり。
――仍って山の案内者を召具し、實平并びに永實等は、筥根通を經て土肥の郷に赴き給ふ。
――北條殿は事の由を源氏等に達せんが為、甲斐の国に向かわる。
――行實は同宿の南光房を差してこれを送り奉る。
――件の僧を相伴い山臥の巡路を経て、甲州に赴き給ふ。
――而るに武衛到着の所を見定めずんば、源氏等を催し具さんと欲すと雖も、彼らを以て許容せざると。
――然れば猶御後を追い参上せしむ。
――御居所より更に御使いとして、顔向すべきの由、心中これを思案せしむ。
――立ち還りまた土肥の方を尋ね給ふ。
――南光は本山に赴くと<云々>。・・・北條氏は土肥から頼朝の無事を確認して、甲州に向かったんです。そのあと、南光は本山に向かった、と。

◎今回はちょっと突っ走って講義した分、六月に補足もありましたので、○廿六日丙午の分より、六月の分に併せて掲載します。

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今回は、先生のプレゼントの資料集で盛り上がっちゃったのと、三浦氏の系図と三浦半島地図のチェックが多くて、講義事態はけっこう突っ走ってしまいました(^^ゞ六月にちょっとダブって講義がありましたので、六月に一緒に掲載します。
(三浦氏の系図については、前回もご紹介した「Area2」さんの三浦の系図を参照してくださいませ。)

もっとも「義明討死」は三月の講義でもちょっとやりましたから、ね。
先生も脱線が多いのは喜ばれるとは知りながら進度もけっこう気になるらしく、今日は突っ走りでした(^_^;
それにしても、六月の第二は世界史にぶつかるから、センター長としての手前、第三になるのでは・・・と淡い期待をしていたのに、六月も第二です、ということでガックリ(^_^;仕方ない!!世界史はテープを借りることにしましょう(^^ゞ



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