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6月14日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 8月26日〜9月3日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

先月ちょっと突っ走ってしまったところがあって、今回はちょっとダブって講義がありましたので、今回一緒に掲載します。


○廿六日丙午。武藏國畠山次郎重忠。且爲報平氏重恩。且爲雪由井浦會稽。欲襲三浦之輩。仍相具當國黨々。可來會之由。觸遣河越太郎重頼。是重頼於秩父家。雖爲次男流。相繼家督。依從彼黨等。及此儀<云々>。江戸太郎重長同与之。今日卯剋。此事風聞于三浦之間。一族悉以引籠于當所衣笠城。各張陣。東木戸口<大手>。次郎義澄。十郎義連。西木戸。和田太郎義盛。金田大夫頼次。中陣。長江太郎義景。太多和三郎義久等也。及辰尅。河越太郎重頼。中山次郎重實。江戸太郎重長。金子。村山輩已下數千騎攻來。義澄等雖相戰。昨<由比戦>今兩日合戰。力疲矢盡。臨半更捨城逃去。欲相具義明。々々云。吾爲源家累代家人。幸逢于其貴種再興之秋也。盍喜之哉。所保已八旬有余也。計餘[竹カンムリに弄]不幾。今投老命於武衛。欲募子孫之勲功。汝等急退去兮。可奉尋彼存亡。吾獨殘留于城郭。摸多軍之勢。令見重頼<云々>。義澄以下涕泣雖失度。任命憖以離散訖。又景親行向澁谷庄司重國許云。佐々木太郎定綱兄弟四人屬武衛奉射平家畢。其科不足宥。然者。尋出彼身之程。於妻子等者。可爲囚人者。重國荅云。件輩者。依有年來芳約。加扶持訖。而今重舊好而參源家事。無據于加制禁歟。重國就貴殿之催。相具外孫佐々木五郎義清。向石橋之處。不思其功。可召禁定綱已下妻子之由蒙命。今更所非本懷也者。景親伏理。歸去之後。入夜。定綱。盛綱。高綱等出筥根深山之處。行逢醍醐禪師全成。相伴之到于重國澁谷之舘。重國乍喜。憚世上之聽。招于庫倉之内。密々羞膳勧酒。此間。二郎經高者被討取歟之由。重國問之。定綱等云。令誘引之處。稱有存念。不伴來者。重國云。存子息之儀已年久。去比參武衛之間。重國一旦雖加制不叙用之。遂令參畢。合戰敗績之今。耻重國心中不來歟者。則遣郎從等於方々令相尋<云々>。重國有情。聞者莫不感<云々>

――26日丙午(へいご)
――武蔵の國畠山の次郎重忠は、且つは平氏の重恩に報いんが爲、且つは由比浦の会稽を雪がんが爲、三浦の輩を襲わんと欲す。――仍って當國の黨々を相具し來會すべきの由、河越の太郎の重頼に觸れ遣わす。
――是れは、重頼は秩父の家に於いて次男の流れたりと雖も、家督を相継ぎ、彼の黨等を從うに依りて、この儀に及ぶと<云々>。
――江戸の太郎重長は、同じくこれに与す(くみす)。
――今日卯の刻、此の事三浦に風聞するの間、一族悉く以て當所衣笠城に引き籠もりて、各々陣を張る。
――東の木戸口<大手>は次郎義澄、十郎義連。・・・(先生手書きの地図参照)次郎義澄は薬王寺、十郎義連は佐原十郎で満願寺。
――西の木戸は和田の太郎義盛、金田の大夫頼次。・・・金田の大夫頼次と言う人はここまでで、後出てこないので、ここで討死した、かとも考えられます。
――中の陣は長江の太郎義景、大多和の三郎義久等なり。・・・長江は長柄とも書きます。大多和の三郎も三浦一族です。
――辰の尅に及んで、河越の太郎重頼、中山の次郎重實、江戸の太郎重長、金子、村山の輩已下数千騎攻め来たる。・・・辰の尅は午前八時ころ。
――義澄等は相戦うと雖も、昨(由比の戦い)今両日の合戦に、力疲れ矢尽き、半更に臨み、城を捨て逃げ去る。
――義明を相具さんと欲するに、義明云く、吾は源家累代の家人として、幸いにもその貴種再興の秋に逢うなり。盍(けだし)これを喜ばざらんや。
――保つ所すでに八旬有余なり。餘算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛に投げうち、子孫の勲功に募らんと欲す。・・・八旬有余、89歳餘。
――汝等は急ぎ退去して、彼の存亡を尋ね奉るべし。吾は獨り城郭に残留し、多軍の勢を模して、重頼に見せしめんとすと<云々>。
――義澄以下涕泣し度(はからい)を失うと雖も、命に任せて、憖(なまじいに)以て離散しおはんぬ。・・・命に任せて、憖(なまじいに)以て、これは武士団の棟梁の命令なんですね。大変重いんです

↑ここ、先月もやって授業中にウルウル来たトコです(^_^;・・・筆者)

――又、景親、澁谷庄司重國の許に向ひて云く、佐々木の太郎定綱兄弟四人、武衛に属し平家を射奉り畢(おわんぬ)。其の科(とが)宥すに足らず。
――然者(しかれば)。彼の身を尋ね出だす之程、妻子等に於いて者(は)、囚人と爲すべしと者(てへり)。

・・・「佐々木の太郎」から下は景親が言った言葉で鍵かっこでくくるところです。以下は景親と重國のやり取りです。
景親は「佐々木の太郎定綱兄弟四人、武衛に属し平家を射奉り畢(おわんぬ)。其の科(とが)宥すに足らず。然者(しかれば)。彼の身を尋ね出だす之程、妻子等に於いて者(は)、囚人と爲すべし」・・・佐々木の兄弟四人は武衛について平家を討とうとした。その咎は許すことは出来ない。だから彼ら身を尋ねだすまで妻子は囚えなさい、と言った、というんですね。景親は大庭氏。三千騎を擁している平家の武将です。武衛は石橋山で三百騎ですね。

――重國荅へい云ふ。件の輩者(は)。年來の芳約有るに依有りて、扶持を加え訖(おわんぬ)。
――而今舊好を重んじて源家に參ずる事、制禁を加うる據無き歟(か)。重國、貴殿之催しに就いて、外孫佐々木五郎義清を相具し、石橋之處に向かうの處、其の功を思わず、定綱已下の妻子を、召禁すべしの由、命を蒙る。
――今更、本懷に非ざる所也と者(てへり)。
重國は答えて「件の輩者(は)・・・今更、本懷に非ざる所也」・・・「年来の芳約」というのは佐々木兄弟の父の佐々木秀義は重國の娘も妻の一人にしているんですね。で、定綱・盛綱・高綱(母は義朝の父為義女、つまり頼朝の伯母にあたる)と経高(母は宇都宮氏)の四人と、その下に重國の娘が生んだ五男の義清がいるんです。そこで、あの者達は年来の芳約があるのでお世話をした。そして、あの者たちは、前々からの旧交を重んじて源家に味方しようとしたのをどうして止められようか。重國はー自分はまた貴殿ー景親との意思に従って、外孫というのは、佐々木秀義と娘の間に生まれた五郎義清を伴って、平氏として石橋山に行ったのに、今更、妻子までも囚人にするとは、自分の功を思わず所也」と言ったんですね。五郎義清は景親の娘を妻にしています。

――景親、理に伏す。・・・景親はその重國の理屈に引き下がったんです。

――歸去之後、夜に入りて、定綱、盛綱、高綱等、筥根深山を出ずる之處、醍醐の禪師全成に行き逢い、之を相伴い、重國澁谷之舘に到る。・・・全成は(系図参照)頼朝の異腹の弟。常盤の子どもです。平治の乱の後、三人の子ー今若・音若・牛若を連れて逃げるが、捕らわれて清盛の妾になるんです。今若が全成です。音若が蒲冠者範頼、牛若が義経です。みんな別々の寺に預けられる。牛若は鞍馬寺、音若はどこでしたかね、義円といいます。今若は醍醐寺に預けられて、後に還俗して阿野全成といいます。政子の妹を妻にして、この時駿河に来ていたんです。
――重國喜び乍ら、世上之聽こえを憚る。・・・重國は心理的に既に源氏です。佐々木兄弟が可愛くて仕方がない。だから、源氏に好意を持つんです。しかし「世上之聽こえ」世の中はまだ平氏。
――庫倉之内に招きて、密々に膳を羞め、酒を勧む。
――此間、二郎經高者(は)討取らるる歟之由、重國、之を問ふ。・・・經高は討ち取られたのか、と聞く。心配で仕方ないのね。
――定綱等云く、誘引せ令む之處、有存念有りと稱し、伴に來たらずと者(てへり)。・・・定網が「誘ったんだけれど、考えるところがあるからといって、一緒に来なかったんですよ」と言った。

――重國云く、子息之儀を存じ已に年久し。
――去比(さんぬるころおい)武衛に參る之間、重國一旦制するに加ふると雖も、之を叙用せず。
――遂に參り令め畢(おわんぬ)。
――合戰敗績之今、重國心中を耻じ、來らざる歟と者(てへり)。
――則ち郎從等を方々に遣わし相尋ね令むと<云々>。・・・重國は、もうずっと前からお前たちの気持ちはわかっていたから、武衛の所に参上するのを一旦止めたけれど遂に源氏に加わってしまった。合戦に敗れてしまった今、私に合わす顔がないといってこないのか、といった。そして郎従をあちこちに遣わして經高の安否を尋ねさせたんです。
――重國の有情、聞く者感ぜざるは莫しと<云々>

筆者の呟き・・・この辺、老武者重國の面目躍如だよねぇ♪大体、佐々木秀義の人柄に惚れて陸奥の藤原氏の所に行く途中を留めて自分の娘まで遣った訳ですから。それほどの男の息子たちですよね。だから、自分の娘の恋敵の産んだ子、ということではないんでしょうね。自分の娘が生んだ子も佐々木秀義の子、この子たちも秀義の子、だったら全〜部自分の孫、という感覚なのでしょう(^^)凄いよね♪まあ、それに殆どここで育ったんだろうし、高綱なんてここ、庄司の郷で生まれていたのかもしれないしね)

○廿七日丁未。朝間小雨。申尅已後。風雨殊甚。辰尅。三浦介義明<年八十九>。爲河越太郎重頼。江戸太郎重長等。被討取。齡八旬餘。依無人于扶持也。義澄等者。赴安房國。北條殿。同四郎主。岡崎四郎義實。近藤七國平等。自土肥郷岩浦令乗船。又指房州解纜。而於海上並舟船。相逢于三浦之輩。■述心事伊欝<云々>。此間。景親率數千騎。雖攻來于三浦。義澄等渡海之後也。仍歸去<云々>。 加藤五景員并子息光員。景廉等。去廿四日以後。三箇日之間。在筥根深山。各粮絶魂疲。心神惘然。就中景員衰老之間。行歩進退谷也。于時訓兩息云。吾齡老矣。縱雖開愁眉。不可有延命之計。汝等以壯年之身。徒莫殞命。弃置吾於此山。可奉尋源家者。然間。光員等周章雖斷膓。送老父於走湯山。<於此山。景員遂出家云々>。兄弟赴甲斐國。今夜亥刻。刻著于伊豆國府。抜土之處。土人等怪之。追奔之間。光員。景廉共以分散。■不知行方<云々>

――27日丁未(ていみ)。朝間小雨。申の尅已後、風雨殊に甚だし。
――辰尅。三浦介義明<年八十九>。河越太郎重頼、江戸太郎重長等の爲に討取らる。齡八旬餘。
――扶持するに人無きに依りて也。
――義澄等者(は)、安房の國に赴く。・・・三浦氏は三浦と房総に所領を持ち、平塚の中村党の娘をもらって平塚にも拠点がある、東京湾をはさんで巨大勢力を張る相模の國の大きな武士団です。頼朝にとっては大変頼りになる。

――北條殿、同四郎主、岡崎四郎義實、近藤七國平等、土肥の郷岩浦より乗船せしむ。又房州を指し纜(ともずな)を解く。・・・「殿」とか「主」とか書いてあるのは吾妻鏡が北條氏のものだからです。
ここまで、伊豆山を出て、箱根、土肥、伊豆に着いた。ここから房総を目指します。房総半島は上総と下総に別れています。そこから、勢力を整えて10月に鎌倉に入るんです。

――而るに海上に於いて舟船(しゅうせん)を並べ、三浦之輩に相逢う。
――[■は互の変体字、互い]に心事の伊欝(いうつ)を述ぶると<云々>。・・・「心事の伊欝(いうつ)」今までの敗戦や面白からぬ戦況。
――此の間、景親、數千騎を率いて、三浦を攻め來たると雖も、義澄等渡海之後也。仍って歸去すと<云々>。
――加藤五景員并びに子息光員、景廉等、去んぬる廿四日以後、三箇日之間、筥根深山に在り。・・・加藤氏というのは藤原氏の流れと言う説があります。
――各(おのおの)粮絶え魂疲れ、心神惘然たり。
――就中(なかんずく)景員は衰老之間、行歩進退の谷也。
――時に兩息に訓じて云く、吾、齡老いたり。縱え愁眉を開くと雖も、延命之計り有るべからず。
――汝等、壯年之身を以って、徒に命を殞す(なくす)莫れ。
――吾を此山に弃置(すておき)、源家を尋ね奉るべしと者(てへり)。
――然間(しかるあいだ)、光員等周章し斷膓すと雖も、老父を於走湯山に送る。<此山にて景員出家を遂ぐと云々>。・・・走湯権現まで送って行って、ここで景員は出家をしてしまうんです。
――兄弟は甲斐の國に赴く。
――今夜亥刻、伊豆の國府に到着す。抜土之處、土人等之を怪しみ、追奔之間、光員、景廉共以って分散す。[■は互の変体字]で互いに行方を知らずと<云々>


○廿八日戊申。光員。廉景兄弟。於駿河國大岡牧各相逢。悲涙更濕襟。然後引籠冨士山麓<云々>。」 武衛。自土肥眞名鶴崎乗船。赴安房國方給。實平仰土肥住人貞恒。粧小舟<云々>。自此所。以土肥彌太郎遠平爲御使。被進御臺所御方。被申別離以後愁緒<云々>。

――8月28日戊申(戊辰)。
――光員、廉景兄弟は、駿河の國大岡の牧に於いて各(おのおの)相逢う。悲涙更に襟を濕す(しめす)。・・・「牧」というのは牛馬を飼育する国家の放牧場。関東に多い。関東を支配下に置くために多く作られた。
――然後、冨士山麓に引籠ると<云々>。

――武衛は、土肥の眞名鶴崎(まなづるがさき)より乗船し、安房の國の方へ赴き給ふ。・・・謡曲にある「七騎落」です。
――實平は、土肥住人貞恒を仰せて、小舟を粧うと<云々>。
――此所より、土肥彌太郎遠平を以って御使いと為し御臺所の御方に進めらる。
――別離以後の愁緒を申さるると<云々>。・・・御台所の政子はずっと伊豆山権現に隠れていたんです。
  

○廿九日己酉。武衛。相具實平。掉扁舟令著于安房國平北郡獵嶋給。北條殿以下人々拜迎之。數日欝念。一時散開<云々>。

――29日己酉(きゆう)。
――武衛は實平を相具し、扁舟に掉し、安房の國平北郡獵嶋(りょうしま)に着かせ令め給ふ。・・・「扁舟」は「小さな」小舟。「安房の國」は上総〜下総。・・・(本日の資料参照)内房の地図に「源頼朝上陸地」とあります。獵嶋(りょうしま)は、今の館山です。頼朝上陸の場所として、1935年(昭和25年)県の指定になってます。「源頼朝上陸地」の立て札を写真に撮ってあったので、それも資料に載せてあります。それによると、「頼朝上陸当時の安房の国情は安西・神余(かなまり)・丸・東条・長狭(ながさ)の五氏がほぼ國を五分して領国支配をしていた」とあります。
「源平盛衰記」には「須崎のりゅうしま」と言う風に書かれていたのですが、早稲田のオオモリシンゴロウ氏(聞き違いかナァ・・・ないよ!早稲田にそういう名前(^_^;)によって、この「吾妻鏡」の一文が考証されたんです。

――北條殿以下、人々、之を拜迎す。・・・先に到着していた北條氏の一行が迎えるんです。石橋山で敗退した頼朝がわずかの人数で真鶴から千葉の獵嶋(りょうしま)に渡る。これが8月29日です。それが11月に鎌倉に入る時は10万騎になっているんですね。
――數日欝念し、一時散開すと<云々>。

(これをやるつもりだったんですよねぇ・・・と、先生は今も悔しそう(^^ゞ「でも、船の中で具合が悪くなっていたら、もう駄目でした!」と、思いを吹っ切るように・・・でも、これ何度目かです・・・またこの地名とか、七騎落ちの話が出ると歎くんだろうな・・・お気の毒のような、おかしいような(^_^;

○九月大○一日庚戌。武衛可有渡御于上総介廣常許之由被仰合。北條殿以下各申可然之由。爰安房國住人安西三郎景益者。御幼稚之當初。殊奉昵近者也。仍最前被遣御書。其趣。令旨嚴密之上者。相催在廳等。可令參上。又於當國中京下之輩者。悉以可搦進之由也。

――9月1日庚戌(こうじつ)
――武衛は上総の介廣常の許に渡御有るべきの由仰せ合わさる。・・・上総の介廣常は失うものが多くて日和見をしていたんです。9月19日に二万騎を率いて参上して、頼朝に喜ばれると思っていたんだけど、なんだ今頃、と遅参を叱られるんです。
――北條殿以下、各々然るべきの由を申す。
――爰に安房の國の住人安西の三郎景益は、御幼稚の当初、殊に昵近し奉る者なり。・・・「安西の三郎景益」は安房の國の在地領主。
――仍って最前に御書を遣わさる。
――其の趣、令旨厳密の上は、在廰(ざいちょう)等を相催し参上せしむべし。・・・「在廰(ざいちょう)」というのは国府の中の国衙。国司の代理人です。地方の豪族がなっている。(アレレ?国衙って国司の役所じゃなかったっけ(^^ゞ聞き違えたでしょうか・・・後で広辞苑確認したらやはり「国司の役所」です・・・筆者)
――又、當國中、京下の輩は、悉く以て搦(からめ)進むべきの由なり。・・・「 京下の輩」は京都から来ている者たち、つまり、平家の處からやって来ている者は全て絡め取れ、と言ってるんです。


○二日辛亥。御臺所自伊豆山遷秋戸郷給。不奉知武衛安否。獨漂悲涙給之處。今日申尅。土肥彌太郎遠平爲御使自眞名鶴崎參著。雖申日來子細。不被知食御乗船後事。悲喜計會<云々>

――2日辛亥(しんがい)。
――御臺所伊豆山より秋戸の郷に遷り給ふ。
――武衛の安否を知り奉らず、獨り悲涙を漂い給ふの處、今日申の尅、土肥の彌太郎遠平御使いとして、眞名鶴崎より参着す。日来の子細を申すと雖も、御乗船後の事を知ろしめされず。悲喜計會すと<云々>。・・・8月28日に真鶴を出港するときに使いを出して、伊豆山権現に着いたのは9月2日です。だから、 土肥彌太郎もその後どうなったか、無事についたことを知らないんです。


○三日壬子。景親乍爲源家譜代御家人。今度於所々奉射之次第。一旦匪守平氏命。造意企已似有別儀事。但令一味彼凶徒之輩者。武藏相摸住人計也。其内。於三浦中村者。今在御共。然者景親謀計有何事哉之由。有其沙汰。仍被遣御書於小山四郎朝政。
下河邊庄司行平。豐嶋權守清元。葛西三郎清重等。是各相語有志之輩。可參向之由也。就中。清重於源家抽忠節者也。而其居所在江戸河越等中間。進退難治定歟。早經海路。可參會之旨。有慇懃之仰<云々>。又可調進綿衣之由。被仰豐嶋右馬允朝經之妻女<云々>。朝經在京留守之間也。今日、自平北郡赴廣常居所給。漸臨昏黒之間。止宿于路次民屋給之處。當國住人長狹六郎常伴。其志依在平家。今夜擬襲此御旅舘。而三浦二郎義澄爲國郡案内者竊聞彼用意。遮襲之。暫雖相戰。常伴遂敗北<云々>。

――3日壬子(じんし)
――景親源家譜代の御家人たりながら、今度所々に於いて射奉るの次第、一旦平氏の命を守るにあらず、造意の企て、すでに別儀有るに似たり。
――但し彼の凶徒に一味せしむの輩は、武蔵・相模の住人ばかりなり。
――其の内、三浦・中村に於いては、今御共に在り。 ・・・「三浦・中村」は相模の国の東西を領する大武士団。
――然らば景親の謀計何事か有らんやの由、その沙汰有り。
――仍って御書を小山の四郎朝政、下河邊庄司行平、豊島(てしま)権の守清元、葛西の三郎清重等に遣わさる。・・・葛西の三郎は桓武平氏の秩父流、豊島はその庶子。嫡子の葛西は江戸と川越の中間にいた。
――これ各々有志の輩を相語らい、参向すべきの由なり。
――就中、清重は源家に於いて忠節を抽んずる(ぬきんずる)者なり。
――而るにその居所は、江戸・河越等の中間に在り。
――進退定めて難治か。
――早く海路を経て参会すべきの旨、慇懃の仰せ有りと。<云々>
――又綿衣(わたごろも)を調進すべきの由、豊島右馬の允朝経の妻女に仰せらると<云々>。
――朝経は在京し留守の間なり。


――今日、平北郡より廣常の居所に赴き給ふ。
――漸く昏黒(こんこく)に臨むの間、路次の民屋に止宿し給ふの處、當國住人長狭の六郎常伴、その志平家に在るに依って、今夜この御旅館を襲わんと擬す。
――而るに三浦の次郎義澄、國郡の案内者として、竊か(ひそか)に、彼の用意を聞き、之を遮襲し、暫く相戦ふと雖も、常伴遂に敗北すと<云々>。

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ノートの取り方がまだ落ち着かないことと、先生もダブってしまったりして落ち着きませんが・・・とうとう九月に入りました♪
この辺で年表ならぬ月日表がいりますねぇ・・・作っとかなくちゃ(^^ゞ


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