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7月12日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 9月04日〜9月10日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

まあ、このクソ暑い中、皆様ご熱心!!今日も席取り競争からスタートして熱中授業でした(^^ゞ

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

今日は273回、石橋山で敗退した頼朝がわずかの人数で真鶴から千葉の猟嶋に渡る。そこからですね。おかげさまで茅ヶ崎の「吾妻鏡の会」もこの間、第19回になって、四箇所全部再開することが出来ました。鎌倉は一番多くて今98名いらっしゃいます。
お〜、のどよめき!!凄いですネェ・・・だからこんなに暑苦しいわけです(^_^;・・・筆者の呟き

○四日癸丑(きちゅう)。安西三郎景益依給御書。相具一族并在廳兩三輩參上于御旅亭。景益申云。無左右有入御于廣常之許條不可然。如長狹六郎之謀者。猶滿衢歟。先遣御使爲御迎可參上之由。可被仰<云々>。仍自路次。更被廻御駕渡御于景益之宅。被遣和田小太郎義盛於廣常之許。以藤九郎盛長。遣千葉介常胤之許。各可參上之趣也。

――9月4日 癸丑
――安西の三郎景益御書を給わるに依って、一族並びに在廰(ざいちょう)両三輩を相具し、御旅亭に参上す。 ・・・「在庁」は安房の国の国衙。現地で直接統治している豪族。
――景益申して云く、
――「左右無く廣常の許に入御有るの條然るべからず。長狭の六郎如きの謀者、猶衢(ちまた)に満つるか。・・・「左右無く」右も左も無く、「一も二もなく廣常の許に行くのはよしなさい。まだ長狭の六郎のような○○の者がいます」・・・○○は聞き損ねm(__)m
――先ず御使いを遣わし、御迎えの為参上すべきの由、仰せらるべし」と<云々>。・・・「まず使いをやって頼朝を迎えるためにまず参上しなさい、と言わせた方がよろしいですよ」
――仍って路次より更に御駕を廻らせ、景益の宅に渡御す。・・・↑それを聞いて馬を返した。

――和田の小太郎義盛を廣常の許に遣わさる。
――籐九郎盛長を以て千葉の介常胤の許に遣わす。
――各々参上すべきの趣也。・・・一族を率いて頼朝の許へ来い、とそれぞれに言わせた。

○五日甲寅(こういん)。有御參洲崎明神。寳前凝丹祈給。所遣召之健士悉令歸徃者。可奉寄功田賁神威之由。被奉御願書<云々>。

――5日 甲寅
――洲崎の明神に御参有り。・・・「洲崎神社」というのは安房国一之宮。延喜式の「神名帖」に各国々の神社の名前が書かれているので参照。対馬の国など、国としては小さいが神社は多い。
――寳前(ほうぜん)に丹祈(たんき)を凝らし給う。・・・「寳前(ほうぜん)」は宝殿。「丹祈(たんき)を凝らし」丹精にお祈りした、ということ。
――召し遣わす所の健士、悉く帰往せし めば、功田(くでん)を寄せ神威を賁し(かざし)奉るべきの由、御願書を奉らると<云々>。 ・・・「令歸徃者」は、頼朝の所に寄ってきたならば。「功田(くでん)」といのは、本来は国家が与える土地の意、ここでは頼朝が持っている土地の一部ということ。


○六日乙卯(いつぼう)。及晩。義盛歸參。申云。談千葉介常胤之後。可參上之由。廣常申之<云々>。

――6日 乙卯
――晩に及び、義盛帰参す。
――申して云く、「千葉の介常胤と談ずるの後参上すべき」の由、 廣常はこれを申すと<云々>。・・・これは「千葉常胤と相談した上で参上します」という、隣の動きを見ながら、情勢を見ている。


○七日丙辰()。源氏木曽冠者義仲主者。帯刀先生義賢二男也。義賢。去久壽二年八月。於武藏國大倉舘。爲鎌倉惡源太義平主被討亡。于時義仲爲三歳嬰兒「也」。乳母夫中三權守兼遠懷之。遁于信濃國木曾。令養育之。成人之今。武略禀性。征平氏可興家之由有存念。而前武衛於石橋。已被始合戰之由。逹遠聞。忽相加欲顯素意。爰平家方人有小笠原平五頼直者。今日相具軍士。擬襲木曽。々々方人村山七郎義直。并栗田寺別當大法師範覺等聞此事。相逢于當國市原。決勝負。兩方合戰半。日已暮。然義直箭窮頗雌伏。遣飛脚於木曽之陣。告事由。仍木曽率大軍。競到之處。頼直怖其威勢逃亡。爲加城四郎長茂赴越後國<云々>。

――7日 丙辰
――源氏木曽の冠者義仲主(よしなかぬし)は、帯刀の先生(たてわきのせんじょう)義賢の二男なり。・・・「帯刀の先生(たてわきのせんじょう)」というのは東宮の警護をする指揮官「帯刀の長」のことを「先生(せんじょう)」というんです。
――義賢去んぬる久壽二年八月、武蔵の国大倉の館(たち)に於いて、鎌倉の悪源太義平主(ぬし)の為、討ち亡ぼさる。・・・「武蔵の国大倉の館(たち)」というのは比企郡嵐山町(らんざんまち)、渓谷があって京都の嵐山に似ている、というのでこの名がある。今は埼玉。
――時に義仲三歳の嬰児たるなり。
――乳母夫中三権の守兼遠、これを懐き、信濃の国木曽に遁れ、これを養育せしむ。
――成人の今、武略性に稟し、平氏を征し家を興すべきの由存念有り。
――而るに前に武衛、石橋に於いて、すでに合戦を始めらるるの由、遠聞に達し、忽ち相加わらんと素意を顕わさんと欲す。

――爰に平家の方人小笠原の平五頼直と云う者有り。
――今日軍士を相具して、木曽を襲わんと擬る(はかる)。
――木曽の方人(かたうど)村山の七郎義直並びに栗田寺の別当大法師範覺(はんかく)等はこの事を聞き、当国の市原に相逢いて勝負を決す。・・・「村山の七郎義直」は「清和源氏の系図(尊卑分脈)」では「村上の七郎」と言います。「範覺(はんかく)」は同じく「寛覚(かんがく)」になっている。村上為国の子です。「栗田寺」は水内(みのち)というところ、長野県飯山市にあった寺です。

――両方の合戦半ばにして日すでに暮るる。
――然るに義直箭窮き(矢尽き)頗る雌伏す。
――飛脚を木曽の陣に遣わし事の由を告ぐ。
――仍って木曽大軍を率い来たる。
――競い到るの処、頼直は、その威勢を怖れて、逃亡す。

――城の四郎長茂に加わらんが為、越後の国に赴 くと<云々>。・・・「城」は秋田城。後に安達氏も秋田城の介になります。東北の要の地であり、要の職です。資料P8


○八日丁巳。北條殿爲使節。進發甲斐國給。相伴彼國源氏等。到信濃國。於歸伏之輩者。早相具之。至驕奢之族者。可加誅戮之旨。依含嚴命也。

――8日 丁巳 (ていし)
――北條殿は使節として甲斐の国に進発し給う。・・・「甲斐源氏」というのは、甲府を中心に土着した源氏です。
――彼の国の源氏等を相伴い信濃の国に到り、帰伏の輩に於いては、早くにこれを相具し、驕奢の族に至っては誅戮を加うべきの旨、厳命を含むに依ってなり。・・・ 「驕奢の族」は反対勢力。

○九日戊午。盛長自千葉歸參申云。至常胤之門前。案内之處。不經幾程招請于客亭。常胤兼以在彼座。子息胤正胤頼等在座傍。常胤具雖聞盛長之所述。暫不發言。只如眠。而伴兩息同音云。武衛興虎牙跡。鎮狼唳給。縡最初有其召。服應何及猶豫儀哉。早可被献領状之奉者。常胤云。心中領状更無異儀。令興源家中絶跡給之條。感涙遮眼。非言語之所覃也者。其後有盃酒次。當時御居所非指要害地。又非御曩跡。速可令出相摸國鎌倉給。常胤相率門客等。爲御迎可參向之由申之。

――9日 戊午(ぼご)
――盛長千葉より帰参して申して云く、
――「常胤の門前に至り案内するの処、幾程も経ずして、客亭に招請さる。
――常胤兼ねて以て彼の座に在り。
――子息胤正・胤頼等座の傍らに在り。
――常胤 具に(つぶさに)盛長の述ぶる所を聞くと雖も、暫くは発言せず。ただ眠るが如し。

――而るに件の両息は 同音に云く、
――『武衛は虎の牙の跡を興し、狼唳(ろうれい)を鎮め給う。縡も(しかも)最初にその召し有り。服応 何ぞ猶予の儀に及ばんや。早く領状の奉り(うけたまわり)を献ぜらるべし』とてえり。・・・「狼唳(ろうれい)を鎮め給う」は狼のように君臨している平氏をを鎮圧しようとしている。しかも、その最初にうちに声をかけた。賛同するのに何の猶予することがあろう、と言った。
――常胤云く『心中の領状は更に異儀無し。源家の中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃(たん)ずる所に非ざるなり』てえり。・・・常胤は息子たちの同意を取り付けたので、一歩下がって自分の同意を表した。
――その後盃酒を有るの次いで、
――『当時の御居所は指せる要害の地に非ず。また御曩跡に非ず。速やかに相模の国鎌倉に出でしめ給うべし。常胤は門客等を相率いて、御迎えの為参向すべき』の由これを申す。・・・「鎌倉」という地名を出した。鎌倉と言うと、常に 「要害の地」という言葉が使われます。「門客」というのは千葉氏譜代の者ではなく、千葉一族の下にいる食客。
・・・上総と千葉の対応の違い、ですね。しかも、ここで「鎌倉」という地名を出す千葉氏の思慮。

○十日己未。甲斐國源氏武田太郎信義。一條次郎忠頼已下。聞石橋合戰事。奉尋武衛。欲參向于駿河國。而平氏方人等在信濃國<云々>。仍先發向彼國。去夜止宿于諏方上宮庵澤之邊。及深更。青女一人來于一條次郎忠頼之陣。稱有可申事。忠頼乍怪。招于火爐頭謁之。女云。吾者當宮大祝篤光妻也。爲夫之使參來。篤光申源家御祈祷。爲抽丹誠。參龍社頭。既三ヶ日。不出里亭。爰只今夢想。著梶葉文直垂。駕葦毛馬之勇士一騎。稱源氏方人。指西揚鞭畢。是偏大明神之所示給也。何無其恃哉。覺之後。雖可令參啓。侍社頭之間。令差進<云々>。忠頼殊信仰。自求出野劒一腰。腹巻一領。与彼妻。依此告。則出陣。襲到于平氏方人菅冠者伊那郡大田切郷之城。冠者聞之。未戰放火於舘自殺之間。各陣于根上河原。相議云。去夜有祝夢想。今思菅冠者滅亡。預明神之罸歟。然者奉寄附田園於兩社。追可申事由於前武衛歟者。皆不及異儀。召執筆人。令書寄進状。上宮分。當國平出。宮所兩ク也。下宮分。龍市一ク也。而筆者誤書加岡仁谷ク。此名字衆人未覺悟。稱不可然之由。再三雖令書改。毎度載兩ク名字之間。任其旨訖。相尋古老之處。号岡仁谷之所。在之者。信義忠頼等拊掌。上下宮不可有勝劣之神慮已掲焉。弥催強盛信。歸敬礼拜。其後。於平家有志之由風聞之輩者。多以令糺斷<云々>。

――10日 己未 (きび)
――甲斐の国の源氏武田の太郎信義・一條の次郎忠頼以下、石橋合戦の事を聞き、武衛を尋ね奉り、駿河の国に参向せんと欲す。・・・「武田の太郎信義・一條の次郎忠頼」は親子です。武田信玄の祖です。(資料P9)
――而るに平氏の方人等信濃の国に在りと<云々>。
――仍って先ず彼の国に発向す。
――去んぬる夜、諏訪の上宮の庵澤の辺りに止宿す。・・・「諏訪大社」は一之宮。上社に前宮と本宮、下社に春之宮と秋の宮があります。その上宮の近所。
――深更に及び、青女(あおおんな)一人、一 條の次郎忠頼が陣に来たり、申すべき事有りと称す。・・・「青女(あおおんな)」は若い女。
――忠頼、怪しみながら、火爐の頭に招きこれを謁す。
――女云く、
――「吾は当宮の大祝(おおはふり)篤光の妻なり。夫の使いとして参來す。・・・「大祝(おおはふり)」は宮司です。
――篤光、源家の御祈を申す。丹誠を抽ぜんが為、社頭に参籠し、既に三ヶ日里亭に出ず。
――爰に只今夢想す。梶の葉紋の直垂を着し、葦毛の馬に駕するの勇士一騎、源氏の方人と称し、西を指して鞭を揚げをはんぬ。・・・「梶の葉紋」・・梶と言うのは桑科の高木。10メートルくらいになる大きな木です。歌を書いて、七夕の時に葉につけます。樹皮を和紙の原料とする「楮(こうぞ)」のことも梶の木といいます。諏訪大社のちょうちんは「梶の葉紋」がついています。これは「神紋」ということになる。家紋にしている人たちも多いんです。
――これは偏えに大明神の示し給う所なり。何ぞその恃み無からんや。・・・昨日の晩、そういうお告げがあった。これだけは言いたかった。
――覚めての後、参啓せしむべしと雖も、社頭に侍るの間、差し進ましむ」と<云々>。・・・「差し進ましむ」は夫がまだ社頭で祈祷中なので自分が変わりに来た。
・・・この段階で諏訪大社の御神徳を吾妻鏡に入れる。諏訪大社は出雲系の大社で、なかなか大和系の神に屈服しなかった。上社は諏訪市、下社は下諏訪市です。「源氏合戦」の時、諏訪の盛重・盛澄が諏訪の太郎(神に仕える大祝として)源氏の御家人となり北條氏の内人(うちびと)になります。中部日本を纏める鎌倉にとっての大事な御家人です。市役所があったところは、迎賓館となっていたらしい。天平七年の木札も手で来た。

――忠頼は、殊に信仰し、自ら野剱(のだち)一腰・腹巻一領を求め出で、彼の妻に與う。・・・「腹巻」は剣道の胴着のような歩兵用の軽めにした鎧です。上級の武士でも非常用として用意している。表着の下につけていることもある。
――この告げに依り、則ち出陣し、平氏の方人菅の冠者伊那郡大田切郷の城を襲到す。
――冠者はこれを聞き、未だ戦わずして火を館に放ち、自殺するの間、各々根上河原に陣す。
――相議して云く、去んぬる夜 、祝夢想有り。
――今菅の冠者の滅亡するを思うに、明神の罰に預かるか。
――然らば、田園を両社に寄附し奉り、追って事の由を前の武衛に申すべきかとてへり。
――皆異議に及ばず。執筆人を召し寄進状を書せしむ。
――上宮の分は当国の平出・宮所両郷なり。・・・平出というのは今の塩尻のあたり。塩尻というのは塩が運ばれて来る末端、と言う意味です。
――下宮の分は龍市一郷なり。而るに筆者誤り岡仁谷郷を書き加ふ。・・・「龍市」は今の辰野町、飯田線と本線が交わる所です。「岡仁谷」は「岡谷」です。「女工哀史」で有名になっちた所です。
――この名字衆人未だ覚悟せず。
――然るべからざるの由と称し、再三書き改めしむと雖も、毎度両郷の名字を載せるの間、その旨任せをはんぬ。
――古老に相尋ぬるの処、岡仁谷と号すの所これ在りとてへり。
――信義・忠頼等掌を打つ。
――上下宮勝劣有るべからざるの神慮はすでに炳焉たり。・・・もう神様がお礼を約束させた、と言う事は、こちらが勝った、ということなんですね。
――いよいよ強盛の信を催し、帰敬礼拝す。
――その後、平家に於いて志有るの由風聞の輩は、多く以て糺断せしむと<云々>。


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10月25日配布資料について
「十日己未 (きび) 著梶葉文直垂。駕葦毛馬之勇士一騎。稱源氏方人。指西揚鞭畢。是偏大明神之所示給也」についての「梶の葉紋」の関連資料です。

『綱要 日本紋章学』ー沼田頼輔著/新人物往来社より抜粋
名義――梶紋は、梶の根・幹・枝・葉に象ったものである。元来梶は梢と言う字と同意義であって、樹名ではないが、古来この文字を用いてきたので、今は慣例に従う事にした。
梶葉は、古來乞功奠即ち七夕祭りをする時、これに詩歌を書して、牽牛織女の二星を祭ったもので、藤原時代の頃から遍く知られたものである。

歴史――梶の葉紋は、早くより諏訪明神の神文として用いられた。治承四年、頼朝が兵を挙げた頃、諏訪の神官篤光の妻が一条次郎忠頼の館に来て、諏訪明神が梶のは紋の直垂を着て、馬に乗った勇姿に化し、源氏の方人と称して、西を指して鞭を揚げたのは、疑いもなく諏訪大明神の示験であるという夢想を告げた事が吾妻鏡に記されている。

形状種類――梶葉紋には、葉を以って成るものと、葉と幹と根より成るものとの二種がある。葉は五出を普通とするが、稀に七出のものもある。よって、これを替梶葉という。葉や根の形状から平戸の松浦氏が用いた平戸梶、諏訪氏が用いた諏訪梶(根梶とも)などの呼び方も有る。

姓氏関係――梶葉紋は、諏訪明神の神文として用いられたので、これを氏神として祀っているその地方の豪族は、多くこれを用いている。中にも清和源氏満快流の知久・諏訪部・諏訪・有賀の諸氏、清和源氏頼季流の保科氏、いづれもこれを用いている。

分布――梶の葉紋は諏訪明神の神紋であるので、この神社の鎮座ある地方には、比較的この紋章の分布を見る。最も多く用いられたのは信濃であって、次いで、甲斐・越後・駿河・相模に多い。鎌倉時代の初め、島津忠久は、承久戦役の功を以って、信濃鹽田(しおだ)の地頭となり、深く諏訪明神を信仰し、その後薩摩に移るに及んで、諏訪明神を薩摩に歓請して、これを領内の総鎮守とした。これより、領内の豪族にこの神を信仰するものが次第に多くなって、領内至る所にこの神社の建立を見る事と成った。
南北朝の頃、信濃の豪族で宮方に属し志を得なかった者が、本国を出て、中国四国の海島に根拠を占め、瀬戸内海から遠くは朝鮮・中国の海上に飛躍し、至る所に海上保護の神として諏訪神社を歓請したので、この頃からして、諏訪神社は、神戸の諏訪山を始として、肥前の長崎、薩摩の山川津等の要港に祀られることとなり、、梶の葉紋の分布は、遠く本国を離れて四国九州の地方までも広がった。
しかし、例外として、梶川・梶田・梶野などの苗字の者がこの紋章を用いたのは苗字にちなんだ指導的意義からであって必ずしも前例に拠らないものが有る。

☆沼田頼輔――大正〜昭和始に紋章学を確立させた。大正15年、その功績に依り学士院恩賜賞受賞。相模川橋脚工事の歴史的論証などもあって、神奈川には縁が深い学者である。

『日本家紋総覧』――熊坂利雄編/新人物往来社
梶の葉紋の一覧表です♪
梶の葉などはこちらで見られますm(__)m





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