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9月13日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 9月3日〜9月28日


実は、今回はメニエルの発作を起こして欠席してしまったのです(^_^;
せっかく、夏休みを越えて二ヶ月ぶりだったのに・・・残念!!
というわけで、読みだけをアップします。

おまけに、来月は25日なのですよ(^_^;
まあ、その時、ちょっと日にちが離れているので「前回の復習」をしてくださると期待しております。
そうしたら、更に追加します(^^ゞ

と、思ったら、あいにくの事で先生は、次を急いで突っ走り・・・というか、次にストレートに進まれて、そこは詳しかったのですが・・・
で、適当に読み下してしまいましたので、、三浦三崎ひとめぐりさんの「東鑑目録」をご参考にして頂いた方がよいかとm(__)m無責任
こちらは「玉葉」なども同時掲載されていて大変便利です。

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筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

○十一日庚申(こうしん)。武衛巡見安房國丸御厨給。丸五郎信俊爲案内者候御共。當所者。御曩祖<頼義>豫州禪門平東夷給之昔。最初朝恩也。左典厩<義朝>令請廷尉禪門御讓給之時。又最初之地也。而爲被祈申武衛御昇進事。以御敷地。去平治元年六月一日。奉寄  伊勢太神宮給。果而同廿八日補藏人給。而今懐舊之餘。令莅其所給之處。廿餘年徃事。更催數行哀涙<云々>。爲御厨之所。必尊神之及惠光給歟。仍無障■[碍の石を取ったもの]于宿望者。當國中立新御厨。重以可寄附彼神之由。有御願書。所被染御自筆也。

――11日 庚申
――武衛、安房の国、丸の御厨を巡見し給ふ。
――丸の五郎信俊、案内者として御共に候ふ。
――当所は、御曩祖<頼義>豫州禅門、東夷を平らげ給ふの昔、最初の朝恩なり。
――左典厩<義朝>廷尉禅門の御譲りを請けしめ給ふの時、また最初の地なり。
――而るに 武衛の御昇進の事を祈り申さるるが為、御敷地を以て、去んぬる平治元年六月一日、伊勢太神宮に寄せ奉り給ふ。
――果たして同二十八日蔵人に補し給う。
――而るに今懐旧の余り、その所に莅かせしめ給ふの処、二十余年の往事、更に数行の哀涙を催すと<云々>。
――御廚たるの所、必ず尊神の恵光を及びふうか。
――仍って宿望に障碍無しとてへれば、当国中新御廚を立つ。
――重ねて以て彼の神に寄附すべきの由、御願書有り。
――御自筆を染めらるる所なり。

筆者の呟き――頼朝って、変に信仰心が厚くて、また、けっこうよく泣きますよねぇ・・・こないだも家臣が戦死して泣いてたり、けっこう泣き虫なんだ!そのわりに後になると(権力を握ると)残酷or冷酷だったりする!!・・・まあイメージなんだけど(^_^;
この先、「吾妻鏡」を読んでいけばイメージ変わるのでしょうか(^_^;)


○十二日 辛酉(しんゆう)。令奉寄神田於洲崎宮給。御寄進状。今日被送進社頭<云々>。

――12日 辛酉
――神田(しんでん)を洲崎宮に寄せ奉りしめ給う。・・・洲崎宮は安房一之宮。
――御寄進状、今日社頭に送進せらると<云々>。

○十三日 壬戌(じんじゅつ)。出安房國。令赴上総國給。所從之精兵及三百餘騎。而廣常聚軍士等之間。猶遅參<云々>。今日。千葉介常胤相具子息親類。欲參于源家。爰東六郎大夫胤頼談父云。當國目代者。平家方人也。吾等一族悉出境參源家。定可■兇害。先可誅之歟<云々>。常胤早行向可追討之旨加下知。仍胤頼。并甥小太郎成胤。相具郎從等。競襲彼所。目代元自有勢者也。令數十許輩防戰。于時北風頻扇之間。成胤廻僕從等於舘後令放火。家屋焼亡。目代爲遁火難。已忘防戰。此間頼胤獲其首。

――13日 壬戌
――安房の国を出で、上総の国に赴かしめ給ふ。
――従ふ所の精兵、三百餘騎に及ぶ。
――而るに廣常、軍士等を聚めるの間、猶遅参すと<云々>。
――今日、千葉介常胤、子息・親類を相具し、源家に参らんと欲す。
――爰に東の六郎大夫胤頼、父に談じて云く、當國目代は平家の方人なり。
――吾等一族悉く境を出で、源家に参るに、定めて凶害を■(插=挿=さしはさ)むべし。先ずこれを誅すべきかと<云々>
――常胤、早く行き向かいて追討すべきの旨、下知を加ふ。
――仍って胤頼并びに甥小太郎成胤、郎従等を相具し、彼の所を競襲す・
――目代は元より有勢の者なり。数十許の輩をして防戦せしむ。(筆者の疑問・・・これ、ちょっと意味が通りまへんなぁ・・・数十?)
――時に北風頻りに扇くの間、成胤僕従等を館の後に廻し火を放ちせしむ。
――家屋焼亡し、目代は火難を遁れんが為、すでに防戦を忘る。
――此の間、胤頼その首を獲る。

筆者の感想・・・ここに至っても、上総の廣常と千葉の常胤の温度差ねぇ〜(^^ゞ・・・参考「9月9日」)

○十四日 癸亥(きがい)。下総國千田庄領家判官代親政者。刑部卿忠盛朝臣聟也。平相國<清盛>禪閤通其志之間。聞目代被誅之由。率軍兵欲襲常胤。依之常胤孫子小太郎成胤相戰。遂生虜親政訖。

――14日 癸亥
――下総國、千田の庄、領家判官代、親政は、刑部郷忠盛朝臣の聟なり。
――平相国<清盛>禅閤にその志を通ずるの間、目代を誅せらるの由を聞き、軍兵を率い常胤を襲わんと欲す。
――これに依って常胤孫子小太郎成胤相戦い、遂に親政を生虜りをはんぬ。

○十五日甲子(きのえね)。武田太郎信義。一條次郎忠頼已下。討得信濃國中凶徒。去夜歸甲斐國。宿于逸見山。而今日北條殿到著其所給。被示仰趣於客等<云々>

――15日 甲子
――武田の太郎信義、一條の次郎忠頼已下、信濃國中の凶徒を討ち得て、去んぬる夜、甲斐國に歸り逸見山に宿す。
――而るに今日北條殿その所に到着し給ふ。
――仰せの趣を各々等に示さると<云々>。

○十七日 丙寅(へいいん)。不待廣常參入。令向下総國給。千葉介常胤相具子息太郎胤正。次郎師常、<號相馬>。三郎胤成<武石>。四郎胤信<大■賀>。五郎胤道<國分>。六郎大夫胤頼、<東>。嫡孫小太郎成胤等參會于下総國府。從軍及三百餘騎也。常胤先召覧囚人千田判官代親政。次献駄餉。武衛令招常胤於座右給。■以司馬爲父之由被仰<云々>。常胤相伴一弱冠。進御前云。以之可被用。今日御贈物<云々>。是陸奥六郎義隆男。号毛利冠者頼隆也。著紺村濃鎧直垂。加小具足。跪常胤之傍。見其氣色給。尤可謂源氏之胤子。仍感之。忽請常胤之座上給。父義隆者。去平治元年十二月於天台山龍華越。奉爲故左典厩弃命。于時頼隆産生之後。僅五十餘日也。而被處件縁坐。永暦元年二月。仰常胤配下総國<云々>

――17日 丙寅
――廣常の参入を待たず、下総國に向わしめ給ふ。
――千葉の介常胤、子息太郎胤正、次郎師常<相馬と號す>、三郎胤成<武石>、四郎胤信<大■(サンズイに頁=須)賀>、五郎胤道六 <國分>、六郎大夫胤頼、<東>、嫡孫小太郎成胤等を相具し、下総の國府に參會す。
――従ふ軍は三百余騎に及ぶなり。
――常胤、先ず囚人千田判官代親政を召覧し、次いで駄餉を献る。
――武衛、常胤を座右に招きしめ給ふ。
――須く司馬を以て父と為すの由仰せらると<云々>。
――常胤、一弱冠を相伴し、御前に進めて云く、これを以て今日の御贈物に用いらるべしと。
――此れ陸奥の六郎義隆が男、毛利の冠者頼隆と号すなり。
――紺村濃鎧直垂を着し、小具足を加ふ。
――常胤が傍らに跪く。
――その氣色を見給ふに、尤も源氏の胤子と謂うべし。
――仍ってこれに感じ、忽ち常胤が座上に請じ給う。
――父義隆は、去んぬる平治元年十二月、天台山龍華越に於いて、故左典厩に奉為し命を棄つ。
――時に頼隆産生の後、僅かに五十余日なり。
――而るに件の縁坐に処せられ、永暦元年二月、常胤に仰せ下総國に配すと<云々>。

(筆者の呟き――これが、陸奥六郎義高って誰よ?と思ったら(資料の系図にもないのです(^_^;)、↑件のサイトで「義朝の伯父陸奥六郎義高」とありました(^^)そちらに「平治物語」の一文も載っているので、やはり飛んで来られると良いと思います。
つまり、千葉常胤は、源氏の嫡流に繋がる子どもを育ててくれていたわけですねぇ〜♪「源家の中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃(たん)ずる所に非ざるなり」って、こないだの言葉が嘘やお世辞ではなかった証ですm(__)m・・・ホントは疑ってました(^_^;


○十九日 戊辰(ぼしん)。上総權介廣常催具當國周東。周西。伊南。伊北。廳南。廳北輩等。率二萬騎。參上隅田河邊。武衛頗瞋彼遅參。敢以無許容之氣。廣常潜以爲。如當時者。率土皆無非平相國禪閤之管領。爰武衛爲流人。輙被擧義兵之間。其形勢無高喚相者。直討取之。可献平家者。仍内雖■二圖之存念。外■歸伏之儀參。然者。得此數万合力。可被感悦歟之由。思儲之處。有被咎遅參之氣色。殆叶人主之躰也。依之忽變害心。奉和順<云々>。陸奥鎮守府前將軍從五位下平朝臣良將男將門虜領東國。企叛逆之昔。藤原秀郷僞稱可列門客之由。而入彼陣之處。將門喜悦之餘。不肆所梳之髪。即引入鳥帽子謁之。秀郷見其輕骨。存可誅罰之趣退出。如本意獲其首<云々>

――19日 戊辰
――上総權介廣常、当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北の輩等を催具し、二萬騎を率い、隅田河の邊りに参上す。
――武衛は、頗る彼の遅参を瞋り、敢えて以て許容の氣無し。
――廣常潜みて以って爲す。
――當時の如きは、率土皆平相國禪閤之管領に非ざるは無し。
――爰に武衛流人として、輙く義兵を挙げらるの間、その形勢高喚相無くば、直にこれを討ち取り、平家に献ずべしとてへり。
――仍って内に二圖(二図)の存念を■(插=挿=さしはさ)むと雖も、外に帰伏の儀を参じて(■=備)え、然れば此れ數万の合力を得て、感悦せらるべきかの由、思い儲けるの處、遅参を咎めらるの氣色有り。
――殆ど人主の躰に叶うなり。
――これに依って忽ち害心を變じ、和順を奉ると<云々>。
――陸奥鎮守府、前の將軍、從五位下平の朝臣良將が男、將門、東国を虜領し、叛逆を企てるの昔、藤原秀郷、偽って、門客に列すべきの由を称して、彼の陣に入るの處、將門喜悦の餘り、梳る(くしけずる)所の髪を肆ず(?)、即ち烏帽子に引き入れこれに謁す。
――秀郷その軽骨を見て、誅罰すべきの趣を存じ退出し、本意の如くその首を獲ると<云々>。

筆者の呟き――やっと、廣常が来ました(^^ゞしかも二万騎を率いてこれみよがし!なんだけど、頼朝は怒って寄せ付けないんですね(^^ゞ千葉氏と比べると、超日和見で凄い感じ悪いもの!!
そうすると、敵もさるもの、ちゃんと言い訳を考えているんですよー(^^ゞまだまだ回りは平氏の勢力が蔓延っているから、それを片付けてからと思ったんだ、とか。或いは、そうやって遅参した者を怒って傍に寄せ付けないのは大将のプライドがあってよろしい、とかねぇ♪
大昔、平将門が自分の頸を取りに来た藤原秀郷にたばかられて、ホイホイと喜んで髷も結わずに目通りを許した。その挙句に討ち取られた、というような軽率でないところがいいよ!なんてお調子こいてるわけですよ(^^ゞ・・・嫌なジジイだ!でも、後年此れが響いたかどうか、結局頼朝に暗殺されちゃうんですねぇ(^^ゞ


○廿日 己巳(きし)。土屋三郎宗遠爲御使向甲斐國。安房。上総。下総。以上三箇國軍士「兵」悉以參向。仍又相具上野。下野。武藏等國々精兵。至駿河國。可相待平氏之發向。早以北條殿爲先達。可被來向黄瀬河邊之旨。可相觸武田太郎信義以下源氏等之由<云々>

――20日 己巳
――土屋の三郎宗遠御使いとして甲斐の国に向かう。
――安房・上総・下総、以上三箇国の軍士「兵」悉く以て参向す。
――仍ってまた上野・下野・武藏等の國々の精兵を相具し、駿河國に至り、平氏の發向を相待つべし。
――早く北條殿を以て先達と為し、黄瀬河の邊に来向せらるべきの旨、武田の太郎信義以下源氏等に相触るべきの由と<云々>。

(筆者注・・・甲斐源氏の動向が、イマイチ理解できなかったのですが、坂東千年王国というサイトに詳しいので、そちらは必見ですm(__)m)

○廿二日 辛未(しんび)。左近少將惟盛朝臣。爲襲源家。欲進發東國之間。攝政家被遣御馬。御廐案主兵衛志清方爲使。羽林出逢御使請取御馬<云々>。去嘉承二年十二月十九日。彼高祖父正盛朝臣<于時因幡守>。奉 宣旨。爲追討對馬守源義親。發向之日。參殿下申暇。退出之後。被遣御馬於彼家。御使、御廐案主兵衛志爲貞也。依件古例。今及此儀歟。

――22日 辛未
――左近少將惟盛朝臣、源家を襲わんとして、東國に進發せんと欲するの間、攝政家御馬を遣わさる。
――御厩案主兵衛志清方御使いとなす。
――羽林御使いに出逢い、御馬を請け取ると<云々>。
――去んぬる嘉承二年十二月十九日、彼の高祖父正盛朝臣<時に因幡守>宣旨を奉り、對馬守源義親を追討を爲さんと、發向するの日、殿下に参り暇を申す。
――退出の後、御馬を彼の家に遣わさる。御使いは御厩案主兵衛志爲貞なり。
――件の古例に依って、今この儀に及ぶか。

筆者の呟き――この時の攝政と御厩案主兵衛志清方というのが誰か?講義を伺っていたらちゃんとご説明があったのでしょうが・・・今度チャンスがあったら伺ってきますm(__)m攝政はタブン藤原基通ですよね・・・袖書を辿れば。つまり、清盛の次女盛子を母にしている。だから、惟盛に御馬を贈ってもおかしくないわけですね。

「案主」というのは、「あんしゅ」または「あんず」とも読み、寺院や公私諸機関で文書・記録を司る下役。平安・鎌倉時代、衛府・検非違使・国郡・院司・家司・荘園などに置かれた(広辞苑)。同じく広辞苑の知家事(ちけじ)の解説のところでは鎌倉幕府の役職のように書かれていました。)

○廿四日 癸酉(きゆう)。北條殿并甲斐國源氏等。去逸見山。來宿于石禾御厨之處。今日子尅。宗遠馳著。傳仰之旨。仍武田太郎信義。一條二郎忠頼已下群集。可參會于駿河國之由。各凝評議<云々>

――24日 癸酉
――北條殿并びに甲斐國の源氏等、逸見山を去り、石禾の御厩に来宿するの處、今日、子の尅、宗遠馳せ着き仰せの旨を伝ふ。
――仍って、武田の太郎信義、一條の二郎忠頼已下群集す。
――駿河國に参会すべきの由、各々評議を凝らすと<云々>。

○廿八日 丁丑(ていちゅう)。遣御使。被召江戸太郎重長。依景親之催。遂石橋合戰。雖有其謂。守令旨。可奉相從。重能。有重。折節在京。於武藏國。當時汝已爲棟梁。專被恃思食之上者。催具便宜勇士等。可豫參之由<云々>

――28日 丁丑
――御使いを遣わし、江戸の太郎重長を召さる。
――景親の催しに依って、石橋合戦を遂げ、その謂われ有りと雖も、令旨を守り相従い奉るべし。
――重能・有重折節在京す。
――武藏国に於いては、當時汝すでに棟梁たり。
――専ら恃み思し食さるるの上は、便宜の勇士等を催具し、豫参すべきの由と<云々>。

筆者の呟き――江戸の太郎重長は、次回でも解説がありますが大庭景親に組して衣笠城を討った武将です(^_^;あの時の三浦一族の凄絶な戦いは涙、涙よねぇ・・・でも、この、私が休んだこの回に限って、どうしてこんなに進んじゃったのでしょう(;_;)・・・青息吐息でやっと、ここまで読んできましたけど・・・間違っていたらごめんなさいm(__)m)

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