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「平家物語」転読

9月30日(木)


国文学研究史料館の今年の連続講演は「平家物語」です。
この2〜3年は、「平家物語」がブームということで、サントリー美術館でも「平家納経」の展示があったり、
いろいろなところでセミナーがあったりしたのですが、いよいよ、国文学の牙城というか、お膝元でも、
「平家物語」が取り上げられました(^^)
ここ数年、連続講演の受講希望者が多くて、まして平家では・・・と、
激戦が予想されて心配してましたが、めでたく三年連続抽選に当たって\(^^)/

それがぁ・・・この日は「源氏物語」の横浜の方の受講日だったのですよ!!
でも、第一回ですし〜、
講師の日下先生にも大いに興味があったし・・・というわけで、行ってきました♪
日下先生は、この春ひょんなことから検索上でHitして、人間的に大変素敵な先生だと感動しておったのです(^_^;
でもさ・・・いくら人間的に素晴らしい先生でも、ご講義がおもしろいかどうかは別の話ですから・・・(^_^;(^_^;
それに、イロイロ素晴らしい「平家物語」をお聞ききした後で・・・どうかな〜?と不安百万だったのです。

いやいや・・・面白かったです(^^ゞ

実は、一昨年の9〜11月にK女創立の記念講演でO先生・H先生の
今年の6・7月に某大学の生涯教育セミナーでA先生のご講義を伺いました。
それはそれで、大変面白かったのですが、
O先生・A先生は女性の先生でいらして、
今回の日下先生は男性でしょ。
女性の読む「平家物語」、男性の読む「平家物語」と言う違いですかね・・・此れは大変興味深かったです♪

一概に言えないかもしれませんが、
やはり、女性は叙情的な読み方が強く、男性は叙事的読み方という面が強く出るような気がします。
まずO先生の方は、女性でもサバサバという感じですが、
「『平家物語』に出てくる女性で好き、というと建礼門院・小督・待宵の小侍従・大納言典侍ですが、
今日は大納言典侍を取り上げていきます」
「大原御幸」のお話で、大原を説明なさるのに
「私は冬だったので、長靴を持って行ったのですが、それでも入れないときもある。そんな寂しいところです。」
ということで「具体的で明瞭な解説」と言うご講義でした。

A先生の場合はご自身の朗読が素晴らしくて、教え子の平曲奏者を伴っていらして、
演奏も聞かせてくださったのですが、
そんな若い琵琶や歌より、A先生ご自身の朗読が素晴らしくて、
ご講義中の先生の普通の朗読で情緒纏綿たる情景が脳裏に広がり涙がウルウルでした(^^ゞ
それと、A先生の場合は、本当に「平家」が専攻なので、もぅ〜惚れて、惚れてというのがヒッシヒッシと伝わるのです♪
もっと言えば熱っぽい!!

そういえば男性のH先生のご講義もあったんだ(^_^;
「『平家物語』最大の虚構は寿永二年(1183年)に頼朝が征夷大将軍になっていた、ということで、事実は後白河法皇から『東国の沙汰権・東国の軍事支配権』を認められた、ということです。」
「この時は、天下三分の時代で西に、まだ平氏があり、京に義仲がいて、東に頼朝がいる、という時代です。」
「1183年というのは、
史実では1年か2年なのに、なぜか平家に変わる権力が出来た。『平家物語』は歴史の転換点を描いています。」
「木曾義仲も征夷大将軍に任じられている時期もあったのに『平家物語』はそれを無視しています。」
「『平家物語』は平家の物語であると共に『源氏政権誕生』の物語です。」

ん〜・・・いろいろ素晴らしいご講義を伺って、さてさて、期待と不安でドキドキ♪♪(*^-^*)

で〜、本日、いつものように松野館長さんのご挨拶から始まりました(^^)
これはまた毎回面白いお話も伺えてけっこう楽しみでもあります♪
今回は、国文学研究史料館の裏話みたいなのも混じって・・・(^^)
なんたって独立法人になって、いろいろ大変そう〜〜でも、一般市民に敷居が低くなるのは結構な事です\(^^)/

「連続講演も今年で五回目を迎えて、ますますご好評頂いて」と嬉しい悲鳴(^^)
それで、「去年までと代わったことが二つあります」とおっしゃって・・・
「一つ目は机と椅子の新調です」
そうなんですよ〜♪私もこの会場に入るや否やビックリしたもの(^_^;
まあ国際会議場とは行かないまでも、かなり豪華な会議用のテーブルと椅子が並べられていて、
恥ずかしながら「会議場内でのペットポトルの飲用はよろしいでしょうか?」と、思わず聞いてしまいました(^_^;
よろしいそうです♪よかった(^^)
やはり、この部屋の外というと、立って飲まないとスペースがねぇ(^_^;
それで、そのせっかく新調した机と椅子を全部使ったのは、今回が初めてだそうです(^^ゞ

そうそう、二つ目は「今までの先生は一寸ご年配で、あまりご講演をなさらない先生をお願いしてまいりましたが、
今回の日下先生は現役バリバリ・・・文学の世界ではバリバリというのはあまり良い表現ではないのですが、
今、油の乗り切った、と言いますか・・・」というご紹介がありました(^^)
そうなんですねぇ♪
私は井上先生と佐竹先生しか伺ってませんが、一回目の湯浅先生など、講演会ってあまり聞いたことないですものねぇ(^_^;
井上先生と佐竹先生が猛烈面白かった分、期待度百万!!
もしつまらなかったら・・・(;_;)
でも、HPなどで拝読する限り面白そう\(^^)/

それで松野館長が、
「私たちの時代で文学と言えば、桑原武夫の『文学入門』で言う“インタレスト”があるかないか、
本質的にそういう“インタレスト”があるかどうか、ということもお書きになっている。今の日本文学を代表する方です。」

きゃあ♪「桑原武夫の『文学入門』」なんてナツカシヤ(^^)
そうですねぇ・・・・“インタレスト”なんて言葉は、租借しがたいながら流行ったのですよ!!

というわけで・・・長いな・・・私の前置き(ーー;)


第一回・「乱世を生み出す心 」――鹿の谷事件

まず、今回の「転読」という意味のご説明から

「転読(てんどく)」は仏教用語で、法会の時などに大般若経など、長いお経を読誦するのに全部読みきれません。
そういう時タイトルだけ読みあげて全巻を読んだことにしてしまうことです。
――って!!へぇ〜♪そうなんだ(^^ゞ
ちなみに、御講義の途中で、「真読(しんどく)」と言う言葉が出てきまして、こちらは、全巻きちんと読み通すことだそうです(^^)

そして、本日の、いえ今回の連続講演のテーマとも言うべき
「軍記物語というのは、平和な時代でなければ書けません。」ということでした。
「乱世を生み出す心」というのは、心があるから平和があったり乱れたりするのです
、とおっしゃいます。
執着する心があるところに争いが起きるんですね、とも。
先生のHPの記事を思い出して、んだ、んだと一人頷きました。

(筆者注――先生のテキストはどこからかわかりません。
私がここでタイトルの下の、―「」―の書き込みに使用したのは、角川文庫版です。)


1.祇園精舎

―「巻一、1.祇園精舎の事」より―

もう、この段階で、オナゴ先生とオトコ先生は教え方が違うのねぇ(^^ゞ
今日の資料の中に「国宝・仏涅槃図(金剛峰寺)」のコピーが入っておりました。
なんで〜?と思ったら、
祇園精舎の解説でお使いになったのです。


「祇園精舎の鐘の声」というのは、
「皆さん、除夜の鐘なんて想像してるんじゃありませんか?」と先生(^^ゞ
いえいえ、そこまでは・・・という感じで皆さんクスクス♪
「祇園精舎は僧侶が集団生活するところ、その中の無常院の中にある無常堂で、病気になった僧侶が死ぬ時鐘を鳴らす。」
というのは同じなんだけれど、
オナゴ先生たちのご講義では、死に行く僧侶の苦痛や心を鎮める為に「自然に」沈々と鳴る、と伺ったんですね・・・確か(^_^;
勿論「玻璃(はりーガラス)の鐘」と聞いていたけど、「はり」は「頗梨」と書くのだそうです。(祇園図経・下)

それで、日下先生は、亡くなった僧侶の腕が下がって床に触れると、それが伝わって鐘が鳴る、
要するに鐘が聴こえると、そこで、僧侶が死んだことが分かる、と言う風におっしゃつたのです。
これ、かなりシビアな情景ですよね。しかも、死んだ人の腕が何かに当たって音がでるって事象を基にした解説です!!

疑問!・・・私は大昔の短大のゼミは「平家物語」!!
あの時、この「祇園精舎の鐘の声」はナント教わったのでしょう?
全く記憶にないm(__)m
そりゃ、30年以上前の話であってもですねぇ・・・大体ノートが見つからないってどういうこと?
高校時代の日本史や化学のノートだって取ってあるのにさ(^_^;

「沙羅双樹の花の色」
ってところで、その「国宝・仏涅槃図(金剛峰寺)」のコピーが登場します。
お釈迦様が涅槃に入る時、
寝台の四方に植えられていた二つに枝分かれしていた沙羅の木が、
枝も葉も伸びて、「天蓋」のようにお釈迦様を隠す、んだそうです。
――というのは、各先生たちのご講義でも伺っています、フムフム天蓋ね♪と理解していた!・・・はずだった(^_^;
はあ・・・あの絵はそういうことでしたか(^_^;
ナマも含めて何度も、いやいや教科書などにも載ってますから無数回見ているはずなのに、
そうかぁ・・・あれが沙羅双樹(というのはおぼろげに知ってましたけど)で、
ああいう風に植えられて、あそこの枝や葉が伸びて、お釈迦様を「眠れる森の」オーロラ姫みたいにしちゃうんだ!!
納得!!
そこで質問が・・・「お釈迦様はどちらを向いてるんですか?」「北です」
そりゃあ北でしょう。北枕っていうもんねぇ・・・と思ったんだけど、
あれ?死者は西方浄土に行ける様に「西を向かせる」という話もあったげな・・・と、ブツブツ(^_^;
でも、北なんだ〜(^^)

それで「花の色」なんですが、沙羅の花って薄い黄色い花なんだそうです。
でも、一般的に沙羅の花は白、という。
それは象徴的な言い回しで「お釈迦様の死の悲しみを白という色に象徴した」そうです。
フンフン、此れは理解できますネェ(^^)
アレレ・・・今A先生のノート確認したら
「沙羅は梵語の“サーラ”から来ている。従来の白色に変化したというのは疑問で、もともと白い花」とありました。

面白いですネェ(^^ゞ
今、現実にお二人とも軍記文学では代表的な学者さんですよ!!
それでいて、もうこれだけでこんなに違うのねぇ〜♪
うちの源氏の先生が、「僕の講義ばかり聞かないで、いろんな先生の源氏をお聞きなさい」とおっしゃるの!!
ホントです(^^)v
何しろ、「平家」だって「源氏」だって原作なんて残ってなくて、今あるものから推測していくしかないんだから(^^ゞ
あちこち聞いて、ちゃんと本物の良い先生から本物の講義のいろんなことを教わって、
自分の中で咀嚼していくしかないんですねぇm(__)m

はい、本題に戻りましょう♪
あ、今は、とにかく、日下先生の御講義中心のノートで行きます。
時々、違いが際立ったところだけメモ取り出したりしますけど。

「盛者必衰」
これがね、この時代の他の書物などでは、「生者必滅」と言う言葉はたくさん使われているけれど、
「盛者必衰」という言葉は「平家物語」でしか使われていないそうで。
「生者必滅」は「Man is mortal!」ですよね。「盛者必衰」とは意味が違う!!

だって、おかしいでしょ、と先生。
「お釈迦様は盛者の身を自分から捨て去ったんです。生者必滅は理に叶うけれど、盛者必衰はおかしいですね」
とおっしゃる。
そうだ、そうだ!!
それはなぜか?
「『奢れる人も久しからず・・・猛き者も遂には滅びぬ』につなげる為!巧いですね!!」
「四字熟語を変えることで、パッと代わるんです。『生者必滅』では奢り高ぶった清盛を描くことは出来ない」
「奢れる者が乱世を生み出して行くんです」
ハハァ〜m(__)mホント、連想するあの事この事、今の時代に連綿と続く原理だなぁ(^_^;

ねえ・・・もうここまでで、従来の「平家物語」の嫋々たる雰囲気はぶっ飛んで、
記録文の乾いた面白さの中に気分はハイ!絶好調\(^^)/


2.禿髪(かぶろ)

―「巻一、3.鱸の事、付 禿童の」より―

かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて、病にをかされ・・・
とある年号は、正しくは2月!単なる誤記か?はたまた・・・、ということで。

資料の後の資料集に清盛出家と高倉帝の即位の年次がピックアップされています。
「仁安2年(1168)2月2日発病『寸白』」とあります。『寸白』はスバク、サナダムシですって!!
こないだは「業虫ー回虫」って伺ったので、はて、サナダムシは回虫?って疑問で検索したら、あった!あった!
こんなこと、ちゃんと教えてくださるサイトがあるのですm(__)m感謝
http://sanadasandai.hp.infoseek.co.jp/ituwa/ituwa09.htm

で、元に戻って、この仁安三年十一月十一日の日にちの誤記は、
清盛が内大臣になった日が仁安元年十一月十一日で、
太政大臣になったのが年月こそ替われ仁安二年二月十一日、
出家したのが、また年こそ替われ仁安三年二月十一日、ということで、
やたらに「十一」という数字に絡んでいるためではないか、と。

平家本はたくさんあっても、どれもこれも誤記が多いそうです(^^ゞ
歴史学者の史学書ではありませんからいたし方ないですよね(^^ゞ
「平曲」の台本であったり、あるいは文字に興した散文学であったとしても、
時代の中で淘汰され、伝わりやすい分が伝わってきた伝承文学なんですよね。

で、もって、ここは、例の時忠の「平氏にあらざるは人にあらず」という僭上の発言のある段です。本文は
此の一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし
とぞのたまひける――わけです。
先生は
「“人非人”といったってヒトデナシということではなくて、
もともと人ではない、竜とか夜叉が、人に変身してお釈迦様のお経を聞いた、と言うところからきたものです」

あ!そうなんですか!!てぇと、仏教語と考えていいのですか(^_^;
だって、勿論ヒトデナシとは受け取ってなかったけれど、要するに人格がない、或いは一人前ではない、
というくらいの意味に取ってはいました(^^ゞ

で、ここで、大事なポイントは、
髪をかぶろにきりまはし、あかき直垂を着せて召しつかはしけるが、京中に満ち満ちて往反しけり
という、
「こんなに目立つ格好をさせて何をさせようというのか?」
「スパイの役には立たないじゃないか?」
それより恐怖政治をしているというイメージを植えつけた、と言う事なのだそうです(^^ゞ
んだ!一般市民には、そういうイメージを先行させるほうが有利ではあるですだ!!

と、同時に、この時、六波羅という都のはずれに平家が居を構えていたのは、つまり、六波羅というのは街道の交差する、
交通の要所にあたり、さらに鳥辺野などへ通じる・・・要するに被差別社会の人々を傘下に入れる、という要素があった、
とおっしゃいます。


3.殿下乗合(てんがののりあい)

「巻一、殿下の乗合の事」より―

「殿下というのは攝政關白の事です。乗合というのは道で会うこと」
朱雀大路は幅80(83、と言う人も、85と言う人もいろいろですが)メートル、
小路でも4メートルはあるけれど、すれ違う時は互いに譲り合うのがルールになっていたそうです。
それを、「小松殿の次男新三位中将資盛卿」、つまり重盛の次男坊資盛、平たく言えば建礼門院右京太夫の愛人(^_^;
彼女の方もかなりの発展家だったらしいけれど、資盛もガキの頃から色っ早く・・・と言っても
色恋沙汰は当時はふつうの貴族社会の嗜みなのですが(^_^;

この時も13歳(「ホントは10歳」だって!)の小童が、女車に乗っていたそうで・・・って、どういうこと(^_-)-☆
で、攝政・藤原基房の外出に出くわして、本来下馬の礼を取るべきところを、
知らん顔して、お供を蹴散らして通り抜けようとして、かえってとがめられて散々の目に合わされた\(^^)/
それを帰って、おじいちゃんの清盛に言いつけたところが、清盛が烈火のごとく怒って、重盛に窘められたのに、
次の基房の外出を狙って、一度は失敗するものの、とうとう髻を切って烏帽子をかぶれないようにしてしまった、というわけです。
当時は烏帽子というのは人前では必ず被っているもので、
「源氏物語」で柏木が臨終近い重態なのに、見舞いに来た夕霧に、せめて烏帽子なりと、とかぶって会うところありますよね。
それくらいの、大事なもので烏帽子がかぶれない、と言う事は人前に出られない、ということですから、
こ傍若無人の仕業にはあきれ果てるのですが・・・・

「が〜」なのですね(^^ゞ
これが実は清盛がやらせた事ではなく、実は重盛がやらせたのだというのです(^^ゞ
まあ、重盛は平家物語ではやたらに有徳仁ということになっているが、じ・つ・は・・・、というのは、もう一つの定説で(^_^;
気が小さくてええかっこしいの嫌な奴、と言う人も結構いるのです(^_^;

で、この一件も、実は、基房が、家来が散々にやっつけた無礼者が、清盛の孫だと知り、
青くなって、犯人を重盛の許へ差し出しているのだそうです(^_^;
ところが、重盛は出てこない!知らん顔の知らん振り・・・仕方なく、邸に引き取って基房自身が罰を与えた。
それなのに↑のような仕返しをされた、というわけで(^^ゞ

で、ここが、日下先生の講義の面白いところでして・・・♪
資料に、慈円の「愚管抄」の記事が資料にありまして、
この小松内府は、いみじく心うるはしくて、父入道が謀反心あると見て、とく死なばやなど云ふと聞こえしに、
いかにしたりけるか、父入道が教へにはあらで、不可思議の事を一つしたりしなり。
これが、この基房への狼藉の事だと先生はおっしゃいます。

つまり、この時期嘉応二年十月十日、というのは1170年、なのですが、
実は重盛は仁安三年(1168)春から嘉応元年(1169)冬まで病気をしていたのだそうです。
で、その間に清盛も病気して出家してしまった(仁安三年二月十一日)。
そこで、清盛の家督問題がおおきく揺れていた・・・つまり、
平氏の実力は、小松一門の重盛から、母の違う時子の子ども宗盛に移っていた、とおっしゃるのです!!
そこで、鬱屈していた重盛は、俺をバカにするのか!とイライラしていんじゃないか、と。
フゥン・・・あり得る、あり得る(^_^;
大体普段紳士的な奴こそ一旦暴走するとえげつない事やりまっせぇ♪

もともと、この基房が外出する先は内裏で、高倉天皇の元服の相談だというのです。
「元服したらどうなります?」
「徳子の入内が待ってますネェ♪」
ん〜なのに、「清盛が其の大事な相談をしに行こうと言う基房の邪魔をするはずないでしょ!」
そうですよ!!
「かたや、重盛の方は徳子が入内したら、いっそう、平家の家督は時子の子どもの方へ行ってしまう。
徳子入内を控えて高倉天皇の元服を邪魔したい気分があります」
そうなんだ!!

もう一つの重盛像というか、重盛に与えられた役割について、「第三回.人それぞれの生―6.一門都落に書きました。

宗盛といえば、平家物語の中では、凡庸で優しいだけのマイホームパパで、
あれが家督を継いだから平家が落ち目になった、というのが定説なのですよね♪
平家没落の定説は一に有徳仁の重盛の早世、それに加えてボンクラの宗盛の家督相続、ということで(^^ゞ
だから、巻三で重盛が死ぬ(「3.医師問答の事」)と、
前右大将宗盛卿のかた様の人は、『世は只今大将殿へ参りなんず』とぞ悦びける。
なとど冷ややかに揶揄されて書かれるのです。

大体、ですねぇ・・・
この時代当たり、つまり仁安三年(1168)二月二日の清盛発病のあたり、
この辺はまだ清盛が皆から信頼されていた時代だと先生はおっしゃいます。
この2月2日の発病、9日は危急。
10日は滋子・時忠訪問、て、これはお見舞いでしょう、と先生。
11日、清盛・時子出家、夫婦揃って、仲のよいことで♪
15日、後白河院、熊野より一日早く帰郷、御所にも寄らず清盛邸へ!!
ここが二重丸の特別事項!!

後白河院の熊野通いは有名で、生涯に70回だか80回だか参詣しているのですが、←と、知ったかぶりして書いたところ
この頃、この受講ノートを愛読した下さる「平家物語」のぼんやり夫人さんから、
後白河の熊野御幸の回数が違っていたような。。
院政期時代合わせた回数になってました。後白河のみなら34回ですから

というメールを頂きました。
アリャリャ・・・ウロ憶えに調べもしないで、そのまま書いてしまいました。
先に読んでいらした方、ごめんなさいm(__)m
でも、ぼんやり夫人さんに教えていただけて助かりました(^^)v
もし、他にもお読みくださっている方で、ちょつとおかしいぞ!と思われることが有りましたら、
どうぞお教えくださいませm(__)m
ちょっと、甘ったれてますかねぇ・・・まあその〜、武士・・・カツオブシは相見互身、ということでm(__)m

で〜、
その大好きな熊野詣でを一臣下のために切り上げて、御所にも帰らず見舞いに直行するんですから・・・
とにかく、後白河院と清盛の蜜月時代だったわけですよね(^^ゞ
で〜、だからこそ、
16日、東宮へ譲位決定、19日、高倉帝踐祚
3月22日高倉帝即位、滋子皇太后宮
このへんがね、いくら無茶でも横車でも、
「一ヶ月やそこいらでは、譲位から即位とは珍事、と行ってもいい」そうです。
「役人も役所も全員が国を挙げて走り回らなければできない事で、この時代の清盛は、まだ皆から信頼されていたんでしょう」
という事らしいです。
譲位は天皇の位を譲ると発表すること、踐祚は天皇が三種の神器を譲り受けること。
即位、というのは三種の神器を譲り受けた事を天下に知らせる事です。

「1170年に殿下乗合〜1171年、高倉帝元服〜1177年、鹿の谷、ここが大事!この六年間の間に何があったか?」
と先生はおっしゃいます。
何が?
「安元二年(1176)建春門院滋子が死んだんです。35歳でした。
後白河法皇の寵姫です。
平時忠の妹で、後白河院と平家を結びつける大きな役割も果たしていた。
後白河院はお籠の途中でも滋子の病気が心配でおこもりをやめてしまう、と言うほど寵愛していたんです。
建春門院頼親の『たまきはる』にもよく描かれていますが『平家物語』では滋子の死に言及しない。
これは、1176年以前から清盛と後白河法皇との間に齟齬があったという印象を与える、物語操作です。」

え〜、ついでに、ここの部分のメモだと思うのですが、ハラ〜ッと落ちたので、どこから落ちたか分からないのですすが(^_^;
この摂関家の藤原氏と平氏との関わりについて、のご講義です。

この基房の兄弟に兄に基実がおり、弟に兼実(『玉葉』)・慈円(『愚管抄』)がいるのですが、
その長兄基実に清盛の次女盛子が嫁いでいました。ところが基実が早世して、跡継ぎ基道がまだ幼かったため、
攝政の地位は、松殿(基房)に映ったけれど、
その摂関家の所領は盛子の預かるところとなり、結局平氏の物になった、と言う事だったのです。

ところが、これから先はA先生の方でのノートなのですが・・・(日下先生は、この部分が次回の「殿下乗合」になります。)
基道が17才になった時、本来ならその所領を相続させるはずなのに、
後白河院は、松殿(基房)の八歳の息子に相続させた!というのです。
それより先に、重盛亡き後の越前の所領(平氏代々の所領)を召し上げた、ということもあり、
もはや後白河院と平氏は完全分離であったのですね(^^ゞ

大体、後白河院は感情の赴くままに行動する人で
「綸言汗の如し(天皇の言葉は一度出たら取り消せない)」なんてどこ吹く風の朝令暮改の人ですから・・・
もともと帝位につくべくして付いた人ではないですから、帝王学のない人なんですね。
まあだからこそ「梁塵秘抄」なんて庶民の芸術が残ったのですが♪

清盛はそういう後白河院を嫌って二条天皇の親政を望んでいたらしい!ということでした。
日下先生はこのへんは吹っ飛ばしてしまわれたのですが、どうなんでしょうねぇ・・・このへんは定説なのか?
A先生の独断なのか(^^ゞ



4.鹿谷(ししのたに)

「巻一、10.鹿の谷の事」より―

出た♪出た♪・・・「瓶子は倒れたり♪」
「文官のトップは太政大臣、武官のトツプは左大将で兼任はできない」というところから事は起こりました。
妙音院殿(藤原師長)が、太政大臣就任で左大将を辞すことになって、さて後任は?となったとき、
名乗りを上げた三人の中に藤原成親がいたんですね。
こいつが、分不相応な野心家で、なんとしてもなりたい、と運動していたのに、
当時右大将だった重盛が左大将に横滑りし、その重盛の後の右大将に異腹の弟の宗盛が付いて、
成親の野心は断たれてしまった・・・恨み高じて反平家となったわけですね。
でも、後には清盛の「物めでし給ふ」性格にうまく取り入って重盛の左大将をといて、自分を就けてもらうんです。
「平家物語、巻二、8.新大納言の死去の事、付 徳大寺厳島詣での事」にその辺の事情が書いてあります。
嗚呼、それなのに、それなのに・・・恩知らずな事するから(^_^;

ついでに、この成親は、後白河院の寵童?つまり男色のお相手だったそうです(^^ゞ
先生の解説で「院のお床の覚えにて」ということもあったそうで、
そのへんのこともあって、成親自身の思い上がり、勘違いがあったのでしょうねぇ(^^ゞ

「東山の麓の鹿の谷というところに俊寛の山荘があって、ここでまあお酒を飲みながら、上役の悪口を云うような気分で、
平家を倒そう、などという相談をしていた・・・本気でしていたわけじゃないんでしょう」
そうだよねぇ・・・何時の時代にもこういう反対勢力にもならない不平分子というのがいるもので、
本来はどうってことない役立たず、ってことなんだけど・・・後白河法皇まで参加していた、というのがあきまへなんだねぇ(^_^;

この頃は、後白河院と清盛はもう険悪ムードだったわけです(^^ゞ
何故か?
↑後白河院と平家を結んでいた強い絆がほどけてしまった・・・安元二年(1176)建春門院滋子皇太后宮の死!
鹿の谷事件は其の翌年治承元年(1177)なんですね〜。
建春門院滋子については、別に書きたいほど、後白河院に愛されて、愛されたまま亡くなった幸せな女性です。
そして、彼女の死によって、後白河と平家とはあえなく蜜月時代を終えたのです。

ちなみに、この「瓶子は倒れたり♪」つまり「平氏倒れ候ぬ」と言ったのは大納言源成親、
その瓶子の首を「たゞ、頸を取るにはしかじ」と言って、ひねり取ったのは↓次に出てくる西光です(^^ゞ



5.西光被斬(さいこうきられ)

「巻二、2.西光が斬られの事」より―

西光というのは、「平家物語」でもあまりよく書かれていない人です。
故少納言入道信西のもとに召使はれる師光・成景といふ者あり。師光は阿波の国の在廰、宿根賎しき下臈なり。
(巻一「鵜川合戦の事」)
という感じですね♪

鹿の谷の事が顕れて、一連の仲間が捕らわれると、後白河院の許に逃げ込もうとしていることを指して、
先生が「西光は徳島の人でもともと成り上がり者で、こういう時の感触に長けているんです」と解説なさって納得!!
まあ、本文読んでいての印象もそんなところでした(^^ゞ

もともと、「白山(はくさん)事件」と言うものがありました。
西光の息子藤原師高が加賀国守として赴任中、白山神社と事を起こしました。
まあ、実際は師高の弟近藤判官師経というのが、
国府の近くにある鵜川という山寺で無法を働いたのですが(巻一「鵜川合戦の事」)、とにかく
比叡山に訴えられて、比叡山から都に強訴が来て、師高を殺せ、と言われました。
後白河院は渋々、とにかく流罪にはしましたが、喧嘩両成敗ということで天台座主まで流罪にする。
しかし、僧兵たちに大津で奪い返されてしまいます。
そこで後白河法皇が怒って比叡山襲撃を平氏に命令します。

ところが「清盛は比叡山と同盟中で躊躇している、そこへ行綱が訴人して来た!」
行綱は摂津国源氏多田蔵人ですが、鹿の谷の謀議に参画しておきながら、例の「瓶子は倒れたり♪」を見て、
あまりの軽さにかえって怖気づいて清盛に寝返ったのですね(^^ゞ
つらつら平家の繁盛する有様を見るに、當時たやすう傾け難し、もしこの事洩れぬるほどならば、
行綱まづ失はれんず、
他人の口より漏れぬ先に返り忠して、命生かうと思ふ心ぞ付きにける。

というわけで、「鹿の谷謀議の連中」は、後白河院以外は一網打尽に捕まってしまいます!!
ここからが、ちょっと西光のよいところで・・・他の長袖連中とは一味違って、
平氏栄達の一々をあげて、フン、テメエだってナリアガリモンじゃあねぇか!と毒づいた挙句、
殿上のまじはりをだにきらわれし人の子で、太政大臣まで成り上がったるや過分なるらむ。
ケツをまくっちゃったわけです\(^^)/

「過分、非分というのは」と言う説明で
分不相応な行動をすることによって執着が起こり世を乱すことになる
とは先生の解説です。
考えちゃいました!!

でも、これで、いよいよ清盛の怒りを買い、
「『しゃつが口をさけ』とて、口をさかれ、五条西朱雀にしてきられにけり」というわけで、西光被斬の段!!



6.教訓状

「巻二、5.小教訓の事」より―

「衣の下に鎧が見える♪」・・・これも「有徳仁重盛」の見せ場ですね(^^ゞ
なんとなく、この場面を読むと忠臣蔵外伝の「片岡源吾衛門、馬子への詫び状」の下りを連想してしまうのはなぜだ?
いかにも嘘臭い!ってトコかな・・・(^^ゞ

まあ、「鹿の谷」謀議の主人公は後白河院と目串を指して、後白河院を捉えようと兵を集めて一戦の構え。
そこに重盛、「小松殿、烏帽子直衣に大紋の指貫そばとって」現れます。
ここの清盛は一寸カワユクて、
入道ふし目になッて
さすが子ながらも、内には五戒をたもって慈悲を先とし、外には五常を乱らず礼儀をただしうし給ふ人なれば
と、自分の子の重盛に対して遠慮する、というポーズです(^_^;
まぁ、逆を言えば、親でさえ遠慮をする公明正大さを持つ重盛!というわけなんですね(^^)

で、まあ、重盛が切々とことの道理を説くわけですが、この時に使われる言葉がけっこうおもしろい!!
今回の講義では、この当たりはわりとサッとだったのですが、
重盛の言葉で
「日本は是神国なり。神は非礼を享給はず」
聖徳太子十七箇条の憲法を例にとり、(先生がその第十条、と教えてくださいました)
「人皆心あり。おの\/執あり。彼を是し、我を非し、我を是し、彼を非す。
是非の理、誰かよく定むべき。相共に賢愚なり、環のごとくして端なし。―後略」
と言うのがあって、もひとつ
神明仏陀感応あらば
という下りもあって、
この時代には(この平家の文が書かれた時代には)、まっこと神仏混交の信仰が行われていたのだナァ、
と素朴に感動m(__)m



7.烽火之沙汰

―「巻二、5.教訓の事、付 烽火の事より―

えー、この巻の最後の下りが好きなのですが・・・、忠君愛国の極みってのを盛大に歌いまくって、
「上代にも末代にもありがたかりし大臣なり♪」と、重盛賛歌です・・・ハズカシや(^_^;
いやいや、要するに、ここ大変な歌い処なのです。
「平家物語」はどこを読んでも歌にしやすいのですが、ことにこの辺りの書き方は、全く歌詞そのものなんですね(^^ゞ
と、というわけで、ナニワブシのように読みたくなる!!だって平曲は知らないもん!!

ここでも清盛は可愛いもんです♪
「太政入道も、頼みきったる内府はかやうにの給ふ、
力もなげにて『いや\/これまでは思もよりさうず。―中略―思ふばかりでこそ候へ』
てなこといって、シオシオと引っ込んでしまいます(^_^;
このへんの清盛は勇壮果敢な成功者でもなく、
例えば企業の創業者が、会長に祭り上げられてから、もう一丁と大きなビジネスを仕掛けようとしたときに、
現社長のヤリテの息子から引導を渡される・・・ような印象さえありまする!!

先生もおっしゃってましたよ♪
「思もよりさうず(「候はず」ということ)、思ふばかりでこそ候へ、って息子に対して丁寧語になってる(笑い)」
対する重盛は
「院参の御供にをいては、重盛が頸の召されむを見て仕れ」と、意気揚々と引き上げていくのです(^_^;
なんじゃ!ワリャァ!!と、言いたくなる気もいたしますですね、はいm(__)m

でもさ・・・この時宗盛はどうしていたんでしょう?知盛は?ねぇ〜、唯々諾々と会長の仰せに従っていのでしょうか(^_^;



8.僧都死去

「巻三、7.有王が島下りの事」より―

いよいよ俊寛です(^^)
「平家物語」と言って、すぐ思い出すのは、
一は祇園精舎だろうけれど、二、三は敦盛と俊寛が分けるのじゃないでしょうか。
大昔のゼミでも、この二つはトリッコだったと思う・・・あまりに大昔で確定ではないですが(^_^;

「俊寛は法勝寺の坊官なので妻帯もできるし帯刀もできます」と先生の解説があって、オーそうか!
いや、この時代には親鸞は間に合わないのに、
けっこう大っぴらに妻帯している僧侶がいるようで、どないなっとんねん?と思ってました(^_^;

で、この前に成親大納言被斬のお話。
「巻二、8.新大納言の死去の事」というのがあります。
先生から、
「成親は大納言の官位を剥奪されないままに“清盛の私怨”という形で配流される途中、岡山の吉備津で暗殺されてしまう。
公的罪科でないから暗殺できるんですね」という解説がありました。
なるほど・・・私怨かぁ・・・公的罪科を付けさせたくないほど怒り狂っていたんですよね(^_^;
清盛としたら、ホントに自分の好意を踏みにじられたんだから、ごもっともですm(__)m

で、今度は俊寛。こちらも清盛の推挙によって法勝寺の執行になったわけですねぇ。
だから、清盛には、こいつにも裏切られた、という思いがあるわけです。

で、先生は、ここで何を解説なさるか?
なぜ俊寛だけが取り残されたか?
勿論、清盛には俊寛に裏切られた、あいつだけは許せない、と言う思いがありますが、それだけではないそうで・・・。
実は、俊寛を置いて帰った二人、丹羽少将成経と平判官康頼が、実は平家の一族に強力なコネがあったのだと言うことで(^^)

まず、丹羽少将成経、これは↑の大納言成親の息子ですが、その大納言成親の妹が重盛の妻になっているのです(^^ゞ
まあ、だから、重盛の左大将も譲ってもらえたんだろうけど(^_^;
で、この際の当の成経は、清盛の弟教盛の娘を妻にしている・・・つまり義理ながら清盛には甥ということになるんですね♪
「平家物語 巻三、1。赦文」では、重盛が、中宮徳子の出産の赦免に事寄せて
「あの丹羽少将がことを、門脇の宰相(教盛)あまりに歎き申すが不便に候」
と口ぞえしてやるのですね。また平判官康頼も俊寛のことも
入道相国、日來よりことの外に和らいで、「さて俊寛や康頼法師がことはいかに」と宣へば、
「それも同じうは召しこそ歸され候はめ。もし一人も残されたらんは、なかなか罪業たるべう候」
というのですが、
康頼法師がことはさることなれども、俊寛は随分入道が口入を以って人となったる者ぞかし。それに所しもこそ多けれ、東山鹿の谷、我が山荘に寄り合って、奇怪の振る舞いどもがありけんなれば、俊寛がことは思いもよらず」とぞ宣ひける。

というわけで、俊寛は置いてきぼり!!

とうとう、弟子の有王という若者が鬼界が島に渡ります。
実は、三年という流刑の期間に俊寛の息子が死に、それを哀しんで妻が死に、
一人残った娘が哀しんで書いた手紙を携えて有王が師の消息を尋ねてくるのです。
その手紙に書かれている事を読んで、
親となり子となり、夫婦の縁を結ぶも、みな此の世ひとつに限らぬ契りぞかし。などさらばそれらがさやうに先立ちしけるを、今まで夢まぼろしにも知らざりけるぞ。
先生は、
「“此の世ひとつに限らぬ契り”というのも、夫婦は五百世、という説もあります」
「“今まで夢まぼろしにも知らざりけるぞ”ーこれは、今まで信じていたものに対する疑問です。
成経は、置いていく俊寛に、都に帰ったら俊寛のために働く、と言っていたのを信じて自殺もせずに頑張った、それも嘘だったと悟る。」
「物語は都に帰った成経が家族にあって喜んだ事を書いていますが、俊寛のために働いたとは一行も書いていません。」
「俊寛は、都でも裏切られ、ここでもまた裏切られるんです。」

姫が事計こそ心ぐるしけれ共、それはいき身なれば、歎きながらもすごさんずらん。
で、この「いき身」ということばですが、これは「生き身」ということで
「自覚しない生命が我々の中に宿っている。それがどんな事があっても自分たちを前向きにする」と言う事なのだそうです。
「小宰相の下り」をたとえに挙げていらっしゃったのですが、この辺の文字乱れで、自分のメモが読めませんm(__)m
「不適当だけれど物語の作者は、ここでこの事を書きたかった」と先生はおっしゃいます。
「語りの世界では○○と一体感を持ちたい」(○○は自分のメモの字が判読できずm(__)m・・・「語りと音楽」じゃないかな)
「我々は生きるために苦しいことがある」
「此の世に絶望する気持ちと生きようとする気持ち」
・・・と二行のメモがありました・・・。

をのづからの食事をとヾめ
「古本を辿れば、有王が(島に)渡った翌年に病による自然死をした、しかし、ここでどうしてこんな強い死になったのか?」
それは、やはり、前の解説を受けて、
自ら選び取った死、という形に作者が描いた、ということでした。

いやいや、何度も言いますが面白かったです(^^)
同じ「平家物語」なのに、涙、涙で読む情緒的な「平家物語」もあれば、
これほど、推理小説をめくるように心躍る「平家物語」もあるのですねぇ♪
史実と比較しながら、作者が描きたかった事を探る、というのは、昔の文学研究では考えられなかったそうですが、
これはかなり「嵌る」読み方ですよね(^^ゞ

講義の終わりに先生から「『平家物語』誕生の時代」という本のご紹介を頂きました。
しっかり、受付の外で売っていたんですけど、これがまたなかなかの優れもので、しかも650円という(*^-^*)
「かわさき市民アカデミー」という、やはり生涯教育センターのようなものでしょう。
そちらの講座二回分を纏めたものです。
文章も平易で、↑で言うとおり史実と比較しながら、作者が描きたかった事を探る楽しみを満たしてくれる一冊でした♪

次回が楽しみです(^^)v


当日は「「平家物語とその周辺」という展示会がありました。
そちらは、観覧記の方で取り上げていますm(__)m




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