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10月21日(木)

本日、連続講演の二回目ですが、ぬぁ〜んと、午前中は、某所で「紫式部日記」の受講日なのです(^_^;
これも、かなり気合が入って、いつも、終了後はヨレヨレになるのに、
今日は、午後↓「平家物語」で・・・どうなる事やら不安です(^_^;

今日の資料の中に鎧の絵がありました(^^)
これ、欲しかったんですよ〜♪
大鎧はわかるし、腹巻というのも大体想像付いていたのですが、大鎧の部分的な名前とか、
大鎧と腹巻の具体的な比較はしにくかったですから・・・。
指貫や狩衣は、まあお馴染みの部類ですから・・・それにしても、「鎧直垂袴」というのは、あ!でした。
映画で見ていたりしたのですが、ちゃんと名前を聞けてよかった(^^)
後の解説でお使いになりますが、大変有用でした(^^)

で、11月6日(土)の早稲田祭

「21世紀の鎧職人」・「境界の軍談」 6日
鎧制作者・豊田勝彦氏と日下力文学部教授が鎧を前に語り合う、対談・「21世紀の鎧職人」。
帝京平成大学講師・仲井克己先生がITを駆使して九州の平家伝承を追跡する、研究発表。
13:00〜16:00 B101教室

という企画がある旨のご紹介アリ♪
鎧製作者なんて、もう日本中で四人くらいしかいらっしゃらないそうで、貴重なお話が伺えるそうで


第二回・「人間の描出」―― 以仁王事件

1.「源氏揃」

―「巻四、源氏揃への事」より―

其此一院第二の皇子、茂仁の王と申しは、御母加賀大納言季成卿の御娘なり。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申ける。

というわけで、本日の主人公以仁王の出自の説明から。
以仁王は後白河院の第二皇子ですが親王宣下もしてもらえなかったんですね。
何故か?平氏の子ではないからです。
第一皇子は二条天皇になった守仁親王(母は大納言藤原経実女懿子)ですが、
其の皇子の順仁(のぶひと)親王(母は下級貴族の伊岐致遠の娘)を、 一歳を待たず立太子させ、
二歳で即位させた挙句(六条天皇) 二年半で平家の推す高倉天皇に譲位させた!!
(ちなみに六条天皇は13歳で死去(;_;))
平滋子(建春門院)の生んだ高倉天皇は第三皇子ですから、十才年上の第二皇子はその強力なライバルと思われたのですね(^_^;
ついでに、歌人で有名な式子内親王は、以仁王の同母の妹です♪

御手跡うつくしうあそばし、御才学すぐれて在ましければ、位にも即かせ給ふべきに、
故建春門院の御そねみによっておしこめられさせ給ひつヽ

とも書かれています。
で、先生は、そんなに優秀な皇子だったのか?という疑問を投げかけながら、
「『平家物語』は文学作品なので事実とは違います。」
「どういうスポットの当て方で人間の描写が出来るのか?」ということを伺いました。
で、一連の事件がおきます。

治承二年(1178) 安徳天皇誕生。
治承三年(1179) 8月1日重盛逝去。一ヶ月前に盛子も逝去。
同年11月 清盛のクーデター、後白河院幽閉。

治承四年(1180) 安徳天皇即位

其の中で、「前回、建春門院平滋子の死を消したように、
今度は盛子(清盛次女、攝政基実室)の死を消した」とおっしゃいます。

前回のご講義では、
「『平家物語』では滋子の死に言及しない。
これは、1176年以前から清盛と後白河法皇との間に齟齬があったという印象を与える、物語操作です。」
と、おっしゃいました。

「殿下の乗合の事」の攝政基房の兄弟に兄に基実がおり、弟に兼実(『玉葉』)・慈円(『愚管抄』)がいるのですが、
その長兄基実に清盛の次女盛子が嫁いでいました。
ところが基実が早世して、跡継ぎの基道がまだ幼かったため、
攝政の地位は、例の「殿下の乗合」の松殿(基房)に映ったけれど、
その摂関家の所領は盛子の預かるところとなり、結局平氏の物になった(某所で伺ったA先生のご講義)」
と言う事だったのです。

「実は、盛子は十歳で基実に嫁ぎ、其の翌年基実が死んで11歳で未亡人になったのです。
その11歳の未亡人盛子に摂関家の所領を全部移したため、重盛と盛子は藤原氏の祟りで取り殺されてしまう。」
という事だったのだそうです。
「後白河院は、盛子の死後、その所領を没収してしまいます」
「物語は重盛の死に哀悼しないで、クーデターの原因とします。清盛の、父の情を書きます。
現実は経済問題だったことが巧みにすりかえられてしまう」

ムムム・・・そういうことなんですか(^_^;
(盛子は11歳で未亡人なんですか!?てぇと、基道は誰の子?ええっ?日下先生とA先生とどっちが正しいの?
というか、基道は基実と盛子以外の女性との間の子?)
ま、いいや〜(^_^;とにかく、一旦盛子に行った摂関家の所領は取り上げられた。

「永万元年(1165)12月、後白河院の長男、二条天皇が崩御し、六条天皇が二歳で即位します。
すると、以仁王は、東宮が回ってくるかもしれないと、出家の予定を取りやめ、15歳で元服します。」
ん〜、野心満々です(^^ゞ
しかも、「出家して常興寺という寺に入るはずだったのですが、元服した(僧にならないということ)くせに、
寺の知行は手放さなかった」と言うことで、
資料「山槐記(治承3年11月25日)」にその記録が載っていました。

でも、世の中そんなに甘くない・・・結局、親王宣下すら受けられないのですねぇ(^_^;
で、そのまま空しく三十路に差し掛かった以仁王に、源三位入道頼政が近づいた!!

「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十八代にあたらせ給ふ。太子にも立ち、位にも即かせ給ふべきに、
卅まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、心憂しとはおぼしめさずや―中略―
ご謀反おこさせ給ひて―中略―君も位に即枷給ふべし。

と、唆し奉った!!

以仁王は本当に↑「平家物語」に書かれているように優雅で俊才だったのか?
次の「信連」の巻では、以仁王が女装して落ち延びるところが出てきますが、そんなに美景だったのか?
資料「玉葉(治承4年5月20日)」では、逃げ込んだ三井寺の宗徒に、追い出されようとする時、
血相変えて、自分に手を触れるな!と怒ります。
「“はなはだもってこうたかし”という記述もある。強壮という面を物語りは隠している」と先生。
「身代わりになった、と言われるものが美形であったかもしれない」

「平家物語には、手跡がうつくしい、とか、才学が優れているとか、笛が巧いとか・・・
優雅な處を強調して書いてあるだけ」とのことでした。

つまり、主人公だからね、大いに美化してあるのだ、ということですよね(^^ゞ



2.「信連(のぶつら)」

―「巻四、信連合戦の事」より―

以仁王の家臣「宮の侍長兵衛尉信連」という武士の忠義と豪傑ぶりを描いた段ですが、
何気に、清盛の男気も感じられますのんえ〜♪

以仁王の企てが露見して、一緒について来い、と以仁王に言われると、

「唯今御所へ官人共が御迎へに参り候なるに、御前に人一人も候はざらんが、無下にうたてしう候」
と、一人奮戦して生け捕られたのです。

以仁王の追っ手には源大夫判官兼綱が入っていました!
これは源三位頼政の次男なんです。ってことは、平氏側は
まだ、源三位頼政が謀反の張本人だとは知らない!
まあ、清盛にしてみれば、万年ヒラだった(まぁ、主任クラスかな)頼政を、
三位(ヒラ部長くらいかな(^^ゞ)に押し上げてやったんだから、自分の子飼いだ、くらいには思っていたはずですし(^^ゞ

だから、頼政が帳本人だと知った時は、清盛は猛烈に怒るのですが(^^ゞ

その討手がですね、件の兼綱と、もう一人が出羽判官光長という二人が頭なのですが、
源太夫判官兼綱・出羽判官光長、都合其勢三百余騎、十五日の夜の子の剋に、宮の御所へぞ押し寄せたる。源太夫判官は、存ずる旨ありとおぼえて、遥かの門前にひかへたり。
というのが「平家物語」
資料「山槐記(治承4年5月15日)」では、
「検非違使兼綱(大夫尉)、光長、三条北高倉西の亭へ向かふ」とあります。
これ、「検非違使って;・・・まあ泥棒などを取り締まる下級の警察機関ですよ。
以仁王は、(痩せても枯れても、って筆者の所見m(__)m)法皇の次男で、臣籍降下もしていない宮様です!
しかも
出羽判官光長は、馬に乗りながら門のうちに打ち入り、庭に控えて大音声をあげて申けるは、
「ご謀反の聞え候によって、官人共別当宣を承はり、御迎へにまいって候。急ぎ御出候へ。」
と怒鳴るわけですよ!!
さらに、さらに、以仁王が出てこないと
「下部どもまいってさがしてたてまつれ」
これは、家捜しして来い。
しかも、この「“下部”というのは、放免した罪人を検非違使の手足に使っている」という
その罪人上がりの捕り手なのですねぇ!!

これは、信連としても黙って引き下がれません!!
「馬に乗りながら門のうちへ参るだにも奇怪なるに、下部どもまいってさがしてまいらせよとは、いかで申ぞ。」
当然だよね!!

戦闘開始!!
討手が、「いかに宣旨の御使いをばかうはするぞ」と詰問すれば、
「宣旨とはなんぞ」と、鼻であしらって、切り伏せます(^^ゞ
しかし、多勢に無勢!奮戦空しく生け捕られて、
宗盛から「まことにわ男は、宣旨とはなんぞとてきったりけるか」と尋問されると、
ヌケヌケと、「山賊・海賊・強盗なンどと申す奴原は―中略―、『宣旨の御使』なンどなのり候」と答えて、シャラー(^_^;
激昂した宗盛が「河原にひき出いて、かうべをはね候へ」と命じるのですが、
堂々たる信連の態度が平氏の中でも評判になり、
「あっぱれかうの物かな。あったらおのこをきられむずらん無慙さよ」と噂し、
「口々におしみあへりければ、入道相国いかヾ思われけん、伯耆の日野へぞ流されける。」

で、この巻は信連という身分もそう高くない武士の武士らしさと、
平家の総大将宗盛の卑小さの対比になっている、と言う感じなんですね。
大体「無慙」と言う言葉は、仏教用語で「恥じない」という意味だそうです。
誰が恥じないのか?あったら武士にそんな刑を言い渡す宗盛ですよね(^_^;
それに引き換え、ここでは清盛が良い役です(^_-)-☆


信連が、以仁王の御所で奮戦する處では、
五月十五夜の雲間の月のあらはれいでて、あかかりけるに、
と、あります。
「これが平家物語の合戦の始です。綺麗ですよね。五月の十五夜の月の明るい下で・・・。」
「しかし、合戦の記事は美しいが、本当の戦場はこんなものではない!」
ともおっしゃいました。



3.「競(きさふ)」

―「巻四、競が事」より―

「なぜ、源三位入道が謀反を起こしたか?!七十にもなって、ね。」
「人の心の必然性を求めると、現実と物語のギャップがあります」

ま、そこは物語のお話から・・・。
頼政の長男に仲綱という子が居て、「九重に聞こえた名馬」というのを飼って大事にしていた。
それに目をつけた宗盛が「見たい」と言った。
「権力者が見たいってことは、よこせってことですからね」と、先生(^^ゞ
それで渋っていたんだけれど、結局は権力のある者には勝てないので、歌一首を添えて届けたところ、
宗盛は、たかが馬一頭を出し渋ったのが憎らしい、と、其の馬に仲綱の名を焼き印して、
客が来るたびに晒し者にしたのです(^_^;
さあ〜、そこで、頼政が怒った!!
「何事のあるべきと思ひあなづって、平家の人どもがさやうのしれごとを言ふにこそあんなれ。
其儀ならばいのちいきてもなにかせん。便宜をうかヾふてこそあらめ。」とて、わたくしには思ひも立たず、
宮を、すヽめ申たりけるとぞ、後には聞こえし。
「宗盛は、(物語の中で)常にバカ扱いされてますが、その一番最初のバカ」と先生(^^)

「宗盛があんなことしなければ、歌を添えられても返歌もできない、という、ね」
「それに比べて小松の大臣は・・・、と重盛が出てくる」
これにつけても天下の人、小松の大臣の御事をぞしのび申ける。
なんでも、また仲綱がらみなんですが・・・
重盛が中宮の許へ参内した折、八尺の蛇が袴にまつわりついてきた。
そのままでは女官たちが大騒ぎをするのはわかりきった事なので、静に直衣の袖うちに入れて、
誰かある、と人を呼んだら、蔵人だった仲綱がやってきて、適宜な処理をした。
本来は↓の主人公渡辺競がやったことなのだけれど、
そういう良い家来を持っている、ということは主人の誉れなんですね♪
でー
そのあした、小松殿よい馬に鞍をいて、伊豆守のもとへつかはすとて「さても昨日のふるまひこそゆうに候ふしか。是は乗り一の馬で候。夜陰に及んで、陣外より傾城のもとへ通はれむ時、もちゐらるべし」とてつかはさる。伊豆守、大臣の御返事なれば「御馬かしこまって給はり候ぬ。昨日のふるまひは還城楽にこそ似て候ひしか」とぞ申されける。いかなれば、小松大臣は、かうこそゆヽしうおはせしに、宗盛卿は、さこそなからめ、あまっさへ人のおしむ馬こひとって、天下の大事に及びぬるこそうたてけれ。

てなわけで、人のものを見境なく欲しがった為に天下を失う事になった!宗盛のオオバカ野郎!


で、今回の主人公の「渡辺競」なんですが・・・
同十六日の夜に入って、源三位入道頼政・嫡子伊豆守仲綱・次男源太夫判官兼綱・六条蔵人仲家・其子蔵人太郎仲光以下、都合其の勢三百余騎、館に火をかけ、やきあげて、三井寺へこそ参られけれ。
件の頼政謀反発覚で、三井寺に落ちて行く主に、はせ遅れて都に止まってしまった(^_^;
なぜか?競の邸は平家の邸の傍で、動静が一目瞭然なので、ウロウロしているうちに居残ってしまった、というわけ(^_^;。
で、当然、捉えられます!平家方に!!
宗盛から、あれこれ尋問されて、
旧主は大事だが、朝敵になった人には仕えられない、と答えると、では平家に仕えろといわれて、はい、仕えますと即答(^_^;
あれれ(^_^;
さぶらひに、「競はあるか」、「候」。「競はあるか」、「候」とて、あしたよりゆふべに及ぶまで伺候す。
と、宗盛は疑って、年中呼び出す。だったら、そんなもん雇うなよ!と思うけど、
まあ、件の手柄の主ですから、そう簡単に首切っちゃうのは惜しい、と思ったのでしょうか(^^ゞ
さ、そ・こ・で・・・
競、かしこまって申けるは、「三位入道殿、三井寺にと聞こえ候。さだめて討手向けられ候はんずらん。
―中略―御馬一疋くだしあづかるべうや候らん。
と、宗盛秘蔵の煖廷(なんりょう)という白葦毛の名馬を一匹もらった・・・と、言えばもうははぁ〜ん(^^ゞ
自分の邸にはせ帰り妻子を密かに落として火をかける!
六波羅には、競が宿所より火いできたりとて、ひしめきけり。大将いそき゜いでて、「競はあるか」とたづね給ふに、「候はず」と申す。
「すはきやつを手のぺにして、たばかけぬるは。おっかけうて」とのたまへども、競はもとよりすぐれたるつよ弓・精兵、矢つぎばやの手きヽ、大ちからの剛の物、「廿四いたる矢で、まづ廿四人は射殺されなんず。おとなせそ」とて向ふ物こそなかりけれ。
このへんもう「太平記」のノリです♪パパンパンパン♪
先生は「(宗盛の)取り巻き連中は口は達者だが役立たず」と。

で、片や源三位入道頼政は、皆が置いてきぼりにした競を案じていると、
三位入道心を知って、「よもそのもの、無台にとらへからめられはせじ。入道に心ざしふかい物也。いま見よ、只今参らうずるぞ。」とのたまひもはてねば、競つッといできたり。「さればこそ」とぞのたまひける。競かしこまって申しけるは、「伊豆守殿の木の下がかはりに、六波羅の煖廷(なんりょう)をこそとって参って候へ。まゐらせ候はん」とて、伊豆守にたてまつる。
まあ、このへんは動物残酷物語です(;_;)
可哀想に煖廷は、尾髪を切られて、「昔は煖廷(なんりょう)、今は平の宗盛入道」という金焼をされて、
平家の門の内に返されます。
「平の宗盛入道というのは、清盛入道と重ねてある。清盛の言う事ばかり聞いている宗盛の愚かさを皮肉っているんです」と、先生。
「人の心が分からない、だまされる、見抜けない宗盛。檀の浦でも知盛は裏切りを見抜くけれど、宗盛は見抜けない」

大体、「@重盛が生きていれば、A知盛を総大将にしていたら、平家は滅びなかった、と物語は言いたい」
「平氏の滅亡を政治・経済の結果とせず、人に責任を求める」

ホ〜ント!宗盛は「平家物語」の中ではホントにアホ・バカ・マヌケ〜!!という書き方しかされていませんが、
先生は、
「宗盛だって、言うべき時にはちゃんと言っている處もあるんです」
「福原遷都の折は、清盛と口論して、宗盛が都を元に戻すべきだと言っています。」
「清盛の死後、後白河院の處に行って(父親が生きている間は自分の思うように出来なかったけれど)、今後は
院が政治を執ってください、と言った」
「頼朝が、後白河院と相談して東国は源氏、西國は平氏が治めればよい、と院が言って来た時、
宗盛は、一人でも源氏が生きている者があれば屍をさらせ、と言うのが父の遺言だ、と、突っぱねたんです。」
と、へぇ〜♪へぇ〜♪へぇ〜♪三連発!!
でも、その後に
「しかし、『吾妻鏡』の中の宗盛は哀れですネェ。
壇ノ浦で海中に身を投げるんだけれど助けられて、鎌倉に送られる。そうすると命乞いをするんです。
『吾妻鏡』は、後々(1270年以降)に編纂された北條氏の記録ですが、
『平家物語』に影響された部分も多いです。」



4.「橋合戦」

―「巻四、橋合戦の事」―

宮は宇治と寺とのあひだにて、六度までをん落馬ありけり。これはさんぬる夜、御寝ならざりしゆへなりとて、宇治橋三間ひきはづし、平等院に入れたまって、しばらくご休憩ありけり。
と、これはまた、「いかにも何も知らない宮様、という様子。玉笛を吹き、琵琶を弾き、漢詩を作る宮様」のイメージと、先生。
「宇治の橋げたは、南都の強訴の時には、これを遮るために橋げたをはずすということをしていたので、
簡単に外れるようになっていたのでしょう」
はぁ・・・都側の強訴の防御策ね〜、と感心(^_^;だって、それほどの僧兵の軍隊ということですからね・・・つくづく白河上皇の例の歎きを思い出します(^^ゞ
で、この時、「平家側は二万八千餘騎、頼政たちは三百餘騎ですからね・・・。」

ここは戦いの様子を描いています。
多くの武士の名、実在の人名も、伝説上の人物も、川を渡る心得なども・・・其の文章は
「延享本には重ねて使われている。武家社会では常識とされていることがらだったのでしょう」ということでした。


(この巻は)「実際は、平家の侍の悠長さと、東国武士を描きたかったのでしょう」


5.「宮御最期」

―「巻四、宮の御最期の事」より―

三位入道は、渡辺長七唱(となう)に自分の介錯をするように命じて
「埋木の はなさく事も なかりしに 身のなるはてぞ かなしかりける」という歌を最期に切腹します。
「この歌が本当に本人作かどうかはわかりませんが、本当の頼政の一生を詠んでいます。」
「66歳になって昇殿が許され三位にも登った」
「勅撰集に61首の歌を取られています。」

その老武者、というよりは老貴族が何ゆえを以ってこのような謀反を仕掛けたか・・・謎ですよね(^_^;
ただ、仲綱は伊豆守で、頼朝の挙兵や、関東との呼応が既にあったのか?
「吾妻鏡」も、高倉宮の令旨が回ってきて、さらにその挙兵を聞いて、ということでしたけれど、
本当はどうだったのか?
既に時代は動いていたんでしょうね・・・。

あ、その宮様、以仁王ですが、合戦のさなか、南都園城寺に逃げようとしますが
飛騨守景家は、―中略―案のごとく宮は卅騎ばかりで落ちさせ給ひけるを、光明山の鳥居のまへにて追っつきたてまつり、雨の降るように射まひらせければ、いづれが矢とはおぼえねど、宮の左の御そば腹に矢一すぢ立ちければ、御馬より落ちさせ給ひて、御頸とられさせ給ひけり。
というので、お傍に仕えていた六天狗といわれる股肱の臣たちも「いつのために命をばおしむべき」と討死します。

その中に、宮の御めのと子六条太夫宗信という者は、
母は中宮の輔仲実女で以仁王の乳母ですが、その宗信が、
かたきはつヾく、馬はよはし、に井野の池に飛んで入り、浮き草かほにとりおほひ、ふるひゐたれば、かたきはまへをうち過ぎぬ。しばしあって―中略―、浄衣着たる死人の、頸もないを、しとみのもとにかいていできたりけるを、たれやらんと見たてまつれば、宮にてぞましましける。
自分が死んだら、棺に入れよ、と言い遺されていた笛も、まだ宮の遺骸についているのに、取るのも恐ろしくて、
辺りに誰もいなくなってから池から這い出て都に逃げ帰って、「にくまぬ物こそなかりけり」という記事があります。

これが「延享本の宗信」となると、
「さすがに走りも出でられず、命は能く惜しき者哉とぞ覚えける。―中略―佐太夫は後に人に語りける。」とありまして、
先生曰く、
「(恐怖で)体が動かなかった、可哀想な宗信」だそうです。
で、この後に「正治元年に改名して、伊賀守になりて邦輔とぞ名乗りける」とありました。
「生き残ったものが、後になって(平和な時代になって)、語ったことが伝えられる」とおっしゃいました。

一例として、前回ご紹介の「平家物語誕生の時代」にも書かれていた「小督譚の高階仲国」の例をあげて、
「小督の話の一つ一つは仲国の判断で進んでいって成功するんです」
「それは、後世まで生き残った仲国が伝えた話である」ということで(^^ゞ

大いに納得しちゃいましたねぇ\(^^)/
全然嘘ではないけれど、ちょっと見る位置を変えて話すと・・・そういうこともあり得たねということになりますよね(^^ゞ
まあ、世の中ってそれで進んでいくのでしょうから(^^ゞ
歴史は歴史になった時に嘘でも本当でも事実になるんですしょうね・・・。


はい、今日も先生ぶっ飛ばしで30分の時間オーバー♪
私たちは嬉しいけど(^^ゞ
益々次回が楽しみですm(__)m






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