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10月25日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 9月29日〜10月1日

いやいや・・・思いがけなく先月休んでしまって、今月は変則で二週遅れの講義日なので、夏休みも入れると三ヶ月近いブランクです。復習もろくろく出来ませんで・・・今日はドキドキ(^_^;

変則、ということで、普段よりは少なめですか・・・それでも大変な人いきれで・・・(^^ゞ

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。


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今日は資料が三部ありました。先日の諏訪大社の梶の葉紋についての関連資料です。
9月10日の「著梶葉文直垂。駕葦毛馬之勇士一騎。稱源氏方人。指西揚鞭畢。是偏大明神之所示給也。」と言う分です。そちらに補足しました。

○廿九日戊寅。所奉從之軍兵。當參已二萬七千餘騎也。甲斐國源氏。并常陸下野上野等國輩。參加者。假令<ケリャウ>可及五萬騎<云々>。而江戸太郎重長。依令与景親。于今不參之間。試昨日雖被遣御書。猶追討可#V趣。有沙汰、被遣中四郎惟重於葛西三郎清重之許。可見太井要害之由。偽而令誘引重長。可討進之旨。所被仰也。江戸葛西雖爲一族。清重依不存貳。如此<云々>。又被遣専使於佐那田余一義忠母之許。是義忠石橋合戰時。忽奉命於將殞亡。殊令感給之故也。彼幼息等在遺跡。而景親已下。相摸、伊豆兩國凶徒輩。奉成阿黨於源家之餘。定■(插)害心歟之由。賢慮思食疑之間。爲令安全。早可送進于當時御在所<下総國>之由。被仰遣<云々>。今日小松少將<維盛>進發關東。薩摩守忠度。參河守知度等從之<云々>。是石橋合戰事。景親八月廿八日飛脚。九月二日入洛之間。日來有沙汰。首途<云々>。

――29日 戊寅
――従い奉る所の軍兵は、當參已に二万七千余騎なり。
――甲斐國源氏并びに常陸、下野、上野等の國の輩、参加せば、假令(けりょう)五萬騎に及ぶべしと<云々>。
――而るに江戸の太郎重長景親 に与せしむに依って、今に不參の間、試みに昨日御書を遣わさると雖も、猶追討宜しかるべきの趣沙汰有り。・・・江戸重長は、大庭景親に組して頼朝に参ぜす、8月26日には畠山重忠と共に衣笠城を討ちました。追討したほうが良い。
――中四郎惟重を葛西の三郎清重の許に遣わさる。・・・大中臣中四郎惟重。伊勢神宮の神官。以仁王の令旨を幡の先に巻きつけて合戦に臨んだ。葛西の三郎清重は否応なく頼朝に従っています。
――大井要害を見るべきの由。・・・大井は今の江戸川です。
――偽りて重長を誘引せしめ、討ち進むすべきの旨、仰せらるる所なり。
――江戸・葛西、一族たりながら、清重貳を存ぜざるに依って此の如しと<云々>。

――また専使(せんし)を佐那田の余一義忠母の許に遣わさる。
――是、義忠は、石橋の合戦の時、忽ちに命を将に奉り、殞亡す。
――殊に感ぜしめ給うの故なり。
――彼の幼息等は遺跡に在り。
――而るに景親已下、相模・伊豆両国の凶徒の輩は、阿黨を源家に成し奉るの余り、定めて害心を挟むかの由、賢慮思し食し疑うの間、安全せしめんが為、早く當時の御在所(下総國)に送進すべきの由、仰せ遣わさると<云々>。

――今日小松少将<維盛>関東に進發す。・・・維盛は小松内府重盛の長男。この時22〜23才。平家の総帥・大将軍。
――薩摩守忠度・参河守知度等これに從ふと<云々>。・・・忠度は清盛の末弟、37歳。副将軍でした。知度は清盛の七男。
――是れ、石橋の合戰の事、景親の八月二十八日の飛脚、九月二日入洛するの間、日來(ひごろ)沙汰有りて、首途(かどで)すと。

(筆者の呟き――相変わらず、頼朝は自分のために死んだ者に対しては手厚いですネェ♪勿論これは上に立つ者として大事な心得だろうけれど、どうもこの辺の頼朝の偏執狂的家臣愛は、後の頼朝の冷酷さに比較すると、どうなんでしょう・・・ちょつと理解できないですねぇ(^^ゞ)

○卅日己卯。新田大炊助源義重入道。<法名上西>。臨東國未一揆之時。以故陸奥守嫡孫。■(插)自立志之間。武衛雖遣御書。不能返報。引篭上野國寺尾城。聚軍兵。又足利太郎俊綱爲平家方人。焼拂同國府中民居。是属源家輩令居住之故也。

――30日 己卯
――新田大炊助(おおいのすけ)源義重入道<法名上西>、東國未だ一揆せざるの時に臨み、故陸奥守<義家>が嫡孫を以て、自立の志を插む(さしはさむ)の間、武衛御書を遣わすと雖も、返報能わず。・・・新田義重は初出記事。今の群馬。関東が未だ統一されていない時期に義家嫡孫という事を元に「独立自尊の道」を行こうと頼朝が手紙を出しても返事も来ない!!「吾妻鏡」では、頼朝が源氏の嫡流ということを既成事実のようにしているが、ここにも源氏の嫡流を名乗る人がいる。
――上野國寺尾城に引き籠もり軍兵を聚む。

――又、足利太郎俊綱平家の方人として、同國府中の民居を焼き払ふ。・・・足利太郎は藤原氏流足利で、もとは平氏。源氏流足利氏ではない。新田氏と婚姻している。国府には源氏に同意している人たちが住んでいるからです。
――是れは、源家に属する輩、居住せしむの故なり。

このへんのところは、坂東千年王国さんのこちらに詳しいです。

○十月小
○一日庚辰。甲斐國源氏等相具精兵。競來之由。風聞于駿河國。仍當國目代橘遠茂催遠江駿河兩國之軍士。儲于興津之邊<云々>。於石橋合戰之時令分散之輩。今日多以參向于武衛鷺沼御旅舘。又醍醐禪師全成同有光儀。被下令旨之由。於京都傳聞之。潜出本寺。以修行之體下向之由。被申之。武衛泣令感其志給<云々>。

――10月
――1日 庚辰
――甲斐國源氏等、精兵を相具し、競い來たるの由、駿河國に風聞す。・・・甲斐源氏は新羅三郎義光の系統です。
――仍って、當国目代橘の遠茂、遠江・駿河兩國の軍士を催し、興津の邊りに儲けると<云々>。・・・興津は今の清水。今の清見ヶ関に陣を張る。

――石橋の合戰の時、分散せしむの輩、今日多く以て武衛の鷺沼の御旅館に参向す。・・・鷺沼は下総国習志野というところです。
ひょ?習志野ですか?あのへんに鷺沼なんて地名残っていたのかな・・・(^_^;
――また醍醐の禪師全成(ぜんじょう)、同じく光儀有り。・・・禪師全成は阿野全成(あののぜんじょう)、今若です。光儀は尋ねてきた人を敬って言う語。「光り輝くようなおいで」
――令旨下さるの由、京都に於いてこれを伝え聞く。
――潛かに本寺を出て、修行の躰を以て下向するの由これを申さる。
――武衛、泣いてその志に感ぜしめ給ふと<云々>。

古典継色紙引用サイトでお世話になっている「平安京探偵団」の主宰者の方から
「『醍醐の禪師全成(ぜんじょう)』ですが、別の記録に『全済』とも記されていることから、『ぜんせい』と読む方が良いと思います。」
というメールを頂きました。なるほど、そういう字で書かれている記録があることも初耳でした!!どうもありがとうございましたm(__)m
(2005/08/14付)

相変わらず、よく泣く頼朝ではあります・・・筆者の呟き

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今日は資料が三部、ありまして、そちらの解説にちょっと時間がとられてしまい、本説はちょつと時間不足で進めませんでした(^^ゞ
でもねやはり、皆様脱線が楽しい、ということで・・・私も(^^)vだって、本文読むだけなら自分だけでもなんとか読めるわけですから、
自分だけではわからないいろんな雑学が大事ですよね(^^)


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