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11月08日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 10月02日〜10月12日

ぬぁ〜んと、今年4度目のメニエル氏病の発作でダウン(;_;)
この前日から、お能、セミナー三連荘で、木曜日宝塚という強行スケジュールで、「ママ、死ぬよ♪」と、嬉しそうにアホ息子に言われてドキドキしておったのですが、死ぬ前にダウンしてしまいましたm(__)m
大体、前日のお能に、まっすぐ歩けない、というのに出かけて、やっぱり駄目だぁ!と帰ってきて、それからもうアキマヘン!!
セミナーは月・吾妻鏡、火・世界史、水・源氏物語、全部アウト!!・・・なのに宝塚はまだ頭痛が残っていると言うのに出かけてきました。ごめんなさいm(__)m
その罰で、結局、またダウンすることになつたのですが・・・(^^ゞ

というわけで、今月もまた私の読みと感想でご勘弁m(__)m
で、適当に読み下してしまいましたので、「三浦三崎ひとめぐり」さんの「東鑑目録」をご参考にして頂いた方がよいかとm(__)m無責任
こちらは「玉葉」なども同時掲載されていて大変便利です。
ついでに、また見つけちゃった、「鎌倉歴史散策@加藤塾別館」吾妻鏡入門」は新しいサイトですかねぇ♪うちは吉川弘文館「国史大系吾妻鏡」ですが、こちらは、いろんな「吾妻鏡」を併用していらっしはゃる様なので比較ができるかもしれません。

私は活字をもらいに国文学研究史料館の「国文学研究資料館蔵の寛永版本」をのぞきに行きますがけっこう違っている時があります。

「東鑑目録」さんの方は「使用した東鑑は」というコンテンツがあるくらいなので・・・いろいろです。読み下しも様々でテニオハに微妙な違いがあります。
ただ、うちの先生は、その場でさっとお読みになるので、私の聞き違いや筆記違いもあるでしょうが、格助詞の「の」と「が」が微妙に混同されている時があって・・・何しろ歴史の先生ですから・・・そのへんは、「東鑑目録」さんはキチンと抑えていらっしゃるように思います(^_^;先生、ごめんなさいm(__)m
でも、「去此」を「去んぬるころおひ」とお読みになるのは、うちの先生の良い所じゃないかと、アホの生徒はホクホクしとります(*^-^*)

ちなみに、ふだん、このノートのアップには、「国文学研究史料館の寛永版」を横目に家で出ない活字をもらったり、句点・読点の違いを比較したり、「東鑑目録」さんの読み下し文との違いや、玉葉の記事を読ませていただいたりしています。

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筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

○二日辛巳。武衛相乗于常胤廣常等之舟■。濟大井隅田兩河。精兵及三万餘騎。赴武藏國。豊嶋權守清元。葛西三郎清重等。最前參上。又足立右馬允遠元。兼日依受命。爲御迎參向<云々>。今日。武衛御乳母。故八田武者宗綱息女。<小山下野大掾政光妻。号寒河尼。>相具鐘愛末子、參向隅田宿。則召御前令談往事給。以彼子息。可令致眤近奉公之由望申。仍召出之。自加首服給。取御烏帽子授之給。号小山七郎宗朝。<後改朝光。>今年十四歳也<云々>

――2日 辛巳(しんじ)。
――武衛、常胤・廣常等の舟楫(しゅうしょう)に相乗し、大井・隅田の両河を濟す。
――精兵三万餘騎に及び、武藏國に赴く。
――豊嶋權守清元、葛西の三郎清重等最前に参上す。
――また足立右馬允遠元、兼日命を受けるに依って、御迎えの爲参向すと<云々>。

――今日、武衛の御乳母故八田武者宗綱息女<小山下野大掾政元妻、寒河尼と号す>、鐘愛の末子を相具し、隅田の宿に参向す。――則ち御前に召し、往事を談らしめ給う。
――彼の子息を以て、昵近の奉公を致せしむべきの由望み申す。
――仍ってこれを召し出し、自ら首服を加え給う。・・・首服は元服だそうです(広辞苑
――御烏帽子を取りこれを授け給う。小山の七郎宗朝<後朝光に改む>と号す。
――今年十四歳なりと<云々>。

筆者の呟き――頼朝の乳母といえば、比企の尼が有名ですが、相変わらず、乳母などには優しい、と思ったら、こんな異説もあるそうです(^_^;「こんな異説」は結城章さんの「ようこそ黒部のエーワイの館へ」の「結城の歴史」から拝借)

ついでに、呟き――有燐堂有燐での座談会で、頼朝の乳母についての話や、いろいろ「頼朝の実像」ということで面白い話が聞けます(^^)なんでこれ、資料として配布しないのかな?もう、その当時に配布されたのでしょうか(^^ゞ)

○三日壬午。千葉介常胤含嚴命。遣子息郎從等於上総國。追討伊北庄司常仲。<伊西新介常景男>。伴類悉獲之。千葉「小」太郎胤正専竭勲功。彼常仲依爲長佐六郎外甥。所被誅也<云々>。

――3日 壬午(じんご)。
――千葉介常胤嚴命を含み、子息郎從等を上総國に遣す。
――伊北の庄司常仲を追討す。<伊西の新介常景の男>。
――伴類悉く之を獲る。
――千葉の「小」太郎胤正専ら勲功を竭くす(つくす)。
――彼の常仲は長佐の六郎の外甥たるに依って、誅せらる所也と<云々>。

筆者の呟き――同じ千葉氏の中でも、いろんな勢力があって大変です(^_^;千葉常胤とその息子たちは終始一貫頼朝をバックアップしていますが、源氏に対して含む所が多い千葉氏もいます。一昔前の藤原氏内部の抗争、主導権争いと同じに考えていますが、どうでしょうか(^^ゞ)

○四日癸未。畠山次郎重忠。參會長井渡。河越太郎重頼。江戸太郎重長又參上。此輩討三浦介義明者也。而義澄以下子息門葉多以候御共勵武功。重長等者。雖奉射源家。不被抽賞有勢之輩者。縡難成歟。存忠直者更不可貽憤之旨。兼以被仰含于三浦一黨。彼等申無異心之趣。仍各相■合眼列座者也。

――4日 癸未(きび)。
――畠山の次郎重忠、長井の渡に參會す。
――河越の太郎重頼、江戸の太郎重長又參上す。
――此の輩は三浦介義明を討ちし者也。
――而るに義澄以下子息門葉多く以って御共に候ひ、武功に勵む。
――重長等者、源家を射ち奉ると雖も、有勢之輩に抽賞せられざるは、縡(さい)成し難し歟。
――忠直を存ずれば更に憤を貽すべからず之旨、兼て以って于三浦一黨に仰せ含まさる。
――彼等異心無き之趣を申す。
――仍って各おの相互に合眼し座を列する者也。

筆者の呟き――ついに畠山重忠が源氏にはせ参じて来ました。とはいえ、あの老武者三浦義明の凄まじい最期を思い浮かべると、三浦氏の中で、そうそうスンナリ受け入れたのかなぁ、と言う思いはあります。この辺り、吾妻鏡の記録に残らないところで、頼朝の三浦氏に対する相当な懐柔策があったのではないか、と考えるのは考えすぎですかね(^_^;)

○五日甲申。武藏國諸雑事等。仰在廳官人并諸郡司等。可令致沙汰之旨。所被仰付江戸太郎重長也。


――5日 甲申(こうしん)。
―― 武藏國の諸雑事等、在廳官人并びに諸郡司等に仰せ、沙汰致さしむべき之旨、江戸太郎重長也に仰せ付けらるる所也。

○六日乙酉。著御于相摸國。畠山次郎重忠爲先陣。千葉介常胤候御後。凡扈從軍士不知幾千万。楚忽之間。未及營作沙汰。以民屋被定御宿舘<云々>。

――6日 乙酉(いつゆう)。
――相摸國に著御(ちゃくぎょ)す。
――畠山の次郎重忠先陣を爲す。
――千葉介常胤御後に候う。
――凡そ扈從の軍士幾千万と知らず。
――楚忽之間、未だ營作の沙汰に及ばず。
――以って民屋を御宿舘にさだめらると<云々>。

筆者の呟き――はぁ・・・鎌倉に入ったはいいけれど、まだ邸もないのです。でまあ、民屋というけど、これ誰だったか、御家人の邸を借りたのだったと思ったけど、なあ・・・。しかし、もう既に畠山は先陣を勤めています。おまけに、「扈從の軍士幾千万と知らず」というほど軍勢が集まってきている、ということですよね(^^))

○七日丙戌。先奉遥拜鶴岡 八幡宮給。次「監」臨故左典厩之亀谷御舊跡給。即點當所。可被建御亭之由。雖有其沙汰。地形非廣。又岡崎平四郎義實爲奉訪彼没後。建一梵宇。仍被停其儀<云々>。

――7日 丙戌(へいじゅつ)。
――先ず鶴岡 八幡宮に遥拜し奉り給ふ。
――次いで監て故左典厩之亀谷御舊跡に臨み給ふ。
――即ち當所を點じ、御亭を建てらるべき之由、其の沙汰有りと雖も、地形廣からず。
――又岡崎の平四郎義實、彼の没後を訪ね奉らんが爲、一梵宇を建つ。
――仍って其の儀を停どめらるると<云々>。

筆者の呟き――「八幡宮」の前に一字開けているのは、敬意を表する常套。あれ、故左典厩って義朝は亀谷に邸を構えていたんですね(^^ゞおぅ、それで千葉常胤が勧めたのか、鎌倉は縁の深いところだからって(^_^;でも土地も広くないし岡崎義實が御仏堂を建てていた所なので思いとどまった。どの程度の仏堂か分かりませんが、平家の時代に建てていたのは、やはり、三浦氏(岡崎は三浦氏の岡崎党)は大変な忠義者だよねぇ(*^-^*))

○八日丁亥。足立右馬允遠元。日者有勞之上。應最前召。參上之間。領掌郡郷事不可有違失之旨。被仰<云々>。

――8日 丁亥(ていがい)。
――足立右馬允遠元、日者勞り(いたわり)有る之上、最前召に應じ、參上する之間、領掌郡郷の事、違失有るべからず之旨、仰せらるると<云々>。

スミマセンm(__)m「日者」の読みがわかりません(^_^;「妻鏡入門」さんこちらのサイトを覗きに行ったら「ひごろ」とルビが振ってありました。「東鑑目次」さんこちらの方は漢字で「日來」でしたから、これなら「日ごろ」と読めます(^^ゞなんで「日者」なんだよ!!
(まあ、要するに忠勤しているから、本領安堵の旨仰せになった、というと頼朝から御教書が出た、ということになるのでしょう。)


○九日戊子。爲大庭平太景義奉行。被始御亭作事。但依難致合期沙汰。暫點知家事<兼道>山内宅。被移建「立」之。比屋。正暦年中建立之後。未遇回禄之災。晴明朝臣押鎮宅之符故也。

――9日 戊子(ぼし)。
――大庭の平太景義、奉行として、御亭の作事を始めらる。
――但し、合期の沙汰致し難きに依りて、暫く知家事(ちけじ)<兼道>の山内の宅に點じ。之を建「立」し移さる。
――比の屋、正暦年中建立之後、未だ回禄之災に遇ず。
――晴明朝臣、鎮宅之符を押すが故也。

(「知家事」は「ちけじ」と読むそうです。「@古代、親王・摂関・大臣等の政所の職員。その家の家務を統べる。A鎌倉幕府の政所の職員。案主についで、文案に官職・氏名を連署したものB伊勢神宮の祭主家・大宮司家などの職員(広辞苑)」とのことでした。「知家事」の読み方をこちらで知って、広辞苑を引きましたm(__)m)

要するに、大庭景義が作事奉行になって頼朝邸を造り始めたけれど、間に合わないので知家事の兼通の館を移築する事にした、と言う事ですよね。なんで、といえば、この火事の多い時代に正暦年間(990〜995)から火災にあっていない、ということで、めでたい家なんですね。で、それは安倍清明の護符をはっているからだ、ということだ、と(^^ゞ)

○十一日庚寅。卯尅。御臺所入御鎌倉。景義奉迎之。去夜自伊豆國阿岐戸郷。雖令到著給。依日次不=B止宿稲瀬河邊民居給<云々>。又走湯山住侶専光坊良暹依兼日御契約參著。是武衛年來御師檀也。

――11日 庚寅(こういん)。
――卯尅。御臺所鎌倉に入御す。
――景義之を迎え奉る。
――去んぬる夜、伊豆國阿岐戸郷より、到著せしめ給ふと雖も、日次≠オからざるに依って、稲瀬河邊の民居に止宿し給ふと<云々>。
――又走湯山住侶専光坊良暹、兼日の御契約に依りて參著す。
――是は武衛の年來の御師檀也。

ついに政子が鎌倉に来ました♪ちゃんと作事奉行の景義が出迎えに行きますが、鎌倉に入る日が悪いというので、稲瀬川近辺の民家に泊まっている、ということで、なんとも気の毒な話です。当時は具注暦で行動を決めますから、やっちゃいけないことばかりです(^_^;政子の性格からしたら、よく留まっていた、と思うほどです。さすがの政子も当時のタブーはそれなりに気にしたのかも知れません♪

また走湯山、つまり箱根権現の専光坊良暹が兼ての約束どおり鎌倉にやってきました。此の方は昔からの頼朝の仏道の師でいらっしゃいました。・・・ん、政子を匿ってくれた文陽坊覚淵とは違うか(^_^;・・・まあどちらにしても走湯権現が相当に源氏のバックについていた、また源氏の世の中になった時には、相当な庇護を受けた、ということですね。

○十二日辛卯。快晴。寅剋。爲崇祖宗。點小林郷之北山。搆宮廟。被奉遷鶴岡宮於此所。以專光坊[斬の下に足]爲別當職。令景義執行宮寺事。武衞此間潔齊給。當宮御在所。本新兩所用捨。賢慮猶危給之間。任神ル。於寳前自令取探鬮給。治定當砌訖。然而未及花搆之餝。先作茅芝之營。本社者。後冷泉院御宇。伊豫守源朝臣頼義奉 勅定。征伐安倍貞任之時。有丹祈之旨。康平六年秋八月。潜勸請石清水。建瑞籬於當國由比郷。<今號之下若宮>。永保元年二月。陸奥守同朝臣義家加修復。今又奉遷小林郷。致蘋繁禮奠<云々>。

――12日 辛卯(しんう)快晴 。
――寅剋、祖宗を崇めんが為、小林郷の北山に点じ宮廟を搆え(かまえ)、鶴岡宮をこの所に遷し奉らる。
――専光坊を以て暫く別當職と爲し、景義を執行宮寺の事とせしむ。
――武衛この間潔斎し給う。
――當宮御在所・本新兩所を用捨し、賢慮猶危給の間、神ル(しんかんー神鏡)に任せ、宝前に於いて自ら鬮(くじ)を取り探ししめ給ふ。
――当砌に治定しをはんぬ。
――然れども未だ花構の餝りに及ばず。
――先ず茅芝の営を作る。
――本社は、後冷泉院の御宇、伊豫の守源の朝臣頼義勅定を奉り、安倍の貞任を征伐するの時、丹祈の旨有り。
――康平六年秋八月、潛かに石清水を勧請し、瑞籬を當國由比郷に建つ(今、之を下若宮と號す)。
――永保元年二月、陸奥の守同朝臣義家修復を加ふ。
――今また小林郷に遷し奉り、頻繁の禮奠を致すと。

義家は左大臣藤原俊房(關白忠実の岳父、後離縁されるが)に護衛として忠勤を励んでいました。一方に後三条天皇の三宮輔仁親王に娘を女房として出仕させ、親王との間に子を設けさせているそうです。後にこの子は法眼行恵(ほうげんぎょうえ)として園城寺の僧侶となりますが、この行恵こそが鎌倉の鶴岡八幡宮の初代別当円暁の父だそうです。そして、頼朝は、八幡宮の再建と、其の政権の出発に当たって、円暁を呼び下し、自己の血統と後三条源氏の血統が混交していることを誇示したのである(保立道久著「平安王朝」)。――ということでした。)



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いやぁ・・・講義も伺ってないのに、厚かましく感想なども書いてしまいましたm(__)m
他所様のサイトも覗かせていただいたりして、ご挨拶にも行ってない!!
実は「吾妻鏡入門」というこちらは、冒頭に書いたとおり、今日初めて見つけたサイトで、これから行こうと思っているのですが、
こちらの「東鑑目次」さんは、このうちの「吾妻鏡」をアップし始めた時に最初にメールをお出ししたのですがナシのつぶてなのです。
だから、本当は、こういうリンクの仕方もしちゃいけないのかも知れないのですね・・・(^_^;もう一度行くべきか、知らんふりするべきか悩むなぁ(;_;)


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