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11月25日(木)

「平家物語」転読

「今日は都落ちを中心に読んで行きます」
ひょぅ〜、もう巻七の後半です(^_^;
ちゃんと、その間を読んで行こうと思ったのに・・・ちゃんと覚えてるかな?四半世紀前に読んだトコ(^_^;

で、1180年―治承四年のと言う年の重要性を。
何しろ「治承四年」という題名で論文を書かれた歴史学者がいらっしゃる、「それほど大変な年」だそうです。

先生も列挙されたし、ついでなのでミニ年表を、(時間があったら、前の分にも入れておきます)

承安2年 1172 徳子中宮に
安元2年 1176 建春門院崩御
治承元年 1177 鹿ケ谷
   3年 1179 重盛沒
   4年 1180 安徳帝即位
     5月 以仁王挙兵
 6月 福原遷都
 7月 頼朝挙兵
 9月 義仲挙兵
10月 富士川の合戦
12月 興福寺焼亡・大仏炎上
治承5年 1181  1月 14日高倉院崩御、その後改元
養和元年 1181 閏2月 清盛沒
寿永2年 1183 倶利伽羅峠の敗北→平家都落ち
義仲入京
元暦元年 1184 義仲戦死
平家一の谷の敗北
   2年 1185 屋島・壇ノ浦の合戦にて平家滅亡

「福原遷都」については、「清盛は、鹿ケ谷のクーデターの時から遷都を考えていたようです。」
「しかし、11月には(また京都に)帰って来てしまいます。宗盛はもともと反対していましたね。」
「そして、1181年の1月には高倉上皇が死にます。
クーデターがあった時から心身症になっていたんじゃないかと、私は思ってます。」
「そして、閏2月には――当時は太陰暦で、大の月は30日、小の月は29日。
ですから一年で余る日にちがあって、それを何月かの後に閏月として付け加えます。この年は2月が二回あった事になる。」
「その閏2月に清盛が死にます。熱病で、頭の上に雪の塊を頂かせると、ジューっと解けて煙が上がった、というんですね。
これは、大仏炎上から数えて66日目。祟りだ、と言うわけですね。」

「もともと、1181年という年は四月頃から飢饉に見舞われていて、『大路に屍が満ち溢れる』と書かれている。
『方丈記』でも『養和の飢饉』として書かれている有名な大飢饉で、強盗が跋扈し放火が多く、食うために大変な時代でした」

うっひょ!そうだっけ!!「方丈記」ってこの時なのか(^_^;
全く忘れている私って・・・m(__)m

「1183年、平家が動きます。挙兵して攻め上ってくる義仲に対して10万の兵を出す。実際は4万くらいらしいけど」
「加賀と越中の間の倶利伽羅峠の戦いで平家は全滅します。義仲軍の大勝です。義仲軍は五千くらい。」
「九条兼実の『玉葉』では、6月4日に、
『北陸の官軍悉く以て敗績す。今暁飛脚到来す。官兵の妻子等、悲しみ泣くこと極まり無しと。』書いている。」
「四万余騎の大軍のうち、帰ってきたのは2〜3騎だったという。」
「比叡山を味方につけようと『我が氏寺とする』という。厳島神社は氏の神社ですから、今度は氏の寺。
しかし、六月中旬ころから、アチコチで平家打樋の狼煙が上がる。」
 
というわけで、始まりました。平家都落ちの段(;_;)

第三回・「人それぞれの生」――都落ちのドラマ

1.「主上都落」

―「巻七、主上の都落の事」より―

同廿二日の夜半ばかり、六波羅の辺、おびたヾしう騒動す。馬に鞍をき腹帯しめ、物共東西南北へはこびかくす。
・・・・
同七月廿四日のさ夜ふけがたに、前内大臣宗盛公、建礼門院のわたらせ給ふ六波羅殿へ参ッて申されけるは、
「此世の中のあり様、さりとも存候つるに、今はかうにこそ候めれ。ただ都のうちでいかにもならんと人々は申あはれ候へ共、
まのあたりに憂き目を見まゐらせむも口惜候へば、院わも内をもとり奉て、西國方へ御幸・行幸をもなしまいらせてみばやとこそ思ひなって候へ」と申されければ、女院、「今はたヾともかうも、そこのはからひにてあらんずらんめ」とて、御衣の御袂にあまる御涙、せきあへさせ給はず゜。大臣殿も、直衣の袖しぼる計りに見えられけり。

「当時、宗盛は37歳。重盛も清盛も死んで総大将になっている。徳子は29歳。」
「しかし、総大将として言ってはいけない言葉ですね」
「まのあたりに憂き目を見まゐらせむも口惜候へば、って総大将の言葉ではない」
「ただ都のうちでいかにもならんと人々は申あはれ候へ共、というのは、平家一門の中でも首都決戦を言う人もいる。
殆どは反対派です。宗盛一人が決めたんです。」
「その理由が、母や妹に“まのあたりに憂き目を見まゐらせむも口惜候へば”ということだったんですね。」
「宗盛は優しい人ではあるんですね」

ん〜、優しい?!優しい、というのかな・・・こういうの(^_^;
自分の臆病さを、つまり自分が都が戦で焼け爛れるのを見るのが怖いという
自分自身の臆病さを糊塗しているのではないかと思うのですね(^^ゞ

大体、二位の尼時子の子でなんとかなっていたのは知盛だけで、
宗盛にしても徳子にしてもボーっと育った坊ちゃん・嬢ちゃんという印象が強すぎますよね(^^ゞ
徳子は大原御幸でけっこう幕引きのためのいい役もらってますが、
あんたがしっかりしてないからだよ!とどつきたくなるのは私だけ(^^ゞ

で、「西國方へ御幸・行幸をもなしまいらせてみばやとこそ」と思っていた後白河法皇ですが、
「後白河法皇にも逃げられてしまうんですね。これで平家は朝敵になってしまうんです」と、先生あっさり♪

この時点で?朝敵になったのか!だってまだ安徳天皇をキープしているじゃない、と思うけど、
やっぱり、この時点なのかな・・・疑問です(^^ゞ

その夜、法皇をば内々平家のとり奉りて、都のほかへ落行くべしといふ事を聞こし召されてやありけん。按察大納言資方卿の子息、右馬頭資時計御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひ、鞍馬へ御幸なる。
・・・
去る程に、法皇、都の内にもわたらせ給はずと申程こそありけれ、京中の騒動なのめならず。
況や平家の人々のあはてさはがれけるありさま、家々に敵の打入ッたりとも、かぎりあれば是には過じとぞ見えし。

「御所は三十三間堂にあって、そこから逃げ出して、その後、法皇は比叡山に行きます」
なるほど、比叡山には手が出せませんからネェ(^^ゞ
比叡山だって、清盛が生きてさえいれば、親密だったんだけれど、宗盛では相手にならないと思ったのでしょう。

資料@「玉葉」寿永二年七月二十五日条
寅の刻(御前4時頃)、人告げ云はく、法皇御逐電と云々。この事日ごろ万人の庶幾する所也。
・・・・・・・
昨は官軍と称して源氏等を追討せんと欲し、今は君に違背し、辺土を指して逃げ去る、盛衰の理、眼に満ち耳に満つ。

もう一つの資料は、これ書いた人も後でチェックになるのですが・・・

資料A「吉記(吉田経房の日記)」同日条
風聞に云はく、院密幸の由、辰の時(御前8時頃)に及びて前内府、聞く。
・・・・・・
主上、御乗車、御乳母二人、・・・建礼門院、八条殿等、別の車に駕し、轅を連ね、一族の人々、周章して馳せ出すず。

午前4時に法皇が逃げ出したというのに、朝の八時まで知らなかったなんて危機管理が悪すぎますよネェ(^^ゞ
まあ、↑の「平家」の本文読むと、平家一門はまさか、法皇が逃げ出すとは思ってもいなかった、―んでしょうか(^_^;
知盛さえ、後白河法皇が平家を捨てる、とは考えなかったのかなぁ?
しかし、安徳帝はこの期に及んでも、実母と同じ車ではないのねぇ〜(^_^;

まあ、壇ノ浦でも実母とではなく、おばあちゃんの二位の尼に連れられて入水するのですが・・・このへんですね、
みんなが建礼門院に疑いの目を向けるのは(^_^;
つまり、最後の時に安心して任せられない!!
まあ、江戸や明治の近世になっても、畏き辺りでは、「実母が抱き参らせる」ということはないようですし、
考えすぎかもしれませんが(^^ゞ

卯剋(午前6時頃)ばかりに、既に行幸のみこしよせたりければ、主上は今年六歳、いまだいといけなうましませば、なに心もなう召されけり。
国母建礼門院御同輿に参らせ給ふ。内侍所・神璽・宝剣わたし奉る。
・・・・・・
あまりにあはてさわいで、とり落とす物ぞおほかりける。日の御座の御剣なンどもとり忘れさせ給ひけり。

なんか憐れですネェ・・・ものの哀れ、の哀れではなく、可哀想の憐れ、ねぇ・・・(^_^;
「主上は今年六歳――自分の意思を持つ以前に人生を決められてしまった。」と、これも憐れだなぁ・・・という感じです。
「天皇は車には乗ってはいけない、という決まりがあります。しかし、実際には車にも乗ったんですね。(資料A参照)」

明れば七月廿五日也。漢天既にひらきて、雲東嶺にたなびき、あけがたの月しろくさえて、鶏鳴又いそがはし。夢にだにかヽることは見ず。一とせ宮こうつりとて、俄かにあはたヽかりしは、かヽるべかりける先表とも、今こそ思ひ知られけれ。

「漢天はまだ天の川が掛かっている空、東嶺は東山のことです。あけがたの月、25日の細くなった月が、白く冴えている。
福原に都移りしたのは、この前触れであったのか・・・和漢混交文の美しさを感じるところです」と先生(^^)
そして
「当然平家についていかない人たちもいました」

摂政殿も行幸に供奉して御出なりけるが、七条大宮にて、びんづらゆひたる童子の、御車の前をつッとはしり通るを御覧ずれば、
彼童子の左の袂に、春の日といふ文字をぞあらはれたる。
春の日とかいては、かすがと読めば法相擁護の春日大明神、大織冠の御末をまもらせ給ひけりと、たのもしうおぼしめすところに、
件の童子の声と思して、
いかにせん藤のすゑ葉のかれゆくをたヾ春の日にまかせてや見ん

読むだけで笑っちゃう(^^ゞ調子いいなぁ♪

この摂政殿というのは、例の徳子の妹が嫁いだ基実の息子の基通です。で、この基通がまた平家の娘寛子を娶っていたのです。
だから、まあ平家一門、ということなんですが、ここで見事に裏切ったね\(^^)/
この後がですね・・・

御供に候進藤左衛門尉高直、ちかふ召して、「倩(つらつら) 事のていを案ずるに、行幸はなれ共、御幸もならず。ゆく末たのもしからずおぼしめすはいかに」と仰ければ、御牛飼に目を見あはせたり。やがて心得て、御車をやりかへし、大宮のぼりにとぶが如くにつかまつる。北山の辺、知足院へ入らせ給ふ。

というわけで、逃げ足の速いこと、速いこと(^^ゞ
先生は「この話も、『延慶本』に別の形があって」と・・・

「延慶本」の攝政基通
御供に候ひける進藤左衛門大夫高範が、「法皇の御幸もならせ給はず、平家の人々も多く落ち留まらせ候ひぬ。此れより御還りあるべくや候ふらむ」と申したりたれば、「平家の思はむ所、いかがあるべかるらむ」と御気色有りけるを、知らず顔にて、やがて御車を仕る。御車の牛飼ひに、きと目を見合はせたりければ、七条朱雀より御車を遣り帰し、一ずはえ当てたりければ、究竟(くっきょう)の牛にてはありけり、飛ぶが如くにして朱雀を上がりに還御なりけり。

「つまり、『平家物語』の方では言い出したのは基通で、進藤高直に言って、牛飼いと目を合わす、
そうすると牛飼いが心得て牛を走らせた。
『延慶本』の方では進藤高範、名前が違いますが、同じ進藤で、この人が言い出して、
基通が逡巡している間に牛飼いと目を合わせて逃がしたんですね」

「『延慶本』というのは一番古い形態ですから、どうやら、こちらの方が事実らしい。そうすると、これは、仲国の話ではないか?」
(こないだ「小督」の話は、長生きした仲国が手柄話として遺した話、ということでしたねぇ♪)
「進藤高範という人の系図が分かりまして、父の為範(従五位下)、その息子に高範・安範・範時と三人いて、
代々摂関家の内舎人として仕えています。高範には利範という息子がいて、これが近衛殿下・内舎人・左衛門尉です。」
高範は内舎人で右衛門尉、安範が内舎人随身・左衛門尉で、これが基通に仕えています。
範時は松殿殿下内舎人、といいますから基房の内舎人だったんですねぇ。

「この一族の人々の死んだ日も分かっています。高範は1221年7月20日沒です。
承久の乱(1221年5月)を経験して、長生きしました。
『延慶本』は生存した者の手柄話だったんでしょう。
そして、「平家物語」の方は、
基通はもっと長生きして(1233年5月29日沒)自分に都合の良い話を考えた、ということです。」

はぁ〜ん(お口アングリ(@o@)です)
聞いて見なくちゃワッからないもんです(^_^;



2.「維盛都落」

―「巻七、維盛都落の事」より―

「維盛は重盛の長男ですが、既に父の重盛が亡くなって、平家の中心は宗盛に移っています」
「おまけに、維盛の妻は鹿ケ谷の成親の娘で、平家の中での居心地が悪くなっいる。その中での都落ちです。」

小松三位中将維盛は、日比よりおぼしめしまうられけられたりけれ共、さしあたッてはかなしかりけり。北の方と申は、故中御門新大納言成親卿の御むすめ也。桃顔露にほころび、紅粉眼に媚をなし、柳髪風にみだるヽよそほひ、又人あるべしとも見え給はず。六代御前とて、生年十になり給ふ若公、その妹八歳の姫君おはしけり。

維盛は平家の公達の中でも大変な美男子で、その妻ともラブラブの間柄でした。
「維盛25才、北の方23才、十年の結婚生活です。」

「誠に人は十三、われは十五より見そめ奉り」

と、後に出てきます。

資料E―イ

維盛北の方、新大納言の局――「たまきはる」
成親の大納言別当と言ひし女(むすめ)。この京極殿の腹なり。十二三にて召されて、二三年ぞさぶらはれし。御所近き局給はりて、限りなくもてなさせ給ひき。

「京極殿というのは、建春門院(平滋子)の侍女で、定家の姉です。」
「その二三年の間に、この時に維盛に逢ったんでしょう」

そうかぁ♪美男子維盛一目惚れの美女だったんだろうねぇ。「夫婦雛のような」という感じだったんだろうな♪

でも、これで、俊成と忠度の関係も単なる師匠と弟子というだけでないこともわかったのだわぁ♪
忠度は維盛が関東に征伐の総大将になった時も副将として後ろ盾になりますよね。
これは、やっぱり、時子腹の子供たちとは合わないところがあったのではないですかネェ・・・
まあ、目付け役、ということもあったかもしれないけどさ(^_^;
それよりは、小松殿の忘れ形見の維盛に対しての親近感があったのではないか、と思うのですね。
重盛の母は高階基章女で、つまり高階氏なのですね。

忠度も俊成との師弟の縁があるように歌詠みで文学者肌で、
そのへんから高階氏とは近しい思いがあったのではないかと思うのです。
少なくとも傍若無人の平時忠とはあまり合わないんじゃないかなぁ・・・と思うんですネェ(^_^;

で、まあ、その都落ちに及んでは、維盛の平家の中での浮いてる立場、ましてや妻は、鹿ケ谷の、となれば、

「日比申し様に、われは一門に具して西國の方へ落ちいくなり。いづくまでも具し奉るべけれ共、道にも敵待つなれば、心やすふ通らん事もあり難し。たとひわれ討たれたりと聞き給ふ共、さまなンどかへ給ふ事は、ゆめ\/有べからず。そのゆへは、いかならん人にも見えて、身もたすけ、おさなきもの共をもはぐヽみ給ふべし。情けをかくる人もなどかなかるべき。」

と言わねばならないのです(;_;)
それを聞く妻の立場は・・・辛いですよねえ(;_;)

北の方とかうの返事もし給はず、ひきかづきてぞ臥し給ふ。――中略――
「・・・いかならん人にも見えよなンど承はるこそうらめしけれ。―中略―されば小夜の寝覚めのむつごとは、皆偽りになりにけり。―後略―」と、且はうらみ、且はしたひ給へば、

「妻にしたら辛い言葉です」
「且つはうらみ、且つはしたひ・・・愛しているからこそ恨むんですね」

アレレ・・・そうですか(^_^;
まあ、結婚十年ならそんなものか・・・愛していれば恨まない、恨みが伴う愛の形って、それは恋なんじゃないかなぁ(^_^;
恋は自分のための恋ですから、恨みもすれば歎きもするけど、愛まで昇華したときは、恨みも歎きも越えられるように思うのですが・・・。

「―前略―いづくの浦にも心やすう落ついたらば、それよりしてこそ迎に人こそたてまつらめ」とて思ひきってぞたたれける。
中門の廊に出て鎧とって着、馬ひきよせさせ既に乗らんとし給へば、若公・姫君はしり出でて、父の鎧の袖、草摺に取り付き、
「是はさればいづちへとてわたらせ給ふぞ。われも参らん、我もゆかん」とめん\/にしたひなき給ふにぞ、憂き世のきづなとおぼえて、三位中将いとヾせんかたなげには見えられける。
慰め事だと言う方も分かっている、勿論聞くほうはなほのこと分かりますよね(^_^;
これ、歌舞伎にうってつけの愁嘆場!「義経千本桜」にはないですよネェ・・・私が見てないだけかしら(^_^;

で、そこに維盛の弟資盛やら清経・有盛・忠房・師盛の五人が迎に来ます。
ここで、また、維盛が、遅れたのを責められると、御簾をあげて、この愁嘆場を見せるのよ!
当然「庭に控える人\/、皆鎧の袖をぞぬらされける」となるわけで・・・なんとなく嫌な奴だぜ(^_^;

平家都を落行くに、六波羅・池殿・小松殿・八条・西八條以下、一門の卿相雲客の家〃、廿余ヶ所、付〃の輩の宿所\/、京白河に四五万の在家、一度に火をかけて、皆焼き払ふ。
ねぇ・・・焼き払う方はいいけど、いくら邸宅街で、昔の京といえども、たとえまばらにでも民家はあったんじゃないかしらねぇ(^_^;
そりゃあ、これから京に侵入(平家側から言えば浸入ですよね。源氏から言えば進入だろうけど)してくる源氏に対しての、
都のものは一切やらんぞ!という意思表示なんでしょうけど・・・(^_^;

先生は
「この段は、肉親の別れが主題です。この後妻子は広沢の池辺りに隠れ住み、一旦は逃れる事が出来ましたが、四苦八苦します。」
「四苦八苦って何を指すか知ってますか?そう、仏教用語ですね。
生老病死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四苦とを合わせたものです」
「やがて源氏に見つかって、女の子の方は尼になって助かりますが、六代は一時は助けられますが結局斬られてしまいます。
『三位の禅師斬られて後、平家の子孫は長く絶えにけり』で終わります。」

で、まあ、そこで先生ニンマリして、
「しかし、維盛の北の方は、再婚します。資料Eーロをみてください」
へぇ〜♪そこで、さっきの「吉記」の著者、吉田経房氏のご登場!!

吉田経房建立の浄蓮華院落慶供養参列者
正治元年(1189)十二月二十四日・・・皇太后大夫(成経、女房兄也)・・・持明院三位(基宗、女房内々所縁あるか)

「経房が、京都の吉田山に寺を造った。その落慶法要の時、再婚した女房、つまり維盛の妻です、その関係者を呼んだ記録です。」
ナント!成経も皇太后大夫ですって!!
はぁ・・・「情けをかくる人もなどかなかるべき。」ってことですかぁ・・・?
で、まだ後に資料ありました。
資料Eーハ

経房の土地処分状
近江国湯次(ゆすき)庄・・・この所当の中、百石、女房に沙汰し与ふべきの由、契状、先に了ぬ。
伊勢国和田庄・・・此の中、名田三町に於いては年来、女房知行す。少分の事たりと雖も、相違あるべからず。

フーム、愛されてましたネェ(*^-^*)
えっ!お金は愛よ♪財産分与は愛の形です(^^)v

で、先生
「経房というのは、優しい人、情けをかけた人でした。
維盛が再婚しなさい、と言った先ほどの話は事実に基づいた話だったんですね。
当時の人はそれを知っていて『平家物語』の中に取り入れたんです」

フーム、そうですか・・・そういうものなんだねぇ・・・(^_^;
ま、そのぅ、美人は得だ!と私は思うぞ!!
え?そういう話じゃないのm(__)m

思い出したよ!!
「六代のこと」の前に、巻十二の「判官都落ちのこと」の「付」の段で「吉田大納言の沙汰」と言うのがあるのでした(^^)
ここで、さんざっぱら、経房を持ち上げていたのでした♪
で、ひっくり返してみれば、「この大納言は、うるはしき人と聞こえ給へり」とあった(^^ゞ
十二の年、父の朝臣失わせ給ひしかば、孤(みなしご)にておはせしかども、次第の昇進滞らず―中略―人をば越え給へと人には越えられ給はず。されば人の善悪は、錐、袋を徹す、とて隠れなし。ありがたかりし大納言也。
と、べた褒めです(^_^;
これは何を意味するのですかね?
要するに源平の時代を泳ぎきって、当時権勢第一の人であったのでしょうか♪
まあ、維盛の北の方と再婚して愛しぬいた辺りは、そう悪い人でもないかもしれませんけど、ね(^^ゞ
まあ、そんなもんよ、世の中なんて♪



3.「聖主臨幸」

―「巻七、聖主臨幸の事」より―

これは、知盛の男気の巻!!
ついでに宗盛の優しさ、という面ですね。まあ、だからこそ大将になれない、という・・・。
去治承四年七月、大番のために上洛したりける畠山庄司重能・小山田別当有重・宇都宮左衛門朝綱、、寿永まで召し込められたりしが、其時既にきらるべかりしを、新中納言知盛卿申されけるは、「御運だに尽きさせ給ひなば、これら百人、千人が頸をきらせ給ひたり共、世をとらせ給はん事難かるべし。故郷には、妻子・所従等いかに歎きかなしみ候らん。若不思議に運命ひらけて、又宮古へたちかへらせ給はん時は、ありがたき御情でこそ候はんずれ。たヾ理をまげて本国へ返し遣さるべうや候らむ」
「大番というのは、大内裏警備のため地方武士を当てたものですが、既に関東では一族が頼朝に従っている」
というわけで、まあ本来なら処刑されるところを、もし、平家の命運がつきてしまえば、お前たちのような下々の頸をとっても仕方ない!さっさと関東に帰れ、助けよう、と宗盛に言うのですね。
そうするとまた、宗盛が「『此儀尤しかるべし』とていとまたぶ」と言うわけなのです。
彼らは恩に感じてどこまでもお供を、と言うのですが、宗盛は
「汝等が魂は、皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西國へ召し具すべき様なし。急ぎ下れ」
と言うのですよ♪ビックリするほど明解で〜、普段のアホの宗盛とは全然違うヨカ男♪
先生は「宗盛は、総大将としての器はないが、優しい情の人なんですね。知盛の方が冷静・理論的。
その(宗盛の)優しさが命とりになってしまう。徳子への言葉も、総大将として言うことばではない」とおっしやいます。
そうだよねぇ・・・宗盛としては、徳子は可愛い妹としか考えてないのですね。
徳子はもう一国の国母なのですね。辛いも惨いも国母なれば耐えねばならぬ、という考えに至らないのです。

で〜、この話が「吾妻鏡」では忠度の話になっているんですって〜(^_^;
まあ知盛も忠度も平家の人気キャラだもんなぁ・・・。

それにしても、「吾妻鏡」治承四年の七月にこんな話あったかなぁ〜(^_^;



4.「忠教都落」

―「巻七、忠度都落の事」より―

出たぁ\(^^)/
もう、お能でも有名なこの場面!!藤原俊成の邸にひっそりと訪れた忠度が、朝敵となつた身を恥じて、
俊成の家人が戸をあけないことも怒らない!
一方、忠度の名を聞いて、中からまろび出てくる俊成卿。
師弟涙の別れです(;_;)号泣
先生は「忠教―教えると言う字が書いてありますが、ただのりです。こう書く忠度もあるんです。度のほうがいいね」
そうです、そうです・・・慣れてるし、イメージ的に忠度です(^^ゞ

薩摩守忠教は、いづくよりやかへられたりけん、侍五騎、童一人、我身ともに七騎取って返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、、門戸を閉じて開かず。「忠教」と名乗り給へば「おちうと帰り来たり」とて、その内さわぎあへり。薩摩守馬より降り、みづからたからかにの給ひけるは、―中略―俊成卿「さる事あらん。その人ならばくるしかるまじ。入れ申せ」とて門をあけて対面あり。
・・・・・・・・・
「前略―君既に都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ぬ。撰集のあるべき由承候しかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候しに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰無く候条、たヾ一身の歎きと存る候。世しづまり候なば、勅撰のご沙汰候はんずらむ。是に候巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙って、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御まもりでこそ候はんずれ」とて、日此読をかれたる歌共のなかに秀歌とおぼしきを百余首書きあつめられたる巻物を――後略
もう・・・ここは先生の朗読聞くだけで泣いちゃう(;_;)
謡曲集だって読むだけで泣いちゃう(;_;)・・・まだ見た事ないのです(^_^;
今、これ書きながら泣いてます(;_;)
もう〜、忠度の気持ち、平和な時代に生まれていたら、和歌の道に励んで、歌集・歌論書だって遺したでしょうに(;_;)
謡曲集を声出して読んでいると、最後のほうは涙で声が続かなくなるんだ(^_^;
だから、私は謡は習わないのです(^_^;

えーと、講義、講義(^_^;
「五条というのは・・・(都の)東西の端っこを京極と言います。ここは東の京極。鴨川をはさんで六波羅が燃えているんです」
そうか、その真っ最中じゃ、ましてあけてはもらえない(^_^;
それにしてもなぁ・・・きっと最近までは、共を大勢連れた忠度が俊成を訪ねれば、
我が家の栄誉と大仰に迎えた家人たちであろうに、ねぇ(^_^;

で、ここで「薩摩守馬より降り〜というのは落人の身を自覚して下馬するんです」
ウーム、礼儀正しい忠度なんです!!
「一門の運命はや尽き候ぬ」と先を見通しているんですよね(;_;)
そして
「やがて世の乱れ出で来て、その沙汰無く候条、たヾ一身の歎きと存る候」
――「私にとっては他の何より大事、忠度にとっては平家が滅びる事より自分の歌が大事なんです」と先生。
そうです。それが芸術家というモノです!!
頷くとメニエル症状が残っていて頭痛がするのに、ウンウン、ウンウン、と頷いてる私!アホですm(__)m

そして、俊成が「かかる忘れがたみを給をき候ぬる上は、ゆめ\/粗略を存ずまじ候」と請け負うと、忠度は
「今は西海の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮世に思ひをく事候はず」
と、て馬に打ち乗り、甲の緒を締め西をそいてぞあゆませ給ふ。

「甲の緒を締め、というこの六文字の中に忠度の気持ちが込められている」と先生!!

嗚呼、もう涙でキーボードが見えないよ!!

この平家の本文は(「吾妻鏡」なども勿論!活字を貰いに行く事はありますけど、本文はちゃんと打ってる)、
一々キーボードで手打ちしてるのです。
貰いに行けば貰えるところはあるんだけど、それでは気持ちがすまないでしょ!!
第一、それじゃ、この気持ちが乗らないです。こんなに泣けない!!

その馬上の人となってからも、忠度は
「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳す」とたからかに口ずさみ給へば、俊成卿いとヾ名残惜しうおぼえて、涙を抑えてぞ入り給ふ。

「この歌は、鴻臚館とい中国から来た人を饗す迎賓館があります。鴻臚館から中国の人を送り出す時歌う詞です」と先生(^^ゞ
惜別の歌ですよね・・・師・俊成に対して、都に対して、諸々の思いに対して、
しかし、何よりも、自分の命に替えがたい歌集に対しての惜別の思い。
まだまだ辞世の歌も含めて良い歌を詠み続けるのだけれど、この時、忠度は、自分の歌道人生に別れを告げたのです。

で、まあ、その後「千載集」を選ぶ時、勅勘の人である、というので只一首を「読人知らず」として入れた、と。

その歌は「さヾなみや 志賀の都はあれにしを むかしながらの 山さくらかな」と言う歌です。
が〜、この千載集では「読人知らず」なんですが、もう、その後の勅撰集では実名で出ているそうです。というより、
「平家物語が出来た頃、実名で出ている。かえって、承久の乱で流された三上皇の名が無い。」そうです(^_^;
三上皇――後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇ですね。

ちなみに、二十一代集に取り上げられている忠度の歌は以下の通りです。
新勅撰和歌集・・・・たのめつゝ こぬ夜つもりの うらみても まつより外の なくさめそなき

玉葉和歌集・・・・・・われのみや いふへかりける 別路は 行もとまるも おなし思ひを
            うらみかね そむきはてなんと 思ふにそ うき世につらき 人も嬉しき
            いとはるゝ かたこそあらめ 今更に よそのなさけは かはらさらなん
            なからへは さりともと思ふ 心こそ うきにつけつゝ よはりはてぬれ

続後拾遺和歌集・・・住吉の 松としらすや 子規 岸うつ浪の よるもなかなん

風雅和歌集・・・・・・・あれにける 宿とて月は かはらねと むかしの影は 猶そ床しき
             おり立て 頼むとなれは 飛鳥川 ふちも瀬になる 物とこそきけ

新拾遺和歌集・・・・・恋しなん 後の世まての 思出は しのふこゝろの かよふはかりか
             うき世をは なけきなからも 過しきて 恋に我身や たへす成なん

辞世の歌は「忠度最期」で・・・また盛大に泣きながら打つんでしょうなぁ・・・私(^_^;



5.「経正都落」

―「巻七、経正都落の事」より―

修理大夫経盛の子息、皇后宮の亮経正、幼少にては仁和寺の御室の御所に童形にて候はれしかば、かヽるそう劇の中にも、その御名残きっと思ひ出でて侍五六騎召し具して、仁和寺殿へ馳せ参り、門前にて馬より降り、申し入れられけるは、
「一門運尽きて、けふ既に帝都を罷り出で候。浮き世に思ひ残す事とては、たヾ君のお名残ばかり也。―中略―今一度御前へ参って君をも見参らせたふ候へども、既に甲冑をよろひ、弓箭を帯し、あらぬさまなるよそほひに罷り成って候へば、憚存候」

ねぇ、この時経正何歳だったか、とにかく若いのですよ・・・「この経正十七才の年、宇佐の勅使を承って下られけるに」と「青山の沙汰の事」にありますから、敦盛よりは年長ですが、せいぜい二十歳か二十二・三歳というところでしょう。
(年表見間違ってましたm(__)m経正って忠度と同じか五つくらい下かもくらいなんだって!てえと、35〜40才(^^ゞ)

その若者ならぬ壮年の働き盛り!が
「浮き世に思ひ残す事とては、たヾ君のお名残ばかり也。」と言い切るのは哀し過ぎるよねぇ・・・(;_;)
まあ、童形から、と言う事も、↑の経正の言葉からも、只の主従ではないですよね。
後白河と成親のこともありますし、この時代では当たり前のことです。
えっと、私が言うのも変ですが、男女の仲だけが正常な愛情の対象だということになったのは、明治以来のことですからね。
世界的にも中世までは、日本なら近世(江戸時代)まで、男色は当然のことだったのです。

保立道久氏の「平安王朝」などを読むと、その辺の事が政治がらみで生臭く書かれています。
つまり、当時の男色はかなり政治的色彩が強かった、と言ってもよいのですね。
これは、貴族の中だけのことではなく、貴族が家之子にあたる武士の子弟などに大してもあったことだそうですし、
男色は「摂関時代」と比較して「院政時代」の政治史の特徴というべきほど、当時の宮廷全体に広がり政治史の重要な面を成したとさえ言われている。(保立道久著「平安王朝」)


先生から
「経正といえば琵琶の名手です。ここは主従の別れを描く。忠度は師弟の別れでしたね。」
「(父の)経盛は当時60歳。」
「仁和寺の御室の御所、というのは、当時守覚法親王です。後白河法皇の第二皇子で、以仁王の兄です。」
と伺いました。

昭和44年発行(初版34年)の、私の角川文庫の脚注では覚性法親王とでてまして「『長』には守覚法親王とする」とあります(^_^;
昭和57年発行の「別冊国文学・平家物語必携」では、
「経正に絡む芸能説話で『忠度都落』と対を成す。」という解説と同時に、
「守覚法親王編の真言行法の故実書『左記』は経正が故覚性法親王に仕え、青山を拝し、この時守覚に返じたことを記し本話を裏付ける。」とありました。

そして、
「あらぬさまなるよそほひ罷り成って候へば、憚存候――というのは、琵琶を愛し、童形から宮仕えしていた若者は死の道具を身に着ける身を厭う。」と先生。

「資料D『平家公達草紙より鎧姿の重衡の述懐』で、
『この姿のうとましさ、さるは限りのたび、憂き面影をしも留めんことと、思ひやすらひながら、猶、いとま申さまほしくて』
と、守覚法親王と以仁王の妹でもある式子内親王の許に挨拶に来たときの言葉です。」

そうか、みんな嫌がっていたんだよね・・・平和の中で青春を謳歌していた若者たちが否応無く戦場に狩り出されていくんだもの。

御室、哀れにおぼしめし、「たヾ其のすがたを改めずして参れ」とこそ仰せけれ。

法親王も逢わずに別かれ難く思し召すのですね・・・。
そして、経正は、御前に琵琶を置いて言うのです。
「先年下しあづかって候し青山、持たせ参って候。あまりに名残は惜しう候へども、さしもの名物を田舎の塵になさん事、口惜しう候。
若不思議に運命ひらけて、又都へ立ち帰る事候はば、其時こそ、猶下しあづかり候はめ」と泣く泣く申されければ、

「又都へ立ち帰る」そんな日がくるのでしょうか?
経正は信じているのでしょうか?御室は信じているのでしょうか?
誰も信じてなどいませんよね、きっと・・・信じたい!とは思っているだろうけど・・・。
御室と経正は別離の歌を詠み交わします。
さて、いとま申て出でられけるに、数輩の童形・出世者・坊官・侍僧に至るまで、経正の袂にすがり、袖をひかへて、名残を惜しみ、涙を流さぬはなかりけり。

中でも、葉室大納言光頼の子息で、大納言法印行慶という人は、経正の幼い頃の師であったそうで、
桂川まで名残を惜しみ別離の歌を詠み交わします。
あはれなり 老木わか木も山さくら をくれさきだち 花はのこらじ
経正の返事には、
旅ごろも 夜な\/袖をかたしきて おもへばわれは とをくゆきなん
さて巻いて持たせられたる赤旗、「あはや」とて馳せあつまり、その勢百騎ばかり、鞭をあげ、コマをはやめて、程なく行幸におっつき奉る。

先生は
「老木というのは自分、わか木は経正です。」
「赤旗、あはやとて馳せあつまり、その勢百騎ばかり、鞭をあげ、コマをはやめて、程なく行幸におっつき奉ル――場面展開。踏み切りの妙です。」
「踏み切りの妙」ですか・・・巧い事おっしゃいますね(^_^;

この行慶という人物、「平家物語」の作者だと言う噂の信濃前司行長の一族(父と言う話も)なんですと!!
そう思って読むせいか、この歌には「平家物語」の集約的イメージがあると思います。

こうして、経正も落ちていきました。



6.「一門都落」

―「巻七、一門の都落の事」より―

「源氏と違って平家は生きた者の記録です。かなり曲がって書かれているが、やはり実のことが書かれている。」
「私たちは人の心を推し量るしかない。『心のうち、推し量られて哀れなり』というのは珠玉の言葉です。」

池の大納言頼盛卿も、池殿に火をかけられて出でられけるが、鳥羽の南の門にひかへつヽ、「忘れたる事あり」とて、赤じるし切捨て、其の勢三百余騎都へとってかへされけり。

「池の大納言頼盛という人は、清盛の弟だけれど、仲が悪くて、清盛の生きている時から兄弟喧嘩もしています。」
「頼盛の母は、頼朝を助けた池の禪尼ですから、頼朝から何か言われていたのではないか。それらしい事も書かれています。」
と先生。

この時はまだ維盛も到着していないので、↑此れを見、それを聞いた宗盛と知盛が、、
其時新中納言(知盛)、涙をはらはらと流いて、「都を出でてまだ一日も過ぎざるに、いつしか人の心共の変りゆくうたてさよ。さても行くすゑとてもさこそはあらんずらめと思ひしかば、都のうちでいかにもならんと申しつるものを」とて、大臣殿の御かたをうらめしげにこそ見給ひけれ。

更に、もう少し後に、追いついてきた肥後守貞能になぜ都落ちするのかと追及されて
「木曾既に北国より五万余騎で攻めのぼり、比叡山東坂本にみち\/たんなり。此夜半ばかり法皇もわたらせ給はず、おの\/が身ばかりならばいかヾせん、女院・二位殿に目の当たり憂き目を見せまいらせんも心ぐるしければ、行幸をもなしまいらせ、ひと\゛/をもひき具し奉りて、一まどもやと思ふぞかし」と仰せられければ、

「(首都決戦を画す知盛と、母や妹に惨い目を見せたくないと都落する宗盛と)兄弟の差が明確になる」と先生。
「(宗盛は)勝算があって都を出たわけではないんです」
「壇ノ浦でも入水はするが息子が気になって生け捕りに成り生き恥をさらします」

そう・・・でもない。ここはけっこう知盛も女々しいではないですか(^_^;
兄貴に反対するなら反対して、首都決戦を強行するっきゃないでしょ!!
それを一旦、自分の意見は引っ込めて、どんな軟弱な大将にもせよ、兄貴に付いて行くと決めたんだから・・・、ねぇ(^_^;
現に肥後守貞能は、この宗盛の軟弱さにアイソを衝かして、
「さ候はば、貞能はいとま給はって、都でいかにもなり候はん」とて、召し具したる五百余騎の勢をば小松殿の君達(この時は追いついていた)につけ奉り、手勢三十騎ばかりで都へひっかへす。

というのです。
そして、都の重盛のお墓を掘らせて、お骨を取り出し、源氏の陵辱にあわぬよう高野へ送り、周りの土も掘り返して賀茂川に流させる、と言う周到振りを示します。

「平家物語では、この後、『主とうしろあはせに東国へこそ落ちゆきけり』となっていますが、
「実は九州まで行っています。九州を追い出された後、壇ノ浦で平家が滅んだ後宇都宮へ行っています。あの時(「聖主臨幸」)畠山・小山田・宇都宮を預かって三人を助けたのは貞能でしたから、宇都宮を頼って関東に行ったんです。」
いろんな武士がいたんですねぇ(^_^;

そうそう、この重盛の墓掘らせ、というところで、貞能がかき口説くんですが、
「あなあさまし、ご一門をご覧候へ。生あるものは必ず滅す。楽尽きて悲み来ると、いにしへより書をきたる事にて候へども、まのあたりかヽる憂き事候はず。君はかやうの事をまづさとらせ給ひて、兼て仏神・三宝に御祈誓あって、御世をはやうさせまし\/けるにこそ。ありがたうこそおぼへ候へ。其の時貞能も最後の御共仕るべう候けるものを、かひなき命を生きて、今はかヽる憂き目にあひ候。死期の時は必ず一仏土へむかへさせ給へ。」

で、これは、ですね「重盛は医師にも診せず自ら命を絶ったような死に方だった」んだそうです。
それで思い出したのは、私は重盛はいい子ぶりっ子でいかがわしい、という派なのですが、
例の「別冊国文学・平家物語必携」の中で「運命」という章で、杉本圭三郎という先生がお書きになっているのです。

重盛の、運命の預言者としての特殊な能力については、『平家物語』における運命の諸問題とともに、石母田正『平家物語』(岩波書店、昭32)に、あざやかに分析されている。重盛は一門衰亡の運命を予見するとともに、いかにしてこの運命を回避するかに努力を集中し、行動した人物であった。
―中略―
『平家物語』の構造において、運命は因果応報と不可分に結びついているのである。重盛はこの因果応報観にたって、運命の力を押しとどめるべく、清盛の悪行を抑止することに心を砕くのであるが、ついにかなわぬことを自覚して、熊野に詣でて我が命をつづめる事を祈願し、ついに世を去っていく。

というんですね。
へぇー!!そうなんですか・・・!!
ふーん、知らなんだワァ〜・・・私、この本買ったのは大分前です(^_^;
読んだ記憶なくて・・・今までに「平家物語」関係のご講義うけた先生の名前がずらりで、今更ビックリm(__)m

そうか・・・重盛はそういう人として描かれていたのか・・・としてもなぁ・・・今更イメージ変えられないし(^_^;
それでも、重盛の母方が高階氏ということで、前にも、文学的・知的な家系ということは書いたのですが、
この高階氏、実は遡れば伊勢神宮の神祇伯の家計でも有るのですね。
あ、それで「日本は神国なり」か・・・となんとなく納得♪
まあ、重盛が祈念に行ったのは熊野で、伊勢ではなかったのですが、当時は熊野が大流行だったせいもあるけれど、
高階氏だから、伊勢には行けないのかな?
(高階氏は、業平と斎宮の活子内親王の秘事から、伊勢神宮には参れないことになってる!!)
でも、それなら、伊勢平氏の清盛がなんで高階氏と契ったか?
それに、正室の時子の子供を差し置いて、嫡子として重盛を置いた、ということは、
その高階氏は相当の家格だったということですよね・・・誰だ?

というのが知りたくて、検索したら、三楽斎さんの「史跡アルバム紀行」と、yamaneさんの「castles in the air」で、
アララの記事を発見(^_^;
清盛以前―伊勢平氏の興隆(高橋昌明著/文理閣)」という本の紹介で、
ぬぁ〜んと、重盛は關白忠実のご落胤!という噂があるのだそうです!!
へぇ〜♪へぇ〜♪へぇ〜♪
恥ずかしくも初耳ですm(__)m
その高階基章というのは、下級官人だそうで、どうみても平家の御曹子清盛、というよりは、
白河天皇のご落胤(こっちは本当らしい)清盛の妻にはふさわしからぬ家格なんだそうです。
それじゃ本来平時信(時忠・時子の父)だって黙っていないでしょ。
でも、もしその高階基章女と言う女性が忠実のご落胤なら口出しは出来ませんよね(^_^;

何でも、
「忠実の子・藤原頼長の日記『台記』によれば高階基章の妻と忠実の間に産まれた娘*1が亡くなったという記述があり、
これが清盛の妻を指すのではないかと。」ということだそうで・・・(^^ゞ

天皇の子に關白の娘が嫁ぐのは当たり前のことで、でも、これが双方ともご落胤というのはねぇ・・・
当時のcommon senseから言えば丁度釣り合いが取れている、というところなんでしょうし、
出来すぎた話のようですが、平時信の態度を見ていると納得してしまいますm(__)m

ところが、後日(2005/08/01付け)、同じ三楽斎さんのページで
「藤原忠実(元木康雄・日本歴史学会/吉川弘文館)」という本の紹介があって、
元木氏はこの娘の死去を記した『台記』の読み方で高橋説を否定しているようで、山楽斎さんご自身が、
「んー、こりゃ自分の目でも『台記』の記述を確認してみる必要がありそう。」と書かれてありました。
そうなんですよねぇ・・・結局そういうことになっちゃうのです・・・。

先生から、こうこうこういう意味だよ、という解説を聞いても自分でスンナリ受け入れられる時と、
生意気にも?と思ってしまうときがあるのですね〜m(__)m
資料・史料って取り扱いが難しいですねぇ(^_^;

もう一つ、これは最終回に書こうと思ってたのですが、話のついでだから書いちゃおう(^^ゞ
この一連のご講義の終了後(最後の日)、
先生が、質問を受けてくださったのです。
でー、聞いてしまいました。
「高階氏の母を持つ重盛が嫡子の地位を保てたのはなぜですか?↑〜という話を聞いたのですが・・・」ということで。
そうしましたら、
「高階氏というのは中級貴族ですが金持ちなんですね。
でも、平家が実力を付けていくにしたがって、時子の方の子供の方が勢力が強くなって行くようになる。
だから、重盛もいろいろあるでしょう。(「殿下の乗合」のことでしょうかね・・・筆者の呟き)」
とのことでした♪
で、追いかけて「高階氏の娘が關白忠実のご落胤だという説があるといいますが・・・?」と伺いましたら、
「さあ、そんな説は聞いていませんね」と仰ってました(^^ゞ
アララ・・・そうですかぁ(^^ゞ
まあ・・・いろいろあらあな♪
山楽斎さんではないけど、自分で「台記」を読んでみなくちゃネェ・・・「台記」だけでなく周辺史料も・・・遠いなぁm(__)m


で、まあ子息の維盛なんですが・・・追いついて来ます。
さる程に、小松殿の君達は、三位中将維盛卿をはじめ奉りて、兄弟六人其勢千騎ばかりにて、淀の六田河原にて行幸に追っつき奉る。大臣殿待ち受け奉り、うれしげにて、「いかにや、今まで」との給へば、三位中将、「おさなき者共があまりにしたひ候を、とかうこしらへをかんと遅参仕候ぬ」と申されければ、大臣殿、「などや心づよふ六代殿をば具し奉給はぬぞ」と仰せられければ、維盛卿、「行すゑとてもたのもしうも候はぬぞ」とて、とふにつらさのなみだを流されけるこそかなしけれ。

で、先生は「行すゑとてもたのもしうも候はぬぞ―と言うのは、一門の中で浮いている自分が分かっている」とおっしゃるんですね。
でも、それも確かにそうでしょうけど、まず平家の末路が分かっている、という事なのではないでしょうかね(^^ゞ
「小松殿の君達は、三位中将維盛卿をはじめ奉りて、兄弟六人其勢千騎ばかり」というのは、
↑「維盛都落」の巻で迎にきた弟たち―資盛・清経・有盛・忠房・師盛―と維盛ですが、
合わせて千騎というのは人数にすると一万〜二万くらい?まだかなりの数ですよね・・・まあ物語の言う所ですが(^_^;


あ、ところで途中になってしまいましたが、冒頭の頼盛ですが・・・、
抑(そもそも)池殿のとヾまり給ふ事をいかにと言ふに、兵衛佐、常は頼盛に情けをかけて、「御かたをばまったくをろかに思ひまいらせ候はず。たヾ故池殿のわたらせ給ふとこそ存候へ。八幡大菩薩も御照罰候へ」なンど、度〃誓状をもって申されける上、平家追討のために討手の使ののぼる度ごとに、「相構えて、池殿の侍共にむかって、弓ひくな」なンど情をかくれば、「一門の平家は運尽き、既に都を落ちぬ。今は兵衛佐にたすけられんずるにこそ」との給ふに、都へかへられけるとぞ聞こえし。

つまり、頼盛は、例の清盛に哀願して頼朝の命乞いをした池の禪尼の子なのです。

池禅尼は、修理大夫藤原宗兼女、父宗兼は白河法皇の近臣でした。
一族の藤原得子(なりこ)は、白河院の乳母子でもあり、鳥羽天皇の寵姫でもありました。
ことに従兄弟の善勝寺流藤原氏の家成は、
鳥羽天皇の近臣として「『天下の事を挙げて一向に家成に帰す』(源師時日記・大治4年8月)保立道久『平安王朝』」
といわれ、
母は右中弁藤原有信女と言われ、宗子と言う名前だった、と言われます。
大弐局とも呼ばれて、平忠盛の後妻になりますが、崇徳上皇の子息・重仁親王の乳母でもありましたが、
つまり、武家の平家に対して、そう位が高くはなくとも、バリバリの貴族ではあったのですね(^^ゞ

保安元年(1120)頃、平忠盛妻に。平家盛・頼盛を出産。任平3年(1153)1月、出家。長寛2年(1164)頃、没
池禪尼については泉裕樹さん「平家」さんの「平家人物辞典」に詳しく、
また、手鞠さん「きらめきの刹那」さんの「平家随想ー六波羅嫁姑戦争」に、面白く書かれています。

(両サイトさんとも、こちらにご紹介する上のご快諾を頂きましたが、
それぞれ趣味の範疇のサイトなので、という一言を添えていらっしゃいました。
え〜、うちも、当然趣味の講義録です(^_^;聞き違い・ノート取り違い・書き間違い・・・お許しくださいm(__)m)

つまり清盛とは生さぬ仲、清盛は父忠盛の後妻である育ての母の哀願に義理立てして、頼朝を助け、
源三位頼政の息子、例の仲綱が知行する伊豆に流したのですね。

で、それが不覚の第一歩だったわけで・・・清盛が死ぬ間際に
「今生の望は、一事も思ひ置く事なし。たヾ思ひ置く事とては、兵衛佐頼朝が頭を見ざりつる事こそ、何よりも又本意なけれ。われいかにもなりなん後、仏事孝養もすべからず。堂塔をも立つべからず。急ぎ討手を下し頼朝が頭を刎ねて、わが墓の前にかくべし。それが今生の孝養にてあらんずるぞ」
(巻六、五。入道逝去)

と叫んだのはごもっとも、と、言わねばなりません(^^ゞ

しかし、いずれにしても、頼盛は貴族的な性格で清盛の生前から反りが合わず、公家貴族の時忠とは気があったそうです。
こうして、頼盛は八条女院が戦を避難して仁和寺の常葉殿にいらっしゃったのを頼って行きます。
八条女院というのは鳥羽天皇の第三皇女(ワ子内親王)のことで、後白河法皇の腹違いの姉にあたります。
其の御所は八条大路の北にあり、
女院の乳母宰相殿という女房の娘に通っていた伝手でした。
しかし、女院は
「今は世が世であらばこそ」と、よに頼もしげなうぞ仰せける。兵衛佐ばかりこそは芳心を存ずといえども、自余の源氏等はいかヾあらんずらん。

と、消極的です(^_^;

ところがここに「資料G 延慶本の頼盛」ですが
「行幸には遅れぬ、敵は後ろに有り。中空になる心地のするは。いかに殿原、此の度はなどやらむ物憂きぞとよ。只、是より京へ帰らむと思ふ也。すべて弓矢取る身のうらやましくも無きぞ。されば故入道も随ふ様にてはざりき。・・・返す返すも人は世に有ればとて驕りまじかりける事かな。入道の末、今ばかりにこそあむなれ。いかにもいかにもはかばかしかるまじ。・・・」――
(八条女院の言)「・・・かしこくぞ故入道と一つ心にておはせざりつる。今は人目もよし。平家の名残とて世におはしなむず」

先生から
「実際、頼盛は別の地に派遣中で遅れてしまった。」
『愚管抄』に
頼盛と資盛が山科防御のため都落ちに遅れてしまった、という記事があるそうです。
それで、どうしようか?と、息子の為盛に鳥羽まで落ちていた平氏一族に伺わせたら
「返事をだにもえせず、心もうせてみえければ」、頼盛は都に残る決意を固めて、
「比叡山隠れていた後白河法皇に問い合わせたら、八条院に行けというサジェスチョンがあった」
というのですね。しかも、この時、
「資盛も後白河法皇に可愛がられていたので、一緒に問い合わせたのだけれど特別なサジェスチョンがなかった」
ので、こちらは致し方なく、「後を追うように平家一門の許へ落ちていった」そうです。
資盛は、
「(愛人の)建礼門院右京太夫に、もう私は此の世の人間だとは思わないで下さい。私が死んだ跡は弔って欲しい。」
「もうあなたに手紙は出さない。出せば昔が懐かしくなる。」と手紙を書きますが、また
「そうは言っても昔に帰ってしまう私たち」とまた手紙を出しています。

で、その「延慶本」の方ですが、
「自分は兄の清盛にも随わなかった。クーデターの時にも大喧嘩して兄から官位を取り上げられた。
(だから、)平家を批判して都へ残った、というのですね。」
「それに対して八条女院も、清盛と同腹でなくてよかった、というのですが、是はおかしい」
実は、
「八条女院の御所に仕える三位の局は以仁王の愛人で子供もいて、其の子供たちを匿ったために、
八条女院は平家の探索に遭われた(「巻四、12・若宮御出家の事」)時、清盛の使者に立って、
若宮を差し出せ、と言ったのは頼盛、
差し出された若宮を哀れんで出家させるから、命ばかりは助けてやってくれ、と頼んだのは宗盛!」
なんですねぇ(^_^;

それを考えると、どうしたって、延慶本は不自然ですよねぇ(^_^;

「実は、是れ以後頼盛一族が繁栄している、それを受けているのですね」
はあ〜、やっぱりそういうこと?

で〜、調べてみました。あ〜らビックリ!!
頼盛の娘は後高倉院(守貞親王、帝位には付かず、子の即位によって太政天皇の位を賜る)の乳母なんですね!!

それで権中納言藤原基家と結婚して生まれた陳子を後高倉院に入れて、そこに生まれたのが後堀河天皇なんです(^_^;
まあ、まさか高倉天皇が徳子以外の女性に産ませた守貞親王が帝位に就くとは考えられないですよね。
それが歴史の流れで、高倉天皇(その時は上皇)が早死にし、安徳天皇が西海に没して、
承久の乱で三人の上皇・天皇が廃されて棚から牡丹餅のように守貞親王にお鉢が回ってくる。
でも、彼が固辞するから、其の子の後堀河天皇が即位する♪
つまり、頼盛は後堀河天皇の外祖父なわけさ!!
へぇ〜♪へぇ〜♪へぇ〜♪

実は、清盛のもうひとりの弟、中納言教盛だって、天皇の外祖父になっているのです(^_^;
教盛は、壇ノ浦で、例の大立ち回りを演じて、源氏の侍二人を抱え込んで入水した能登守教経の父ですが、
やはり娘がいて、これが教子というのですが、式部少輔藤原範季と結婚して重子という娘が出来ます。
そして、この娘が後鳥羽天皇の寵愛を受けて順徳天皇を生みます。
結局承久の乱で、後鳥羽は隠岐に、順徳は佐渡に(ちなみに土御門は土佐)配流されます。
でも、1210年に順徳天皇が即位し、1221年に配流されるまでは外祖父・・・といっても,
肝心の教盛は、壇ノ浦で
「さる程に、門脇の平中納言教盛・修理大夫経盛、兄弟手に手を取り組み、鎧の上に碇を負うて、海にぞ沈み給ひける」
ということだったのですが・・・ね(^^ゞ

ついでに、件の八条女院の所には、定家の姉健寿御前、知盛の妻の治部卿の局(当時は四条の局)、
また重衡の最期を見届けた木工馬亮知時などが伺候していて、「平家物語」とは関わり深い女院でいらしたのですね。

そうそう、知盛の妻の治部卿の局は後高倉院(守貞親王)の乳母でもありました。
例の大納言成親の娘は維盛の妻になっている娘の他にもう一人いて、それが又後堀河天皇の乳母です。
更に其の娘は四条天皇の乳母です♪・・・どこまで続く乳母の縁!!

ちなみに、鳥羽天皇の第二皇女上西門院(統子内親王)の方は頼朝と親しく、
遠藤武者であった文覚上人は、この上西門院に仕えていた、「巻五、7・文覚荒行」に見えます。


つまりね・・・先生もおっしゃっていらしたのですが、
「平家は滅びて源氏の世の中になった、けれど、全ての平家が滅んだわけではなかったんです」
「その生き残った平家の人々が、『平家物語』を創っていった」

なるほど!!記録は生きている者たちのためにあるのですねぇ・・・\(^^)/
あ、でも今はちょっと待って・・・一門都落ちの愁嘆場を味合わなくては・・・涙

落ち行く平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公・平大納言時忠・平中納言教盛・新中納言知盛・修理大夫経盛・右衛門督清宗・本三位中将重衡・小松三位中将維盛・新三位中将資盛・越前三位通盛、殿上人には・・・中略、侍には・・・中略、都合其勢七千余騎、是は東國・北国、度々のいくさに、此二三ヶ年が間、討ちもらされて、わずかに残るところ也。山崎関戸の院に、玉の御輿をかきすえて、男山を伏し拝み、平大納言時忠卿、「南無帰命頂礼八万大菩薩、君をはじめまいらせて、我等都へ帰し入れさせ給へ」と祈られけるこそかなしけれ。おの\/うしろをかへり見給へば、かすめる空の心ちして、煙のみ心細く立ち上る。平中納言教盛卿、
   はかなしなぬしは雲井にわかるれば跡はけぶりとたちのぼるかな
修理大夫経盛
   ふるさとをやけ野の原にかへりみてすゑもけぶりのなみぢをぞゆく

あれやこれやの人々も呉越同舟、それぞれの思いを秘めて都を落ちていきます。

「都合其勢七千余騎といっても、実際はもっと少ない」と先生。
第一、「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と言った時忠が、
「南無帰命頂礼八万大菩薩、君をはじめまいらせて、我等都へ帰し入れさせ給へ」と祈る時が来るとは!
で、ここで、平中納言教盛卿と修理大夫経盛と二人が歌を詠みますが、この二人について、先生は
「この二人は清盛の兄弟ですが、常に一組として意図的に描かれます」とのことでした。
「教盛は56歳。息子の通盛・嫁の小宰相などを失い、経盛は60歳。一の谷で経正・経俊・敦盛も失う」
「悲劇の構図の対称として描かれています」



7.「福原落」

―「巻七、福原落の事」より―

というわけで、やっと福原落だ!!
今回の私のレポートは長すぎて・・・どうもいかん(^_^;感情入りまくりの涙チョチョ切れでウーム
もっと要領よく!ね(^_^;

福原の旧里に一夜をこそあかされけれ。折節秋のはじめの月は、しもの弓はりなり。深更空夜閑(しずか)にして、旅ねの床の草枕、露も涙も争ひて、たゞ物のみぞかなしき。
「折節秋のはじめの月は、しもの弓はりなり、26日の月は三日月の逆」


すべて目に見え、耳にふるヽ事、一つとして哀をもよほし、心をいたましめずといふ事なし。昨日は東関の麓にくつばみを並べて十万余騎、今日は西海の浪に纜をとい七千余人、雲海沈々として、青天既に暮れなんとす。


極浦の浪をわけ、塩にひかれて行舟は、半天の雲にさかのぼる。
「自分の意思なく進む舟がいつの間にか海の真ん中に流され出てしまう」


寿永二年七月廿五日に平家都を落ちはてぬ。
「実際は26日だったが、文章上は25日じゃないと『文』にならない」


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最期はあっさりしすぎm(__)m
もっとも、先生も大急ぎ・・・だってもう既に30分オーバーなんですね、外は真っ暗・・・(^_^;
勿論誰も途中で帰る人なんていません!!
でも、さすがに先生も慌ててます(^_^;

ちなみに、能の中の「平家物語」としては、鎌倉能舞台さんの「公演レポート」上で
平成14年度の5月6日に「経正」が、11月19日に「敦盛」が
15年度1月23日のところに「忠度」が、10月30日のところに「俊寛」が、1月19日のところに「船弁慶」
昭和16年度10月13日のところに「清経」が解説と写真で見られます。
注ー「経正」だけは「子供の日」特番でお子様のシテです。



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