11月25日(木)
「平家物語」転読
「今日は都落ちを中心に読んで行きます」
ひょぅ〜、もう巻七の後半です(^_^;
ちゃんと、その間を読んで行こうと思ったのに・・・ちゃんと覚えてるかな?四半世紀前に読んだトコ(^_^;
で、1180年―治承四年のと言う年の重要性を。
何しろ「治承四年」という題名で論文を書かれた歴史学者がいらっしゃる、「それほど大変な年」だそうです。
先生も列挙されたし、ついでなのでミニ年表を、(時間があったら、前の分にも入れておきます)
承安2年 | 1172 | 徳子中宮に | |
安元2年 | 1176 | 建春門院崩御 | |
治承元年 | 1177 | 鹿ケ谷 | |
3年 | 1179 | 重盛沒 | |
4年 | 1180 | 安徳帝即位 | |
5月 | 以仁王挙兵 | ||
6月 | 福原遷都 | ||
7月 | 頼朝挙兵 | ||
9月 | 義仲挙兵 | ||
10月 | 富士川の合戦 | ||
12月 | 興福寺焼亡・大仏炎上 | ||
治承5年 | 1181 | 1月 | 14日高倉院崩御、その後改元 |
養和元年 | 1181 | 閏2月 | 清盛沒 |
寿永2年 | 1183 | 倶利伽羅峠の敗北→平家都落ち | |
義仲入京 | |||
元暦元年 | 1184 | 義仲戦死 | |
平家一の谷の敗北 | |||
2年 | 1185 | 屋島・壇ノ浦の合戦にて平家滅亡 |
「福原遷都」については、「清盛は、鹿ケ谷のクーデターの時から遷都を考えていたようです。」
「しかし、11月には(また京都に)帰って来てしまいます。宗盛はもともと反対していましたね。」
「そして、1181年の1月には高倉上皇が死にます。
クーデターがあった時から心身症になっていたんじゃないかと、私は思ってます。」
「そして、閏2月には――当時は太陰暦で、大の月は30日、小の月は29日。
ですから一年で余る日にちがあって、それを何月かの後に閏月として付け加えます。この年は2月が二回あった事になる。」
「その閏2月に清盛が死にます。熱病で、頭の上に雪の塊を頂かせると、ジューっと解けて煙が上がった、というんですね。
これは、大仏炎上から数えて66日目。祟りだ、と言うわけですね。」
「もともと、1181年という年は四月頃から飢饉に見舞われていて、『大路に屍が満ち溢れる』と書かれている。
『方丈記』でも『養和の飢饉』として書かれている有名な大飢饉で、強盗が跋扈し放火が多く、食うために大変な時代でした」
うっひょ!そうだっけ!!「方丈記」ってこの時なのか(^_^;
全く忘れている私って・・・m(__)m
「1183年、平家が動きます。挙兵して攻め上ってくる義仲に対して10万の兵を出す。実際は4万くらいらしいけど」
「加賀と越中の間の倶利伽羅峠の戦いで平家は全滅します。義仲軍の大勝です。義仲軍は五千くらい。」
「九条兼実の『玉葉』では、6月4日に、
『北陸の官軍悉く以て敗績す。今暁飛脚到来す。官兵の妻子等、悲しみ泣くこと極まり無しと。』書いている。」
「四万余騎の大軍のうち、帰ってきたのは2〜3騎だったという。」
「比叡山を味方につけようと『我が氏寺とする』という。厳島神社は氏の神社ですから、今度は氏の寺。
しかし、六月中旬ころから、アチコチで平家打樋の狼煙が上がる。」
というわけで、始まりました。平家都落ちの段(;_;)
第三回・「人それぞれの生」――都落ちのドラマ
1.「主上都落」
―「巻七、主上の都落の事」より―
同廿二日の夜半ばかり、六波羅の辺、おびたヾしう騒動す。馬に鞍をき腹帯しめ、物共東西南北へはこびかくす。 ・・・・ 同七月廿四日のさ夜ふけがたに、前内大臣宗盛公、建礼門院のわたらせ給ふ六波羅殿へ参ッて申されけるは、 「此世の中のあり様、さりとも存候つるに、今はかうにこそ候めれ。ただ都のうちでいかにもならんと人々は申あはれ候へ共、 まのあたりに憂き目を見まゐらせむも口惜候へば、院わも内をもとり奉て、西國方へ御幸・行幸をもなしまいらせてみばやとこそ思ひなって候へ」と申されければ、女院、「今はたヾともかうも、そこのはからひにてあらんずらんめ」とて、御衣の御袂にあまる御涙、せきあへさせ給はず゜。大臣殿も、直衣の袖しぼる計りに見えられけり。 |
「当時、宗盛は37歳。重盛も清盛も死んで総大将になっている。徳子は29歳。」
「しかし、総大将として言ってはいけない言葉ですね」
「まのあたりに憂き目を見まゐらせむも口惜候へば、って総大将の言葉ではない」
「ただ都のうちでいかにもならんと人々は申あはれ候へ共、というのは、平家一門の中でも首都決戦を言う人もいる。
殆どは反対派です。宗盛一人が決めたんです。」
「その理由が、母や妹に“まのあたりに憂き目を見まゐらせむも口惜候へば”ということだったんですね。」
「宗盛は優しい人ではあるんですね」
ん〜、優しい?!優しい、というのかな・・・こういうの(^_^;
自分の臆病さを、つまり自分が都が戦で焼け爛れるのを見るのが怖いという
自分自身の臆病さを糊塗しているのではないかと思うのですね(^^ゞ
大体、二位の尼時子の子でなんとかなっていたのは知盛だけで、
宗盛にしても徳子にしてもボーっと育った坊ちゃん・嬢ちゃんという印象が強すぎますよね(^^ゞ
徳子は大原御幸でけっこう幕引きのためのいい役もらってますが、
あんたがしっかりしてないからだよ!とどつきたくなるのは私だけ(^^ゞ
で、「西國方へ御幸・行幸をもなしまいらせてみばやとこそ」と思っていた後白河法皇ですが、
「後白河法皇にも逃げられてしまうんですね。これで平家は朝敵になってしまうんです」と、先生あっさり♪
この時点で?朝敵になったのか!だってまだ安徳天皇をキープしているじゃない、と思うけど、
やっぱり、この時点なのかな・・・疑問です(^^ゞ
その夜、法皇をば内々平家のとり奉りて、都のほかへ落行くべしといふ事を聞こし召されてやありけん。按察大納言資方卿の子息、右馬頭資時計御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひ、鞍馬へ御幸なる。 ・・・ 去る程に、法皇、都の内にもわたらせ給はずと申程こそありけれ、京中の騒動なのめならず。 況や平家の人々のあはてさはがれけるありさま、家々に敵の打入ッたりとも、かぎりあれば是には過じとぞ見えし。 |
「御所は三十三間堂にあって、そこから逃げ出して、その後、法皇は比叡山に行きます」
なるほど、比叡山には手が出せませんからネェ(^^ゞ
比叡山だって、清盛が生きてさえいれば、親密だったんだけれど、宗盛では相手にならないと思ったのでしょう。
資料@「玉葉」寿永二年七月二十五日条 寅の刻(御前4時頃)、人告げ云はく、法皇御逐電と云々。この事日ごろ万人の庶幾する所也。 ・・・・・・・ 昨は官軍と称して源氏等を追討せんと欲し、今は君に違背し、辺土を指して逃げ去る、盛衰の理、眼に満ち耳に満つ。 |
もう一つの資料は、これ書いた人も後でチェックになるのですが・・・
資料A「吉記(吉田経房の日記)」同日条 風聞に云はく、院密幸の由、辰の時(御前8時頃)に及びて前内府、聞く。 ・・・・・・ 主上、御乗車、御乳母二人、・・・建礼門院、八条殿等、別の車に駕し、轅を連ね、一族の人々、周章して馳せ出すず。 |
午前4時に法皇が逃げ出したというのに、朝の八時まで知らなかったなんて危機管理が悪すぎますよネェ(^^ゞ
まあ、↑の「平家」の本文読むと、平家一門はまさか、法皇が逃げ出すとは思ってもいなかった、―んでしょうか(^_^;
知盛さえ、後白河法皇が平家を捨てる、とは考えなかったのかなぁ?
しかし、安徳帝はこの期に及んでも、実母と同じ車ではないのねぇ〜(^_^;
まあ、壇ノ浦でも実母とではなく、おばあちゃんの二位の尼に連れられて入水するのですが・・・このへんですね、
みんなが建礼門院に疑いの目を向けるのは(^_^;
つまり、最後の時に安心して任せられない!!
まあ、江戸や明治の近世になっても、畏き辺りでは、「実母が抱き参らせる」ということはないようですし、
考えすぎかもしれませんが(^^ゞ
卯剋(午前6時頃)ばかりに、既に行幸のみこしよせたりければ、主上は今年六歳、いまだいといけなうましませば、なに心もなう召されけり。 国母建礼門院御同輿に参らせ給ふ。内侍所・神璽・宝剣わたし奉る。 ・・・・・・ あまりにあはてさわいで、とり落とす物ぞおほかりける。日の御座の御剣なンどもとり忘れさせ給ひけり。 |
なんか憐れですネェ・・・ものの哀れ、の哀れではなく、可哀想の憐れ、ねぇ・・・(^_^;
「主上は今年六歳――自分の意思を持つ以前に人生を決められてしまった。」と、これも憐れだなぁ・・・という感じです。
「天皇は車には乗ってはいけない、という決まりがあります。しかし、実際には車にも乗ったんですね。(資料A参照)」
明れば七月廿五日也。漢天既にひらきて、雲東嶺にたなびき、あけがたの月しろくさえて、鶏鳴又いそがはし。夢にだにかヽることは見ず。一とせ宮こうつりとて、俄かにあはたヽかりしは、かヽるべかりける先表とも、今こそ思ひ知られけれ。 |
「漢天はまだ天の川が掛かっている空、東嶺は東山のことです。あけがたの月、25日の細くなった月が、白く冴えている。
福原に都移りしたのは、この前触れであったのか・・・和漢混交文の美しさを感じるところです」と先生(^^)
そして
「当然平家についていかない人たちもいました」
摂政殿も行幸に供奉して御出なりけるが、七条大宮にて、びんづらゆひたる童子の、御車の前をつッとはしり通るを御覧ずれば、 彼童子の左の袂に、春の日といふ文字をぞあらはれたる。 春の日とかいては、かすがと読めば法相擁護の春日大明神、大織冠の御末をまもらせ給ひけりと、たのもしうおぼしめすところに、 件の童子の声と思して、 いかにせん藤のすゑ葉のかれゆくをたヾ春の日にまかせてや見ん |
読むだけで笑っちゃう(^^ゞ調子いいなぁ♪
この摂政殿というのは、例の徳子の妹が嫁いだ基実の息子の基通です。で、この基通がまた平家の娘寛子を娶っていたのです。
だから、まあ平家一門、ということなんですが、ここで見事に裏切ったね\(^^)/
この後がですね・・・
御供に候進藤左衛門尉高直、ちかふ召して、「倩(つらつら) 事のていを案ずるに、行幸はなれ共、御幸もならず。ゆく末たのもしからずおぼしめすはいかに」と仰ければ、御牛飼に目を見あはせたり。やがて心得て、御車をやりかへし、大宮のぼりにとぶが如くにつかまつる。北山の辺、知足院へ入らせ給ふ。 |
というわけで、逃げ足の速いこと、速いこと(^^ゞ
先生は「この話も、『延慶本』に別の形があって」と・・・
「延慶本」の攝政基通 御供に候ひける進藤左衛門大夫高範が、「法皇の御幸もならせ給はず、平家の人々も多く落ち留まらせ候ひぬ。此れより御還りあるべくや候ふらむ」と申したりたれば、「平家の思はむ所、いかがあるべかるらむ」と御気色有りけるを、知らず顔にて、やがて御車を仕る。御車の牛飼ひに、きと目を見合はせたりければ、七条朱雀より御車を遣り帰し、一ずはえ当てたりければ、究竟(くっきょう)の牛にてはありけり、飛ぶが如くにして朱雀を上がりに還御なりけり。 |
「つまり、『平家物語』の方では言い出したのは基通で、進藤高直に言って、牛飼いと目を合わす、
そうすると牛飼いが心得て牛を走らせた。
『延慶本』の方では進藤高範、名前が違いますが、同じ進藤で、この人が言い出して、
基通が逡巡している間に牛飼いと目を合わせて逃がしたんですね」
「『延慶本』というのは一番古い形態ですから、どうやら、こちらの方が事実らしい。そうすると、これは、仲国の話ではないか?」
(こないだ「小督」の話は、長生きした仲国が手柄話として遺した話、ということでしたねぇ♪)
「進藤高範という人の系図が分かりまして、父の為範(従五位下)、その息子に高範・安範・範時と三人いて、
代々摂関家の内舎人として仕えています。高範には利範という息子がいて、これが近衛殿下・内舎人・左衛門尉です。」
高範は内舎人で右衛門尉、安範が内舎人随身・左衛門尉で、これが基通に仕えています。
範時は松殿殿下内舎人、といいますから基房の内舎人だったんですねぇ。
「この一族の人々の死んだ日も分かっています。高範は1221年7月20日沒です。
承久の乱(1221年5月)を経験して、長生きしました。
『延慶本』は生存した者の手柄話だったんでしょう。
そして、「平家物語」の方は、
基通はもっと長生きして(1233年5月29日沒)自分に都合の良い話を考えた、ということです。」
はぁ〜ん(お口アングリ(@o@)です)
聞いて見なくちゃワッからないもんです(^_^;
2.「維盛都落」
―「巻七、維盛都落の事」より―
「維盛は重盛の長男ですが、既に父の重盛が亡くなって、平家の中心は宗盛に移っています」
「おまけに、維盛の妻は鹿ケ谷の成親の娘で、平家の中での居心地が悪くなっいる。その中での都落ちです。」
小松三位中将維盛は、日比よりおぼしめしまうられけられたりけれ共、さしあたッてはかなしかりけり。北の方と申は、故中御門新大納言成親卿の御むすめ也。桃顔露にほころび、紅粉眼に媚をなし、柳髪風にみだるヽよそほひ、又人あるべしとも見え給はず。六代御前とて、生年十になり給ふ若公、その妹八歳の姫君おはしけり。 |
維盛は平家の公達の中でも大変な美男子で、その妻ともラブラブの間柄でした。
「維盛25才、北の方23才、十年の結婚生活です。」
「誠に人は十三、われは十五より見そめ奉り」 |
と、後に出てきます。
資料E―イ
維盛北の方、新大納言の局――「たまきはる」 成親の大納言別当と言ひし女(むすめ)。この京極殿の腹なり。十二三にて召されて、二三年ぞさぶらはれし。御所近き局給はりて、限りなくもてなさせ給ひき。 |
「京極殿というのは、建春門院(平滋子)の侍女で、定家の姉です。」
「その二三年の間に、この時に維盛に逢ったんでしょう」
そうかぁ♪美男子維盛一目惚れの美女だったんだろうねぇ。「夫婦雛のような」という感じだったんだろうな♪
でも、これで、俊成と忠度の関係も単なる師匠と弟子というだけでないこともわかったのだわぁ♪
忠度は維盛が関東に征伐の総大将になった時も副将として後ろ盾になりますよね。
これは、やっぱり、時子腹の子供たちとは合わないところがあったのではないですかネェ・・・
まあ、目付け役、ということもあったかもしれないけどさ(^_^;
それよりは、小松殿の忘れ形見の維盛に対しての親近感があったのではないか、と思うのですね。
重盛の母は高階基章女で、つまり高階氏なのですね。
忠度も俊成との師弟の縁があるように歌詠みで文学者肌で、
そのへんから高階氏とは近しい思いがあったのではないかと思うのです。
少なくとも傍若無人の平時忠とはあまり合わないんじゃないかなぁ・・・と思うんですネェ(^_^;
で、まあ、その都落ちに及んでは、維盛の平家の中での浮いてる立場、ましてや妻は、鹿ケ谷の、となれば、
「日比申し様に、われは一門に具して西國の方へ落ちいくなり。いづくまでも具し奉るべけれ共、道にも敵待つなれば、心やすふ通らん事もあり難し。たとひわれ討たれたりと聞き給ふ共、さまなンどかへ給ふ事は、ゆめ\/有べからず。そのゆへは、いかならん人にも見えて、身もたすけ、おさなきもの共をもはぐヽみ給ふべし。情けをかくる人もなどかなかるべき。」 |
と言わねばならないのです(;_;)
それを聞く妻の立場は・・・辛いですよねえ(;_;)
北の方とかうの返事もし給はず、ひきかづきてぞ臥し給ふ。――中略―― 「・・・いかならん人にも見えよなンど承はるこそうらめしけれ。―中略―されば小夜の寝覚めのむつごとは、皆偽りになりにけり。―後略―」と、且はうらみ、且はしたひ給へば、 |
「妻にしたら辛い言葉です」
「且つはうらみ、且つはしたひ・・・愛しているからこそ恨むんですね」
アレレ・・・そうですか(^_^;
まあ、結婚十年ならそんなものか・・・愛していれば恨まない、恨みが伴う愛の形って、それは恋なんじゃないかなぁ(^_^;
恋は自分のための恋ですから、恨みもすれば歎きもするけど、愛まで昇華したときは、恨みも歎きも越えられるように思うのですが・・・。
「―前略―いづくの浦にも心やすう落ついたらば、それよりしてこそ迎に人こそたてまつらめ」とて思ひきってぞたたれける。 中門の廊に出て鎧とって着、馬ひきよせさせ既に乗らんとし給へば、若公・姫君はしり出でて、父の鎧の袖、草摺に取り付き、 「是はさればいづちへとてわたらせ給ふぞ。われも参らん、我もゆかん」とめん\/にしたひなき給ふにぞ、憂き世のきづなとおぼえて、三位中将いとヾせんかたなげには見えられける。 |
平家都を落行くに、六波羅・池殿・小松殿・八条・西八條以下、一門の卿相雲客の家〃、廿余ヶ所、付〃の輩の宿所\/、京白河に四五万の在家、一度に火をかけて、皆焼き払ふ。 |
で、まあ、そこで先生ニンマリして、
「しかし、維盛の北の方は、再婚します。資料Eーロをみてください」
へぇ〜♪そこで、さっきの「吉記」の著者、吉田経房氏のご登場!!
吉田経房建立の浄蓮華院落慶供養参列者 正治元年(1189)十二月二十四日・・・皇太后大夫(成経、女房兄也)・・・持明院三位(基宗、女房内々所縁あるか) |
「経房が、京都の吉田山に寺を造った。その落慶法要の時、再婚した女房、つまり維盛の妻です、その関係者を呼んだ記録です。」
ナント!成経も皇太后大夫ですって!!
はぁ・・・「情けをかくる人もなどかなかるべき。」ってことですかぁ・・・?
で、まだ後に資料ありました。
資料Eーハ
経房の土地処分状 近江国湯次(ゆすき)庄・・・この所当の中、百石、女房に沙汰し与ふべきの由、契状、先に了ぬ。 伊勢国和田庄・・・此の中、名田三町に於いては年来、女房知行す。少分の事たりと雖も、相違あるべからず。 |
フーム、愛されてましたネェ(*^-^*)
えっ!お金は愛よ♪財産分与は愛の形です(^^)v
で、先生
「経房というのは、優しい人、情けをかけた人でした。
維盛が再婚しなさい、と言った先ほどの話は事実に基づいた話だったんですね。
当時の人はそれを知っていて『平家物語』の中に取り入れたんです」
フーム、そうですか・・・そういうものなんだねぇ・・・(^_^;
ま、そのぅ、美人は得だ!と私は思うぞ!!
え?そういう話じゃないのm(__)m
十二の年、父の朝臣失わせ給ひしかば、孤(みなしご)にておはせしかども、次第の昇進滞らず―中略―人をば越え給へと人には越えられ給はず。されば人の善悪は、錐、袋を徹す、とて隠れなし。ありがたかりし大納言也。 |
去治承四年七月、大番のために上洛したりける畠山庄司重能・小山田別当有重・宇都宮左衛門朝綱、、寿永まで召し込められたりしが、其時既にきらるべかりしを、新中納言知盛卿申されけるは、「御運だに尽きさせ給ひなば、これら百人、千人が頸をきらせ給ひたり共、世をとらせ給はん事難かるべし。故郷には、妻子・所従等いかに歎きかなしみ候らん。若不思議に運命ひらけて、又宮古へたちかへらせ給はん時は、ありがたき御情でこそ候はんずれ。たヾ理をまげて本国へ返し遣さるべうや候らむ」 |
薩摩守忠教は、いづくよりやかへられたりけん、侍五騎、童一人、我身ともに七騎取って返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、、門戸を閉じて開かず。「忠教」と名乗り給へば「おちうと帰り来たり」とて、その内さわぎあへり。薩摩守馬より降り、みづからたからかにの給ひけるは、―中略―俊成卿「さる事あらん。その人ならばくるしかるまじ。入れ申せ」とて門をあけて対面あり。 ・・・・・・・・・ 「前略―君既に都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ぬ。撰集のあるべき由承候しかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候しに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰無く候条、たヾ一身の歎きと存る候。世しづまり候なば、勅撰のご沙汰候はんずらむ。是に候巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙って、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御まもりでこそ候はんずれ」とて、日此読をかれたる歌共のなかに秀歌とおぼしきを百余首書きあつめられたる巻物を――後略 |
「今は西海の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮世に思ひをく事候はず」 と、て馬に打ち乗り、甲の緒を締め西をそいてぞあゆませ給ふ。 |
「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳す」とたからかに口ずさみ給へば、俊成卿いとヾ名残惜しうおぼえて、涙を抑えてぞ入り給ふ。 |
新勅撰和歌集・・・・たのめつゝ こぬ夜つもりの うらみても まつより外の なくさめそなき 玉葉和歌集・・・・・・われのみや いふへかりける 別路は 行もとまるも おなし思ひを うらみかね そむきはてなんと 思ふにそ うき世につらき 人も嬉しき いとはるゝ かたこそあらめ 今更に よそのなさけは かはらさらなん なからへは さりともと思ふ 心こそ うきにつけつゝ よはりはてぬれ 続後拾遺和歌集・・・住吉の 松としらすや 子規 岸うつ浪の よるもなかなん 風雅和歌集・・・・・・・あれにける 宿とて月は かはらねと むかしの影は 猶そ床しき おり立て 頼むとなれは 飛鳥川 ふちも瀬になる 物とこそきけ 新拾遺和歌集・・・・・恋しなん 後の世まての 思出は しのふこゝろの かよふはかりか うき世をは なけきなからも 過しきて 恋に我身や たへす成なん |
修理大夫経盛の子息、皇后宮の亮経正、幼少にては仁和寺の御室の御所に童形にて候はれしかば、かヽるそう劇の中にも、その御名残きっと思ひ出でて侍五六騎召し具して、仁和寺殿へ馳せ参り、門前にて馬より降り、申し入れられけるは、 「一門運尽きて、けふ既に帝都を罷り出で候。浮き世に思ひ残す事とては、たヾ君のお名残ばかり也。―中略―今一度御前へ参って君をも見参らせたふ候へども、既に甲冑をよろひ、弓箭を帯し、あらぬさまなるよそほひに罷り成って候へば、憚存候」 |
男色は「摂関時代」と比較して「院政時代」の政治史の特徴というべきほど、当時の宮廷全体に広がり政治史の重要な面を成したとさえ言われている。(保立道久著「平安王朝」) |
御室、哀れにおぼしめし、「たヾ其のすがたを改めずして参れ」とこそ仰せけれ。 |
「先年下しあづかって候し青山、持たせ参って候。あまりに名残は惜しう候へども、さしもの名物を田舎の塵になさん事、口惜しう候。 若不思議に運命ひらけて、又都へ立ち帰る事候はば、其時こそ、猶下しあづかり候はめ」と泣く泣く申されければ、 |
さて、いとま申て出でられけるに、数輩の童形・出世者・坊官・侍僧に至るまで、経正の袂にすがり、袖をひかへて、名残を惜しみ、涙を流さぬはなかりけり。 |
あはれなり 老木わか木も山さくら をくれさきだち 花はのこらじ 経正の返事には、 旅ごろも 夜な\/袖をかたしきて おもへばわれは とをくゆきなん さて巻いて持たせられたる赤旗、「あはや」とて馳せあつまり、その勢百騎ばかり、鞭をあげ、コマをはやめて、程なく行幸におっつき奉る。 |
池の大納言頼盛卿も、池殿に火をかけられて出でられけるが、鳥羽の南の門にひかへつヽ、「忘れたる事あり」とて、赤じるし切捨て、其の勢三百余騎都へとってかへされけり。 |
其時新中納言(知盛)、涙をはらはらと流いて、「都を出でてまだ一日も過ぎざるに、いつしか人の心共の変りゆくうたてさよ。さても行くすゑとてもさこそはあらんずらめと思ひしかば、都のうちでいかにもならんと申しつるものを」とて、大臣殿の御かたをうらめしげにこそ見給ひけれ。 |
「木曾既に北国より五万余騎で攻めのぼり、比叡山東坂本にみち\/たんなり。此夜半ばかり法皇もわたらせ給はず、おの\/が身ばかりならばいかヾせん、女院・二位殿に目の当たり憂き目を見せまいらせんも心ぐるしければ、行幸をもなしまいらせ、ひと\゛/をもひき具し奉りて、一まどもやと思ふぞかし」と仰せられければ、 |
「さ候はば、貞能はいとま給はって、都でいかにもなり候はん」とて、召し具したる五百余騎の勢をば小松殿の君達(この時は追いついていた)につけ奉り、手勢三十騎ばかりで都へひっかへす。 |
「あなあさまし、ご一門をご覧候へ。生あるものは必ず滅す。楽尽きて悲み来ると、いにしへより書をきたる事にて候へども、まのあたりかヽる憂き事候はず。君はかやうの事をまづさとらせ給ひて、兼て仏神・三宝に御祈誓あって、御世をはやうさせまし\/けるにこそ。ありがたうこそおぼへ候へ。其の時貞能も最後の御共仕るべう候けるものを、かひなき命を生きて、今はかヽる憂き目にあひ候。死期の時は必ず一仏土へむかへさせ給へ。」 |
重盛の、運命の預言者としての特殊な能力については、『平家物語』における運命の諸問題とともに、石母田正『平家物語』(岩波書店、昭32)に、あざやかに分析されている。重盛は一門衰亡の運命を予見するとともに、いかにしてこの運命を回避するかに努力を集中し、行動した人物であった。 ―中略― 『平家物語』の構造において、運命は因果応報と不可分に結びついているのである。重盛はこの因果応報観にたって、運命の力を押しとどめるべく、清盛の悪行を抑止することに心を砕くのであるが、ついにかなわぬことを自覚して、熊野に詣でて我が命をつづめる事を祈願し、ついに世を去っていく。 |
さる程に、小松殿の君達は、三位中将維盛卿をはじめ奉りて、兄弟六人其勢千騎ばかりにて、淀の六田河原にて行幸に追っつき奉る。大臣殿待ち受け奉り、うれしげにて、「いかにや、今まで」との給へば、三位中将、「おさなき者共があまりにしたひ候を、とかうこしらへをかんと遅参仕候ぬ」と申されければ、大臣殿、「などや心づよふ六代殿をば具し奉給はぬぞ」と仰せられければ、維盛卿、「行すゑとてもたのもしうも候はぬぞ」とて、とふにつらさのなみだを流されけるこそかなしけれ。 |
抑(そもそも)池殿のとヾまり給ふ事をいかにと言ふに、兵衛佐、常は頼盛に情けをかけて、「御かたをばまったくをろかに思ひまいらせ候はず。たヾ故池殿のわたらせ給ふとこそ存候へ。八幡大菩薩も御照罰候へ」なンど、度〃誓状をもって申されける上、平家追討のために討手の使ののぼる度ごとに、「相構えて、池殿の侍共にむかって、弓ひくな」なンど情をかくれば、「一門の平家は運尽き、既に都を落ちぬ。今は兵衛佐にたすけられんずるにこそ」との給ふに、都へかへられけるとぞ聞こえし。 |
「今生の望は、一事も思ひ置く事なし。たヾ思ひ置く事とては、兵衛佐頼朝が頭を見ざりつる事こそ、何よりも又本意なけれ。われいかにもなりなん後、仏事孝養もすべからず。堂塔をも立つべからず。急ぎ討手を下し頼朝が頭を刎ねて、わが墓の前にかくべし。それが今生の孝養にてあらんずるぞ」 (巻六、五。入道逝去) |
「今は世が世であらばこそ」と、よに頼もしげなうぞ仰せける。兵衛佐ばかりこそは芳心を存ずといえども、自余の源氏等はいかヾあらんずらん。 |
「行幸には遅れぬ、敵は後ろに有り。中空になる心地のするは。いかに殿原、此の度はなどやらむ物憂きぞとよ。只、是より京へ帰らむと思ふ也。すべて弓矢取る身のうらやましくも無きぞ。されば故入道も随ふ様にてはざりき。・・・返す返すも人は世に有ればとて驕りまじかりける事かな。入道の末、今ばかりにこそあむなれ。いかにもいかにもはかばかしかるまじ。・・・」―― (八条女院の言)「・・・かしこくぞ故入道と一つ心にておはせざりつる。今は人目もよし。平家の名残とて世におはしなむず」 |
落ち行く平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公・平大納言時忠・平中納言教盛・新中納言知盛・修理大夫経盛・右衛門督清宗・本三位中将重衡・小松三位中将維盛・新三位中将資盛・越前三位通盛、殿上人には・・・中略、侍には・・・中略、都合其勢七千余騎、是は東國・北国、度々のいくさに、此二三ヶ年が間、討ちもらされて、わずかに残るところ也。山崎関戸の院に、玉の御輿をかきすえて、男山を伏し拝み、平大納言時忠卿、「南無帰命頂礼八万大菩薩、君をはじめまいらせて、我等都へ帰し入れさせ給へ」と祈られけるこそかなしけれ。おの\/うしろをかへり見給へば、かすめる空の心ちして、煙のみ心細く立ち上る。平中納言教盛卿、 はかなしなぬしは雲井にわかるれば跡はけぶりとたちのぼるかな 修理大夫経盛 ふるさとをやけ野の原にかへりみてすゑもけぶりのなみぢをぞゆく |
福原の旧里に一夜をこそあかされけれ。折節秋のはじめの月は、しもの弓はりなり。深更空夜閑(しずか)にして、旅ねの床の草枕、露も涙も争ひて、たゞ物のみぞかなしき。 |
すべて目に見え、耳にふるヽ事、一つとして哀をもよほし、心をいたましめずといふ事なし。昨日は東関の麓にくつばみを並べて十万余騎、今日は西海の浪に纜をとい七千余人、雲海沈々として、青天既に暮れなんとす。 |
極浦の浪をわけ、塩にひかれて行舟は、半天の雲にさかのぼる。 |
寿永二年七月廿五日に平家都を落ちはてぬ。 |