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12月13日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 10月12日〜10月16日

なんだか、年中休んでばかりの一年でしたm(__)m
年明けからメニエル氏病の発作で休んで、先月も・・・今月もなんだか体調よくなくて心配していたのですが、今日は大丈夫でした(^^)
でも、やはり疲れ方が違うのよね・・・(;_;)
でも、とにかく実際にご講義を受けられたのはよかつた\(^^)/


。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

本日配布の資料
これがですね、頼朝の御教書・下し文など・・・古文書解読講座特別編みたいなのです(^^ゞ
2月にあるんですよ〜行きたいんだけど・・・大船だし・・・もう古文書久しく読んでなくて、源氏の中院文庫なんてのは達筆なのでけっこう読めるけど、鎌倉辺りはネェ・・・それに今度は女性の文書もあるというお話で・・・心はぐらぐら(^_^;
でもなぁ・・・2月8日は旅行で完全に駄目!15日はたぶん源氏と吾妻鏡の中間で駄目・・・とすると三回しか出られないのです・・・(^_^;
申し込みは1月11日から21日なので・・・考え中!!

○十三日壬辰。木曾冠者義仲尋亡父義賢主之芳躅。出信濃國。入上野國。仍住人等漸和順之間。爲俊綱<足利太郎也>雖煩民間。不可成恐怖思之由。加下知<云々>又甲斐國源氏并北條殿父子赴駿河國。今日暮兮止宿大石驛<云々>。戌尅。駿河目代以長田入道之計。廻冨士野襲來之由有其告。仍相逢途中可遂合戰之旨群議。武田太郎信義。次郎忠頼。三郎兼頼。兵衛尉有義。安田三郎義定。逸見冠者光長。河内五郎義長。伊澤五郎信光等。越冨士北麓若彦路。爰加藤太光員。同藤次景廉。石橋合戰以後。逃去于甲斐國方。而今相具此人。到駿州<云々>。


10月13日 壬辰 (じんしん)
――木曾の冠者義仲、亡父義賢主(よしかたぬし)の芳躅(ほうちょく)を尋ね、信濃の国を出て上野の国に入る。・・・「芳躅(ほうちょく)を尋ね」は故人の事跡を尋ねる。(義賢って、關白の藤原忠実の寵童ですよね(^^ゞ・・・筆者の呟き
――仍って、住人等漸く和順するの間、俊綱<足利の太郎>の為に民間を煩わすと雖も、恐怖の思い成すべからざるの由、下知を加うと<云々>。・・・俊綱<足利の太郎>は藤原氏系の足利。源氏が関東に入る前に勢力を持っていた。為義から上野国大胡(群馬県南西部)を譲られていた。住民たちが、義仲を頼るようになった、ということ。→従来、足利太郎が民間を煩わせ恐れさせていたが、そういう心配をしなくていい、といった。
――又、甲斐の國の源氏并びに北條殿父子は、駿河の國に赴き、今日暮れて大石の驛に止宿すと<云々>。・・・「北條殿父子」は時政と義時。既に長男宗時は石橋山で戦死しています。
――戌の尅、駿河目代、長田の入道の計を以て、富士野を廻り襲来するの由、その告げ有り。・・・「戌の尅」は午後八時頃。「目代」は国司の代官、現地で土地を管理している。遠茂は橘遠茂で既出(8/15、10/1、10/18)。「長田の入道」は長田忠致で、義朝をだまし討ちにした。これも既出(8/9)。
――仍って途中に相逢い、合戦を遂ぐべきの旨群議す。
――武田の太郎信義・<一条>次郎忠頼・三郎兼頼・兵衛の尉有義・安田の三郎義定・逸見(へみ)の冠者光長・河内の五郎義長・伊澤の五郎信光等、富士の北麓、若彦路(わかひこじ)を越ゆ。・・・「武田の太郎信義」・・・甲斐源氏が中心となって(資料P9甲斐源氏の分布図)
――爰に加藤太光員(かとうた・みつかず)・同藤次景廉(かげかど)、石橋合戦以後、甲斐の國の方に逃がれ去る。
――而るに今この人々を相具し駿州に至ると<云々>。 ・・・加藤兄弟は石橋山の戦い以後甲斐に逃げ込んでいたが、彼らと一緒に行動した。

○十四日癸巳。午尅。武田安田人々。經神野并春田路。到鉢田邉。駿河目代率多勢。赴甲州之處。不意相逢于此所。境連山峯。道峙磐石之間。不得進於前。不得退於後。而信光主相具景廉等。進先登。兵法勵力攻戰。遠茂[斬の下に足]時雖廻防禦之搆。遂長田入道子息二人梟首。遠茂爲囚人。從軍舎壽被疵者。不知其員。列後之輩不能發矢。悉以逃亡。酉尅梟彼頸於冨士野傍伊堤之邊<云々>。

――10月14日 癸巳(きし)
――午の剋、武田・安田の人々、并びに春田路(はるたじ)を經て、鉢田の邊に到る。・・・「神野(じんの)」は富士の西の裾、「春田」は「原田」とも言う。
――駿河の目代は多勢を率いて、甲州に赴くの處、不意(こころならずも)、此の所に相逢う。・・・「不意(こころならずも)」下に下りる前に出会ってしまった!!
――境は山峰に連なり、道は磐石に峙つ(そばだつ)の間、前に進むを得ず、後に退ぞくを得ず。
――而るに信光主(のぶみつぬし)、景廉等を相具し先登に進む。・・・「主(ぬし)」は源氏に対する尊称で、信光にはここからつけている?
――兵法力を勵し(いたし)攻戦す。・・・(筆者の疑問「勵」は「励」の旧字体で「励まし」じゃないのかな、でも「いたし」と聞こえました(^^ゞ)
――遠茂は暫時防禦の搆え(構え)を廻らすと雖も、遂に長田の入道の子息二人を梟首し、遠茂を囚人と爲す。
――従軍は壽(いのち)を舎て(捨て)、疵を被る者、其の員(かず)を知らず。
――列後の輩、矢を発つに能わず。悉く以て逃亡す。
――酉の刻剋、彼の頸を富士野の傍、伊提(いで)の邊りに梟すと<云々>。 ・・・「うきしま村」という所に「伊堤(いで)」の地名が残る。そこか?

○十五日甲午。武衛始入御鎌倉御亭。此間爲景義奉行所令修理也。

――10月15日 甲午(こうご)
――武衛始めて鎌倉の御亭に入御す。
――此の間、景義奉行として、修理せしむる所なり。・・・10/9大庭景義が奉行となって造営していたが、間に合わず、山之内の兼通の邸に入っていた。

○十六日乙未。爲武衛御願。於鶴岡若宮。被始長日勤行。所謂法華。仁王。最勝王等鎮護國家三部妙典。其外大般若經。觀世音經。藥師經。壽命經等也。供僧奉仕之。以相摸國桑原郷爲御供料所。又今日令進發駿河國給。平氏大將軍小松少將惟盛朝臣率數萬騎。去十三日到著于駿河國手越驛之由。依有其告也。今夜至于相摸國府六所宮給。於此所。被奉寄當國早河庄於箱根權現。其御下文。相副御自筆御消息。差雜色鶴太郎。被遣別當行實之許。御書之趣。存忠節之由。前々知食之間。敢無踈簡之儀。殊以可疑丹祈之由也。御下文云。
  奉寄 筥根權現御神領事
    相摸國早河本庄
     爲 筥根別當沙汰。早可被知行也。
  右。件「於」御庄者。爲前兵衛佐源頼ー沙汰。所寄進也。全以不可有其妨。仍爲後日沙汰。注文書。以申。
         治承四年十月十六日

――10月16日 乙未(いつび)
――武衛の御願として、鶴岡若宮に於いて、長日(ちょうじつ)の勤行を始めらる。・・・「鶴岡若宮」は新宮若宮
――所謂(いわゆる)、法華・仁王・最勝王等、鎮護國家三部妙典、その他大般若經・觀世音經・薬師經・壽命經等なり。・・・「鎮護國家三部經」というのは法華経・仁王經・金光明最勝王經の三点。
――供僧(ぐそう)これを奉仕す。
――相模の国桑原郷を以て御供料所と為す。・・・本日の資料
――又、今日駿河の国に進發せしめ給ふ。
――平氏の大将軍は小松の少將惟盛朝臣、數万騎を率いて、去んぬる十三日、駿河の國手越の驛に到着するの由、その告げ有るに依ってなり。・・・「小松の少將惟盛」は清盛の嫡孫、六代御前(明覚)の父。「手越の驛」は安倍川の西岸。
――今夜相模の国府六所宮に至り給ふ。・・・「国府」は県庁所在地。相模國は転々とした。小田原→海老名→大磯。それぞれに「国府」の地名が残る。「六所宮」というのは国司が赴任してくるとまず参拝するのが一之宮だが、そこから二宮・三宮・・・と六宮まで回らねばならない。それでは、国司の仕事に差し障るので一箇所に纏めて参拝して事を済まそうとする。そこで「六所宮」という「総社」ができる。
相模一之宮――寒川神社、二宮――川和神社、三宮――吉備田神社、四之宮――前酉(さきとり)神社、五之宮――平塚八幡宮、六之宮―― 、武蔵國六所宮――大国魂神社(府中――国府の中心、と言う意味)
――此の処に於いて、當国早河庄を箱根権現に寄奉らるる。・・・「権現」とは、日本はもともと神道だが、それは、仏様が仮に神の姿をして現れた、と言う事にする。
――其の御下文に、御自筆の御消息を相副えて、雑色鶴太郎を差し、別當行實の許に遣わさる。・・・「御自筆の御消息を相副え」という。「御下文」は自筆ではないのか?
――御書の趣は、忠節を存ずるの由、前々(さきざき)知食す(しろしめす)の間、敢えて疎簡の儀無く、殊に以て丹祈を凝らすべきの由なり。・・・「疎簡の儀無く」は簡単な手紙ではなく、という否定で“粗末にしないよ”と言う意味になる。「丹祈を凝らす」丹精を込めた祈祷を図って欲しい、そのために早川の土地を差し上げます、と言う事になる。
――御下文に云く、
――寄せ奉る 筥根権現御神領の事
――相模の国早河本庄・・・「早河本庄」は吾妻鏡初出。・・・「早河庄」は小田原市内の酒匂川の西側一帯ではないか。相模の国内で一番早く書見される荘園である(1095―嘉保2年)。文治4年(1188)6月4日の吾妻鑑に後白河法皇から「早河庄から年貢を取れ、という命令が来た、という記事がある。頼朝の乳母、摩間の局が平治の乱以後、京都から来てここに住む(養和元年(1181))。文治3年(1183)6月、湯河原の土肥實平の子遠平が管理。遠平は後に安芸の國の国司となり小早川氏の祖となる。
――筥根別当の沙汰として、早く知行せらるべきなり
――右、件の御庄に於いては、前の兵衛の佐源頼朝の沙汰として、寄進する所なり。全く以て、其の妨げ有るべからず。仍って後日の沙汰爲して、文書を注し以て申す。
        治承四年十月十六日


資料は「関東御教書」「鎌倉御所<足利氏満>御教書」「神護寺文書」「奉寄 相模國鎌倉郡内鶴岳八幡新宮若宮」などの古文書頂きました。古文書を読む、というのは歴史の勉強の中で大変大きなウェートを占めます。
「袖判」「奥判」の位置や意味、花押など大事ですが・・・難しいです(^_^;
私も、古典継色紙の中に古文書解読講座を乗っけてますが・・・途中で挫折したのです!!もう、面倒なんだもの(^_^;
勉強するのは楽しいですけど、こういうところにアップするには難しいですねぇ(^^ゞまあ、いつかはやりたいと思ってますが、もう読めなくなっている、と思います(^_^;

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

今月は余り進まなかったのに、更新が遅れたのは「平家物語」にかかずらわってしまったからです(^_^;
いやぁ・・・ちょっと浮気浮気(^_^;
だって仕方ないですよ・・・忠度都落だもの(^^ゞ
来月は早めに纏めますm(__)m

来月は来年です・・・来年の事言うと鬼が笑います♪
あ、お正月はお菓子を頂けるそうで、去年行けなかった分、期待度百万\(^^)/


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