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12月16日(木)
「平家物語」転読

先生の前説・・・もう、それだけで「平家物語」の世界、どっぷり♪


第四回・「戦いの現実」―― 一の谷合戦の酷

九州に落ち延びた平家!
意外に人が集まってくるんですね。
二度の戦いに勝って、平家再興の夢が出てくる。

一方、都の義仲は、七月に入京していましたが、政治も執れない、侍の統率も執れない。
頼朝からも、文覚を都に派遣して義仲を叱る。
法住寺合戦というのが後白河法皇と義仲の間であった。
当然、義仲のほうが圧勝します。
後白河法皇なんて、戦などしたこと無いんですから。
その時、天台座主の明雲や大勢の公卿が殺されてしまった。

ついに、頼朝が決断をします。義経・範頼を都に上らせる。
そして、1月20日に義仲戦死、2月7日一の谷・・・となります。

1.「三草勢揃」

―「巻九、7.三草勢揃への事」より―

正月廿九日、範頼・義経院参して、平家追討のために、西國へ発向すべきよし奏聞しけるに、「本朝には、神代よりつたはれる三つの御宝あり。内侍所・神璽・宝剣これ也。相構えて、事ゆへなくかへしたてまつれ」と仰下さる。

ついに義経が都を発ちます。
内侍所というのは、御神鏡でしょうね・・・昔から内侍所が預かって、天皇行幸の際には常に持ち歩く、と言う事でしたから。
それにしたって、勝手なもんだわ(^_^;<後白河!!

同二月四日、福原には、故入道相国の忌日とて、仏事かたのごとくおこなはる。
・・・・
其次でに、叙位・除目おこなはれて、僧も俗もみなつかさなされけり。門脇の中納言、正二位大納言になりたまふべきよし大臣殿よりの給ひければ、教盛卿、
けふまでも あればあるかのわが身かは 夢のうちにもゆめを見るかな
と御返事申させ給ひて、つゐに大納言にもなりたまはず。

「(平家としては)帝は平家にいる、という考え方をしている」と先生。
「(でも大方の平家の一族でさえ)帝はこちらにいるけれど、本当にここは朝廷か?という批判がある」
「(教盛の歌も)今日までの自分も、今在るかどうかわかりはしない」

そうか・・・もうこの辺では、平家内部ではかなり負け戦として死ぬ覚悟をしていた人々が多かったのですネェ。
で、今回の資料の系図で分かったのですが、教盛のお母さんてあの家隆の娘なの?ビックリした!!
本当にあの家隆?って感じですがそうらしい(^_^;
さすがの歌詠みではありますね・・・「けふまでも」の歌m(__)m
でも、其の息子が、あの能登の守教経というのもおかしい・・・まあ文武両道に秀でた家系だったんですねぇ(^_^;
そういえば、忠度だって文武両道だわ\(^^)/

さる程に、源氏は、四日よすべかりしが故入道の忌日と聞いて、仏事をとげさせんがためによせず。五日は西ふさがり。六日は道忌日、七日の卯尅に一の谷の東西の木戸口にて、源平矢合とこそ定めけれ。さりながらも四日は吉日なればとて、大手・搦手の大将軍、軍兵二手にわかッてみやこをたつ。

「ねぇ、四日は清盛の忌日で仕掛けられない五日は西の方角が悪いから駄目、
道忌日は旅立ちを忌む日です。だから六日も駄目。やっと七日に戦ということを決めた。しかし、そうのんびりもしてられなくて、軍は四日が吉日だと出発だけはします。」と先生。
「平治の乱の時は、信西は今日は忌み日だから戦は無い、と油断していたら突然攻め込まれて殺されてしまったんですよね」
と更に付け加えて、先生。

という意味は、つまり、この時源氏は余裕綽綽・・・敵に情けを書ける立場になっていた、と言う意味でしょうか?
先の平家内部の負け戦の予感といい、もうこの時既に勝敗は決していたのですよね(^_^;
ただ、現実的な滅亡ということを突きつけなければ、時代が変わらなかった、という事なのでしょうね。

ちょつと飛んで・・・
豊臣家を残す方向はいくらでもあったのに、家康が関が原で徹底的に豊臣家を滅亡させてしまう、そういうことだったのですね。
明治政府だって、徳川を完膚なきまでに叩いて、本当は滅亡まで持っていきたかったんだろうな・・・・。
ただ、あの時は、外国の干渉が既にあって、それに対抗するために徳川家を滅亡させる余裕が無かったのですね。
そこで、「西南戦争」を起こさて、徳川家ではないけれど、徳川家の名残の武力(武士階級)を壊滅させたのじゃないか、
と、シロトのおばさんは考える(^^ゞ
しかも、徳川の下級武士(で明治政府に従っていた人たち)を使ってさ〜(^_^;
破壊の無い所には建設はできないのね・・・時代というものは・・・虚しいのぅ(;_;)

大手の大将軍は、蒲御曹子範頼、相伴人々、武田太郎信義・・・都合其勢五万余騎、――中略――
搦手の大将軍は、九郎御曹子義経、同じく伴う人々・・・都合其の勢一万余騎、同日の同時に宮こをたって、丹波路にかかり、
二日路を一日にうって、播磨と丹波のさかひなる三草の山の東の山ぐち、小野原にこそつきにけれ。

という文があり、
「平氏は、其の時十万と言われた」と先生。
なるほど集まってる♪でも豊臣の牢人だって、最初は大変な数だったのよね〜、やはり質ですよね・・・軍兵の。

で、資料の「源平布陣図」を見ます。
これの載っているサイトを探したのですが、ないんですねぇ・・・これが(^_^;致し方ない・・・そのうち画きます、手で(^_^;
って何時だ〜?
(これ探している時に、またも凄いサイト発見♪下に書いておきますm(__)m)

「二日路を一日にうって、ってそんなに早く動けたんですかね。五万の軍隊が」と先生。




2.「一二之懸」

―「巻九、9.二の駆けの事」―

「ここは、抜け駆けの功名争いの所です」

六日の夜半ばかりまでは、熊谷・平山搦手にぞ候ひける。熊谷次郎子息の小次郎をようで言ひけるは、「この手は悪所を落さんずる時に、誰さきといふ事もあるまじ。いざうれ、これより土肥がうけ給ッてむかふたる播磨路へむかうて一の谷のまっさきかけう」

というのは熊谷次郎、相方の平山氏の様子を偵察に行かせると

案の如く、平山は熊谷より先に出で立って、「人をば知らず、季重におゐては、ひっとひきもひくまじひ物を」とひとりごとをぞしゐたりける。下人が馬をかうとて、「にっくい馬のながぐらゐかな」とてうちければ、「かうなせそ、其の馬の名残もこよひばかりぞ」とてうったちけり。

「(一の谷)七日の決戦の前日です。熊谷は熊谷氏、平山は今の日野市。搦手というのは義経三千騎“坂落”グループです。」
「平山の方でも、明日の戦の先駆けを狙っている。」
「馬が飼葉を何時までもたべている、と下人が怒ると、今夜ぐらいしかゆっくり食べられない、というんです。明日はわからない――死があるかもしれない」
「これを聞いて、熊谷は今夜のうちにさ抜け駆けしよう、と陣中を出ます」

そして、

一谷ちかく塩屋といふ所に、いまだ夜ふかヽりければ、土肥二郎實平七千余騎でひかへたり。熊谷は浪うちぎはより夜にまぎれて、そこをつっとうちとをり、一谷の西の木戸口にぞをしよせたる。

「――と、味方を二度にわたって出し抜いて功名を得ようとする」と、先生。

この後の「敦盛最後」のところで先生からも教えていただく事ですが、熊谷にしても平山にしても、その土地の土豪ではあっても、
「未だ官職に付いた事のない牢人」なんですよね。
だから、手柄を立てて名を上げる、と言う事は、某かの官職につくきっかけになるんじやないか、ということですね。
この源平の戦いにしても、近世近くなっての関が原の戦いにしても、
こういう「一旗挙げよう組」なくしては戦が成り立たないのですね(^^)

いまだ夜ふかヽりければ、敵の方にもしづまりかへっておともせず、御方一騎もつヾかず。熊谷二郎、子息の小二郎をようで言ひけるは、「我も\/と先に心をかけたる人〃はおほかるらん。心せばう直実ばかりとは思ふべからず。すでによせたれども、いまだ夜のあくるを相待て、此辺にもひかへたるらん。いざ名のらう。」どて、かいだてのきはにあゆませより、大音声をあげて「武蔵國住人、熊谷次郎直実、子息の小二郎直家、一谷先陣ぞや」とぞ名のったる。平家の方には、「よし、をとなせそ。敵に馬の足をつからかさせよ。矢だねを射つくさせよ」とて、あひしらふものもなかりけり。

ここで、名乗りを上げます。あまりに潜行しすぎて、その間に、「我も\/と先に心をかけたる人〃はおほかるらん」という味方の他の武将に出し抜かれてはならないからです(^_^;
「了見狭く、自分たちばかりが一番手柄を狙っていると思っては駄目だ、と言うんです。」と先生。
「(名乗りは)味方に知らせるために名乗るんです」
あ、そうか(^^ゞ敵に対するデモンストレーションではないのですね・・・味方に対するデモンストレーションなんだ♪
まして、この際は平家の方では「よし、をとなせそ・・・あひしらふものもなかりけり、
馬鹿なことをしていると思われる。相手にしていない」そうです。

このへんは、やはり成熟した文化人の平家と、発展途上の源氏というか関東武者の違いなんでしょうね。
良くも悪くも一歩ひいて眺めてしまう平家の貴族趣味と、猪突猛進に進む事だけを考える関東武者と。
それがそのまま戦の勢いになっていく・・・時の流れという残酷さ!
平家だって、創世記には我武者羅に突き進んでいったはずですものね。
それが成熟していく過程で猪突猛進がどんどん精製されて貴族趣味になって行って、今、ここに至るわけですからねぇ(^_^;




3.「二度之懸」

―「巻九、10.二度の駆けの事」―

今度はもっと下級の武士の話です。
河原太郎・次郎という兄弟が
「大名は、我と手をおろさねども、家人の功名をもって名誉す。われらは、みづから手ををろさずはかなひがたし。」と、
兄弟ふたりで、大声で名乗りを上げて平家の陣に乗り込むのですね。
ここでいう「大名とは、自分の名前をつけた名田をたくさん持っている者、土肥・梶原など」ということです。

これには平家もあきれ返るのです。
「是程の大勢の中へ、たヾふたり入ったらば、何ほどの事をかしい出すべき。よし\/、しばしあひせよ」
と、様子見をしているのですが、それでは平家方にも被害が出ます。
そこで西國に聞こえたるつよ弓という真名辺五郎という武士に射させます。
当然過つことなく、二人ともに射殺されます。
その二人の首を新中納言(知盛ですね)に見せると、
「あっぱれ剛の者かな・・・あったら者どもを、たすけてみで」と言うのですよ(^_^;
ここは、知盛の器量の大きい所を書いたつもりなんでしょうけれど、やはり、末路を知る者としては、
そんな暢気な事言ってるから、滅亡しちゃうんじゃない!!と言いたくなるわけで・・・(^_^;

「恩賞をもらうためには自分で命をかけねばならない下級武士(の憐れさ)」ということをおっしゃってました。



4.「坂落」

―「巻九、11.坂落としの事」

さあ、ここが有名な「坂落とし」です♪
御曹司、城郭はるかに見わたいておはしけるが、「馬ども落いてみむ」とて、鞍をき馬を追落す。或いは足をうちおってころんで落つ。或は相違なく落ちてゆくもあり。・・・「馬どもは、ぬし\/が心得て落さうには損ずまじぞ。くは落とせ。義経を手本にせよ。」とて、まづ卅騎ばかり、まっさきかけて落されけり。

「これで合戦の状況が一変する」
「降り立った源氏の武士達は火をつける→平家は慌てる」
「生田の森からも火が上がる」

これが、やっぱり大変な所ですよね。
大将が様子を確認して、自分から先頭に立つって、今のビジネス・シーンにも役に立つ話ですよねぇ(^^ゞ
よく、頼朝と義経の器量比較で、単なる軍人の義経は深謀遠慮の大政治家の頼朝の器量には比ぶへくもない、と言われます。
それは適材適所ということからいえば、頼朝は政治家としてはスケールも大きくて幕府を創るにはピッタリだったけれど、
頼朝では、こういう闘い方はできなかったでしょうね(^_^;
義経だからこその闘い方で、だからこそ源氏が勝ち続けることが出来た、のです。
でも、義経は所詮乱世に生きることしかできなかった人で、ある程度の平和が来た時は、
頼朝という権謀術数に長けた政治家でなくては幕府の成立はなかった。
でもまた、その頼朝も、結局は、北條泰時・貞時という、もっと平定された時代の政治家には適わなかった、と思います。
近世の、「織田がこね、羽柴がつきし天下餅、座して食らうは徳川家康」と言う狂歌ー戯れ歌はそのまま、彼らに当てはまります。
さしづめ
「九郎が木を斬る♪ヘイヘイホ〜♪ヘイヘイホ〜♪
頼朝が屋根を葺く♪トントントン♪トントントン♪
鎌倉幕府が出来た〜♪北條さん、お入りよ♪」
なんてとこなのでしょうか(^^ゞ


5.「越中前司最期」
―「巻九、12.盛俊最期の事」―

ここは、どう書いたらいいのか書くのが難しいのですねぇ(^_^;
「盛俊は『坂落』の現場にいた武将です。」

越中前司盛俊は、山手の侍大将にてありけるが、いまは落つともかなはじとや思ひけん、ひかへて敵を待つところに、猪俣の小平六則綱、よい敵と目をかけ、鞭あぶみを合せてはせ来たり、おし並べてむずとくうで、どうと落つ。―中略(猪俣は盛俊にとって抑えられる)―既に頸をかヽれんとしけるが、ちからはおとったれ共、心はかう成ければ、猪俣すこしもさわがず、しばらく息をやすめ、さらぬていにもてなして申しけるは、「抑(そもそも)名のっつるをば聞き給ひてか。敵を討つといふは、我も名乗って聞かせ、敵にも名乗らせて頸をとったればこそ大功なれ。名も知らぬ頸とっては、何にかし給ふべき」と言はれて―後略


越中前司と言うと、富山県知事の前任者、ということです。
片や武蔵国住人というと、熊谷直実のように、公職についたことはない人なんですね。
その二人が取っ組んで、越中前司盛俊が武蔵国住人猪俣の小六則綱を取り押さえる。
もともと、「よい敵と目をかけ、鞭あぶみを合せてはせ来たり、おし並べてむずとくうで」と、名乗りもせずに仕掛けてきたのは、
武蔵国住人猪俣の小六則綱のほうでした。
それを、自分が取り押さえられると、そんなことを言い出すのです(^_^;
ここで、盛俊が人がいい♪自分の名を名乗ります。

盛俊の方は「父は平盛国と言って、清盛に大変信頼されていた」――要するに平家の中でも上級官僚です。
片や無位無官の、まあ関東の郷士でしょうね。
で、ここでこの、猪俣が意気強く、
今は源氏の旗色が良くて、平家は負け戦だから、自分を助けてくれれば、自分の勲功の代わりにあなたたちを助けてあげるよ、
等と調子のいいことを言うんですね!!
ホントにそんなこと、お前の身分で出来るかよ!と問いたい所ですが、
盛俊は、それ以前に、

越中前司大いに怒って、「盛俊、身こそ不肖なれども、さすが平家の一門なり。源氏たのまうどは思はず。源氏又盛俊にたのまれうども、よも思はじ。にっくい君が申しやうかな」

ここで育ちが出ちゃうのですね・・・(^_^;
盛俊は大将の家に生まれて大将としての生き死にの別をわきまえているんです。
それが雑兵の猪俣には分からないんだろうな(^_^;
で、この懐柔策が通じないと知って、猪俣は盛俊に「正なや、降人の頸かく様や候」と、情に訴えるのですね。
それで、それもそうだと、またも猪俣の口に乗せられて助けてしまう。
そこへ、人見四郎がやってくるのが見えて、盛俊がそちらに気をとられて、油断した隙に乗じて猪俣は、

越中前司が鎧のむないたをばくとついて、うしろの水田へのけにつきたおす。おきあがらんとする所に、猪俣うへにむずと乗りかヽり、やがて越中前司が腰の刀を抜き、鎧の草摺ひきあげて、つかもこぶしもとをれ\/と、三刀さいて頸をとる。さる程に、人見の四郎落ちあふたり。かやうの時は、論ずることもありと思ひ、太刀のさきに貫き、たかくさしあげ、大音声をあげて、「この日來鬼神と聞こえつる平家の侍、越中前司盛俊をば、猪俣の小平六則綱かせ討ったるぞや」と名のって、其の日の高名の一の筆にぞ付きにける。

というわけです(;_;)
先生も「敵の武器を取って刺すんです」と。

なんでもありなんだ!関東武士は!!




6.「忠教最期」

―「巻九、13.忠度最期の事」―

いやぁ・・・ついに(;_;)
ここ全文書きたいんだけど、この所目が大変なのです(^_^;
それもあって、「平家」のノートが進まないのですが(^_^;

薩摩守忠度は、一の谷の西手の大将軍にておはしけるが、紺地の錦の直垂に黒糸おどしの鎧着て、黒き馬のふとうたくましきに、いっかけ地の鞍をいて乗り給へり。其勢百騎ばかりがなかに打かこまれて、いとさはがず、ひかへ\/落ち給ふを、猪俣党に岡部の六野太忠純、大将軍と目をかけ、鞭、あぶみをあはせて追っ付きたてまつり、「抑(そもそも)いかなる人で在まし候ぞ。名乗らせ給へ」と申しければ、「是はみかたぞ」とて、ふりあふぎたまへるうちかぶとより見入れたればかねぐろ也。あっぱれみかたには、かねつけたる人はないものを。平家の君達でおはするにこそと思ひ、をし並べてむずとくむ。これを見て、百騎ばかりある兵ども、国々のかり武者なれば、一騎も落ちあはず、われ先にとぞ落ちゆきける。薩摩守、「にっくひやつかな。みかたぞと言はば、言はせよかし」とて、熊野そだち、大ぢからのはやわざにておはしければ、やがて刀を抜き六野太を馬の上で二刀、落ち着くところで一刀、三刀までぞつかれける。
―中略(ここで、六野太を撮って押さえて頸を取ろうとすると、後ろから六野太の郎党が忠度の右腕を切り落とします)―
今はかうやと思はれけん、「しばしのけ、十念唱へん」とて六野太をつかうで弓だけばかりなげのけられたり。其の後西にむかひ、高声に十念唱へ、「光明遍照十法世界、念仏衆生摂取不捨」とのたまひもはてねば、六野太うしろよりよって、薩摩守の頸を討つ。よい大将軍討ったりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、ゑびらに結びつけられたる文をといて見れば、「旅宿花」といふ題にて、一首の歌をぞよまれたる。
  「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひのあるじならまし  忠教」とかヽれたりけるにこそ、薩摩守とは知りてんげれ。

「忠度は、この時41才。一の谷の海岸線を守る大将だった。
『いとさはがず落ち給ふ』というのは、もう死を覚悟して敵を待っているんです」と、先生。
「『百騎ばかりある兵ども、国々のかり武者なれば』俄かに駆り集めた武者なので、」
「『一騎も落ちあはず』というのは既に闘う戦意もなかったので、われ先にとぞ落ちて行ってしまった」

「『のたまひもはてねば、六野太うしろよりよって、薩摩守の頸を討つ』というのは無礼!余りにも心無い仕打ち!!です」
「野蛮!浅はか!大将の頸を取ることだけしか考えない。」
先生も怒ってる!!
「『よい大将軍討ったりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、』自分は誰を討つか考えない。ただ、功名!手柄だけ!!」
「東北武士たちの行動の原動は一人でも多く討って功名を立てる!
特に則綱の言い方、とにかく相手を討てばよい。
後で名前を知れば、それで手柄になればよい、という考え方ですね」

この時代に武士道なんてものはないんだけどさ、あ〜んまりじゃないでしょうか!!
ねぇ、卑怯でも、なんでも勝ったほうが強い、勝った方が正しいんだよネェ・・・ハァ(´∧`)〜ハァー

あ〜、駄目だ!もう泣いちゃって・・・ウルウルですm(__)m
大体ね・・・薩摩守という人は、どういうイメージで言ったって、文武両道の優雅な貴族なのです(^^ゞ
だから、維盛のサポートにも立つし、頼盛とも親しかったらしい・・・平家の中でもかなり貴族的な方ですよね。
宗盛・知盛等とは一線を画していたんじゃなかろうか、と
これは私の勝手な推測m(__)m

あ、でも41才だったのねぇ・・・あれこれ資料を断片的に読んで漠然と35〜6才とは思っていたけど、41才かぁ(^^ゞ
とすると、今なら五十近い感覚だわネェ・・・ちょっとイメージ損なわれたか(^_^;
でもまあロマンスグレーの素敵な人もいますからね(^^ゞ
ファンファンなんて、70ン才になっても断然素敵だもの(^_-)-☆
そういえば、十年前くらい前(というと、ファンファンが60ン才くらいの時)、テレビドラマの中でだけど、
「ミラボー橋」を原語で朗読したの、とっても素敵でした\(^^)/
んー、忠度とファンファンねぇ・・・あっていいるような違うかな・・・・(^_^;



7.「重衡生捕」

―「巻九、14.重衡生捕の事」―

本三位中将重衡卿は、生田森の副将軍にておはしけるが、その勢みな落ち失せて、只主従二騎になり給ふ。
「重衡と言う人は、大変優しい人であったが、不運な人でした」という、先生の一言から始まりました。
重衡は清盛の五男ですが、大変眉目秀麗で文学的な素養も深く、いわゆる二枚目です!!
この日はついに、乳母子の後藤兵衛盛長とふたりになり、敵中を敗走していたのです。
そこへ、梶原源太景季の手勢に追われて、馬を射られてしまいます。
ここで、本当なら、乳母子の後藤兵衛盛長が乗っている乗り換え用の馬を差し出すはずなのですが、
恐れた盛長は鞭を振り上げて一人逃げ去ってしまいます(^_^;
「如何に盛長、日來さはちぎりざりしものを。我を捨てていづくへゆくぞ」とのたまへども、空聞かずして、鎧につけたるあかじるしかなぐりすて、たヾにげにこそにげたりけれ。
ここで、先生がおっしゃるには、
T.乳母子に裏切られた重衡
U.義仲と今井四郎の主従愛に相反する話
V.主人が家来を裏切る話もある。
「・・・人間が二人いれば、@うまくいくか、Aどちらかが背を向けるか。B或いは両方が背を向ける、
という三つのパターンに分かれます」
「死なば一所に、という約束は守られる事が少ないからこそ、するんです」
そうだよねぇ・・・約束というのは「守られないからこそするのが約束」という所ありますよね(^^)

男女の裏切りも辛いし醜いですけど、男同士の裏切りは辛いも醜いも一回り上回りますよね。
昔、枝雀が小米のころ大喜利をバラエティ化した番組の中で、
「上は朝来て朝帰る、中は昼来て昼帰る、下々の下の下は居続けをする」という郭不文律を読み替えるゲームで
「上は男と男の心、中は男女の恋心、下々の下の下は嫁と姑」とやって、大喝采だったのですが、
男同士だって下々の下の下というパターンは存在しますよね(;_;)

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数年前、うちのアホ娘の母校で創立百年記念事業の一つとして、鎌倉に関わるシリーズ講演会がありました。
その時O先生の時に、「平家物語」に出てくる女性で好きなのは・・・というお話がありました。
で〜、先生としては建礼門院・小督・待宵の小侍従・大納言典侍ですが、今日は大納言典侍を取り上げていきます、
ということで、大納言典侍が取り上げられました。重衡の奥さんです。
大納言典侍という呼び名(候名ーさぶらいな)のように、五条大納言の娘で安徳天皇の乳母でもあります。

建礼門院徳子は、
壇ノ浦で、二位の尼が安徳天皇を抱き参らせて入水したのを見て、
飛び込むけれど、長い黒髪が水面に浮かんで、それを名もない雑兵に熊手で絡み取られて、引き上げられてしまいます。
そして、嵯峨野の寂光院に尼となって庵を結びました。
大納言典侍も、緋の袴を矢で射られて、船板に射付けられて捕らえられてしまいます。
そして、夫重衡の処刑後、尼になって大原に住む建礼門院に仕えます。
テキストから「灌頂の巻」の「大原入」
文治元年長月の末に、彼寂光院へいらせ給ふ。道すがら四方の梢の色々なるをご覧じ過ぎさせ給ふ程に、山かげなればにや、日も既に暮かかりぬ。野寺の鐘の入相の音すごく、わくる草葉の露しげみ、いとど御袖濡れまさり、嵐はげしく木の葉みだりがはし。空かき曇り、いつしかうちしぐれつつ、鹿の音かすかに音信れて、虫の恨みもたえだえなり。とに角にとりあつめたる御心ぼそさ、たとへやるべきかたもなし。
〜中略〜
かくて神無月中の五日の暮がたに、庭に散りしく楢の葉を踏み鳴らして聞こえければ、女院、「世を厭ふ所に、何者の問ひくるやあらん。あれ見よや、忍ぶべき者ならば、いそぎしのばん」とて見せらるるに、をしかのとほるにてぞありける。女院、「いかに」と御尋ねあれば、大納言佐殿、涙をおさへて、
  岩根ふみたれかはとはんならの葉のそよぐはしかのわたるなりけり
女院哀れにおぼしめし、窓の小障子にこの歌をあそばしとどめさせ給ひけり。
――出典『日本古典文学全集・平家物語・下』(小学館)

で〜、O先生のお話ですが

重衡というのは、清盛の五男で、南都の追討軍の総大将を勤めました。壇ノ浦で馬を射られて、梶原源太景時に生け捕られました。なんで、生け捕られたかというと、お供を連れて、逃げようとしたところに、馬を射られて、本当なら、お供が、自分の馬を差し出すのに、怖くなって、主人を置いて逃げちゃうんですね。そういう裏切りで生け捕られてしまうんですが、こういうとき、生け捕った敵将を大変大事にします。頼朝の断を受ける為に鎌倉へ下るのですが、その後、奈良に返されて処刑される直前も、是非妻に一目逢いたい、と願って許されます。死を思いながら、別れを惜しむことを許す敵の温情ね。

頼朝も「私敵」とは思わず、湯浴みなどさせ、千手の前にも世話をさせます。
千手の前も、重衡の処刑後に善光寺で尼になります。
処刑後は、首を晒されて、その後は大納言典侍が、遺体を引き取って供養して、自分は菩提を弔うために尼になります。

平安朝時代の文化を武家は大事にしていた。
熊谷が敦盛を討つ場面も色彩が美しい。かほりの世界でもある。萌黄のにほひ。骸になってもいいにほひがする。
(「平家物語」は)視覚・聴覚に訴える文学です。

そして、締めに「戦は男が起こして女が泣くものですね」というお言葉があり、大変印象深いものでした。

実は、私も短大時代のゼミでちょっとした思い出があるのです。

「平家物語・巻十の七  千手の前の事」より
その後、中将、南都へ渡されて、斬られ給ひぬと聞こえしかば、千手の前は、なかなか物思ひの種にやなかりけん、やがて様をかへ、信濃の善光寺に行ひ澄まして、かの後世菩提を弔ひけるぞ、あはれなる。

という、「千手の前」の最後の一下りを、「一夜の契りを忘れ難くて」ということではなく、「自分が世話をした人物が、はかなく処刑されたことに世の無常を感じて」と解説した学生がいました。「一夜の契りを忘れ難くてーそういう考え方をするのは男性の自分勝手な考え方だ」というようなことも言ったかな・・・?で、先生もちょつと感心していたのが印象に残っているのです。
私としては、「一夜の契り忘れがたく」としか考えていなかったので、その時は、こういう口承文学みたいなものに理屈つけんなよ〜、という抵抗感があったのです。でも後になって、無常観ということから言えば、そのほうがあっているかも、と思いました(^_^;



8.「敦盛最期」

―「巻九、15.敦盛最期の事」―

 いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実、「平家の公達、たすけ舟の乗らんと汀の方へと落ちたまふらむ。あっぱれよからう大将軍にくまばや」とて、磯の方へあゆまするところに、ねりぬきに鶴ぬうたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、鍬形打ったる兜の緒を締め、こがねづくりの太刀をはき、切斑の矢負ひ、しげどうの弓持って、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置いて乗ったる武者一騎、沖なる舟に目をかけて、海へざっとうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせたまふものかな。かへさせ給へ」と、扇をあげてまねきければ、招かれてとってかへす。

ここはもう、能(「敦盛」)でも歌舞伎(「熊谷陣屋」)でも、お馴染みの悲嘆の場面の幕開けです!!
「(熊谷が)『あっぱれよからう大将軍にくまばやとて、磯の方へあゆまするところに』―海岸線に行くという事自体が手柄を求めている、ということです」と先生。

汀にうちあがらんとするところに、おし並べてむずと組んでどうと落ち、とって落ち、とっておさへて頸をかかんと甲をおしあふのけて見れば、年十六七ばかりなるが、うす化粧して、かねぐろ也。我子の小次郎がよはひ程にて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。


「たった三行で熊谷の全行動が現されている。待ちきれず、名乗りも聞かず組討して頸を取ろうとする。相手の行動は書いてない。無抵抗なんです。ということは死を覚悟している。」と、先生。
で、ここからの敦盛がまた凄いのですよ!!

「抑いかなる人にて人にてまし\/候ぞ。名乗らせたまへ、たすけまいらせん」と申せば「汝はたそ」ととひ給ふ。「物、そのもので候はねども、武蔵国住人、熊谷次郎直実」となのり申す。「さてはなんぢにあふては、名のるまじひぞ。なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をとってひとにとへ。見知らふずるぞ」とぞのたまひける。

これに対して、熊谷が「あっぱれ大将軍や」と簡単の声を発しますが、これを先生は
「武力が強しことではない!50〜60メートルも離れていて逃げ切る事も出来た。わざわざ帰ってきたのは死ぬ覚悟。
『なんぢにあふては、名のるまじひぞ』というのは身分が違う、ということです。
武蔵国住人というのは、何の官職にもついたことが無い!『あはぬ敵ぞ!』と言い捨てて逃げてもよかった。」

それをわざわざ戻ってくる潔さですよねぇ。敦盛は「無官の大夫」という言い方をします。
官職についてはいないけれど大夫というのは五位クラス、貴族の子弟のスタートラインに立っているという意味です。
武蔵国の土着郷士クラスの熊谷とは身分の差が甚だしいのですね。
そして、その身分の差が、育ちが違う、というか、敦盛自身のプライドにも振る舞いにも現れているわけです。

勿論、平家の中でも卑怯未練な終わり方をした武士たちはたくさんいました。
現に↑の重衡の乳母子はその代表のようだし、後から出る宗盛や維盛だって、ねぇ〜〜(^_^;
源氏にも今井四郎のような武士もいたし、これ以後の熊谷もナカナカの武士(ここは、モノノフと読んでくだされ)です。

「あっぱれ大将軍や。此人一人討ちたてまったりとも、まくべまいくさ勝べきやうもなし。又討ちたてまつらずとても、勝つべきいくさにまくることよもあらじ」
「一人の命と、合戦全体の勝敗は無関係だ、というんです」と、先生。ウンウン、其処まで考え込んじゃうのですね(^_^;

この期に及んで、熊谷は我が子への思いを、この公達の父の思いに重ねます。
小次郎がうす手負たるをだに、直実は心ぐるしうこそ思ふに、此殿の父、討たれぬと聞ひて、いか計りなげき給はんずらん。

と、いっているうちにも、味方の源氏勢が駆けつけてきて、熊谷一人の才覚ではどうにもならない仕儀となります。
敦盛は「たヾとく\/頸をとれ」と言いますが、

熊谷、あまりにいとおしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚に覚えけれども、さてしもあるべき事ならねば、なか\/頸をぞかいてンげる。「あはれ弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂き目をば見るべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな」とかきくどき、袖をかおにをしあてヽ、さめ\゛/とぞなきゐたる。

「さてしもあるべき事ならねば、というのは軍記物に多く出てくる言葉です。」
「人は困ったときに時間よ止まれ!と言いたいけれどそうはいかない」
「やりたくないこともやらねばならない」
「今までの行動原理の全否定。味方さえ裏切っての功名手柄への疑問」がわいてくるんですねぇ・・・。
さらに、腰に指された笛を見て

「あないとおし、この暁、城のうちにて管弦し給ひつるは、此人々にておはしけり。当時みかたに、東國の勢何万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈は猶もやさしかりけり。」とて、九郎御曹子の見参に入れたりければ、これを見る人涙を流さずといふことなし。

「『いくさの陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈は猶もやさしかりけり』―自分たちの価値観とは違う世界のこと」と、受け止めているんですよね・・・。まあ都と東國というのは、まだまだ大きな隔たりがある、同じ日本とはいえ異質の世界ですから。
「勝ち負けの世界を超える価値観。」・・・多分、今までは勝ち負けしか考えないで生きてきた、と言ってもいいんじゃないで仕様か。
それがあるとき、勝ち負け以外の世界があることを知ってしまう。
それを知った後に、勝ち負けの世界にスンナリ戻れるか?
まあ、現実には、熊谷は、まだまだ源氏の有力御家人として奉公するんですけどね。
頼朝の覚えを得る所までちゃんと行きます。
しかし、「平家物語」のこの段では、武家社会の無常を知ってしまった武士としての役割を果たします。


これを、もっと分かりやすく、直に観客の目前に突き出したのが歌舞伎の「熊谷陣屋」ですよねぇ。
このままでは、いくら哀しくてもショックを受けても他人の子の話でしょ。
文学的に戦の不条理を訴えて、心を打つには違いないのですが、もっと直裁に自分の子の死の話とするために、
歌舞伎は、忠義と義理を絡ませて、戦の悲惨さを際立たせているんですね。
挙句「十六年は一昔・・・夢だなぁ・・・」という悲痛な叫びによって、ダメダシのように観客に悲嘆の共有を迫ります。

有名な所では鳩居堂は熊谷次郎直実の末裔ということになってます。
我らが時代の仮名書道の大家熊谷恒子先生は、この系統です。

今回、これを書くのに検索したら、
岐阜の大谷派の満福寺、というお寺のhpで、「当院の先祖は熊谷次郎直実」という記事がありました。
それを読むとなかなか面白いのですが、「熊谷陣屋」のイメージとはだいぶかけ離れますので・・・m(__)m

で〜、実は、うちの知り合いにも熊谷次郎直実の末裔、という人がいます。
秋田の神社の娘さんなんですが、こちらに来て、国語の先生をしていらっしゃいます。
職員室で熊谷の末裔、という話しをしたら、
社会科の先生から、日本全国に熊谷の子孫、と言う家はたくさんあるんですよ、といわれてガックリ来たそうです(^^ゞ
ちなみに、その方の嫁ぎ先は伊東祐経の末裔だとか・・・ん〜歴史を生きてる!!




9.「知章最期」

―「巻九、15.濱軍の事」―

さあ〜、ここが問題の「知章最期」ですよぅ!
なぜ問題か?!
ん〜、ここに限ってはね・・・ちょっと先生にイチャモン付けたい!!
えー、まず脇役陣から行きますが・・・

門脇中納言教盛卿の末子、蔵人大夫成盛は、常陸国住人土屋五郎重行にくんで討たれ給ひぬ。修理大夫経盛の嫡子、皇后宮亮経正は、たすけ舟に乗らんと汀の方へ落ち給ひけるが、河越小太郎重房が手に取籠られて討たれ給ひぬ。若狭守経俊・淡路守清房・尾張守清定、三騎つれてかたきのなかへかけ入り、さん\゛/にたたかひ、分捕りあまたして、一所で討死してンげり。

「若狭守経俊は清盛の末子。淡路守清房は清盛の養子です。」
「門脇中納言教盛は、大納言になれといわれて断わった人です。
教盛と経盛は常に一対で登場します。『都落ち』の時には、二人揃って都を振り返り歌を詠んだ。
今度はそれぞれ嫡子と末子を亡くします。」
フーム、どうせ後で出てきますけど、壇ノ浦の入水の時も二人で手を取り合って?飛び込むんですよね(^^ゞ
何もそこまで仲良し兄弟しなくてもいいのにな・・・いや、昔は結構感動して読んでましたけど(^_^;
こういうの聞いちゃうと・・・アハハ単純な私ですm(__)m

さぁ、そこで知章!

新中納言知盛卿は生田森大将軍にておはしけるが、其勢皆落失せて、今は御子武蔵守知明、侍に監物太郎頼方、たヾ主従三騎になって、たすけ舟に乗らんと汀のかたへ落ち給ふ。―中略―其の中の大将とおぼしきもの、新中納言に組奉らんと馳せ並べけるを、御子武蔵守知明、なかにへだヾたりおし並べて、むずと組んでどうと落ち、とッておさへて頸をかき、立ちあがらんとしたまふところに、敵が童おちあふて、武蔵守の頸を討つ。監物太郎落ち重なって、武蔵守討ちたてまッたる敵が童をも討ッてんげり。其後、矢だねのある程射つくして、うちもの抜いてたたかひけるが、敵あまた討ちとり、弓手のひざぐちをいさせて、立ちもあがらず、いながら討死にしてンげり。―中略―
新中納言、大臣殿の御まへに参って申されけるは、「武蔵守にをくれ候ぬ。監物太郎討たせ候ぬ。今は心ぼそうこそなッて候へ。いかなれば子はあって、親を助けんと敵にくむをみながら、いかなる親なれば、子の討たるヽをたすけずして、かやうに逃れ参って候らんと、人の上で候はば、いかばかりもどかしう存候べきに、我が身の上に成ぬれば、よう命はおしひ物で候けりと、いまこそ思ひ知られて候へ。人ヾの思はれん心のうちどもこそ、はづかしう候へ」とて、袖をかほにおしあてヽ、さめ\゛/となきたまへば、大臣殿これを聞きたまひて、「武蔵守の父の命にかはられけるこそあのがたけれ。手もきヽ、心もかうに、よき大将軍におはしつる人を。清宗と同年にて、ことしは十六な」とて、御子衛門督のおはしけるかたを御覧じて、涙ぐみ給へば、いくらも並みゐたりける平家の侍ども、心あるも心なきも、皆鎧の袖をぞぬらしける。

でー、ここをですね、先生は、
「其の中の大将とおぼしきもの、相手は名乗らない東国武士」
「武蔵守にをくれ候ぬ。監物太郎討たせ候ぬ・・・息子を先に死なせてしまった。大事な家来も死なせてしまった」
「我が身の上に成ぬれば、というのは、以仁王の乳母子宗信の話にもあった。知盛は人間の普遍的な悲しさで、
頭で考えても体が動かなかった」
という解説だったのです。

えー!でもさ、余人ではない!知盛ですぞ〜!!
それは、「さしもの知盛も!」というところで意義があるのかもしれませんが、
ワタシャぁ異議がりますぞ!!

これはね、女性的見方かもしれないけど・・・実はA先生のご講義の時、これでもう貰い泣きだったのですよ(^_^;

つまり、知盛も知章も、勿論監物太郎も、既にこうなった時の約束として、
「父上は何があってもお逃げください、父上の御身には平家一門の命運が掛かっております。
たとえ人から謗られようと、犬死してくださいますな」
という約束事があったのではないか?

私は前から当然そう考えていましたから、A先生がそういう解説をなさった時、
そうなんだよねぇ〜♪と、素直に貰い泣き(;_;)

ね、そう思いません?!知盛だもの(^^ゞ
だって、知盛としては、生き残る事がどんなに恥ずかしいことか十分分かっているはずです。
まあ、だから、
「人の上で候はば、いかばかりもどかしう存候べきに、我が身の上に成ぬれば、よう命はおしひ物で候けり」
と、わざわざ言わせているわけですけれど・・・どうもうそ臭い、と私は思うのです(^^ゞ

で、ここで本日の先生の、宗信ヅレと同格に考えられて
「知盛は人間の普遍的な悲しさで、頭で考えても体が動かなかった」は
異議あり、なのです(^^ゞ

でも、その後の
「共に涙している兄弟(知盛と宗盛)の涙の種類は違うものではないか。」
というのには異議無し(^^)v

「だまされやすい宗盛。目の前のことにしか眼が行かない。知盛に同情しているが、傍らの自分の息子に思いを馳せての話である」
「目の前にあるものは直ぐ欲しい!目の前で母や妹が辛い目に遭うのは嫌!
我が息子も16歳!息子が死んだらどうしよう?・・・とばかり考える。優しく憎めない父親ではあるんです」

「だまされやすい宗盛。目の前のことにしか眼が行かない」からこそ、
知盛は、いや知章も監物太郎も、知盛が死んだら平家一門はどうにもならなくなる、
と分かっていて、とにかく知盛を生かさなくては、という行動だったのだと思うのです。
当然一座の人々も分かっているはずです。
「心あるも心なきも」っていうのは有情・無情ではなく、
知盛達の決意に気が付いている人も気づかない人も、ということじゃないでしょうか。
気づかないのは、当の宗盛親子位ですよ・・・宗盛は完全に自分の感情に負けているでしょ。
・・・と思いますが・・・

でー、先生はね
「(息子を先に死なせた、ということで)生涯の負を背負う事が宗盛にはわからない」とおっしゃいます。
それは、分からないだろうなぁ・・・だって、宗盛には、今自分が背負っているものでさえ分からないと思います。

自分の背負っている物が分かるような宗盛なら、知盛は後顧に愁いを遺さず、知章を助けて討死したと思います。
この段だけは、女読みで行きたい!!



10.「落足」

―「巻九、17.落足の事」―

今度討たれ給へるむねとの人〃には、越前三位道盛・弟蔵人大夫成盛・薩摩守忠教・武蔵守知明・備中守師盛・尾張守清定・淡路守清房・修理大夫経盛嫡子皇后宮亮経正・弟若狭守経俊・其弟大夫篤盛、以上十人とぞ聞こえし。

死ぬは、死ぬは・・・老い木・若木の後先なく・・・散る桜、残る桜も散る桜・・・(;_;)

葉室大納言光頼の子息で、大納言法印行慶が、経正の幼い頃の師であったそうで、
弟子の経正に名残を惜しんで、桂川まで見送って
「あはれなり 老木わか木も山さくら をくれさきだち 花はのこらじ」と読みかけましたが、正に其の通りです。
第三回「人それぞれの人生」――「巻七、5.経正都落の事」より――

先生は「若者たちの死が中心」と仰います。「延慶本の構成」だそうです。
知章15歳、敦盛は16、成盛も16〜7、師盛なんて14歳です!
忠度の40、経正が35〜40、通盛の31才だって惨いと思うのに、14・15・16では・・・なんともはや・・・(;_;)
あ、今生年月日から換算してますので満年齢ですm(__)m
敦盛は文中に「生年十七にぞなられける」とありましたけど(^_^;
↑の「今度討たれ給へるむねとの人〃には・・・」の前にある文章では

凡そ東西の木戸口、時移るほどにもなりしかば、源平數を尽くして討たれにけり。櫓の前逆茂木の下には、人馬の肉(ししむら)山の如し。一の谷の小篠原、緑の色をひきかえて、薄紅にぞなりにける。

とあります。どんなに美しく歌っても、凄惨な戦場なのです。

で、ここから続くのが

―「巻九、18.小宰相の事」―

小宰相は越前三位通盛の北の方です。

この女房と申すは、頭刑部卿憲方の女、禁中一の美人、名をば小宰相殿とぞ申しける。上西門院の女房なり。

その禁中一の美人に惚れた通盛が三年かけてかきくどき、女院のお声掛りで、やっとこすっとこ夫婦になった!
もう〜ラブラブ♪
「互いの志浅からず。されば西海の浪の上、舟の中までも引き具して」となったのですが・・・。
今ここに其の最愛の夫の戦死の知らせを聞きます。

あすうち出でんとての夜、あからさまなるところにてゆきあひたりしかば、いつよりも心ぼそげにうち嘆きて「明日のいくさには、一ぢゃう討たれなんずとおほゆるはとよ。我いかにもなりなんのち、人はいかヾし給ふべき」なんど言ひしかども、いくさはいつものことなれば、一ぢゃうさるべしと思はざりける事のくやしさよ。それをかぎりとだに思はましかば、などのちの世とちぎらざりけんと思ふさへこそかなしけれ。

先生は「戦場の現場にいる者といない者の違い、独特の勘が働いた、それを理解できなかった自分を責めている」
とおっしゃいます。
そうなんですよ!小宰相だって戦場に準じるような非日常の舟の上にいるんだけれど、
それでも、死が日常という場にいる人の、「明日死ぬーかもしれない」、という勘働きにはついていけないでしょう。
それを「後の世まで一緒とも言わなかった自分を責める」(先生の言葉)のは、あまりにも自虐的だと思うけど、
でも、やはり、こういうときにはこうなるものでしょうね。
まして、小宰相は身重の体で有りました。
神経も高ぶったり落ち込んだり、今ならさしずめマタニティ・ブルーと言ってもいいですよね。

(懐妊のことを)心づよふ思はれじとて、言ひだしたりしかば、なのめならずうれしげにて、「通盛すでに三十になるまで、子といふもののなかりつるに。あはれなんしにてあれかし。うきよのわすれがたもにも思ひをくばかり。さていく月ほどになるやらん。心ちはいかヾあるやらん。いつとなき浪の上、舟のうちのすまひなれば、しづかに身々となる時もいかヾはせん」なんどと言ひしは、はかなかりけるかねごとかな。

小宰相の目には、喜んだ夫のつかの間の笑顔が焼きついているでしょう。
優しかった夫のさらに優しい、身重の妻を案じる言葉が耳に残ってリフレインしているにちがいありません。
通盛って・・・能登守教経の兄にしたら、随分優しいジェントルマン!!
まあ教経だって勇壮怪力だけじゃないでしょうけどね(^_^;

後追い入水の覚悟を乳母に告げて、後世の弔いを頼むのですが、乳母は

「いとけなき子をもふり捨て、老いたるおやをもとヾめをき、是までつきまいらせてさぶらふ心ざしをばいかばかりとかおぼしめされさぶらふらむ。そのうへ今度一の谷にて討たれさせたまひし人\゛/の北の方の御思ひども、いづれかおろかにわたらせ給ひさぶらふべき」

と、諭してます。
「乳母自身も、幼い子や老親を都に置いてきた!戦死したのはあなたの夫ばかりではない!という“慰めの常套句”です」
と、先生。
でも、そういわなくちゃ、ねぇ(^_^;
「私、死にますから後はよろしく」といわれて、「はいどうぞ。後はまかせて」とは、
武士の切腹かなんかなら分かりますけど、ねぇ・・・まして、おなかに子がいるんだからさ!!

そこでは、其の乳母の諭しにほだされたような様子で引き下がりますが、結局は乳母の油断の隙に入水してしまいます(^_^;

「あかで別れしいもせのなからへ、必ひとつはちすにむかへたまへ」

と祈って!!
「我々(人間同士)は毎日溝を作っては取り返しながら生きている。でも相手に死なれては!!
あの世でも一緒にと約束しそこなったなら、その心の溝を埋められない。溝をうめるには今死ぬしかない!」
という論理だと先生は仰います!

フームそうですか・・・中世の論理ってそういうんだろうか(^_^;

これで最後に来る言葉が

昔より男にをくるヽたぐひおほしといへども、さまをかふるは常のならひ、身をなぐるまでは有りがたきためし也。忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえずとも、かやうの事をば申すべき。

というのです。なんだかなぁ。。。
いままでの
「やがて様をかへ、濃き墨染めにやつれはて、かの後世菩提を弔ひ給ふぞあはれなる」だって、十分悲惨ですけどねぇ(^_^;

そうそう、もっと哀れな、この段の締めくくりの文章は

門脇の中納言は、嫡子越前の三位、末子業盛にもをくれたまひぬ。いまのたのみたまへる人とては、能登守教経、僧には中納言の仲快ばかりなり。故三位殿のかたみ共、此の女房をこそ見給ひつるに、それさへかやうになられければ、いとヾ心ぼそうぞなられける。

「『門脇の中納言』教盛は最初に出てきて、又最後に出てくる」と、先生!
「知章最期」の段の冒頭は、
「門脇中納言教盛卿の末子、蔵人大夫成盛は、常陸国住人土屋五郎重行にくんで討たれ給ひぬ。」
でした。
この段から、平家の若武者たちの悲惨な戦死者名簿が読み上げられていたのです。

ねえ・・・長男・三男も死んで、長男の嫁さへ孫を身篭ったまま後追い死にされて、哀れ教盛齢63!
と、思うでしょう?!

ところが、(教盛の)娘の生んだ重子は後鳥羽院の後宮に入り順徳帝の母となるんです」と、先生ニンマリ♪

先に書いちゃったんですけどね↓
第三回「人それぞれの人生」――「巻七、6.門都落の事」より――

教盛は、壇ノ浦で、例の大立ち回りを演じて、源氏の侍二人を抱え込んで入水した能登守教経の父ですが、
やはり娘がいて、これが教子というのですが、式部少輔藤原範季と結婚して重子という娘が出来ます。
そして、この娘が後鳥羽天皇の寵愛を受けて順徳天皇を生みます。
結局承久の乱で、後鳥羽は隠岐に、順徳は佐渡に(ちなみに土御門は土佐)配流されます。
でも、1210年に順徳天皇が即位し、1221年に配流されるまでは外祖父・・・といっても,
肝心の教盛は、壇ノ浦で
「さる程に、門脇の平中納言教盛・修理大夫経盛、兄弟手に手を取り組み、鎧の上に碇を負うて、海にぞ沈み給ひける」
ということだったのですが・・・ね(^^ゞ

・・・って(^^ゞ

頼盛の盛り上がり振りも、↑に書いて有りますが、
この時、資料で系図一覧表を頂きました。只の系図ではなく「乳母」相関図付きです(^_^;
知盛の妻治部卿の局、始は時子に仕えて
「執権」という後宮の取り仕切り役をしていた切れ者(日下力著「『平家物語』誕生の時代」)というんですが、
この人は壇ノ浦まで付いて行ったけれど、特命があって生きながらえなければならなかった!

実際大変長命で、
「承久の乱後の宮中まで生き残って実力を発揮した」
「娘(中納言の局、夫は教盛の孫範茂)に、父(知盛)の最期の話をしたのではないか。
ソレが流布されて(平家物語に繋がった)」
と先生。
その治部卿の局という女性を始とする乳母ネットワークの凄さですね(^^ゞ
治部卿の局の特命というのも、実は彼女(&死んだ知盛と夫婦揃って)後高倉院(守貞親王)の乳母でもありました。
例の大納言成親の娘は維盛の妻になっている娘の他にもう一人いて、それが又後堀河天皇の乳母です。
治部卿の局の娘の中納言の局は四条天皇の乳母です♪・・・どこまで続く乳母の縁!!
その辺のお話は次回の先生のお話に出てくると思います(^^ゞ

そして、
「さる程に、門脇の平中納言教盛・修理大夫経盛、兄弟手に手を取り組み、鎧の上に碇を負うて、海にぞ沈み給ひける」
ということだったのですが・・・教盛は、死後に見事に浮かび上がったのですね\(^^)/


でー、第三回の締めくくりの言葉
「平家は滅びて源氏の世の中になった、けれど、全ての平家が滅んだわけではなかったんです」
「その生き残った平家の人々が、『平家物語』を創っていった」

そして、今回
「戦争のことが忘れられてはいけない!勝つも負けるも地獄だ!」

生き残った人たちは、平家の滅亡を美しく歌い上げるのではなく(まあ、実際滅亡したわけではないですから)、
戦の惨さを語り伝えて行きたい、と思って「平家物語(当時は平治物語)」を編んでいったのでしょうね。





。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜



平家礼賛」というサイト発見!!とっても面白いです♪
平家に関するいろんな資料が山積です。
人物紹介に顔写真?が付いている!!というのは必見です(^^ゞ
肖像画として描かれている物だけでなく、
実はあちこちで見かける絵巻の中から、其の人物をしっかり抽出している、という涙物の顔写真も多いんですね(^^)
おまけに、「清盛礼賛」というコンテンツの中には、
人間清盛の大きさと歴史上の政治的立場が克明に捉えられています。
「平家納経」の写真(外装他16点)がアップされているのもありがたいです(^^)v
おまけについている「愛猫うずまきのページ」は、もしかして、これを見せたいが爲に、こんな凄いサイト作っちゃッンじゃない?
というほどのうずまき君への愛情が感じられます♪

もう一つ、これは青い鳥があちらから飛び込んで来た!という感じのぼんやり夫人さんの 「平家物語」です。
この国文学史料館の連続講演について関心をお持ちで、うちのBBSに書き込んでくださったのです(^^)
でー、そのサイトに伺いましたら、平家物語・平安時代関連の今役立つ情報が満載のHPでした。


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