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1月17日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 10月17日〜10月18日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

○十七日丙申。爲誅波多野右馬允義常。被遣軍士之處。義常聞此事。彼討手下河邊庄司行平等未到以前。於松田郷自殺。子息有常者在景義之許。遁此殃。義常姨母者中宮大夫進<朝長>母儀。<典膳大夫久經爲子>。仍父義通就妹公之好。始候左典廐之處。有不和之儀。去保元三年春之比。俄辞洛陽。居住波多野郷<云々>。

――10月17日 丙申(へいしん)
――波多野右馬允(はだののうめのじょう)義常を誅せんが為、軍士を遣わさるるの處、義常は、この事を聞き、彼の討手下河邊の庄司行平等の、未だ到らざるの以前、松田の郷に於いて自殺す。・・・波多野は相模の北、今の秦野です。右馬允義常というのは藤原秀郷流の藤原氏。藤原秀郷というのはムカデ退治をしたという俵の藤太です。其の流れは下野国周辺に広がって佐野・足利・小山・結城といった諸氏の祖となりました。・・・下河邊庄司行平も秀郷流藤原氏。下河邊は関東の北です。
――子息の有常は、景義の許に在りて、この殃い(わざわい)を遁る。・・・景義というのは藤沢の大庭景義です。
――義常の姨母(いぼ)は、中宮の大夫進<朝長>の母儀<典膳大夫久経が子たり>。・・・姨母(いぼ)というのは、母の姉妹でしたね。この場合は妹です。 <朝長>というのは頼朝の兄です。(ここで先生がWBに系図を描いて下さって↓)

  (遠江国橋本の遊女)
    ‖
    ‖――義平
    ‖    
義  朝
 ‖:: ‖
 ‖:: ‖――朝長
 ‖:: ‖ 
 ‖::(典膳大夫久経女・・・姉)   
 ‖::
 ‖―――頼朝
 ‖:: └――義門
 ‖:: └――希義(まれよし)
 ‖::
(熱田大宮司女)
   ::
   ::
  ‖:
  ‖――――範頼
  ‖:  └――全成
  ‖:  └――義経
  ‖:
 (常盤)
    :
    :
    ‖
    ‖――――円成(全成と義経の間、八男)
    ‖
   (不明) 
            義朝
              ‖
              ‖――朝長
              ‖
           ┌姉娘
           |
           |
典膳大夫久経――|
           |
           └妹娘
              ‖
              ‖――義常
              ‖  ‖
             義通  ‖――有常
                  ‖
               ┌[大庭女]
               |
               └大庭景親

――仍って父義通、妹公の好(よしみ)に就き、始めて左典厩に候ずの處、不和の儀有り。・・・左典厩は左馬頭の中国名です。この場合義朝ですが、其の義朝と義通は奥さん同士が姉妹になるので、其の好で、最初は義朝に付いたんですね。しかし、不和になった。トラブルが起きたんです。
――去んぬる保元三年春の比(ころほひ)、俄に洛陽を辞して、波多野郷に居住すと<云々>。 ・・・保元三年(1158)、俄かに故郷に帰ってしまった。これは、保元の乱の折、義朝の父為義は崇徳上皇方について殺されるが、その折義朝の幼い兄弟たちも殺されてしまう。其の時、船岡山で実際に手を下したのは義通だったんです。そのために義朝から不興を買い義朝の下を離れた。治承4年7月10日のところで「藤九郎盛長申して云く、厳命の趣に従りて、先ず相模の国内、奉りて進むの輩これ多し。而るに波多野の右馬の允義常・山内首藤瀧口の三郎経俊等は、曽って以て恩喚に応ぜず。剰え(あまつさえ)條々の過言を吐くと云々。」とありました。これなんですね。

そこで、「船岡山行ったことありますか?」というお尋ねがあり、あまりにも行った事のない人が多くて(当然、私も行った事ない!!」)、其の解説をしていただきました。

船岡山は、高さ100メートル、東西200メートルの船の形をした丘です。登ると京の街が一望できる。
平安初期、昔の公卿は若菜摘みなどに行った所です。正月の初めての子の日に若菜を摘みに行くと健康で暮らせる、という習慣がありました。平安中期になると、船岡山に疫神を祀り、御霊会を行うようになって、ハレの日から化の日になって、身分高い人の墓所になりました。平安末期になると、合戦の頭領などの処刑場になっってしまった。明治天皇は、ここに宮を造った。「建勲(けんくん)神社」という、織田信長を顕彰するための神社です。信長は皇室の地位を高めた、と言うんですね。「大文字の送り火」の時、今、船岡山に船の形の送り火を焚きます。古い時代の磐座(いわくら)も残っています。



            | ̄|
              ̄ ̄
     | ̄ ̄ ̄ ̄|
←―N |大極殿跡|
     |____|
      
   ▲←船岡山・・・・・・朱雀大路・・・・・・・|羅城門跡|
                          
| ̄|←大徳寺
   ̄
  | ̄|←金閣寺
   ̄ ̄

↑こちらには、教室で先生がWBにざっとお描きになったものを、私がまたざっと写した図面を載せましたが、
ラン2(ランツー)さんの「平安京探偵団」というサイトで、船岡山はじめ、平安京・「平家物語」の中の京都についての地理・文化が紹介されています。

で〜、こちらを読んでくださったラン2さんから、メールを頂きました(^^)

船岡山の説明の中で、「「大文字の送り火」の時、今、船岡山に船の形の送り火を焚きます。」とありますが、これは間違いです。船の形の送 り火を焚くのは、船岡山のもひとつ西にある船山です。
船岡山で送り火を焚いたらたいへん。船岡山は街中にあります。
平安京探偵団を紹介してくださって、ありがとうございます♪

とのことでした。
アリャリャ・・・これは筆者の写し違いか、先生の言い損間違いか?!!いずれにしても、京都在住のラン2さんのご指摘は間違いない!のです。ついでに、他の送り火情報もあわせてこちらに。(2005/08/14付)


○十八日丁酉。大庭三郎景親爲加平家之陣。件一千騎欲發向之處。前武衛引率二十萬騎精兵。越足柄給之間。景親失前途。逃亡于河村山<云々>。今日伊豆山専當捧衆徒状馳參路次。兵革之間。軍兵等以當山結界之地。爲往反路之間。狼藉不可斷絶歟。爲之如何<云々>。仍可停止諸人濫吹之旨。下御書被宥仰。其状云。
 謹請 走湯山 大衆解状旨
  早可令停彼山狼藉等「令」喜悦御祈祷次第事
右。所致祈念。法力已以令成就畢。是無他念。偏仰權現御利生旨也。不可致狼藉事。彼山。是 新皇并兵衛佐殿御祈祷所也。仍亂惡之輩不可亂入。故所仰下知如件。
     治承四年十月十八日
及晩著御黄瀬河。以來廿四日。被定箭合之期。爰甲斐信濃源氏并北條殿相率二萬騎。任兼日芳約。被參會于此所。武衛謁給。各先依篤光夢想及菅冠者等事奉附其所於諏方上下社事。面々申之。寄進事。尤叶御素意之由。殊被感仰之。次與駿河目代合戰事。其伴黨生虜十八人召覽之。又同時合戰之間。加藤太光員討取目代遠茂生虜郎等一人。藤次景廉討同郎等二人。生虜一人之由申之。工藤庄司景光於波志太山。与景久攻戰。竭忠節之旨言上。皆被仰可行賞之趣。于時令与景親奉射源家之輩。後悔銷魂<云々>。仍荻野五郎俊重。曾我太郎祐信等束手參上<云々>。入夜實平。宗遠等献盃酒。此間。北條殿父子已下伊豆相摸人々。各賜御馬御直垂等。其後。以實平爲御使。可修理松田御亭。<故中宮大夫進舊宅。>之由。被仰中村庄司宗平<云々>

――10月18日 丁酉(ていゆう)
――大庭三郎景親平家の陣に加わらんと為し、一千騎を伴ひ発向せんと欲するの處、前の武衛二十万騎精兵を引率して、足柄を越え給ふの間、景親は前途を失い、河村山に逃亡すと<云々>。・・・当時は国府津ー足柄ー沼津は長距離だが緩やか。箱根路は短いけれどキツイ。河村山というのは足柄上郡河村郷。

――今日、伊豆山専當、衆徒の状を捧げ路次を馳せ参る。・・・伊豆山専當とは、走湯山・伊豆山権現の事務担当の僧。
――兵革の間、軍兵等、當山結界の地を以て、往返路と為すの間、狼藉断絶すべからざるか。・・・軍兵とは、関東の軍。結界とは、宗教的な境界線。
――これを如何と爲すかと<云々>。・・・つまり、関東の武士たちの勝手気ままな行動をどうしてくれる、という訴え、です。
――仍って諸人の濫吹を停止すべきの旨、御書を下し宥め仰せらる。
――其の状に云く。
――謹請(つつしみてうくる)
――走湯山の大衆の解状(げじょう)の旨
――早く彼の山の狼藉等を停止(ちょうじ)せしめ、喜悦せしむべき御祈祷次第の事 ・・・(事書き)
――右、祈念致す所の法力、すでに以て成就せしめをはんぬ。
――これは他念無く、偏えに、権現の御利生の旨を仰ぐなり。
――狼藉の事を致すべからず。
――彼の山は、是れ、(尊敬の空字)新皇並びに兵衛の佐殿の御祈祷所なり。・・・新皇は以仁王
――仍って乱悪の輩乱入すべからず。
――故に仰せの所下知件の如し。 ・・・これは「下知状」です。「下知状」というのは事務官が頼朝の命令を書く。これは本来の古文書とは違っています。署名もない。
――治承四年十月十八日

――晩に及び黄瀬河に着御す。・・・黄瀬河は鎌倉時代の東海道の宿駅の一つです。伊豆の歓楽街。後には三島・沼津にとられる。
――来る二十四日を以て、箭合の期を定めらるる。
――爰に甲斐・信濃源氏並びに北條殿、二万騎を相率いて、兼日の芳約に任せて、此のの所に參會せらる。・・・甲斐から富士山の麓を南下し黄瀬河で落ち合う。
――武衛謁し給う。
――各々先ず篤光(とくみつ)の夢想及び菅の冠者等の事に依って、その所を諏方上下社に附奉る事、面々これを申す。・・・篤光の夢想、9月10日の段に出てきた信濃源氏、諏訪の大祝(おおはふり)。
――寄進の事、尤も御素意に叶うの由、殊にこれを感じ仰せらる。
――次いで駿河目代と合戦の事、其の伴黨(ばんとう)生虜(いけどり)十八人、此れを召し覽ず。・・・駿河目代は橘遠茂でしたね。
――同時に合戦の際、加藤太(かとう・だ)光員(みつかず)、目代遠茂を討ち取り、郎等一人を生虜る。
――籐次(とうじ)景廉(かげかど)は、同じく郎等二人を討ち、一人を生虜るの由これを申す。
――工藤の庄司景光、波志太山(はしたやま)に於いて景久と攻戦し、忠節を竭す(つくす)の旨言上す。・・・景久は俣野五郎景久、大船のちょっと先の長尾台の辺りの武士。
――皆賞を行うべきの趣仰せらる。
――時に景親に与(くみ)せしめ源家を射ち奉るの輩は、後悔魂を銷(け)すと<云々>。
――仍って荻野の五郎俊重・曾我の太郎祐信等は、手を束ねて参上すと<云々>。・・・荻野の五郎俊重は藤原流、海老名季貞の子。曾我の太郎祐信は曾我兄弟の養父です。二人とも、この時、「手をつかねて」降伏して参上してきたのですが、その後の明暗が分かれます。
荻野の五郎俊重は、11月12日のところを見てください。ここで斬られてしまう。「日者候御共。雖似有其功。石橋合戦之時。令同意景親。殊現無道之間。今不被糺先非者。依難懲後輩。如此<云々>。(日ごろ、御共に候い、其の功あるに似るといえども、石橋合戦の時、景親に同意せしめ、殊に無道を現すの間、今、先非を糺さざれば後の輩を懲らしめ難きに依って、此れの如し、と<云々>)」
普段から頼朝のそばに居て手柄もあったけれど、石橋山の合戦で特にひどいことをしたので、後々の見せしめに斬った、というんですね。(筆者の呟き――そういえば、大庭景親も、結局は斬られてしまうんですよ!しかも、兄↑の景光に(^_^;そうそう、この景光と戦った俣野五郎景久は景親の弟で、うまく京都に逃げ押せて、平家の武将として戦死するのでした。とにかく一族同族の争いなんですよね〜(^_^;)
曾我の太郎祐信は11月17日に「曾我太郎祐信蒙厚免(厚免を蒙る・・・)」と書かれている。これは、良い待遇を得た。

――夜に入りて、實平・宗遠等盃酒を献ず。・・・實平は土肥實平、宗遠は土屋宗遠、平塚です。
――この間、北條殿父子已下、伊豆・相模の人々は、各々御馬・御直垂等を賜わる。
――其の後、實平を以て御使いと爲し、松田の御亭(故中宮大夫の進の旧宅)を修理すべきの由、中村の庄司宗平に仰せらると<云々>。 ・・・中村の庄司宗平は、中村党の長男宗平です。



この後の19日に関しては、読みだけやりました。解説は来週ですね・・・でも、最近気が付いたんだけど、「前回はどこまで?」と先生がお聞きになると、生徒側の答えがずれるんですね。それは、この「読み」をどこまでやったか、ということで受け取り方の違いだと思うのです。「読み」だけで、ノートにご自分で「注」を入れられたりする方は、そこでもう講義も受けた、と言う気分になっちゃうのではないかと思うので・・・これは、私のような横着&無学な生徒には困るんですネェ(^_^;

○十九日戊戌(じつぼ)。 伊東次郎祐親法師。爲屬小松羽林。浮船於伊豆國鯉名泊。擬廻海上之間。天野藤内遠景窺得之。令生虜。今日相具參黄瀬河御旅亭。而祐親法師聟三浦次郎義澄參上御前。申預之。罪名落居之程。被仰召預于義澄之由。先年之比、祐親法師欲奉度武衛之時。祐親二男九郎祐泰依告申之。令遁其難給訖。優其功、可有勤賞之由。召行之處。祐泰申云。父巳爲御怨敵爲囚人。其子爭蒙賞乎。早可申身暇者。爲加平氏上洛<云々>。世以美談之。其後。加々美次郎長清參著。去八月上旬出京。於路次發病之間。一兩月休息美濃國神地邊。去月相扶。先下著申斐國之處。一族皆參之由承之。則揚鞭。兄秋山太郎者。猶在京之旨申之。此間兄弟共屬知盛卿。在京都。而八月以後。頻有關東下向之志。仍寄事於老母病痾。雖申身暇不許。爰高橋判官盛綱爲鷹裝束。招請之次。談話世上雑事。得其便。愁不被許下向事。盛綱聞之。向持佛堂之方合手。殆慚愧云。當家之運因時者歟。於源氏人々者。家礼猶可被怖畏。矧亦如抑留下國事。頗似服仕家人。則稱可送短札。献状於彼知盛卿云。加々美下向事。早可被仰左右歟<云々>。卿翻盛綱状裏有返報。其詞云。加々美甲州下向事。被聞食候訖。但兵革連續之時遠向。尤背御本懐。[公の下に心]可歸洛之由。可令相觸給之趣所候也<云々>。

――10月19日 戊戌
――伊東の次郎祐親法師、小松羽林に属かんが爲、船を伊豆の國鯉名の泊に浮べ、海上を廻らんと擬するの間、天野の籐内遠景これを窺い得て、生虜らしむ。
――今日相具し黄瀬河の御旅亭に参る。
――而るに祐親法師が聟三浦の次郎義澄、御前に参上しこれを申し預かる。
――罪名落居の程は、義澄に召し預けるの由仰せらる。
――先年の比(ころおい)、祐親法師は、武衛を度り(はかり)奉らんと欲するの時、祐親の二男九郎祐泰、これを告げ申すに依って、その難を遁れしめ給いをはんぬ。
――その功に優じ勧賞(げんじょう)有るべきの由、召し行うの處、祐泰は申して云く、父すでに御怨敵として囚人と爲す。
――その子爭か(いかでか)、賞を蒙らんや。
――早く身の暇を申すべしと、てへり。
――平氏に加わんが為上洛すと。
――世以てこれを美談とす。
――その後加々美の次郎長清参着す。
――去る(さんぬる)八月上旬京を出る。
――路次に於いて發病するの間、一兩月、美濃の國神地邊(かみじのあたり)に休息す。
――去る(さんぬる)月、相扶かり、先ず甲斐の国に下着するの處、一族皆參るの由、これを承り、則ち鞭を揚ぐ。
――兄秋山の太郎は猶在京の旨これを申す。
――この間兄弟は共に知盛卿に属し、京都に在り。
――而るに八月以後、頻りに関東下向の志有り。
――仍って事を老母の病痾(びょぅが)に寄せ、身の暇を申すと雖も許されず。
――爰に高橋の判官盛綱は、鷹装束の為招請するの次いでに、世上の雑事を談話す。
――その便を得て、下向を許されざる事を愁う。
――盛綱は、これを聞き、持佛堂の方に向かい手を合わす。
――殆ど慚愧して云く、當家の運この時に因るものか。
――源氏の人々に於いては、家礼に猶、怖畏せらるべし。
――矧や(いわんや)また、下国を抑留するが如き事、頗る家人に服仕するに似たり。
――則ち短札を送るべしと称して、状を彼の知盛卿に献じて云く、加々美下向の事、早く左右を仰せらるべきかと<云々>。
――卿は盛綱の状の裏を翻し返報有り。
――その詞に云く、加々美甲州に下向の事、聞こし食され(きこしめされ)候いをはんぬ。
――但し兵革連続の時、遠向尤も御本懐に背く。
――急ぎ帰洛すべきの由、相触れしめ給ふべきの趣候所なりと<云々>。

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

やれやれ、やっと終わりました♪最近のノートとしてはかなり力入れて書いたゾ〜\(^^)/
「平家物語」に乗っちゃったので、こちらが疎かになってはいけないと気合入れました!!

当日は、年始の会ということで、紅白のお饅頭と幹事さんのお心入れのお茶を頂きました。幹事さんてほんとに大変ですネェ(^_^;
紅白饅頭は、最初、え?今頃紅白饅頭っていうのも鎌倉なのに?と思いましたが、いやいや、これが「さすが鎌倉」だったのですよ♪
美味しいの(*^-^*)実は大福を紅白の皮に仕立てて有ったのですね(^^)vなので、ちゃんとものし紙とってあります(^^)v

で、お茶を飲みながらのお話で、先ほどの「俣野五郎」について、やはり、先生が代表を勤めていっしゃった、「国宝史跡研究会」いう会の関係者の方もいらっしゃって、俣野五郎を祀った俣野の大日堂にいらっしゃったお話などもしてくださいました。其の時、俣野五郎は大庭景親の弟、鎌倉権五郎景政も尊敬していたという武将と伺いました。こういう地味系武将の話には弱いのでへぇ〜♪
大庭の主従系統はかなりねじれていて(この時代では当然でもあります)、という話は、あちこちのドラマなどの寄せ集めで聞きかじりしてはいましたが、源氏→平家→源氏という系統や、源氏一辺倒で仕えた人々も居て、いろいろ大変だったらしい(^_^;
それでも、こうして時代を超えて、名が残り、所領地の地名も残っているのは、複雑な仕え方をした甲斐があったというのでしょうか。

そういえば、先生から、「皆さんは鎌倉の世界遺産登録についてどう考えますか?」
というご質問があって、ちょつと挙手で大雑把に意見を問われました。まあ2対1で賛成多数、と言う所ですか(^^ゞ私としては反対一票だったのですが・・・実は先生も苦しみながら反対と言う立場でいらしたのです。

先生としては、登録されるのは勿論嬉しい!
しかし、登録後、海外から「世界遺産鎌倉」を見に訪れた方たちに、これが「世界遺産鎌倉」です、と見せる事が出来るものがあるのか?という危惧がおありなのだそうです。

勝手にお祭り騒ぎのように、それ世界遺産、世界遺産、と言っても、その後に続くいろんな規制にも、鎌倉市民は、あるいはそれまで鎌倉を楽しんでいた近隣市民は納得できるのか・・・(^_^;真面目に考えれば、そうそう簡単に世界遺産登録とお題目唱えるわけには行かないのしょう。

そうなんですよ!!実は去年の京都・奈良旅行で私は圧倒され続けでしたから(^_^;鎌倉は勿論素晴らしい街です。しかし、あまりにも現代に近すぎません?しかも世界的スケールの遺跡もないですよね・・・。それにまた、世界遺産に登録去れたために起こる個人資産の凍結とか・・・いらっしゃるのですよ!友人のご実家の「山」が世界遺産に指定された熊野の一部にありまして、そこは個人資産凍結されてしまったのです。そうなったら、鎌倉の市民の方たちはどうなさるのでしょうか(^_^;

ただ、鎌倉暮らしが長い娘としては、そして、留学生たちとのお付き合いが多い学生としては、
「留学生たちは鎌倉が好きだよ♪お休みのたびによく出かけるよ」
「京都は敷居が高いみたいだけど、鎌倉は行きやすい」(まぁ地理的なこともありますが・・・)
と、申しまして、できれば世界遺産になったらいいな〜♪という雰囲気です。

公家の文化はやはのり、あまりにも雅すぎますけど、武家文化は、今の時代にも生きている所がありますしねぇ(^_^;
まあ、鎌倉市民の方たちはどうお考えになるのでしょう(^^ゞ


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