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1月20日(木)
「平家物語」転読

今日が最後の最終回!!
残念ですねぇ(^_^;
まだまだお聞きしたい事は山ほどなのですが(^^ゞ


第五回・「終局と残映」――語りつがれたもの


1.「先帝身投げ」

―「巻十一、10.先帝御入水の事―
いよいよ、「波の下にも都の候」ですよねぇ・・・(^_^;

源氏のつは物共、すでに平家の舟に乗り移りければ―中略―新中納言知盛卿、小舟に乗って、御所の御舟に参り、「世のなかは、今はかうと見えて候。見ぐるしからん物共、みな海へ入れさせ給へ」とて、ともへにはしりまはり、はいたり、のごうたり、塵ひろい、手づから掃除せられけり。女房達、「中納言殿、いくさはいかにや、いかに」と口々にとひ給へば、「めづらしきあづま男をこそ御らんぜられ候はんずらめ」とて、から\/とわらひ給へば、「なんでうのたヾいまのたはぶれぞや」とて、声々におめきさけび給ひけり。

「『めづらしきあづま男をこそ御らんぜられ候はんずらめ』とは普通ではとてもいえない言葉です」と先生。
「あづま男は色黒く髭も生えている」という解説があり、
続けて
「『から\/とわらひ給へば』・・・もう最期を決めている男の明るさですね」
ムム、そりゃそうです。が〜「めづらしきあづま男をこそ」というのは解説無し?!
これはオトコ先生からは言いにくい?のですかねぇ・・・・(^_^;
オナゴのA先生は、あっさり、
「東国武士の乱入の後に起こる女性たちの深刻な事態への覚悟を冗談めかして言う」
という解説が有り、はっとした記憶がありました。
だから、「なんでうのたヾいまのたはぶれぞやとて、声々におめきさけび給ひけり。」になるのではないかな、と(^^ゞ

頂いた資料の中に「延慶本の女房たちの回想」というのが載ってました。

新中納言の今はの時、たはぶれて宣ひし事さへ思ひ出でられて悲しからずと云ふ事なし。


そうそう、知盛って、このエピソードがあまりにも有名で、おまけに歌舞伎の碇知盛のイメージもあって、
豪傑、豪放磊落のイメージが強いけど、A先生のお話の時、
「平家切っての知将・謀將だが、病身であった!」という解説がありました。
戦いの途中、病が篤くなり二度も京都に帰った、という紀六が「玉葉」にあるそうです!!
だから、凡人宗盛を総大将として立て通したのですかねぇ・・・思えば竹中半兵衛も病気がちでした(^_^;

まあ、重盛にしても、知盛にしても病ガチな人って、けっこう思わぬ遠目を利かせますよね・・・時空を越えた遠目を。
思えば平家全盛時のヒーローは重盛でした。そして没落していく時のヒーローは知盛。
二人とも時空を越えた目で平家の没落を見通していたのでしょうか。

大体自分から、船の中をかたずける綺麗好きって・・・と思ったら、
日下力著「『平家物語』誕生の時代」の中に
「死ぬ前にきれいにしようとしたんですね。他の場面でも同じように振舞う人物が出てきますが、昔の人はよくそうしたようです。」
という一文があって、アララ特に神経質というわけではなかったのね(^^ゞ

あ、日下先生のこの本は、安いこともあるのですが、お友達に紹介してけっこう喜ばれました(^^)v宣伝

さあ、ここで

二位殿は、このありさまを御らんじて、日ごろおぼしめしまうけたる事なれば、にぶ色のふたつぎぬうちかづき、ねりばかまのそばたかくはさみ、神璽をわきにはさみ、宝剣を腰にさし、主上をいだきたてまッて、「わが身は女なりとも、かたきの手にはかヽるまじ。―後略―」とて、ふなばたへ歩み出でられけり。主上ことしは八歳にならせ給へども、御としのほどよりはるかにねびさせ給ひて、御かたちうつくしく、あたりもてりかヾやくばかり也。御ぐしくろうゆら\/として、御せなかすぎさせ給へり。あきれたる御さまにて、「尼ぜ、われをばいづちへ具して行かむとするぞ」と仰せければ、いとけなき君にむかひたてまつり、涙をおさへて申されけるは、「君はいまだしろしめされさぶらはずや。先世の十善戒行の御ちからによッて、いま万乗のあるじとむまれさせ給へども、悪縁にひかれて、御運すでにつきさせ給ひぬ。―中略―この國は粟散辺地とて、心うきさかゐにてさぶらへば、極楽浄土とて、めでたき処へ、具しまいらせさぶらふぞ」となく\/申させ給ひければ、山鳩色の御衣に、びんづら結はせ給ひて、御なみだにおぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしおがみ、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其の後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪のしたにも都のさぶらふぞ」となぐさめたてまッて、ちいろの底へぞ入り給ふ。

ウーム、凄い烈女です!!
思えば、何でこの烈女から宗盛とか徳子とかふにゃ〜としたのが生まれちゃったんだろう?大疑問です(^_^;
でも、天皇といえども孫に当たる安徳帝には優しいおばあちゃまなのだわぁ(^^)
「君はいまだしろしめされさぶらはずや・・・あなたはまだご存知なかったのですねぇ」と先生もここわざわざ口語訳なさいます。
柔らかな帝のおぐしを撫でさすりながら、涙を堪えて言い聞かせているオバアちゃまですよ。

ついでに、大昔の「平家」のテキスト引っ張り出したら、
「十善戒行」の説明が空欄にメモしてあって・・・
十善・・・従悪を行わぬこと・・・不殺生・不倫盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見を保つこと。

でー、今、広辞苑で確認したら、其のとおりの解説があって、更に
「十善戒」というのが載ってまして、「十善を保つための戒め」とありました♪


「主上ことしは八歳にならせ給へども、って、今の七歳です。」
「あきれたる御さまにて・・・よく分からないご様子で」と、先生。

わからないですよねぇ・・・だって今まで蝶よ、花よできたものを、
突然「御運すでにつきさせ給ひぬ」といわれても、そりゃあ理解に苦しむでしょう(^_^;

で、私は
「まづ東をふしおがみ、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其の後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば」
とあるのを読んで、
嗚呼日本じゃなあ!、と単純に思っていたのですが、これ、けっこう重要な問題を孕んでいるのだそうです(^^ゞ

それは、今回の講義では割愛されていたので(ナニシロ全五回で「平家物語」転読ですから(^_^;)、パスm(__)m
まあ、この先帝入水の場面は諸本によって異なるそうです。

四部本にただ「入海」とあるところ、
屋代本に「是は西方浄土へ」とあり、浄土思想がみられ、
覚一本に「東にむかはせ給ひて、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ」、その後「西にむかはせ給ひて」となって、
伊勢神道が入ってくる、のは見逃せない。
覚一本は、安徳帝入水の場面で、其の姿を、「山鳩色の御衣に、びんづら結はせ給ひて」と記し、
直前にある「御ぐしくろうゆら\/として、御せなかすぎさせ給へり」と明白に矛盾する。
しかし、「びんづら」の用例を検討し、神仏が、人間界に顕現するときに通例の「童子の姿」とみて、
神格的存在の暗示と解する斉藤真一の説を紹介し
「きわめて象徴的ですぐれた芸術性を獲得した表現」とする見方もある。
(別冊国文学bP5「平家物語必携ー全章段の解析」巻11・牧野和夫による)

「徳子も入水するが、長い髪を熊手に絡め取られて助けられてしまう。」
「乳母の大納言の佐も内司所を懐に入れて入水するが助けられてしまう。」

と、先生はおっしゃいますが、覚悟の程がちがうんじゃあ〜!と思うのは私だけ?




2.「能登殿最期」

―「巻十一、11.能登殿最期の事」―

「教盛と経盛」のお話です。
「母が違って、常に弟の教盛のほうが出世が早かった」
「名前の順序も教盛が先に来るが『平家物語』では常に対で扱われることが多い」

私、前回第四回「戦いの現実」―10.落ち足―のところで書いたんですが
「さる程に、門脇の平中納言教盛・修理大夫経盛、兄弟手に手を取り組み、鎧の上に碇を負うて、海にぞ沈み給ひける」
ということだったのですが・・・教盛は、死後に見事に浮かび上がったのですね\(^^)/

なんて(^_^;
でも、この教盛の母って「太皇太后権大夫藤原家隆女」って、あの家隆?!
「秋来ぬと目にはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる」の家隆?そりゃあ凄いよ、やっぱり!!
家隆は従二位まで昇って壬生の二位とか言われた定家のライバルですよ!!
教盛も「一門に中でも特に深く貴族社会の中に入り込んだ人物といわれている
(別冊国文学bP5「平家物語必携ー平家物語の人脈・松林靖明」)」

フーム・・・忠度もいるし、経正とか、平氏って、やっぱり貴族とか武士とか言うより文人ポイ感じだなぁ(^^ゞ

片や、経盛の母は、「陸奥守源信雅女」となっていますからまあ受領階級で四位・五位クラスですよねぇ・・・負けるなこれは(^^ゞ

まあともかく、
「教盛は一の谷で業盛を失い、嫡子の通盛も死に、嫁の小宰相も後を追って入水してしまった。」
「経盛はまた、一の谷で経正・経俊・敦盛を死なせてしまった」
「教盛58才、経盛62才。子供を亡くした老親の哀しみ。同じ哀しみを共有している老人集団」
そうですよねぇ・・・何が辛いって、年取って子供に先立たれるほど辛い物はない!
それまでの自分の人生の全否定になってしまうんですから!!
普通の状態でも死にたくもなります。ましてや・・・。

続いて、

小松の新三位中将資盛・同じき少将有盛、いとこの佐馬頭行盛、手に手を取り組んで一所に沈み給ひけり。

「行盛、というのは、重盛の一才下の弟の子です。弟は早死にしてしまったのです」
「こちらはみんな父のいない子供たちです」
あっ、そうか!それも対象になっているんですねぇ・・・(^^ゞ
重盛の弟って基盛という人ですね。
ともに母が高階基章女で、重盛亡き後はどうも小松一族全体に部が悪くなりますネェ・・・(^_^;
先生の示唆でいえば、重盛生存中から時子腹の宗盛たちに権力が移っていた、という事になるのですが(^_^;

ここで面白いのは、

清盛の弟たちの中では、頼盛一人が一門の都落ちに加わらず特異な存在である。母の池禪尼が忠盛の正妻的地位にあったため、早くから清盛とは対立していたようである。この頼盛をのぞいた清盛の弟と其の子供たちについて言えば、源平合戦の早い段階で戦死した者が多いのが特徴である。清盛亡き後の長老格である教盛・経盛は壇ノ浦まで生き延びるが、其の子供たちは教経(一の谷で戦死したとの噂もある)以外は殆ど一の谷で死んでいる。(別冊国文学bP5「平家物語必携ー平家物語の人脈・松林靖明」)

あー、そうなんだ!!
忠度が死んで、オロオロ泣いて、
清経・経正・経俊・敦盛・・・あっ可哀想だ・・・とウルウルしている間にそんな事実があったのだ!!
これって、けっこう源氏が死に絶えていくパターンと一緒じゃん!と、思ったのですね(^^)
結局、源氏が政子の実家北條氏に乗っ取られていくように、
平氏も時子の一族に乗っ取られて行くプロセスにあったのではないですかね?


まあ、重盛の子どもたちで言えば

(維盛は)彼の妻は鹿の谷事件の首謀者藤原成親の娘であったことが、彼の立場に影響を与えた物と思われる。―中略―維盛の弟たちのうち、資盛を除いて、清経・有盛・師盛・忠房の母は藤原家成の娘、つまり成親の姉妹であって、小松家と成親との関係は極めて深いものがある。(別冊国文学bP5「平家物語必携ー平家物語の人脈・松林靖明」)

という面も大きいでしょうけど、やはり時子腹というか、時子の実家の力が大きいのでは・・・。

でー、そうやって、一族が潔く身の始末を付けていく中に、総大将の宗盛は、というと・・・

人々はかやうにし給へども、大臣殿おやこは海に入らんずるけしきもおはせず、ふなばたに立ち出でて、四方見めく゜らし、あきれたるさまにておはしけるを、侍ども、あまりの心うさに、とほるやうにて大臣殿を海へつき入れたてまつる。右衛門督これを見て、やがてとび入り給ひけり。みな人は重き鎧のうへに、重きものを負ふたり、いだひたりして入ればこそ沈め、この人おや子は、さもし給はぬうへ、なまじゐにくっきゃうの水練にておはしければ、沈みもやりたまはず。大臣殿は右衛門督沈まばわれも沈まん、たすかり給はば、われもたすからむと思ひ給ふ。右衛門督も、ちヽ沈み給はば、我も沈まん、たすかり給はば、われもたすからむと思ひて、たがひに目を見交わして、およぎありき給ふほどに、伊勢三郎義盛小舟をつっとこぎよせ、まづ右衛門督を熊手にかけてひきあげたてまつる。大臣殿がこれを見て、いよいよ沈みもやり給はねば、おなじうとりたてまッてんげり。

「大臣殿おやこ、親子健在の者たちは死に切れない!」
「あきれたるさまにておはしけるを、茫然自失で何がどうなっているのかわからない。延慶本では鎧もつけていない」
「侍ども、あまりの心うさに、とほるやうにて大臣殿を海へつき入れたてまつる。
とうとう、周りの武士たちから海に突き落とされてしまう」
「まづ右衛門督を熊手にかけてひきあげたてまつる、子が先に助かっているのがミソ!子が助かるのを見れば、親はその前途が気がかりで死ねない」

ふーむ!偉いコッチャネェ・・・(^_^;
要するにふつうのいい人、いい親・・・何度も言いますけどね・・・市井の一市民としては微笑ましい人(*^-^*)
だけど、ここは戦場!あんたは大将!!(´∧`)〜ハァー
実は私は、宗盛がそう嫌いではありません(^^ゞ
現代なら当たり前の反応だ物ネェ・・・でもねぇ・・・そりゃあ知盛なんて人が傍にいたら悪目立ちも良いトコよ(^_^;

しかも、この後

大臣殿の御めのと子、飛騨三郎左衛門景経、小舟に乗って、義盛が舟に乗り移り、「我君とりたてまつるは、なに物ぞ」とて、太刀を抜いてはしりかかる。―中略―飛騨三郎左衛門景経、聞こゆる大ぢからのかうの者なれども、運や尽きにけん、いた手はおうつ、敵はあまたあり。そこにてつゐに討たれにけり。大臣殿は生ながらとりあげられ、目の前でめのと子が討たるヽをみ給ふに、いかなる心地かせられけん。

「宗盛の恥を思って命がけで飛び込んできた乳母子、これは主君の精神的裏切りです。
今井四郎と義仲、重衡と盛長、二人いれば全てこういう関係」と先生。
「大臣殿は・・・いかなる心地かせられけん、奥歯に物の挟まったような言い方ですが、
宗盛には乳母子の気持ちが理解できたかどうか(わからない)」


でも!資料には別の説もありました!!
「愚管抄、巻五」では結構冷たく↑のイメージどおり

宗盛は水練をする者にて、浮き上がり浮き上がりして、生かんとする心つきにけり。さて生け捕りにせられぬ。

なのですが、
「玉葉、養和元年(1181)八月一日条」では

(東國を源氏に、西國を平氏に委任せよとの頼朝提案に対する宗盛返答)
此の儀、尤も然るべし。但し故禅門閉眼の刻、遺言して云はく、我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸を頼朝の前に曝すべしと云々。然れば、亡父の誡め用ゐざるべからず。仍って、此の条に於いては、勅命たりと雖も、請け申し難き者也と云々。

「物語が、宗盛の未練者の面を強調しているが、実はこの遺言のため、平家の末路を見極めるためだった、という説もある。」
まあ、ちょっと苦しい気もしますが、そういうこともあるでしょう(^^ゞ

さーて門脇中納言教盛の、気弱な長男の通盛に対して、次男の教経!

凡そ能登守教経の矢さきにまはる物こそなかりけれ。矢だねの有ほど射尽くして、けふを最後とや思はれけむ、赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧着て、いかものづくり大太刀抜き、しら柄の大長刀のさやをはづし、左右に持ってなぎまはり給ふに、おもてをあはする物ぞなき。おほくの物ども討たれにけり。新中納言使者を立てて、「能登殿、いたう罪なつくり給ひそ。さりとてよきかたきか」との給ひければ、さては大将軍にくめごさんなれと心えて、うちものくきみじかにとって、源氏の舟に乗り移り、乗り移り、おめきさけんで攻めたたかふ。


まあ、当たる所ちぎっては投げ、ちぎっては投げ・・・という所ですが、ソレに対して、知盛は、
無用の罪をお作りなさるな、と窘めているんですねぇ・・・これは最早諦めムード!
とにかく、今の知盛にとっては、平氏が潔く散ることだけが大事なんですよね(^^ゞ

教経は義經を求めて走り回りあわやニアミスとなりますが、義經はさっさと逃げてしまいます。んー、なんで?
「能登守教経は26歳、義經は27歳。」と、先生。

判官かなはじとや思はれけん、やがてつヾいてもとび給はず。いまはかうと思はれければ、太刀・長刀海へ投げ入れ、甲も脱いで捨てられけり。鎧の草ずりかなぐり捨て、胴ばかり着て、おほ童になり、おほ手を広げて立たれたり。凡そあたりをはらってぞ見えたりける。おそろしなンどもおろか也。能登殿大音声をあげて、「われと思はん物どもは、よッて教経にくんでいけどりにせよ。鎌倉へくだッて、頼朝にあふて、物ひと詞言はんと思ふぞ。よれやよれ」―中略―能登殿ちっともさはぎ給はず、まっさきにすヽんだる安芸太郎が郎党を、すそをあはせて海へどうどけ入れ給ふ。つヾいてよる安芸太郎を弓手の脇にとってはさみ、弟の次郎をば馬手の脇にかいはさみ、ひとしめしめて、「いざうれ、さらばおのれら、死途の山のともせよ」とて、生年廿六にて、海へつッとぞ入り給ふ。

「最後の一働き。教経は四番打者」
「物語として、最後の一働きを見せねばならない・・・しかし空しい働き」
「教経は一の谷で死んでいる。こんな働きは出来ないという『吾妻鏡』の説」

教経一の谷討ち死にの実否
・「吾妻鏡、寿永三年(1184)」
 二月七日条・・・合戦当日  但馬前司経正・能登守教経・備中守師盛は、遠江守義定これを得たりと云々。
 同十三日条――義經邸に集められた首の中に「教経」
 同十五日条――経正・教経・師盛(已上三人、遠江守義定これを討ち取る。)

・「醍醐寺雑事記」(1186年以前執筆)
 去る三月二十四日、長門國に於いて、平家、源氏と合戦、平家討たれ了んぬ。
  自害 中納言教盛 中納言知盛 能登守教経

・「玉葉」(寿永三年二月十九日条)
 伝へ聞く、平氏、讃岐の八島に帰住す、その勢、三千騎許りと云々。渡さるる首の中、教経に於いては、一定現存と云々。又、維盛卿、三十艘ばかり相卒して南海を指し去り了んぬと云々。

  「現存」使用例
※ 「吾妻鏡、建久元年八月十六日条」 件の男、斬罪に行ふべき由、下知畢。今に現存、奇異の事也。
※ 「玉葉、治承四年十月八日条」    夜に入りて伝へ聞く、高倉宮、必定現存、
※ 「同、元暦二年七月十四日条、同二十三日条」    

「(資料の中で)三回に渡って、教経の死を記す。資料では、都で渡された首の中に教経の首があった、いや生きている」
の資料が一番信用できる。」
「資料の維盛は、別行動をとった。那智に行って入水をします」

「教経を討ったという遠江守義定というのは、甲斐源氏安田三郎義定。
れっきとした源氏の大将で、この人が私が討った、といえば、誰も反対できない。
一旦、首を取ったと云って、頼朝も恩賞を出したら、偽首だとわかっても訂正できない。」

フーム!そりゃあそうだ(^_^;
で、この遠江守義定についても、ちょっと載ってまして、頼朝の挙兵に呼応して富士川の合戦勝利の貢献から、
遠江守就任、建久元年下総守遷任に対する抗議、遠江守還任、さらに同年謀反の嫌疑によって処刑・・・という
「東国事情、武家社会の事情」と先生。

この辺は推測で行くしかない、とすれば、
やはり、偽首をかまされて、
その責任を取らされて左遷、それを抗議した段階で、
甲斐源氏潰しを狙っていた頼朝にあっさり切られた、トイウトコなんでしょぅか(^_^;

武士の世界も戦場での駆け引きより、政治的手腕が大事になってくるのよねぇ(^_^;



3.「内侍所都入」

―「巻十一、12.内侍所の都入の事」―

出た!「平家物語」を越えて、全文学の象徴になるような一言!!

新中納言、「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」とて、めのと子の伊賀平内左衛門家長を召して、「いかに約束はたがうまじきか」との給へば、「子細にや及候」と、中納言に鎧二領着せたてまつり、わが身も鎧二領着て、手をとりくンでぞ入りにける。

「見るべき程の事は見つ」という言葉こそ、全ての文学の底流に流れる象徴的な言葉だと思うのですよ。
人は自分が見るべきことを見了える爲に生きているわけで、時間的な長さ、事実関係の有無ではなく、ですね。
自分自身の中にある「見るべき程のことは見つ」という感覚の中で、人は自分の人生に幕を引くことができるんですよね。
逆に言うと、「見るべき程の事」を見てしまったら、生きていく意議がなくなる、というか、普通に生きていけなくなるのではないか、と。
それは、生物的に生き続ける、ということとは全く別の時限の話ですけど。
知盛は平家の武将としてだけでなく、一つの時代の「見るべき程の事」を見てしまった、
という感覚、あるいは感動、もしくは諦観の中に死んでいったのだとおもうのですねぇ。

先生は
「伊賀平内左衛門家長というのは、重盛の遺骨を掘り出した貞能の弟」
「いかに約束はたがうまじきか、自分は息子を見捨てて逃げてきた。念を押さずにはいられない」
「家長も主人の心を知っている。だから短く答える」
んー・・・自分は息子を見捨てて逃げてきた。念を押さずにはいられない、のかなぁ・・・(^_^;
それでは知盛像が小さすぎませんかねぇ?
やはり、ここは、全てを見終わった後の互いの覚悟の時を確認しあう、ということだと思うんですけど・・・(^_^

さあ、そこで・・・・

2003年版「湘南文学・第16号―特集・平家物語」の中で、赤羽根龍夫神奈川歯科大学教授がお書きになっていた
「平家物語を哲学する」という特集記事の中にあった「源平盛衰記」からの文があります。

知盛が海に沈んだ後、三十歳程の平家の武者が、矢を二、三本持って、知盛が海に入った船端へ出て来て海を睨んで立っていた。源氏の侍たちはそれを見て、何をするつもりであろうと固唾をのんで見守っていた所、「やや久しく海を睨んで後、弓矢をざぶっと投げ入れつつ、我が身も海につと入り、又も浮かまでしずみにけり」。これは一体どうしたことかと不審に思っていたところ、ある人が言うには、
「この者は一定(きっと)新中納言(知盛)の侍なり。中納言さる謀(はかりごと)賢き人にて、身わばよく認めて入りたりとも(再び浮かびあがらないように鎧を二両着て海に入ったが)、もし浮き上がる事もあらば、敵の手に掛からずして、汝射殺せと約束せらりたりけると覚ゆる。大臣(宗盛)父子沈みもやらで敵に虜られ給へるをも心憂くこそ覚しけめ。さればこそ主(知盛)の入りたる処を睨んで、別に仔細はなくして(浮かんで来なかったので)、共に海には沈むらめ。哀れこの人に世を譲りたらば(知盛を平家の頭領としたならば)縦ひ運の極みなりとも都にていかにもなり給ひなまし(こんなところで滅びないで潔く都で滅んだことであろうに)と惜しまぬ者はなかりけり。(巻第四十三)

この特集記事の中で、赤羽根龍夫神奈川歯科大学教授は「見るべき程の事は見つ」は

延慶本では「見るべき程の事は見つ。今はかうござんなれ」
屋代本では「今は見へき程の事は皆見終つ。此後有るとても、何事をか見へき」
長門本では「見へき事は見つ。今はさてこそあらめ。」
四部本では「見るべき事は見つ。今は何にかせん。」
百二十句本では「今は見るべきことは見はてつ。ありとてもなにかせん」

とあり、諸本とも知盛が「見るべき程の事は見つ」と言って自害したことは共通している。ただ『源平盛衰記』だけが、「今は何をか見聞くべき」となっている。

という比較を載せていらっしゃいます。そして、

しかし、知盛は本当にこの時「見るべき程の事は見つ。今は自害せん」と言ったのであろうか。言ったとして、知盛は其の時そう言って死んだのであるから、誰がそれを聞いて、誰に伝えたのであろうか。

とも問を投げかけていらっしゃいます。
それは、日下先生の解説と一緒に後ほど・・・♪



知盛入水をきっかけに次々に海に飛び込みます。
海上には討ち捨てられた平家の赤旗などが虚しく漂い、主を失った舟も漂っています・・・

海上には赤旗、赤じるし投げ捨て、かなぐり捨てたりければ、竜田河の紅葉ばを嵐の吹き散らしたるがこどし。みぎわによするしら浪も、うすぐれなゐにぞなりにける。主もなきむなしき舟は、塩にひかれ、風にしたがッて、いづくをさすともなくゆられゆくこそ悲しけれ。生け捕りには前の内大臣宗盛公・平大納言時忠・右衛門督清宗―中略―、僧には・・・中納言律師仲快―中略―、侍には・・・阿波民部重能父子、以上三十八人也。―後略。

宗盛・清宗父子の話は、今までにも散々書いてますが、普通に良い人!
でー、見事に生け捕りになりました(^_^;

平大納言時忠は、「この一門にあらざらん者は、みな人非人なるべし」
・・・俗に「平家にあらざるは人にあらず」と意訳されて有名になっちゃったのですが、それを言った人ですよね。
で、その人が、落ち行く先で「都へ還し給へ」と祈ったのも虚しく息子の時実とともに生け捕りに・・・ところが・・・(^_^;
これまた「ところが」で、時忠自身は配流先の能登で死去するのですが、
息子の時実はどっこい生き延びるのですねぇ(^_^;
息子の時実の入れ知恵で「姫君たちあまたまし\/候へば」ということで、
時忠は娘を義経に嫁がせて、義經の関心を買うことに成功します。其の割に本人は配流のままの死去ですが、
時実はあれこれあって、従三位まで進みます(^_^;どうなってんの?!

で、もう一人、中納言律師仲快というのは、
「1227年まで生きて比叡山のトップ―横川の僧都―にまでなった。実朝にも信頼されました」と先生からも。

この二人、いや三人か・・・時忠・時実父子と仲快のことが
泉さんの「平家」「平家人物辞典」
中丸さんの「平家礼賛」の「平氏人物辞典」 
に詳しく載っています。
ありがたいですねぇ・・・こういうとき、ぱっと出てくる人名録!!

でー、阿波民部重能父子ってのが、大問題!
最近も野村萬斎の「子午線の祭り」という芝居が評判になりましたが、その中でも重要な役割だった裏切り者の武士です。
其の裏切りが、知盛には分かったけれども宗盛には見抜けなかった(「巻十一、9.遠矢の事」に描かれています)!
でーも、裏切りというのを頼朝は許さない!
「あぶり殺しの刑になる」と、先生。

女房には、女院・北の政所・廊の御方・大納言佐殿・帥のすけ殿・治部卿局已下四十三人とぞ聞こえし

「女院は建礼門院徳子、北の政所は攝政基通妻、廊の御方は清盛と常盤の子、帥のすけ殿は時忠の妻、
治部卿局は知盛の妻、34歳」

出て来ました!治部卿局!第四回
この人は壇ノ浦まで付いて行ったけれど、特命があって生きながらえなければならなかった!
先生はご講義の中では時間の関係で、簡単にしか触れられなかったのですが
ご著書の日下力著「『平家物語』誕生の時代」の中に詳しく書いていらっしゃいます。

治部卿の局の特命というのも、実は彼女(&死んだ知盛と夫婦揃って)後高倉院(守貞親王)の乳母でもありました。
守貞親王というのは、安徳帝の一才下の弟ですが母親は平家の女人では有りません。
七条院藤原信隆女殖子です。
ですから安徳帝にとっては大変危険な存在でした。それを抹殺せずに取り込んだ、という所が、
この時の清盛の太っ腹!こういう仕方を見ると清盛ってやっぱり大変な人物ですよ(*^-^*)

でー、その守貞親王も当然都落ちに同道させられて(ナント知盛の邸に身柄を引き取っていたと言う!)壇ノ浦にいたのです!!
先生は「安徳帝に万が一の事があった時には守貞親王を、という考えがあった」ということで、
そうですよね、当時はまだ子供の生存率低いはずです。まして不慣れな旅の連続ですから・・・。

治部卿局は夫の死を横目で見ながら、壇ノ浦にいる守貞親王を、都に連れ帰らねばならない役目があったのですね。
勿論都には既に後鳥羽天皇が即位しています。
しかし、守貞親王は、現実に後白河法皇の皇孫です。源氏もそのままにしておくわけには行きませんから。

さあ、そこで、都に帰っても守貞親王の落ち着く所がない!
そこで、もう一人の乳母(親王の乳母はふつう三人いる!)の藤原基家の邸に落ち着きます。
ナントこれが頼盛女の嫁ぎ先、つまり基家と頼盛女の夫婦がもう一組の乳母&乳母夫だったわけで、
当時は、基家の母が上西門院の乳母だった関係で、上西門院の御所になっていたのです。

しかも、基家と頼盛女夫婦の間に出来た北白川院(陳子)が六歳上にもかかわらず守貞親王の妻になります!!
(まあ高貴な人の添い伏は年上が多いのですが)
つまり、頼盛はこの時はもう死んでますけど(1185年沒)生きていれば帝の外祖父になれたわけ(^^ゞ
もうこのへんでへぇ〜♪でしょ。

でも守貞親王は出家をしてしまうのです。
守貞親王と北白川院との間にはたくさん子供が生まれてますが、其の子供たちも出家しています。
ところがここに承久の乱勃発!
後鳥羽天皇・順徳天皇が隠岐・佐渡に流されます!!当然その系列はアウト!
順徳天皇は教盛女の教子の産んだ修明門院(重子)の子でしたけど・・・ウーム!残念!!

さあ、そこで、守貞親王やぁ〜い!
でも、彼は無欲な人で・・・って、守貞親王は、壇ノ浦で「見るべき程のことは見」てしまったのですよ、ね、きっと。
と、私は考えます。
たぶん、彼は治部卿の局の許で、治部卿の局が感じるのと同様な悲嘆を感じていたと思う!
当時の乳母との繋がり方から云えばね(^_^;
で、固辞します。
そこで、彼の子供たち・・・みんな出家している・・・あっ一番下が残ってた!
↑だから、出家させていたんだと思う、守貞親王の親の意思として、我子たちの無事を祈るには出家させるしかない、と
早々に出家させていたんじゃないだろうか。

後堀河天皇誕生です♪・・・天皇の父として守貞親王も上皇となり、後には「後高倉院」の諡号が送られます。

そして、後堀河天皇の乳母になったのは、あの大納言成親女成子!
なんだ、又成親か!!
大納言成親の娘は維盛の妻になっている娘の他にもう一人いて、それが又後堀河天皇の乳母です。
成親自身は鹿谷の首謀者ですが、成親妹は重盛の妻!
成親女は維盛の妻、もう一人の女は清経(妹と重盛の間の子)の妻、息子の成経の妻は教盛女(^_^;
凄いねぇ・・・こんなに平家に入り込んでいて、なお裏切ろうとする成親の根性が凄い!

後堀河天皇の後はその子の四条天皇が即位します。
まあ、四条天皇は11才で即位して12才で崩御されますが・・・
この当たりまで平家の血は天皇家の中に脈々と続いていたわけですネェ・・・フゥ疲れた(^_^;
ちなみに、当然大納言成親女成子は自分の娘を四条帝の乳母にしましたm(__)m最敬礼

ついでに、維盛北の方と成子は母が違うけれどいずれも定家の姉です。
維盛北の方の母は京極局、成子の母は坊門局というわけです。
いやぁ・・・歌舞伎の閨閥も凄いけど、そんなどころじゃないですねぇ・・・貴族の閨閥つて(^_^;

でー、第四回の時に
治部卿局が大変長命で、
「承久の乱後の宮中まで生き残って実力を発揮した」
「娘(中納言の局、夫は教盛の孫範茂)に、父(知盛)の最期の話をしたのではないか。
ソレが流布されて(平家物語に繋がった)」と先生から伺った、と書きました。

今回も↑「湘南文学」の赤羽根教授の特集記事の中にも、同様の推論が載っておりました。先程の

しかし、知盛は本当にこの時「見るべき程の事は見つ。今は自害せん」と言ったのであろうか。言ったとして、知盛は其の時そう言って死んだのであるから、誰がそれを聞いて、誰に伝えたのであろうか。

という問いにご自分が答える形で

重盛の場合と同様に、一連の知盛の発言は『平家物語』の作者の創作ではないだろうか。
否、知盛の直ぐ近くに知盛の最後を悲痛な気持ちで見ていた人々がいたのである。それはまず第一に夫の最期を悲痛な思いで呆然と凝視していた知盛の妻であり、さらには二位の尼の壮絶な死に様を目の前で見、身を投げた建礼門院が熊手で引き上げられた時、「あなあさまし。あれは女院にてわたらせ給ふぞ」と喚き叫んだ女房達なのである。――彼女たちこそ最初に「平家の物語」を語りだした証人だったのである。

として、都落ち以後、彼女たちが無能な宗盛を見限り知盛に信頼を寄せル二至ったこと、
そして、壇ノ浦では、知盛の一挙手一投足を必死の思いで見ていたこと、にもかかわらず、
知盛の「めずらしきあづま男をこそ」という冗談に潜んでいた、知盛の今は此れまで、という思いは伝わらなかったこと。
それを見抜けたのは二位の尼だけであり、それゆえにこそ、女たちの先頭を切って安徳帝と共に入水をしたこと、
そこに至って、女たちも初めて知盛の真意に思い至り次々と入水を始めたこと、などを述べていらっしゃいました。

しかし、死に切れず源氏に捉えられた女たちが都へ送られる道中の間

彼女たちは目に焼きついた知盛の活躍を何度も何度も語りあったことだろう。
 『延慶本平家物語』には次のようにある。
   都も近くなるままに、憂かりし波の上の古里、雲居の外に成り果てて、そこはかとも見え分かず。新中納言[知盛]の今わの時、戯ぶれて宣し事さへ思出られて、悲しからずと云事なし。さるままには甲斐無き御涙のみ、尽せざりけり。(第六本)
 角田文衛は『平家後抄』で「壇ノ浦から引き揚げてきた女性の中で最も注目されるのは、建礼門院を別格とすれば、知盛の妻の治部卿の局である」として次のように言う。―中略―
 多くの論者が指摘するように『平家物語』には知盛に対する思い入れがある。しかしそれは捕虜になって都に連れてこられた女房たちの知盛に対する熱い思い入れによるのであるる『平家物語』は何よりも「知盛語り」として始まったのではないだろうか。

と、述べていらっしゃいます。

日下先生の「第三回の締めくくりの言葉」
「平家は滅びて源氏の世の中になった、けれど、全ての平家が滅んだわけではなかったんです」
「その生き残った平家の人々が、『平家物語』を創っていった」
とおっしゃつた言葉にも呼応するものがある、と思い、あわせて掲載しました。

なんだか進まないですネェ。もっとあっさり、のつもりだったんだせけど・・・だんだん濃くなる(^_^;


4.「大臣殿被斬」
―「巻十一、17.大臣殿誅罰の事」―






5.「重衡被斬」
―「巻十二、1.重衡斬られの事」―







6.「女院死去」
―「平家物語灌頂の巻、8.女院御往生の事」―







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