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2月14日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 10月19日〜10月日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

今日は、どうも、体調がパッとせず、行こうか、どうしようか多に迷いました・・・。でも、やっぱり頑張らなくちゃ〜!!と出かけたら、ナント!横須賀線乗り入れの新宿ラインがどっかで事故があって運休!!え〜っ!というと、20分間電車がない!!オイオイ・・・もう、ホーム中、あっちでも、こっちでも、電車が来なくて、遅れるから、人身事故だって、また事故よ〜、など、携帯持ってウロウロする人たちばかり!!
凄いですネェ・・・今や、おじさんもおばさんも漏れなく携帯族です(^^ゞ
まあ、席の取りっこがあるから早く出ているので遅刻にはなりませんが、ぎりッチョンで滑り込み(^_^;

で〜、先生から、「私もこの三月で○○大学を退職することにしましたので、もう少し、皆さんとも一緒に勉強できる時間が取れるようになるでしょう」というご挨拶があり、みんな大拍手(^_^;
拍手ってのはおかしいんだけど、皆さん、心配していらっしゃったのですよね。一昨年のご病気があって、まあ随分お元気にはなってらっしゃますが、やはり、お年はお年ですからm(__)mでも定年まで3〜4年くらいあるでしょ・・・勿体無い、といえば勿体無いんでしょうが、やはり、先生ご自身の研究などもおありなんでしょうしねぇ♪「源氏」の先生なんて、「学者は七十からですよ」なんておっしゃった事もあるくらいですから(^^)より充実した研究生活をまっとうなさるためにもよかったですね〜♪という、皆様の拍手だったのでしょう(^^)
というわけで、本日のご講義です!!
。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

○十九日戊戌(じつぼ)。 伊東次郎祐親法師。爲屬小松羽林。浮船於伊豆國鯉名泊。擬廻海上之間。天野藤内遠景窺得之。令生虜。今日相具參黄瀬河御旅亭。而祐親法師聟三浦次郎義澄參上御前。申預之。罪名落居之程。被仰召預于義澄之由。先年之比、祐親法師欲奉度武衛之時。祐親二男九郎祐泰依告申之。令遁其難給訖。優其功、可有勤賞之由。召行之處。祐泰申云。父巳爲御怨敵爲囚人。其子爭蒙賞乎。早可申身暇者。爲加平氏上洛<云々>。世以美談之。其後。加々美次郎長清參著。去八月上旬出京。於路次發病之間。一兩月休息美濃國神地邊。去月相扶。先下著申斐國之處。一族皆參之由承之。則揚鞭。兄秋山太郎者。猶在京之旨申之。此間兄弟共屬知盛卿。在京都。而八月以後。頻有關東下向之志。仍寄事於老母病痾。雖申身暇不許。爰高橋判官盛綱爲鷹裝束。招請之次。談話世上雑事。得其便。愁不被許下向事。盛綱聞之。向持佛堂之方合手。殆慚愧云。當家之運因斯時者歟。於源氏人々者。家礼猶可被怖畏。矧亦如抑留下國事。頗似服仕家人。則稱可送短札。献状於彼知盛卿云。加々美下向事。早可被仰左右歟<云々>。卿翻盛綱状裏有返報。其詞云。加々美甲州下向事。被聞食候訖。但兵革連續之時遠向。尤背御本懐。[公の下に心]可歸洛之由。可令相觸給之趣所候也<云々>。

――10月19日 戊戌 (ぼじゅつ)
――伊東の次郎祐親法師、小松羽林(こまつうりん)に属かんが爲、船を伊豆の國鯉名の泊に浮べ、海上を廻らんと擬するの間、天野の籐内遠景これを窺い得て、生虜らしむ。
――今日相具し黄瀬河の御旅亭に参る。
   ・・・伊東祐親は伊豆の伊東が本官の、伊豆では一番大きな豪族です。その娘と頼朝は恋人になって子どもも設けたけれど、反対した祐親のために子供は殺されてしまった。一方、頼朝が伊豆に流されてきた時、北條時政は単なる監視役で所領も財産もなかった。
小松羽林は平維盛。清盛の嫡孫です。「浮船於伊豆」というのは、伊豆・三浦の武士は海上に強い。そこで、伊東祐親は維盛のために船を仕立ててやろうとした。
「伊豆の國鯉名の泊り」というのは、下田の弓ヶ浜近辺、下田市田牛(たうじ)。下田近辺には、頼朝が隠れていた小島がたくさんあります。鯉名の泊りは波もなく静かな港で、船を出すのによい。室町末期頃まで関東と関西を結ぶ風待ちの港として栄えていました。白砂清松の保養地として、南伊豆随一とされます。手石の「弥陀の岩屋」という天然記念物の海食洞窟がある。干潮の時は小舟で入ると金色の阿弥陀様が出てくるというんでする勿論幻像ですよ(^^)
で、天野遠景は、これを察知して、伊東祐親を捉え、頼朝の前に連れてくる。

――而るに祐親法師が聟三浦の次郎義澄、御前に参上しこれを申し預かる。・・・祐親の女婿の三浦義澄がやってきて、祐親を預かりたいと申し出るんですね。
――罪名落居の程は、義澄に召し預けるの由仰せらる。・・・調べが決着したら預けよう、ということになる。

――先年の比(ころおい)、祐親法師は、武衛を度り(はかり)奉らんと欲するの時、祐親の二男九郎祐泰、これを告げ申すに依って、その難を遁れしめ給いをはんぬ。・・・祐親が、頼朝の命を狙った時、祐親の次男の九郎祐泰(すけやす)が、頼朝に危険を知らせたため助かった。
――その功に優して勧賞(げんじょう)有るべきの由、召し行うの處、祐泰は申して云く、父すでに御怨敵(きゅうてき?・・・ごおんてきじゃないのかな(^_^;)として囚人と爲す。
――その子は爭か(いかでか)、賞を蒙らんや。
――早く身の暇を申すべしと、てへれば、平氏に加わんが為上洛すと。
・・・その手柄に免じて褒美をやろうとした時、祐泰は、父は、既に囚われの身で、その子の自分がどうして褒美をもらえるだろうか。早く暇をください、自分はこのまま上洛して、平家について働こうと思うと言って上洛した。

――世以てこれを美談とす。・・・世間はこれを褒め称えた。
この下りが寿永元年・二月十四日に出ています。と、このテキストだけでは駄目なんだなあ・・・(と、先生溜息!!)やはり、国史大系のせめて一巻だけでも持って来ないと。

と、おっしゃいますが、全部持ってくると四巻です!!重い!!一巻だって・・・え〜!持ってくるの、とヒソヒソ。私は私で、嗚呼、こりゃやっぱり買わにゃヤバイ!と反省(^_^;だって、ネット検索すれば全文出ているところたくさんありますから、必要な度に検索して活字もらったり、原文読ませてもらったりしてました。テキストにないところは、大体図書館でコピーするんですが、その前に使う時はネットに出ているの借りてます(^_^;もっともねネットのは国史大系本てないみたいなので、必ず、図書館コピーでチェックしますけど(^_^;)

というわけで、先生が読んでくださったので、書き入れておきます。実はこの後、とうとう買ったのです\(^^)/詳しくは↓の当日感想

養和二年→寿永元年に改元(5月27日)ので、国史大系本には寿永元年二月の項に出ています。

養和二年・二月十四日

○十四日 乙卯。伊東次郎祐親法師者。去々年已後。所被召預三浦介義澄也。而御臺所御懷孕之由風聞之間。義澄得便。頻窺御氣色之處。召御前。直可有恩赦之旨被仰出。義澄傳此趣於伊東。伊東申可參上之由。義澄於營中相待之際。郎從奔來來云。禪門承今恩言。更稱耻前勘。忽以企自殺。只今僅一瞬之程也<云々>。義澄雖奔至。已取捨<云々>。

2月14日 乙卯(いつぼう)
――伊東の次郎祐親法師は、去々年已後、三浦の介義澄に召し預けらるる所なり。
――而るに御台所御懐孕の由風聞するの間、義澄便を得て、頻りに御気色を窺うの處、御前に召 し、直に恩赦有るべきの旨仰せ出さる。
――義澄この趣を伊東に傳う。伊東参上すべきの由を申す。
――義澄營中に於いて相待つの際、郎従奔り来りて云く、禅門今の恩言を承り、更に前勘を耻ると稱し、忽ち以て自殺を企つ。
――只今僅か一瞬の程なりと<云々>。
――義澄奔り至ると雖も、すでに取り捨てると<云々>。

養和二年・二月十五日
○十五日 丙辰。義澄參門前。以堀藤次親家。申祐親法師自殺之由。武衛且歎且感給。仍召伊東九郎。<祐親子>。父入道其過雖惟重。猶欲有宥沙汰之處。令自殺畢。後悔無益食臍。况於汝有勞哉。尤可被抽賞之旨被仰。九郎申云。父已亡。後榮似無其詮。早可給身暇<云々>。仍被加不意誅殺。世以莫不美談之。武衛御●豆州之時。去安元々年九月之比。祐親法師欲奉誅武衛。九郎聞此事。潜告申之間。武衛逃走湯山給。不忘其功給之處。有孝行之志如此<云々>。

2月15日 丙辰 (へいしん)
――義澄門前に参り、堀の籐次親家を以て祐親法師自殺の由を申す。
――武衛且つは歎き且つは感じ給ふ。
――仍って伊東の九郎(祐親子)を召し、父入道その過これ重しと雖も、猶宥し(ゆるし)沙汰有らんと欲するの処、自殺せしめをはんぬ。
――後悔臍(ほぞ)を食らうに益無し。況 や汝の有労を於いてをや。
――尤も抽賞せらるべきの旨仰せらる。
――九郎申して云く、父 すでに亡し。
――後榮はその詮無きに似たり。
――早く身の暇を給うべしと<云々>。
――仍って意ならずも誅殺を加えらる。
――世以てこれを美談とせざるは莫し。
――武衛豆州に御●するの時、 去んぬる安元元年九月の比ろほひ、祐親法師武衛を誅し奉らんと欲す。(他の本では●は座でした・・・つまり御座)
――九郎この事を聞き、潛かに告げ申すの間、武衛走湯山に逃給ふ。その功を忘れ給わざるの處、孝行の志有っ て此の如しと<云々>。

安元元年(1175)9月の頃、祐親が、頼朝を殺そうとした時、次男の九郎が知らせて助かったんですね。ところがこの「次男の九郎祐康」というのは字が違っています。(というわけで系図書いてくださいました。↓


                    曾我太郎祐信
                      ‖
                      ‖
                    [_母_]←祐泰が殺された後↑二人の子を連れて曾我祐信に嫁ぐ
                     ‖ 
                     ‖___┌十郎祐成(五歳)\曾我兄弟
                     ‖     └五郎時致(三歳)/
                     ‖ 
                ┌−河津三郎祐康(祐通)←工藤祐経に殺されてしまう
                | 
       祐親―――― |―伊東九郎祐清
                 | 
                 └−[_女_]
                     ‖
                     ‖―[_子_]
                     ‖
                    頼朝

(で〜、ここで、ちょっと曾我兄弟の敵討ちのお話に、ちょっと脱線♪「日本三大敵討ち」の一つとかね♪後二つは、当然「忠臣蔵」と「荒木又右エ門、鍵屋の辻」です。

(テキストに戻りまして・・・)

――その後加々美の次郎長清参着す。・・・甲斐源氏です。(資料の系図参照、と言う事になりますが・・・ネットでは見当たらない(^_^;仕方ないので下に書きますか(^_^;)
――去る(さんぬる)八月上旬京を出る。
――路次に於いて發病するの間、一兩月、美濃の國神地邊(かみじのあたり)に休息す。・・・京都から来る旅の途中で病気になり、美濃源氏の本官地、郡上八幡の近辺で休養したという。今の岐阜県武儀(むぎ)郡です。甲斐源氏の扱いについて、頼朝は冷たい。後々の扱いを考えると、この記事は興味深いものがあります。(これに関しては、坂東千年王国さんのここに詳しく載っています)
――去る(さんぬる)月、相扶かり、先ず甲斐の国に下着するの處、一族皆參るの由、これを承り、則ち鞭を揚ぐ。これは、「9月24日10月1日」のところで出てきましたね。
――兄秋山の太郎は猶在京するの旨これを申す。
――この間兄弟共に知盛卿に属して京都に在り。・・・知盛の配下として仕えていた。
――而るに八月以後、頻りに關東下向の志有り。
――仍って事を老母の病痾(びょぅあ)に寄せて、身の暇を申すと雖も、許されず。・・・お母さんが、病気だから、一旦國へ返してくれ、と言うのですが返してもらえない。
――爰に高橋の判官盛綱、鷹装束の為招請の次いでに、世上の雑事を談話す。
――その便を得て、下向を許されざるの事を愁う。
――盛綱は、これを聞きて、持佛堂の方に向かい手を合わす。
――殆(ほとほと)慚愧して云く、當家の運は斯くの時に因るものか。・・・こんな扱いをしているようでは平家ももう終わりだ!と盛綱さんが歎いたんですね。
――源氏の人々に於いては、家礼(けらい)に猶、怖畏(ふい)せらるべし。
――矧や(いわんや)また、下国を抑留するが如き事は、頗る家人を服仕するに似たり。
――則ち短札を送るべしと称して、状を彼の知盛卿に献じて云く、加々美下向の事、早く左右を仰せらるべきかと<云々>。
――卿は盛綱の状の裏を翻し返報有り。
――その詞に云く、加々美甲州下向の事、聞こし食され(きこしめされ)候いをはんぬ。
――但し兵革(ひょうがく)連續するの時、遠向(えんこう)するは、尤も御本懐に背き、急ぎ帰洛すべきの由、相触れしめ給ふべきの趣候所なりと<云々>。

○廿日 己亥。武衛令到駿河國賀嶋給。又左少將惟盛。薩摩守忠度。參河守知度等。陣于冨士河西岸。而及半更。武田太郎信義。廻兵畧。潜襲件陣後面之處。所集于冨士沼之水鳥等群立。其羽音偏成軍勢之粧。依之平氏等驚騒。爰次將上總介忠清等相談云。東國之士率悉屬前武衛。吾等憖出洛陽。於途中己難遁圍。速令歸洛。可搆謀於外<云々>。羽林已下任其詞。不待天曙。俄以歸洛畢。于時飯田五郎家義。同子息太郎等渡河追奔平氏從軍之間。伊勢國住人伊藤武者次郎返合相戰。飯田太郎忽被射取。家義又討伊藤<云々>。印東次郎常義者。於鮫嶋被誅<云々>。

――20日 己亥(きがい)
――武衛は駿河の國、賀嶋(かしま)に到らしめ給ふ。・・・「駿河の國、賀嶋」というのは、富士川の東側です。今富士市に加島とありますね。
――又、左少將惟盛、薩摩守忠度、參河守知度等、冨士河の西岸に陣す。
――而るに半更に及び、武田太郎信義、兵畧を廻らす。
――潜かに件の陣の後面を襲すの處、冨士沼に集まる所の水鳥等、群立す。
――其の羽音、偏へに軍勢之粧(よそほひ)を成す。

――之によって、平氏等、驚騒す。・・・もうそれで驚いてしまった。驚倒す、ですから。
・・・別のところでは、水鳥の羽音で敵が来るのがわかって勝った、というのがありましたが、ここでは、水鳥の羽音が敵が襲ってきた音に聞こえたんです。八幡太郎義家は鷹の列の乱れを見て敵の動静を知り、というのが「平治物語」に有りましたね。

――爰に次將上總介忠清等、相い談じて云く、東國之士率は、悉く前の武衛に属す。・・・上總介忠清というのは伊勢の国の小掾の息子です。藤原氏で佐藤忠清といいますが、この息子が景清です。ここで、今日の資料の「平家物語」巻5に何とあるかというと、「たヾ維盛が存知には、足柄をうち越えて坂東にていくさをせん」というのを、上總守が「福原をたヽせ給し時、入道殿の御定には、いくさをば忠清にまかせさせ給へと、仰候しぞかし―後略」と言って、維盛を押し留めてしまう、と書いてあります。どちらが本当でしょうね。

――吾等憖(なまじい)に洛陽を出でて、途中、己に圍みを遁れ難し。速かに歸洛せしめ、外(ほか)に謀(はからい)を搆えるべしと<云々>。・・・憖い、というのは渋々とか、しょうがなくて、ですね。渋々京都を出てきた!
――羽林已下、其の詞(ことば)に任せて、天曙を待たず俄かに以って歸洛しをわんぬ。・・・だから、その忠清の言葉に直ぐに賛成して、暁を待たずに京都へ帰ろう、としたんですね。

――ここでちょっと本日資料「平家物語」巻5の「富士川合戦」には何と書かれているか。

さる程に、福原には、勢のつかぬ先にいそぎ打手をくだすべしと、公卿僉議あって、大將軍には小松権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠度、都合その勢三万餘騎、九月十八日に都をたって、十九日には舊都につき、やがて廿日、東國へこそうったヽれけれ。

――「勢のつかぬ先」というのは、頼朝の、ということ。「九月十八日に都をたって」この都は福原です。「舊都」というのが京都です。

十月十六日には、するがの國清見が關にぞつき給ふ。都をば三万餘騎てでいでしかど、路次の兵めしぐして七万餘騎とぞ聞こえし。―中略―大將軍小松権亮少将維盛、侍大将上總守忠清を召して、「たヾ維盛が存知には、足柄をうち越えて坂東にていくさをせん」とはやられけるを、上總守申しけけは、「福原をたヽせ給し時、入道殿の御定には、いくさをば忠清にまかせさせ給へと、仰候しぞかし。八カ国の兵共みな兵衛佐にしたがひついて候なれば、なん十万騎か候らんる御方の御勢は七万餘騎とは申せども、國々の借武者どもなり。――後略
 さる程に、兵衛佐は足柄山を打ちこえて、駿河國きせ河にこそつき給へ。甲斐・信濃の源氏ども馳来てひとつになる。浮嶋が原にて勢ぞろへあり。廿万騎とぞしるいたる。

・・・・・ここで常陸源氏佐竹太郎の雑色が主人の文を奥方に届けようとする所を捉えて、源氏の様子を聞けば、ナント、・・・・

上總守これを聞いて、「あはれ、大将軍の御心のびさせ給たる程口おしい事候はず。いま一日も先に打手をくださせ給ひたらば、足柄の山打ちこえて、八カ国へ御出候ば、畠山が一族、大庭兄弟などかまいらで候べき。これらだにもまいりなば、坂東にはなびかぬ草木も候まじ」と後悔すれどかいぞなき。
又小松権亮少将維盛、東國の案内者とて、長井の斉藤別當實盛をめして、「やヽ實盛、なんぢ程のつよ弓勢兵、八カ国にいかほどあるぞ「ととひ給へ、斉藤別当あざわらって申しけるは、「さ候へば、君は實盛を大矢とおぼしめし候歟。わづかに十三束こそ仕候へ。實盛ほどゐる物は、八カ国にいくらも候。大矢と申ぢゃうの物の、十五束におとってひくは候はず。―(この後いろいろ関東武者の猛々しさを述べあげて後)―かう申せば君をおくせさせまいらせんとて申すには候はず。いくさはせいにはよらず、はかりごとによるとこそ申つたへて候へ。實盛今度のいくさに、命いきてふたヽびみやこへまいるべしとも覚候はず。」と申しければ、平家の兵共これきいて、みなふるいわなヽきあへりる。

 さる程に、十月廿三日にもなりぬ。あすは源平富士河にて、矢合わせとさだめたりけるに、夜に入て、平家の方より源氏の陣を見わたせば、、伊豆・駿河の人民・百姓等がいくさにおそれて、或いは野にいり、山にかくれ、或いは舟にとりのって海河にうかび、いとなみの火のみえけるを、平家の兵ども、「あなおびたヽしの源氏の陣のとを火のおほさよ。げにもまことも野も山も海も河もみなかたきでありけり。いかヾせん」とぞあはてける。その夜の夜半ばかり、富士の沼にいくらもむれゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん、たヾ一度にぱっと立ける羽音の、大風いかずちなんどの様にきこえければ、平家の兵共、「すはや、源氏の大ぜいのよするは。斉藤別當が申つる様に、定て搦手もまはるらん。とりこめられてはかなうまじ。こヽをばひいて尾張河洲俣をふせけや」とて、とる物もとりあへず、我さきにぞ落ゆきける。あまりにあはてさわいで、弓とるものは矢をしらず、矢をとるものは弓をしらず、人の馬にはわれのり、わが馬をば人にのらる。或は繋いだる馬にのってくゐをめぐる事かぎりなし。ちかき宿々よりむかへとってあそびける遊君遊女ども、或いはかしらけわられ、腰ふみおられて、おめきさけぶ物おほかりけり。
 あくる廿四日卯刻に、源氏大勢二十万騎、ふじ河にをしよせて、天もひヾき、大地もゆるぐ程に、時をぞ三ヶ度つくりける。

――この斉藤別當實盛というのは、武蔵野國長井の庄。もともと義朝に仕えて、平治の乱に大働きをしたんですがね義朝が討たれた後宗盛に仕えたんです。今、関東の案内者として来ている。この時は、結局闘わずして帰ることになりますが、やがて、寿永二年、再び維盛に従い、義仲との「篠原の合戦」(「平家物語」巻七「實盛」)で、白髪を染め、錦の直垂を着て討死します。
そうそう、歌舞伎で言えば「源平布引滝」です。「實盛物語」という副題がついてたかな?「實盛討死」なども言いますが、「熊谷陣屋」や「盛綱陣屋」に比べるとあまりメジャーじやないな(^_^;悲壮感はあるけれど、老武者として一花咲かせた幸せな最期だと思うせいかもしれません(^^))
――「十月廿三日」吾妻鏡では十月廿日です。「吾妻鏡」との書き方の違い、事実の記述にも違いがあります。
――「弓とるものは矢をしらず、矢をとるものは弓をしらず、人の馬にはわれのり、わが馬をば人にのらる。或は繋いだる馬にのってくゐをめぐる事かぎりなし。」・・・大変な慌てようですね。その慌てようが具体的に書かれている。
そうそう、具体的です♪「ちかき宿々よりむかへとってあそびける遊君遊女ども、或いはかしらけわられ、腰ふみおられて、おめきさけぶ物おほかりけり。」ってさ、そんな戦場に遊女などよんでチャラチャラしてっからだよ、お前らぁ〜!という感じしません?――筆者の呟き)
――「時をぞ三ヶ度つくりける」時の声、、大将が「エイエイ」と言って、家来たちが「お〜」と唱和するんですね。

――時に、飯田の五郎家義、同子息太郎等、河を渡り、平氏從軍を追奔之間、伊勢國住人伊藤武者次郎、返合(かえしあわせ)て、相戰う。・・・飯田の五郎家義というのは、平家の家人の大庭景親に従っていたが、石橋山の戦いから源氏へ付いたんですね。頼朝が落とした数珠を拾って届けたと、8月23〜4日に出て居ました。
――飯田太郎、忽ち射取らる。家義、又、伊藤を討つと<云々>。
――印東次郎常義は、鮫嶋に於て、誅せらるると<云々>・・・印東氏は千葉県成田市の「松崎」近辺。

○廿一日 庚子。 爲追攻小松羽林。被命可上洛之由於士率等。而常胤。義澄。廣常等諫申云。常陸國佐竹太郎義政。并同冠者秀義等。乍相率數百軍兵。未帰伏。就中。秀義父四郎隆義。當時從平家在京。其外驕者猶多境内。然者。先平東夷之後。可至關西<云々>。依之令遷宿黄瀬河給。以安田三郎義定爲守護遠江國被差遣。以武田太郎信義。所被置駿河國也。今日弱冠一人。御旅舘之砌。稱可奉謁鎌倉殿之由。實平。宗遠。義實等恠之。不能執啓。移尅之處。武衛自令聞此事給。思年齡之程。奥州九郎歟。早可有御對面者。仍實平請彼人。果而義經主也。即參進御前。互談往事。催懐舊之涙。就中。白河院御宇永保三年九月。曾祖陸奥守源朝臣<義家>。於奥州。与將軍三郎武衡。同四郎家衡等遂合戰。于時左兵衛尉義光候京都。傳聞此事。辭朝廷警衛之當官。解置弦袋於殿上。潜下向奥州。加于兄軍陣之後。忽被亡敵訖。今來臨尤恊彼佳例之由。被感仰<云々>。此主者。去平治二年正月。於襁褓之内。逢父喪之後。依繼父一條大藏卿<長成>。之扶持。爲出家登山鞍馬。至成人之時。頻催會稽之思。手自加首服。恃秀衡之猛勢。下向于奥州。歴多年也。而今傳聞武衛被遂宿望之由。欲進發處。秀衡強抑留之間。密々遁出彼舘首途。秀衡失悋惜之術。追而奉付繼信忠信兄弟之勇士<云々>。秉燭之程御湯殿。令詣三嶋社給。御祈願已成就。偏依明神冥助之由。御信仰之餘。點當國内。奉寄神領給。則於寳前。令書御寄進状給。其詞云。
   伊豆國御園 河原谷 長崎
     可早奉免敷地三嶋大明神
  右件郷園者。爲御祈祷安堵公平。所寄進如件
    治承四年十月廿一日
   源朝臣

――21日 庚子(こうし)。
――小松の羽林を追攻せんが爲、上洛すべきの由、士率等に命ぜらる。
――而るに、常胤・義澄・廣常等諫め申して云く。・・・維盛を追って京都に攻め上ろうとする頼朝に対して反対する関東武士。
――常陸國佐竹太郎義政、并びに同冠者秀義等、數百の軍兵を相率いながら、未だ帰伏せず。・・・常陸佐竹氏はまだ帰服していない。
――就中。秀義父四郎隆義は、當時平家に従いて在京す。・・・まして、秀義は京都にいる、というんです。
――其の外、驕者(きょうしゃ)猶、境内に多し。
――然者(しからば)、先ず、東夷を平ぐるの後、關西に至るべしと<云々>。
――之に依りて、黄瀬河に遷り宿せしめ給ふ。・・・この後鎌倉に帰ってきて、初めて関東の主となります。
  1181年10月21日のこの記事から以後、中央と相対して幕府を創ろうとする。
  1189年奥州征伐
  1192年鎌倉幕府成立。「If・・・」頼朝が京都に行っていれば駄目になっていたかもしれない?武士団の纏まりとなる後継者が育っていたか?
――安田の三郎義定を以って、守護として遠江國に差遣さる。・・・安田の三郎義定も甲斐源氏
――武田太郎信義を以って、駿河國に置さしむる所也。・・・武田太郎信義は平家の一条氏になっていく。(と聞こえたのですが・・・意味分かりませんよね(^_^;)

あ、それでここでとうとう時間切れ!実は読みだけはちゃんと21日の最後までして有ったのですが、時間が来てしまいました(^_^;
先生「あ〜、義経が着たんですけどね〜」と残念そう(^^ゞまあ、来月のお楽しみ、ということで。。。



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先生が、やっぱり必要とおっしゃったので、持ち歩くかどうかは別の話で、GETすることに。いつも「源氏」でお世話になっている古書店梁山書林さんに連絡して聞いてみたら、「探しては見ますが、ちょっと直ぐには難しいかも・・・巧く行けば3月の仕入れであるかもしれませんが保障できないし」と言う事だったのですね。
私としては、ネットで全文載っているし、そんなに急ぎませんから、と暢気なこと言ってたのですが〜。テキストということで、梁山書林さんの方が気を使ってくださって、わざわざ、「古書店ネットの○○という店で見つけたから、うちを通すと送料が倍かかることになるので直接申し込んで御覧なさい」と電話してくださったんですよ!!
へー、古書店ネットなんてあるんですか?というわけで、いろいろその検索の仕方も教えてくださって、申し込みました(^^)ところが、そこがもう売れてしまった後で、駄目!!(更新がけっこう遅いんだね、これが〜)
そういう古書店ネットの検索を教わったので、アチコチフラフラ見ていたら、ナント発見!!でも住所は個人のマンションみたいだし、電話は携帯だし・・・ということで、厚かましくも、梁山書林さんに、そういう古書店は信用できますか?と電話で聞いて(^_^;
そしたら、「一概に言えませんけど、個人の蔵書家が増えすぎて不要になった本を処分する場合も有りますし・・・なんともいえませんが」
ということで、「やっぱり、お宅からの連絡待ちます」という一言が重荷にになったのか、うまく、その三月の仕入れで手に入れてくださって♪しかも、「ちょっと書き込みを消した後があるのすが、それででよかったら」ということで、いいです、いいですm(__)mのお値段で!!超々感謝でございます\(^^)/





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