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4月11日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 10月27日〜11月08日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。


今月も恐縮ながら出席できませんでした。ごめんなさいm(__)m
というわけで、私流の読みです。よって、不安な方は、鎌倉歴史散策@加藤塾別館「吾妻鏡入門」さん及び東鑑目録さんをご参考になさってくださいませm(__)m

○廿七日 丙午。進發常陸國給。是爲追討佐竹冠者秀義也。今日爲御衰日之由。人々雖傾申。去四月廿七日令旨到著。仍領掌東國給之間。不可及日次沙汰。於如此事者。可被用廿七日<云々>。

――27日 丙午(へいご)
――常陸國を進發し給ふ。
――是は佐竹冠者秀義を追討せんが爲也。
――今日御衰日たるの由、人々傾申すと雖も、去んぬる4月27日、令旨到著す。
――仍って、東國を領掌し給ふの間、日次の沙汰に及ぶべからず。
――此れの如き事に於いては27日を用いらるべしと<云々>。

筆者注・・・常陸の佐竹源氏については、坂東千年王国さんの「新羅三郎義光」の項に大変詳しい記事があります。
「御衰日」というのは、どうせまた陰陽道の悪い日なのでしょうが、何に悪い日なんでしょうね。出陣を強行するくらいだから、「無翹復(むぎょうふく)―具中歴で出陣には凶の日」ではないのでしょうね。「絶陽(ぜつよう)―具中歴の大凶日」なんて、漠然と悪い日ということなのでしょうか。それとも、頼朝個人の星回りが悪い日なのでしょうか。判断が難しい所です。それでも、とにかく日延べをしないで出陣を強行したわけですね。

○十一月大○二日庚戌。今日小松少將惟盛朝臣以下平將、無功而入洛<云々>。

――11月大2日 庚戌(こうじゅつ)
――今日、小松の少將惟盛朝臣以下、平將、功無くして入洛すと<云々>。

筆者注・・・「平家物語」の巻五の12「五節の沙汰の事」の所に、その様子が出ています(^_^;清盛が猛烈に怒って、「維盛をば鬼界ヶ島に流すべし。忠清をば死罪に行ふべし」とぞ宣ひける、って(^_^;・・・「平家」では11月8日の日付です。


○四日壬子。武衛著常陸國府給。佐竹者。權威及境外。郎從滿國中。然者。莫楚忽之儀。熟有計策。可被加誅罰之由。常胤。廣常。義澄。實平已下宿老之類。凝群儀。先爲度彼輩之存案。以縁者。遣上総權介廣常。被案内之處。太郎義政者。申即可參之由。冠者秀義者。其從兵軼於義政。亦父四郎隆義在平家方。旁在思慮無左右稱不可參上。引込于當國金砂城。然而義政者。依廣常誘引。參于大矢橋邊之間。武衛退件家人等於外。招其主一人於橋中央。令廣常誅之。太速也。從軍或傾首歸伏。或戰足逃走。其後爲攻撃秀義。被遣軍兵。所謂下河邊庄司行平。同四郎政義。土肥次郎實平。和田太郎義盛。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱。同三郎盛綱。熊谷次郎直實。平山武者所季重以下輩也。相率數千強兵競至。佐竹冠者於金砂。築城壁。固要害。兼以備防戰之儀。敢不揺心。動干戈。發矢石。彼城郭者。搆高山頂也。御方軍兵者。進於麓溪谷。故兩方在所。已如天地。然間。自城飛來矢石。多以中御方壯士。自御方所射之矢者。太難覃于山岳之上。又巖石塞路。人馬共失行歩。因茲。軍士徒費心府。迷兵法。雖然不能退去。憖以狹箭相窺之間。日既入西。月又出東<云々>。

――4日 壬子(じんし)
――武衛は常陸の國府に著き給ふ。
――佐竹は、權威、境外に及び、郎從、國中に滿つ。
――然者(しからば)、楚忽之儀莫く、熟なる計作有りて、誅罰を加えらるべきの由、常胤・廣常・義澄・實平已下、宿老之類、群儀を凝らす。
――先ず、彼の輩の存案を度らんが爲、縁者を以って、上総權介廣常を遣す。
――案内せらるる之處、太郎義政は、即ち參ずるべき之由、申す。
――冠者秀義者は、其の從兵、義政に軼(逸)す。
――亦、父四郎隆義は平家の方に在り。
――旁(かたがた)、思慮有て、左右無く參上すべからずと稱し、當國金砂城に引き込むる。
――然而(しかれども)義政は、廣常の誘引に依り、大矢橋の邊りに參ずる之間、武衛は件の家人等を外に退け、其の主一人を橋の中央に招き、廣常は之を誅せ令む。
――太だ(はなはだ)速やか也。
――從軍は或いは首を傾け歸伏し、或いは足を戰めて逃走す。
――其の後、秀義を攻撃爲さんと、軍兵を遣さる。
――所謂(いわゆる)、下河邊庄司行平・同四郎政義・土肥次郎實平・和田太郎義盛・土屋三郎宗遠・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷次郎直實・平山武者所季重以下の輩也。
――數千の強兵を相率いて競い至る。
――佐竹の冠者は、金砂に城壁を築き、要害を固め、兼て以って防戰之儀を備へ、敢て心を揺かさず(うごかさず)。
――千戈を動かし、矢石を發す。・・・「戈」は矛(ほこ)
――彼の城郭は、高山の頂きに搆ふる也。
――御方(みかた)の軍兵は、麓の溪谷に進む。
――故に兩方の在所は、已に天地の如し。
――然る間、城自り飛來する矢石、多く以って、御方の壯士に中る(あたる)。
――御方自り射る所之矢は、太く山岳之上に覃じ(たんじ)難し。
――又、巖石、路を塞ぎ、人馬共に行歩を失ふ。
――茲に因りて、軍士は徒らに心府を費やし、兵法に迷う。
――雖然(しかれども)、退去するに能わず。
――憖く、以って、箭を狹み、相い窺ふ之間、日、既に西に入り、月、又、東に出ると<云々>。

○五日癸丑。寅尅。實平宗遠等進使者於武衛。申云。佐竹所搆之塞。非人力之可敗。其内所籠之兵者。又莫不以一當千。能可被廻賢慮者。依之及被召老軍等之意見。廣常申云。秀義叔父有佐竹藏人。々々者。智謀勝人。欲心越世也。可被行賞之旨有恩約者。定加秀義滅亡之計歟者。依令許容其儀給。則被遣廣常於侍中之許。侍中喜廣常之來臨。倒衣相逢之。廣常云。近日東國之親踈。莫不奉歸往于武衛。而秀義主獨爲仇敵。太無所據事也。雖骨肉。客何令与彼不義哉。早參武衛。討取秀義可令領掌件遺跡者。侍中忽和順。本自爲案内者之間。相具廣常。廻金砂城之後。作時聲。其音殆響城郭。是所不圖也。秀義及郎從等忘防禦之術。周章横行。廣常弥得力攻戰之間。逃亡<云々>。秀義暗跡<云々>。

――5日 癸丑(きちゅう)
――寅尅(とらのこく)、實平・宗遠等、使者を武衛に進め、申して云く、
――佐竹の搆ふる所之塞(とりで)は、人力之敗るべきに非ず。其の内に、籠ずる所之兵は、又一を以って千に當らざる莫し。能く賢慮を廻らさるべしと者(てへり)。
――之に依って老軍等之意見を召さるるに及んで、廣常、申して云く、
――秀義の叔父に佐竹の藏人有り。
々々(秀義)は、智謀、人に勝れ、欲心、世を越ゆる也。
賞を行はるべき之旨、恩約有らば、定めて、秀義滅亡之計に加ふる歟と者(てへり)。
――依って其の儀を許容せしめ給ふ。
――則ち、廣常を侍中之許に遣さる。
――侍中、廣常之來臨を喜び、衣を倒して之に相い逢ふ。
――廣常云く、
――近日、東國之親踈、武衛に歸往奉らずは莫し。而して、秀義主は獨り仇敵たり。太だ(はなはだ)據る(よる)所無き事也。
骨肉と雖も、客、何ぞ彼の不義に与せし(くみせし)むる哉。早く武衛に參じて、秀義を討取り、件の遺跡を領掌せしむべきと者(てへり)。
――侍中、忽ち和順す。
――本自り(もとより)、案内者たる之間、廣常を相具し、金砂城之後に廻り、時の聲を作る。
――其の音、殆ど城郭に響く。
――是は圖らざる(はからざる)所也。
――仍って、秀義及び郎從等は、防禦之術を忘れ、周章横行す。
――廣常、弥(いよいよ)力を得て攻戰する之間、逃亡すと<云々>。
――秀義は跡を暗ますと<云々>。

○六日甲寅。丑尅。廣常入秀義逃亡之跡。燒拂城壁。其後分遣軍兵等於方々道路。捜求秀義主之處。入深山。赴奥州花園城之由。風聞<云々>。

――6日 甲寅(こういん)
――丑尅(うしのこく)。
――廣常、秀義の逃亡之跡に入り、城壁を燒拂す。
――其の後、軍兵等を方々の道路に分け遣わし、秀義主を捜求する之處、深山に入て、奥州、花園城に赴く之由、風聞すと<云々>。

○七日乙卯。廣常以下士率。歸參御旅舘。申合戰次第。及秀義逐電。城郭放火等事。軍兵之中。熊谷次郎直實。平山武者所季重。殊有勲功。於所々進先登。更不顧身命。多獲凶徒首。仍其賞可抽傍輩之旨。直被仰下<云々>。又佐竹藏人參上。可候門下之由望申。即令許容給。有功之故也。今日志太三郎先生義廣。十郎藏人行家等參國府謁申<云々>。

――7日 乙卯(いつぼう)
――廣常以下の士率、御旅舘に歸參し、合戰次第、及び秀義の逐電、城郭放火等の事を申す。
――軍兵之中、熊谷次郎直實・平山武者所季重、殊に勲功有り。
――所々に於いて先登に進み、更に身命を顧りみず、多く凶徒の首を獲る。
――仍って、其の賞、傍輩に抽すべき之旨、直に仰せ下さると<云々>。
――又、佐竹の藏人參上し、門下に候ふべき之由望申す。
――即ち、許容せしめ給ふ。功有る之故也。
――今日、志太三郎先生義廣・十郎藏人行家等、國府に參り、謁し申すと<云々>。

筆者注・・・この時点で、熊谷次郎直實や平山武者所季重はけっこう源氏の中でも頭角を現していたんですね。「平家」の方でちょっと見下されているように伺っていたのは、やはり、公的官職についていない、ということなんだけど、源氏の中の侍・・・まあ御家人か、としては、一応名前を知られている御家人であった、と考えていいんですね。

○八日丙辰。被收公秀義領所常陸國奥七郡。并太田。糟田。酒出等所々。被死()行軍士之勲功賞<云々>。又所逃亡之佐竹家人十許輩出來之由。風聞之間。令廣常義盛生虜。皆被召出庭中。若可插害心之族。在其中者。覧其顔色可令度給之處。著紺直垂上下之男。頻垂面落涙之間。令問由緒給。依思故佐竹事。繼頸無所據之由申之。仰曰。有所存者。彼誅伏之刻。何不弃命畢者。答申云。彼時者。家人等不參其橋之上。只主人一身被召出。梟首之間存後日事逐電。而今參上。雖非精兵之本意。相搆伺拜謁之次。有可申事故也<云々>。重尋其旨給。申云。閣平家追討之計。被亡御一族之條。太不可也。於國敵者。天下勇士可奉合一揆之力。而被誅無誤一門者。御身之上讎敵。仰誰人可被對治哉。將又御子孫守護。可爲何人哉。此事能可被廻御案。如當時者。諸人只成怖畏。不可有眞實歸徃之志。定亦可被貽誹於後代者歟<云々>。無被仰之旨。令入給。廣常申云。件男存謀反之條無其疑。早可被誅之由<云々>。被仰不可然之旨被宥之。剰列御家人號岩瀬與一太郎是也<云々>。今日武衛赴鎌倉給。以便路。入御小栗十郎重成小栗御厨八田舘<云々>。

――8日 丙辰(へいしん)
――秀義が領所の常陸の國、奥七郡・并びに太田・糟田・酒出等の所々、收公さる。
――軍士之勲功賞を宛て行わると<云々>。
――又、逃亡する所之佐竹の家人、十許の輩、出來之由、風聞する之間、廣常は義盛に生虜らしむ。
――皆、庭中に召出さる
――若し害心を插ずべき之族、其中に在ら者(ば)、其の顔色を覧じ度らしめ給ふべき之處、紺直垂の上下を著たる之男、頻りに面を垂れて落涙する之間、由緒を問はしめ給ふ。
――故佐竹の事を思ふに依りて、頸を繼ぐに據る所無き之由、之を申す。
――仰せて曰く。所存有ら者(あらば)、彼の誅伏之刻(とき)、何ぞ命を弃て畢(おわんぬ)かと者(てへり)。
――答へ申して云く。
――彼の時者(ときは)、家人等は其の橋之上に參らず、只主人一身召出さる。
梟首之間、後日の事存りと逐電す。而して今參上す。
精兵之本意に非ずといえども、相搆へて、拜謁之次伺ふ。申すべき事有る故也<云々>。
――重ねて其の旨を尋ね給ふ。
――申して云く。
――平家追討之計を閣し、御一族亡ぼさるる之條、太(はなはだ)不可也。
國敵に於いては、天下の勇士、一揆之力を合わせ奉るべし。
而るに、誤り無き一門誅さるるは、御身之上の儺敵。・・・儺は一文字で「おにやらい」の意味がある
誰が人の仰せに對治さるるべき哉。將に又、御子孫の守護を何人の爲すべき哉。
此の事、能く御案じ廻らさるべし。當時の如きは、諸人、只、怖畏を成し、眞實、歸徃之志有るべからず。定めて亦、誹を後代に貽さるべしと者(てへる)歟<云々>。
――仰せらるる之旨無く入ら令め給ふ。
――廣常、申して云く、
――件の男、謀反存る之條、其疑無し。早く誅せらるべき之由と<云々>。
――然るべからざる之旨、仰せられ之を宥さる。
――剰じて御家人に列す。岩瀬與一太郎と號す、是也と<云々>。
――今日武衛鎌倉に赴き給ふ。
便路を以って、小栗十郎重成の小栗の御厨(みくりや)、八田舘(はったのやかた)に入御すと<云々>


筆者の告白・・・ここは困りました(^_^;・・・本文一行目「被死行軍士之勲功賞」・・・何?軍士之勲功賞に死行さる?意味ないじゃん!!なんで軍士之勲功賞が死なんですか?でもテキストも、吉川弘文館本も「死」になってる!!誤活字?いや、そんなことないでしょう・・・もう何十年と版を重ねてるんだから!!さっきみたいに「暗」で「くらます」と読ませちゃうんだから、「死行」で「執行」とでも読ますかな・・・と思って「しぎょう」と打って変換すると、ちゃんと「執行」が出るんだわ(^_^;

こういうときに、授業に出ていないって、ホントに切ない!!まあ、おばさんのノートなんて宛にしている人はないんだから、適当に書いちゃえばいいんだけど、そうすると、後で自分が見たときに困るでしょ(^^ゞ誰の爲にこんなことやっているかというと、全〜部自分の爲なんだからさ〜、仕方ない、あっちこっちに探しに行くんですよ、これがーーーーー(;_;)
で〜、
活字を貰いに行っている国文学研究史料館では「被充行軍士之勲功賞」となっているし、↑の「東鑑目次」さんでは、「軍士の勲功の賞に宛て行わる」となっていて、加藤塾さんでも「軍士之勳功賞に宛て行は被る」となっています。

とにかく、死ではないよねぇ・・・。まあ充と宛なんだから、文章上の意味でも「宛」でいいんでしょう。と思って、よくよく、テキストを見ると「死」の上にチョンと点が乗っかって、丁度「鍋蓋」みたいになっている。それが薄くなっているんですよ♪
「宛」だ〜♪「宛」だ〜(^^)「宛」だ〜\(^^)/





。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

いやあ、サボると辛い!!今回は↑の一件が合ったから、猶辛かったです(^_^;
いつも読みに関して、「吾妻鏡」の漢文は日本的漢文だから、まあそんなに苦労しないで読めます、みたいな事を言っている手前・・・オイオイ誰だ?そんなホラ吹いてんなぁ?・・・私です(>_<)
でも、ホントに本物の漢文じゃないからソコソコは読めるんですよ(まだ言ってる!!)
それでも、漢和辞典傍に置いて、それなりに努力してんです。大体そそっかしいから「然而」の読みを平気で「しからば」にしちゃったり、「然者」を「しからずんば」とか、やったりしますから(^_^;
おまけに良く忘れる!!・・・今回も「太」を思い出すのに大変だった(^^ゞ結局漢和辞典引いて「はなはだ!ヌァ〜ンダ!」ってやったし(^_^;うちのテキストは略字が多いので、それも本字を忘れたりするとコトです(^_^;

でも、ありがたいのは、分からない事項が検索でいろいろHITして、凄い詳しい説明に出会ったりした時ですね(^^)地獄に仏♪
まあ、殆ど、そういうサイトさんは、リンクさせて頂いてますから、あまりウロウロしなくてすみますし・・・(^^)

というわけで、4月分としては異例の遅さでやっとアップが出来ます\(^^)/







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