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5月09日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 11月10日〜11月26日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。





○十日 戊午。以武藏國丸子庄。賜葛西三郎清重。今夜御止宿彼宅。清重令妻女備御膳。但不申其實。爲入御給搆。自他所招青女之由言上<云々>。

――10日 戊午(ぼご)。
――武藏國丸子の庄を以って、葛西の三郎清重に賜る。・・・横浜から向こうは武蔵の国です。丸子の庄というのは多摩川流域の農地(荘園)。今の川崎南部の新丸子・中丸子という地名が残っています。武蔵の国は橘樹(たちばな)郡・稲城庄・河崎(当時はこう書いた、という先生の注)・賀勢庄(今は加瀬、新川崎通り)辺りです。稲城庄には、政子の妹が嫁いでいます。
――今夜、彼の宅に御止宿す。清重は妻女をして御膳を備へ令む。・・・佐竹征伐の帰途葛西清重に丸子庄を与えました。
――但し、其の實を申さず。入御の給搆の爲に、他所より青女を招くの由言上すと<云々>。

筆者の呟き――先生は読み下しの後に、「他所より青女を呼んだんだ、と嘘を言ったわけですね」としか、おっしゃらなかったのですが、「妻女をして御膳を備へ令む」というのは、当然「床の接待」までを含むはずですよね(^_^;この時代の主従というのは、まだそういうのが一般的だったんですかね(^_^;ムムム

○十二日庚申。到武藏國。荻野五郎俊重被斬罪。日者候御共。雖似有其功。石橋合戰之時。令同意景親。殊現無道之間。今不被糺先非者。依難懲後輩。如此<云々>。

――12日 庚申(こうしん)。
―― 武藏國に到り、荻野の五郎俊重、斬罪せらる。・・・荻野五郎俊重は相模の国愛甲庄(厚木市上荻野)。横山党、荻野の系統。海老名季貞の子です。10月18日の所で出て来ました。曽我の祐信と一緒に「手を束ねて参った」んだけれど、明暗が分かれた、という暗の方です。
――日者(ひごろ)、御共に候じ、其の功有るに似たりと雖も、石橋合戰之時、景親に同意せしめ、殊に無道を現す之間、今、先非を糺されずんば、後輩を懲らしめ難きに依って、此の如しと<云々>。

○十四日 壬戌。土肥次郎實平向武藏國内寺社。是諸人乱入清浄地。致狼藉之由依有訴。可令停止之旨。加下知之故也。

――14日 壬戌(じんじゅつ)
――土肥の次郎實平、武藏の國内寺社に向ふ。
――是は、諸人、清浄の地に乱入し、狼藉を致す之由、訴え有るに依りて、停止せしむべき之旨、下知を加ふる之故也。
・・・土肥次郎は七騎落ちの先導をした相模武士です。その相模武士が武蔵に向った!何故か?武蔵には畠山もいる、江戸川氏・川越氏もいるのになぜでしょうねぇ?@には幕府内の実力。Aには、この時点では頼朝が武蔵武士の完全掌握をしていなかった、ということです。

筆者の呟き――そうそう、何をやる時でも、まず實平の名前が出てきますよね(^^ゞ側近第一号というか、秘書室長という感じですよね。この後から和田義盛の名前がチラチラし始めるのですが、義盛は秘書室長というよりは、担当専務というか公的信任だけど、實平の場合はもっと私的に懐刀ですね。やはり石橋山以前からの側近というのが、頼朝にとっては頼もしい存在だったんでしょうね。

○十五日 癸亥。武藏國威光寺者。依爲源家數代御祈祷所。院主僧増圓相承之僧坊寺領。如元被奉免之<云々>。

――15日 癸亥(きがい)。
――武藏の國威光寺は、源家數代の御祈祷所爲るに依り、院主の僧、増圓(ぞうえん)、相承(そうじょう)之僧坊・寺領、元の如く之を奉免せらると<云々>。
ここで、本日資料です。「威光寺」というのは、「源家數代御祈祷所」というのにずぅーっと分かりませんでした。19日に出てくる「長尾寺」と同じ寺ではないか、という疑問があったのですが、芸大の溝口校舎から「威光山長尾寺」という札が出てきて、資料的に証明されました。
資料は「1992年10月13日の朝日新聞神奈川特集」です。
・・・先生の解説と↑資料によると、
@1977年に芸大の保存技術研究室に、川崎市多摩区長尾の妙楽寺というお寺から市の重要文化財指定の「日光菩薩立像」が修復のため持ち込まれた。
Aその解体した仏像の胎内から「武州立花郡太田郷長尾山威光寺・・・天文十四年(1545)」という墨書銘が見つかった。そこで長年、幻の寺とされていた「威光寺」の存在が確認された、というわけだそうです。
B頼朝は実弟の全成など自分に密接な関係を持つ者を院主としたり(19日の記事)挙兵の年には、ここ「威光寺」で平家滅亡を祈らせた。
Cで〜、この「妙楽寺」こそ威光寺の後身て゜はないか、と。まだ確定ではないそうですが、とにかく、威光寺の存在と長尾緑地のどこかにあった、ということは確実らしい♪大体、確定ではないと言いながら、別の資料では、威光寺と妙楽寺は山号が同じで、この墨書銘があった仏像を寄進したという井田氏は妙楽寺の檀家であって、後裔がまだ長尾に居住ということから、「妙楽寺が威光寺の後身というのは疑いない」というのです。
D実は、現在の妙光寺の近辺は、当時としては鎌倉幕府にとって鎌倉を守る外郭の防衛線として重要だった、ということで「大手は日野の万願寺」という将棋の地口に残されるのは「多摩川を攻略する者が勝利する」という意味だそうです。現実に、「元弘三年(1333)、新田義貞の軍勢によって、この多摩川沿いの分倍河原(東京都府中市)を攻め落とされ、これが鎌倉幕府崩壊の突破口となった」そうです。



○十七日 乙丑。令還著鎌倉給。今日曽我太郎祐信蒙厚免。又和田小太郎義盛補侍所別當。是去八月石橋合戰之後。令赴安房國給之時。御安否未定之處。義盛望申此職之間。有御許諾。仍今閣上首被仰<云々>。

――17日 乙丑(いっちゅう)。
――鎌倉に還著せしめ給ふ。
――今日、曽我の太郎祐信、厚免を蒙る。・・・これも10月18日の所で出て来ました。こちらは助かった。
――又、和田の小太郎義盛は、侍所の別當に補す。・・・侍所の長官に和田義盛がなった!
――是は去んぬる八月、石橋合戰之後、安房の國に赴きしめ給ふ之時、御安否、未だ定らざる之處、義盛は此の職を望み申す之間、御許諾有。仍って、今日、上首を閣き(さしおき)仰せらると<云々>。
・・・これは曽我の太郎が罪を許される。和田義盛が侍所の別當になった。
まだ石橋山の敗戦の段階で、頼朝と源氏の行く末がどうなるかわからなかった時に、義盛は、将来源氏の世になった時は、と望んだと言う。本当にそんな約束があったかどうかわからない。これは後付けの理由とも考えられる。頼朝がそう言っているだけなんですから。頼朝は和田義盛を侍所の別當にしたかった!三浦氏との密約説もある。三浦義明が、衣笠城を守って一人壮絶な討死をしたことの褒美かもしれないし、義明とそういう密約があったのかもしれないですね。自分は、ここで一人で戦士するから、後をよろしく、というような、ね。義盛は義明の孫ですから。歴史の中にはいろんな考え方があります。いろんな考え方が出来る。どれも相応の理由付けができればいいんです。
筆者の注・・・三浦一族の系図等は「三浦三崎ひとめぐり」さんをご参考になさってくださいませm(__)m


○十九日 丁卯。武藏國長尾寺者。武衛被奉避舎弟禪師全成。仍今日令安堵本坊。任例可抽祈祷忠之由。爲被仰付。召出住侶等。所謂慈教坊増圓。慈音坊觀海。法乗坊辨朗等也。

――19日 丁卯(ていぼう)。
――武藏の國長尾寺は、武衛の舎弟の禪師全成に、避(しゃ)に奉らる。・・・「奉レ避」は「避に奉る」という言葉で、「自分の権限を離して他に与える」という意味です。・・・「全成(ぜんじょう)」は醍醐寺で出家した事から醍醐禅師とも呼ばれます。頼朝から遠江(静岡)の阿野庄をもらって、阿野全成ともいいます。政子の妹の阿波局を妻にします。阿波局は、「安房局」と書く別人もいるので注意してください。政子の妹はたくさんいて、先程の稲城に嫁いだ妹もいるし、畠山重忠にも嫁いでいます。
――仍って、今日、本坊を安堵せしむ。例に任せて、祈祷の忠を抽くべき之由、仰せ付けられんが爲、住侶等を召出す。
――所謂、慈教坊増圓、慈音坊觀海、法乗坊辨朗等也。


○廿日 戊辰。大庭平太景義相具右馬允義常之子息參上。望厚免。是景義之外甥也。仍暫被仰可預置之由。義常遺領之内松田郷。景義拜領<云々>。

――20日 戊辰(ぼしん)
――大庭の平太景義は、右馬允(うまのじょう)義常之子息相具し參上し、厚免を望む。・・・大庭は桓武平氏鎌倉流。義常は波多野氏、これも 7月10日 ・10月17日の所で出て来ました。大庭景義は相模の国権守の弟で、茅ヶ崎の懐島の受領です。波多野氏は今の秦野。秀郷流藤原氏。景義は、その波多野義通女を、妻にしていた。その兄弟が義常で、今、その義常の息子の有常を連れてきました。有常は、鎌倉幕府の御家人となります。有常と山内三郎との違いですね。
――是は、景義之外甥(がいせい)也。
――仍って、暫く預り置くべき之由、仰せらる。
――義常遺領之内、松田の郷、景義拜領すと<云々>。


○廿六日 甲戌。山内瀧口三郎經俊可被處斬罪之由。内々有其沙汰。彼老母<武衛御乳母也>。聞之。爲救愛息之命。泣參上申云。資通入道仕八幡殿。爲廷尉禪室御乳母以降。代々之間。竭微忠於源家。不可勝計。就中俊通臨平治戰場。曝骸於六條河原訖。而經俊令与景親之條。其科責而雖有餘。是一旦所憚平家之後聞也。凡張軍陣於石橋邊之者。多預恩赦歟。經俊亦盍被優曩時之功哉者。武衛無殊御旨。可進所預置鎧之由。被仰實平。々々持參之。開唐櫃盖取出之。置于山内尼前。是石橋合戰之日。經俊箭所立于此御鎧袖也。件箭口巻之上。注瀧口三郎藤原經俊。自此字之際切其箆。乍立御鎧袖。于今被置之。太以掲焉也。仍直令讀聞給。尼不能重申子細。拭雙涙退出。兼依鑒後事給。被殘此箭<云々>。於經俊罪科者。雖難遁刑法。優老母之悲歎。募先祖之勞効。忽被宥梟罪<云々>。

――26日 甲戌(こうじゅつ)
――山内の瀧口三郎經俊、斬罪に處せらるべき之由、内々其の沙汰有り。
――彼の老母<武衛の御乳母也>。之を聞き、愛息之命を救ワンが爲、泣き泣き參上して申して云く、
――資通入道は八幡殿に仕へ、廷尉禪室の御乳母として以降(このかた)、代々之間、源家に微忠を竭す(つくす)。勝げて(あげて)計えるべからず。
――就中(なかんづく)、俊通は、平治の戰場に臨み、骸(しかぱね)を、六條河原に曝訖(さらしおわんぬ)。
――而(しかるに)、經俊は、景親とくみせしむる之條、其科(そのとが)は、責められて餘り有ると雖も、是は、一旦平家之後聞(こうぶん)を憚る所也。
――凡そ、軍陣を、石橋の邊りに張る之者、多く恩赦に預かる歟(か)。
――經俊は亦(けだし)曩時之功に優られ盍ふ哉と者(てへり)。
――武衛は殊なる御旨無く、預け置く所の鎧進むべき之由、實平に仰せらる。
――實平之を持參す。
――唐櫃の盖を開き之を取り出し、山内の尼の前に置く。
――是は石橋の合戰之日(とき)、經俊の箭(や)の此の御鎧の袖に立つる所也。
――件の箭(や)の口巻(まきぐち)之上、瀧口三郎藤原經俊と注せり。
――此字之際より其の箆(のう)を切り、御鎧の袖に立て乍ら、今、之を置かる。
――太以(はなはだもって)掲焉(けちえん)也。
――仍って、直に讀み聞かせしめ給ふ。
――尼は重ねて子細を申す能わず、雙涙を拭ひて退出す。
――兼ねて、後事を鑒み給ふ(かんがみたまふ)に依りて、此の箭(や)を殘さるると<云々>。
――經俊の罪科に於いて者(は)、刑法を遁れ難しと雖も、老母之悲歎に優し(ただし)、先祖之勞効に募じて(めんじて)、忽ち梟罪(きゅうざい)を宥さるると<云々>。


。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

大変に遅くなりましたが、5月の分アップします。いやもう、まだまだ眩暈が残ってどうにもならないので、後、ちょっと〜、という所でホントに一行分ずつ、という感じでした(^_^;
なんでこんなことしているのか分からなくなっちゃうのですよね〜(^_^;殊に、本文を打ち混んでいる時は、もう、活字を貰いに行ってる国文学史料館のをそのまま貰っていいんじゃないか・・・とか思ったりするわけで(^^ゞ
でも、そうすると自分の爲にやっている、と言う事でなくなっちゃうから、ここは女の意地だわ!!
で、今日無理してアップしたのは宝塚の観劇記もアップしたかったからです。そのために先週から一行ずつ頑張ってきたんだもん♪
だって、宝塚やお能にはフラフラしながらでも行くのに、自分のノート二ヶ月もほったらかし、というのは遺憾でしょう←、いやいかん、いかんということですよ!!

なので、ホントは系図等入れたかったのですが、ちょっとカンベン!ということでm(__)m



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