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6月13日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 12月小1日〜12月19日

筆者注
@本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m

A文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

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今日は284回です。280回を越えて、第一巻から初めて二年間を経て現地見学会をしませんか、という話が出ました。初期に三社詣、平成六年の2月25日に三島・韮山に行きまして、其の後は行ってません。10月12日あたりにどうでしょうか?
三島に北條時政の息子で、義時(小四郎)の兄宗時というのがいます。石橋合戦の折戦死してしまいますが、その宗時のお墓が桑原の薬師堂にあります。そこに行って見たいと思います。詳しくは来月までに調べておきます。
ここに書いたのは短く纏めたんですけどね、先生、偉く楽しそうに、いろいろ桑原の地域のお話や、そこの観光課とのお話をしてくださいました(^^)もう、大体の所は詰めてきてくださつたようです♪でー、その挙句、真鶴から舟に乗って♪という例のあれね、頼朝が千葉に七騎落ちしたルートを行きたい、というお話になります・・・完全に子どもの顔になってる\(^^)/・・・筆者の呟き)

○.十二月小○一日 己卯。左兵衛督平知盛卿率數千官兵。下向近江國。与源氏山本前兵衛尉義經。同弟柏木冠者義兼等合戰。義經已下弃身忘命雖挑戰。知盛卿以多勢之計。放火燒廻彼等舘并郎從宅之間。義經義兼失度逃亡。是去八月於東國。源家擧義兵之由。傳聞之以降。雖卜居於近國。偏存關東一味之儀。頻忽緒平相國禪閤威之故。今及此攻<云々>。

――.12月小○1日 己卯(キボウ)

――左兵衛督平知盛卿、數千の官兵を率いて近江國に下向し、源氏、山本の前兵衛尉義經、同弟柏木冠者義兼等と合戰す。・・・山本の義經というのは、源九郎義経ではありません。神崎郡山本の庄、現在の安土町。柏木の義兼は弟、水口町柏木で、柏木義兼といいます。どちらも滋賀県琵琶湖の近辺です。ここでは兄弟ということになっていますが「尊卑文脈」では親子です。本当はわかりません。

――義經已下(いか)、身を弃て、命を忘れて挑戰すと雖も、知盛卿、多勢之計(はからい)を以って、火を放ち、彼等の舘并びに郎從の宅を燒廻する之間、義經・義兼、度(はからい)を失い、逃亡す。
――是は去んぬる八月、東國に於いて、源家義兵を擧げる之由、之を傳へ聞きて以降、近國に卜居すと雖も、偏りに(しきりに)關東一味之儀を存じ、頻りに平相國禪閤(へいしょうこくぜんごう)の威を忽緒(こつしょ)する之故、今、此の攻に及ぶと<云々>
・・・「玉葉」の12月2日の所に、東國の源氏を追討の爲に多くの人が出ている、という記録が有ります。近江から知盛、伊賀から資盛、伊勢から清綱が関東に向けて立った、とかいて有ります。このあたりは「玉葉」「山槐記」など、公家の日記が重要です。

筆者注――これらの公家の日記については、「平家物語関連資料」のところでご紹介した「きらめきの刹那」さんの、「我楽多文庫」に分かりやすく纏まっています。おなじみ「東鑑目録」さんの所では、適宜「玉葉」などの記録も併記してあります。、で、うちは?どうしょううか・・・考え中ですm(__)mリンクで頂けるところがあれば、ですねぇ・・・もう、今の状態でシコシコ打つのは限界ですから(^^ゞ

・・・平相國禪閤(へいしょうこくぜんごう)は平の清盛。相国は大臣の唐名。禪相太閤(ぜんしょうたいごう)で禪閤(ぜんごう)です。出家した太政大臣という意味です。

○二日 庚辰。今日藏人頭重衡朝臣。淡路守清房。肥後守貞能等。指東國發向。是爲襲源家也。但自路次歸洛<云々>。

――2日 庚辰(コウシン)。
――今日、藏人頭(くろうどのかみ)重衡朝臣、淡路守清房、肥後守貞能等、東國を指して發向す。・・・清房は清盛の七男。園城寺三井寺の衆徒と争い、焼き払う。(参考・12月11日の項)。肥後守貞能については、資料のP.8に系図があります。文治元年7月7日「清盛専一の腹心者」という記事が有ります。

筆者の呟き――国香の流れで、八代あいて貞能になる。貞能については、国文学研究資料館の連続講演「平家物語」の「第三回・人それぞれの生」の「6.一門都落ち」の項をご参考にm(__)m)

――是は源家を襲わんが爲也。
――但し、路次より歸洛すと<云々>。


○四日 壬午。阿闍梨定兼依召。自上総國參上鎌倉。是去安元々年四月廿六日當國流人也。而有知法之聞。當時鎌倉中無可然碩徳之間。仰廣常、所被召出也。今日。則被補鶴岡供僧職<云々>。

――4日 壬午(ジンゴ)
――阿闍梨定兼、召に依り、上総國より鎌倉に參上す。
――是は、去んぬる安元元年4月26日、當國流人也。
――而るに知法(ちほう)之聞(きこえ)有り。當時、鎌倉中に可然(しかるべき)碩徳無き之間、廣常に仰せて、召出さる所也。
――今日、則ち、鶴岡の供僧職(ぐそうしき)に補せらるると<云々>・・・供僧職(ぐそうしき)というのは、供奉の僧。もともと、何処の者か、配流の理由は不明。・・・鶴ヶ岡八幡は別當がいて、その下に供僧(供奉僧)がいた。これが25の坊に分かれて御谷(おんたに)といったのですが、江戸時代には12になり、明治時代になつて全廃されてしまった。御谷は風致保存会から古都保存法によって国の指定となり開発を免れた。江戸時代に鶴ヶ岡八幡の別當をしたという僧に舜義(長谷寺の38世)と言う僧は、西茨城の岩瀬町(坂東観音霊場22番、水戸線の途中にある)の妙法寺に即身仏として安置されていた。(この部分ー舜義の話はどっから出たのか不明(^_^;鶴ヶ岡八幡別當という地位についての説明だったのか・・・筆者の呟き・・・そういえば、供僧なんですよね。僧です。鶴ヶ岡は八幡宮寺なんです。この時代―明治の廃仏毀釈まで―は(^^ゞ「御谷」の読み方を気にかけていたのですが・・・今の鎌倉では「御谷」は「おやと」or「おやつ」ですから。扇ガ谷(おうぎがやつ)とか、亀谷(かめがやつ)など、ですね。この時、先生は当時の読み方として「おんたに」と仰ったのだろうと思うのですが、イマイチはっきりしないし、伺うチャンスはナカナカ無い(^_^;・・・筆者の呟き

○十日戊子。山本兵衛尉義經參著鎌倉。以土肥二郎啓案内云。日來運志於關東之由。達平家之聽。觸事成阿黨之刻。去一日。遂被攻落城郭之間。任素意參上。被追討彼凶徒之日。必可奉一方先登者。最前參向尤神妙。於今者。可被聴關東■候之旨。被仰<云々>。此義經者。自刑部烝義光以降。相繼五代之跡。弓馬之両藝。人之所聽也。而依平家之讒。去安元二年十二月卅日。配流佐渡國。去年適預于勅免之處。今又依彼攻牢籠。結宿意之條。更無御疑<云々>。

――10日 戊子(ボシ)
――山本の兵衛尉義經鎌倉に參著す。
――土肥二郎を以って案内を啓して云はく、・・・ここからは、土肥實平を通して義經の言った言葉。土肥實平を通して言上したんです。
――日來(ひごろ)、志を關東に運ぶ之由、平家之聽(きこえ)に達っす。
――事に觸れて阿黨を成す之刻(みぎり)、去んぬる一日、遂に城郭を攻め落とさるるの間、素意に任せて参上す。
――彼の凶徒を追討せらる之日、必ず一方の先登に奉る
――と者(てへり)。
――最前の參向は尤も神妙なり。
――今に於いては、關東の[示弖]候(しこう)を聞こえさすべきの旨、仰せらるると<云々>
――此の義經者(は)、刑部烝(ぎょうぶのじょう)義光より、以降、五代の跡を相繼ぎ、弓馬之両藝、人之聽こえる所也。
――而るに平家之讒に依りて、去んぬる安元二年十二月卅日(30日)、佐渡國に配流し、去年、適(たまたま)、勅免に預かるの處、今又、彼の攻むるに依りて牢籠す。
――宿意を結ぶ之條、更に御疑い無しと<云々>。


○十一日 己丑。平相國禪閤遣重衡朝臣於園城寺。与寺院衆徒遂合戰。是當寺僧侶。去五月之比。候三條宮之故也。南都同可被滅亡<云々>。凡此事日來無沙汰之處。前武衛依彼令旨。於關東被遂合戰之間。衆徒定奉与歟之由。禪閤廻思慮。及此儀<云々>。

――11日 己丑 (キチュウ)
――平相國禪閤、重衡朝臣を園城寺に遣わし、寺院衆徒と合戦を遂ぐ。
――是は當寺の僧侶、去んぬる五月之比(ころほひ)、三條の宮に候ふ之故也。・・・5月23日に、以仁王が三井寺に御所を構えた。三井寺の衆徒が味方した、ということです。
――南都も同じく滅亡せらるべしと<云々>。・・・南都は興福寺。藤原氏の氏寺です。
――凡そ此の事は、日來(ひごろ)、沙汰無き之處、前の武衛、彼の令旨に依り、關東に於いて、合戰を遂ぐらる之間、衆徒、定めて与し(くみし)奉る歟(か)之由、禪閤、思慮を廻らして、此の儀に及ぶと<云々>。


○十二日 庚寅。天晴風靜。亥尅。前武衛「將軍」新造御亭有御移徙之儀。爲景義奉行。去十月有事始。令營作于大倉郷也。時剋。自上総權介廣常之宅。入御新亭。御水干御騎馬<石禾栗毛>。和田小太郎義盛候最前。加々美次郎長清候御駕左「方」。毛呂冠者季光在同右。北條殿。同四郎主。足利冠者義兼。山名冠者義範。千葉介常胤。同太郎胤正。同六郎太夫胤頼。藤九郎盛長。土肥次郎實平。岡崎四郎義實。工藤庄司景光。宇佐美三郎助茂。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱、。同三郎盛綱以下供奉。畠山次郎重忠候最末。入御于寝殿之後。御共輩參侍所、<十八ヶ間>。二行對座。義盛候其中央。著到<云々>。凡出仕之者三百十一人<云々>。又御家人等同搆宿舘。自尓以降。東國皆見其有道。推而爲鎌倉主。所素邊鄙。而海人野叟之外。卜居之類少之。正當于此時間。閭巷直路。村里授号。加之家屋並甍。門扉輾軒<云々>。今日園城寺爲平家焼失。金堂以下堂舎塔廟。并大小乗經巻。顯密聖教。大略以化灰燼<云々>。

――12日 庚寅(コウイン)・・・新暦なら1月後半頃です。
――天晴、風靜かなり。
――亥尅(イのこく)、前の武衛「將軍」新造の御亭(ぎょてい)に御移徙(おんいし)之儀有り。・・・亥尅は午後10時頃(午後9時〜11時)
――景義、奉行爲して(として)、去んぬる十月、事始(ことはじめ)有り、大倉郷に營作せしむる也。
――時刻に、上総權介廣常之宅より、新亭に入御す。
――御水干御騎馬<石禾栗毛(いさわくりげ)>。・・・石禾は石和(いさわ)です。甲州の牧(まき)、つまり官牧。牛馬を飼育する公の荘園。
――和田小太郎義盛最前に候ふ。・・・最前ー筆頭。
――加々美次郎長清、御駕左「方」に候ふ。
――毛呂(もろ)の冠者季光同右に在り。・・・藤原氏。埼玉県入間郷に毛呂というところが有ります。
――北條殿・同四郎主・足利冠者義兼・山名冠者義範・千葉介常胤・同太郎胤正・同六郎太夫胤頼・藤九郎盛長・土肥次郎實平・岡崎四郎義實・工藤庄司景光・宇佐美三郎助茂・土屋三郎宗遠・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱以下供奉す。
いずれも、当時頼朝を支えていた関東武士の錚々たるメンバー。
――畠山次郎重忠最末に候ふ。
・・・足利は北関東。山名冠者義範は新田義重の息子。藤九郎盛長は安達・・・トップは和田義盛、シンガリは畠山重忠。頼朝の馬の左右を加々美次郎長清・毛呂(もろ)の冠者季光で固めた。

――寝殿に入御するの後、御共の輩は、侍所に参る<十八ヶ間>。
――二行に對座し、義盛、其の中央に候ひ、著到す<云々>。・・・「著到」というのは「著到状」というのがあるんですね。御家人が戦の際、諸国から集まってきた時の名簿。ここでは、和田義盛が揃ったメンバーのチェックー出席確認をした、という意味です。「其の中央に候ひ、著到す」
――凡そ出仕之者、三百十一人<云々>。
――又御家人等は、同じく宿舘を搆へ、尓自り(これより)以降(このかた)、東國は、皆、其の有道(ゆうどう)を見て、推して鎌倉主と爲す。・・・頼朝は政権を作るにふさわしい、と認めた。
――所素邊鄙(しょそへんゆう)、而して海人(あま)野叟(やそう)之外(ほか)、卜居之類(ぼっきょのたぐひ)は、之少なし。
――正に、此時間(このとき)に當って、閭巷(りょこう)、路を直し(みちをただし)、村里、号を授く。
――加之(しかのみならず)、家屋は甍を並べ、門扉は軒を輾る(めぐる)と<云々>。・・・街が急に出来た!吾妻鏡の記事だから!鎌倉は寒村だったか?御成小(御成小学校)の跡地から、遺跡が出てきました。平安時代の遺跡が続出したでしょ。これは頼朝を鎌倉の主と位置づけるための記事です。

――今日、園城寺、平家の爲に焼失す。
――金堂以下、堂舎の塔廟、并びに大小乗の經巻、顯密の聖教、大略を以って灰燼と化すと<云々>。・・・もともと仏像は純金で作るものだが、お金が掛かりすぎるので鍍金を施す。だから、焼失してしまうんです。
・・・「大小乗の經巻」というのは大乗仏教・小乗仏教・・・どちらもお釈迦様から出ているんですが。「大乗仏教」は広く人類全体、他を利して救済する「利他救済」の世界観で、人生観も活動的。中国→朝鮮→日本のルートで渡来。「小乗仏教」は自分個人の解脱。スリランカ→ビルマ→インドで渡来。
・・・「顯密の聖教」・・・顯教というのは、密教の他は全部「顯教」です。密教というのは、秘密裏に護摩を焚いて大日如来の大日経・金剛頂経の経典を読む。台密・東密があります。

筆者の呟き・・・アララ・・・大乗と小乗ってそういう分け方だったんですか?!まあそういえばそうなのかな(^_^;お釈迦様の教えに到達する入り口の狭いのと広いの、と言うわけ方で、教義に厳しいのが小乗、おおらかなのが大乗。だから、他力本願なんてのは当然大乗と言う風に・・・何時誰に教わったのか・・・漠然と)


○十四日 壬辰。武藏國住人。多以本知行地主職。如本可執行之由。蒙下知。北條殿并土肥次郎實平爲奉行。邦通書下之<云々>。

――14日 壬辰(ジンシン)
――武藏の國の住人、多く以って、本知行の地主職(じしゅしき)、本の如く執行すべき之由、下知を蒙る。・・・鎌倉武士が武蔵国を掌握した。武蔵国というのは大きい。埼玉の一部を含んで、東京、横浜の一部も含みます。
――北條殿并びに土肥の次郎實平、奉行爲として、邦通、之を書下す<云々>。・・・邦通は、頼朝の祐筆として活躍します。山木に行って、居候しながら相手の様子を伺って知らせた人です。


○十六日 甲午。鶴岡若宮被立鳥居。亦被始行長日最勝王經講讃。武衛令詣給。裝束水干。駕龍蹄給<云々>。

――十六日 甲午(コウゴ)
――鶴岡若宮に鳥居を立てらる。・・・鎌倉八幡宮は鎌倉のシンボルとなる。
――亦、長日の最勝王經講讃を始行せらる。
――武衛は詣でしめ給ふ。
――水干を装束し、龍蹄(りょうてい)に駕し給ふと<云々>。
・・・最勝王經講讃・・・「最勝王經」というのは、「金光明最勝王經」と言って、聖武天皇が国分寺を作ったとき、一巻づつ納めた「国家鎮護の三部經(法華経・仁納経・最勝王經)」の一つ。「講讃」というのは、經論の内容などを説明して功徳を賞賛すること。

○十九日 丁酉。右馬允橘公長參著鎌倉。相具子息橘太公忠。橘次公成。是左兵衛督知盛卿家人也。去二日。藏人頭重衡朝臣爲襲東國進發之間。爲前右大將<宗盛>之計。被相副之。爲弓馬達者之上。臨戰場廻智謀。勝人之故。而公長倩見平家之爲躰。佳運已欲傾。又先年於粟田口邊。与長井齊藤別當。片切小八郎太夫<于時各六條廷尉御家人>等喧嘩之時。六條廷尉禪室定被及 奏聞歟之由。成怖畏之處。匪啻止其憤被宥之。還被誡齊藤片切等之間。不忘彼恩化。志偏在源家。依之。厭却大将軍之夕郎。尋縁者。先下向遠江國。次參著鎌倉。以一所傍輩之好。属加々美次郎長清。啓子細之處。可爲御家人之旨。有御許容<云々>。

――十九日 丁酉(テイユウ)。
――右馬の允橘の公長、鎌倉に參著す。
――子息橘の太公忠・橘次公成を相具す。
――是は、左兵衛督(さひょぅえのかみ)知盛卿の家人也。
――去んぬる二日、藏人頭重衡朝臣、東國を襲わんが爲、進發する之間、前の右大將<宗盛>之計(はからひ)爲として、之に相ひ副へらる。
――弓馬の達者爲る之上、戰場に臨み、智謀を廻らし、人に勝れる之故なり。・・・橘公長が息子二人を連れてやってきた。これは、もともと四男の知盛りに仕えていたものを、「前の右大將三男<宗盛>之計(はからひ)によって」、五男の重衡が関東攻めをするために付けられた。

――而るに、公長は、倩(つらつら)平家之爲躰(ていたらく)を見るに、佳運は已に傾かんと欲す。

――又、先年の粟田口の邊りに於いて、長井の齊藤別當・片切の小八郎太夫<時に各(おのおの)六條廷尉御家人>等と喧嘩之時、六條廷尉禪室、定めて[敬意の空白] 奏聞に及ばるる歟之由、怖畏成す之處、啻(ただ)に、其の憤(いきどおり)を止め、之を宥めらるに匪ず(のみならず)、還って、齊藤・片切等を誡めらるる之間、彼の恩化を忘れず、志は偏へに源家に在り。・・・六條廷尉は源為義。禅室は出家した奥さん、御後室。喧嘩をいいつけられて、仕返しされると思っていたら、かえって、喧嘩の相手の齊藤・片切等を誡めらるることになった。その恩を忘れずに志は源氏にあった。

――之に依りて、大将軍之夕郎を厭却し、縁者を尋ね、先ず遠江國に下向し、次に鎌倉に參著す。
――一所傍輩(いっしょぼうはい)之好(よしみ)を以って、加々美次郎長清に属し、子細を啓す(もうす)之處、御家人爲るべき之旨、御許容有りと<云々>。・・・加々美次郎長清は武田流中駒郡若葉町加賀美、10月19日の記事で、京都を発って来たと言う記事がありました。その時は兄の秋山太郎光朝と共に知盛に属していた、と書いてあった。その時の同僚だった。その好で加々美次郎長清を頼ってきたんです。

ん〜。もう後一寸ですが・・・今日は終わりませんねぇ(溜息)。次回のお楽しみですね。もう、テキストは出来てるんですが・・・(先生名残惜しそう(^^ゞ)


筆者の呟き――「啻(シ・ただ)」の読みでだいぶ困りました(^_^;ここ、ちゃんとノートとって無かったらしく、しかも日にちが経って記憶に無い!!
「東鑑」さんでは、「啻にその憤りを止めこれを宥めらるるのみならず」と書かれていました。
漢和辞典では「ただに、否定の言葉の下について単にソレばかりではないという意味を表す」そうで、それなら、「東鑑」さんの読みでいいのでしょうが、そうすると、私が使っている吉川弘文館の国史大系判の返り点の付け方だと?なのですね・・・「匪啻止」となっているのです。また、「不・・・啻」ずなら「ただに・・・のみならず」と読むのだそうです。そうか、それなら「匪」は「あらず」という読み方があるから、「ただに・・・のみならず」でいいのか!!と、やっと辿りついたのです(^_^;疲れた(^o^)〜ホー

ノートは早いうちに纏めておかなくちゃネェ、ということと、まず、ちゃんと取っとけよ〜!ということでしたm(__)m



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この所、一カ月おきにお休みしてしまい、資料もどうなっているか分からない始末ですが、今日確認した所、頂く物は頂いているようです。もう二冊目のテキスト(養和元年の分)も出来ていて、後は配るだけなのだそうですが・・・。ただ一冊目が終わらないと配らない、と言う事らしいです・・・ひとえにこれは、生徒たちが老齢で、間違えて持ってきたりする危惧があるからなんじゃないかと(^_^;
けっこう、いらっしゃるのですよ!古くからの受講者の方で、あら、間違えた!ちょつと見せて、ってやっていらっしゃいます(^_^;資料集も相当増えてかなりの重みです。また、最近の資料はB3版が多いので、大きくて見やすい分扱いに困ります。私はB5判のファイルとB4判のファイルに分けて入れているのですが、それだと資料の順番に不都合だったり、・・・持ち歩きもテキストと資料ファイル二冊、おまけに本ちゃんの「吾妻鏡」一巻では、相当な重量です。老人でも男の方は、まあ七十歳くらいの方なら持てるでしょうが、それを越えた方たちは大変そうです。六十ソコソコの方でも、もう諦めてテキストだけ、という方もいらっしゃいます。



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