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7月11日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 12月20日〜

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

今回も、体調不良で欠席です。かくて、私の読みですので、おかしな所は、「東鑑目録」さん、「吾妻鏡入門」さんの所でご確認くださいm(__)m

○廿日戊戌。於新造御亭。三浦介義澄献[土完]飯。其後有御弓始。此事兼雖無其沙汰。公長兩息爲殊達者之由。被聞食之間。令試件藝給。以酒宴次。於當座被仰<云々>。
  射手
    一番
      下河邊庄司行平    愛甲三郎季隆
    二番
      橘太  公忠       橘次  公成
    三番
      和田太郎義盛      工藤小二郎行光
今日御行始之儀。入御藤九郎盛長甘縄之家。盛長奉御馬一匹。佐々木三郎盛綱引之<云々>。

――20日 戊戌(ボジュツ)。
――新造の御に於いて、三浦介義澄、[土完]飯を献ず。
――其の後、御弓始有り。
――此事は、兼ねて其の沙汰無しと雖も、公長の兩息殊に達者爲る之由、聞こしめさるる之間、件の藝を試み令め給ふ。
――酒宴の次いでを以って、當座に於いて仰せらるると<云々>。
――射手一番・下河邊庄司行平・愛甲三郎季隆、二番・橘太公忠・橘次公成、三番・和田太郎義盛・工藤小二郎行光
――今日、御行始之儀、藤九郎盛長の甘縄之家に入御す。
――盛長、御馬一匹を奉る。
――佐々木三郎盛綱、之を引くと<云々>。

[土完]飯の読みは、「漢字の読み」通り読めば「かんぱん」になるんですけど、これはおかしいですよね(^_^;振る舞いの「おうばん」の事だと思います。大盤振舞いの「おおばん」ではなくて「おうばん」!
大体、[土完]と言う字は、ワードの辞書ツールでは出るんだけど、ホームページビルダーでは出せないのです。↑のお二人のサイトでは現代字の「椀飯」を出して、「おうばん」と読んでいらっしゃいました。うちの「吾妻鏡」の別の日付(建長六年正月)の記事の中でも、[土宛]で「おうばん」と、先生は読んでいらっしゃつたので、「おうばん」でいいと思います。・・・はあ〜、講義サボると大変(^_^;

○廿二日庚子。新田大炊助入道上西依召參上。而無左右。不可入鎌倉中之旨。被仰遣之間。逗留山内邊。是招聚軍士等引籠上野國寺尾舘之由風聞。仰藤九郎盛長被召之訖。上西陳申云。心中更雖不存異儀。國土有闘戰之時。輙難出城之由。家人等依加諫。猶豫之處。今已預此命。大恐畏<云々>。盛長殊執申之。仍被聞食開<云々>。又上西孫子里見太郎義成自京都參上。日來雖属平家。傳聞源家御繁榮。參之由申之。其志異祖父。早可奉眤近之旨被免之。義成語申云。石橋合戰後。平家頻廻計議。於源氏一類者。悉以可誅亡之由。内々有用意之間。向關東可襲武衛之趣。義成偽申之處。平家喜之。令免許之間參向。於駿河國千本松原。長井齊藤別當實盛。瀬下四郎廣親等相逢云。東國勇士者。皆奉從武衛畢。仍武衛相引數萬騎。令到鎌倉給。而吾等二人者。先日依有蒙平家約諾事。上洛之由語申之。義成聞此事。弥揚鞭<云々>。

――22日 庚子(コウシ)。
――新田大炊助入道上西、召しに依り參上す。
――而るに左右無く、鎌倉中に入るべからざる之旨、仰せ遣さる之間、山内の邊りに逗留す。
――是は軍士等を招し聚めて(めしあつめて)、上野國寺尾の舘に引籠る之由、風聞し、藤九郎盛長に仰せ、之を召され訖(おわんぬ)。
――上西、陳じ申して云く、
――心中、更に異儀を存ぜすと雖も、國土は闘戰有るの時、輙(わだち)、城を出で難き之由、家人等、諫(いさめ)を加うるに依って、猶豫する之處、今、已に此の命に預かるに大恐畏(だいきょうい)なりと<云々>。
――盛長、殊に之を執申す。
――仍って聞こし食し開かるると<云々>

――又、上西の孫子里見太郎義成、京都より參上す。
――日來(ひごろ)、平家に属すと雖も、源家の御繁榮を傳聞し、參る之由、之を申す。
――其志は、祖父に異なり、早く眤近奉るべき之旨、之を免がらる。
――義成、語り申して云く、
――石橋合戰後、平家頻りに計議を廻らし、源氏の一類に於いては、悉く以って誅亡すへき之由、内々用意有る之間、關東に向け武衛を襲うべき之趣、義成、偽り申す之處、平家之を喜び、免許せしむ之間、參向す。
――駿河の國千本松原に於いて、長井齊藤別當實盛・瀬下四郎廣親等と相逢いて云く、東國の勇士者(は)、皆、武衛に従い奉り畢(おわんぬ)。
――仍って、武衛、數萬騎を相引きいて、鎌倉に到りしめ給ふ。
――而るに、吾等二人者(は)、先日、平家約諾を蒙る事有るに依りて、上洛之由、之を語り申す。
――義成、此事を聞くに弥(いよいよ)鞭を揚ぐと<云々>。

筆者の呟き・・・あのですね・・・ここで思うのは齊藤實盛と瀬下廣親の律儀さですよねぇ♪みんな、源氏の繁栄を聞いて、誰も彼も関東になびくのに、
「吾等二人者(は)、先日、平家約諾を蒙る事有るに依りて、上洛之由」というのは涙、涙ですよ(^^ゞ
まあ、新田上西は別物ですが・・・これは腹に一物手に荷物♪の口ですから(^_^;それにしても、孫は源氏に心を寄せておったのですな(^_^;新田と言うと反鎌倉幕府っぽいと思うのは早計でした(^_^;

それにしても、「太平記」では、凄い戦闘を繰り広げますよねぇ。其処までの頼朝が作った鎌倉幕府と、北條氏に対する累積した怨念!という感じです(^_^;欠席でいい加減な受講録乗っけてるお詫びm(__)m

「太平記」巻十 関東氏族并家僕等討死の事
(前略)新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越を打廻って、極楽寺坂へ打莅み(のぞみ)給ふ。明け行く月に敵の陣を見給へば、北は切通にて山高く路さかしきに、木戸を誘へ垣楯をかいて、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路せばきに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四、五町が程に大船どもを並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構へたり。(中略)義貞馬より下り給ひて、冑をぬいで海上を遥々と伏し拝み、竜神に向つて祈誓し給ひけるは、(中略)「仰ぎ願はくは、内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑑みて、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、信を致して祈念し、自ら佩き給へる金作の太刀を解いて、海中へ投給けり。
真に竜神納受やし給ひけん、其夜の月の入り染に、塩更に干る事も無りける稲村が崎、俄に二十余町干上って、平沙まさに渺々たり。横矢射んと構へたる数千の兵船も、落ち行く塩に誘われて、遥かの澳(おき)に漂へり。不思議と云も類なし。
(中略)さる程に、大仏陸奥守貞直は、昨日まで二万余騎にて、極楽寺の切通を支へて防ぎ闘ひ給けるが、今朝の浜の合戦に三百余騎に打ちなされ、あまつさへ敵に後を遮られ、前後に度を失て御座ける処に、鎌倉殿の御屋形にも火懸りぬと見へしかば、世間今はさてとや思ひけん、また主の自害をや勧めけん、宗徒の郎従三十余人、白州の上に物具脱ぎ棄てて、一面に並居て腹をぞ切にける。貞直これを見給ひて、「日本一の不覚の物どもの行跡かな。千騎が一騎になるまでも、敵を亡ぼして名を残すこそ、勇士の本意とするところなれ。いでさらば最後の一合戦快くして、兵の義を勧めん。」とて、二百余騎の兵を相随へ、先大嶋・里見・額田・桃井、思ひ思ひに控えたる真ん中へ破って入り、思ふ程闘って、三度逢って三度分かたれば、兵六十余騎になりにけり。貞直その兵をさし招いて、「今は末々の敵と懸合ても無益也。」とて、脇屋義助雲霞のごとくに扣たる真中へ馳せ入り、面々に分々の敵に合うて、あるいは頭を取り、あるいは頸を取られ、一人も不残討死して、尸(かばね)を戦場の土にぞ残しける。

「太平記」は一人で書けたわけではない。今川了俊は「難太平記」という太平記を批判する書物で「代々書き継がれて行ったものだ」と言ってますが、それでは誰が?というとわかりません。

新田義貞の鎌倉攻めです。脇屋義助は義貞の弟。


○廿四日壬寅。木曽冠者義仲避上野國。赴信濃國。是有自立志之上。彼國多胡庄者。爲亡父遺跡之間。雖令入部。武衛權威已輝東關之間。成歸往之思。如此<云々>。

――24日 壬寅(じんいん)。
――木曽冠者義仲、上野國を避け、信濃の國に赴く。
――是は自立の志ある之上、彼の國の多胡の庄者(は)、亡父の遺跡爲る之間、入部せしむと雖も、武衛の權威、已に東關に輝く之間、歸往之思いを成すに此の如しと<云々>。

そうそう、義仲の血統はなかなか美形のようでした。義仲の父義賢というのは、当時の武士の中でもナカナカの美形で、例の關白忠実の色子だったのは公然の事実だったらしいです。その血をひいて、義仲もナカナカの美形、且つ、頼朝の長女大姫の婚約者となっていた義仲の息子義高も美形だったようですね。そのために?義高と大姫は幼い純愛を育み、結果的には頼朝への痛烈な一打を与えたと言っていいのでしょう。大姫と言う手駒によって、何とか宮廷に勢力を築きたかった頼朝の野望を砕く結果になってしまったのですから(^^ゞそれにしても、頭のいい家系とは言い難かった気がします。義仲最期だって、主役は、乳母子の今井四郎だかんね(^_^;・・・筆者の呟き

○廿五日癸卯。石橋合戰之刻。所被納于巖窟之小像正觀音。専光房弟子僧奉安閼伽桶之中捧持之。今日參著鎌倉。去月所被仰付也。數日捜山中。遇彼巖窟。希有而奉尋出之由申之。武衛合手。直奉請取給。御信心弥強盛<云々>。今日重衡朝臣爲平相國禪閤使。相率數千官軍。爲攻南都衆徒首途<云々>。

――25日 癸卯(キボウ)
――石橋合戰之刻(みぎり)、巖窟に納めらるる所之小像正觀音、専光房弟子僧、閼伽桶之中に安んじ奉り之を捧持す。
――今日鎌倉に參著す。
――去んぬる月、仰せ付けらるる所也。
――數日山中を捜し、彼の巖窟に遇す。
――希有にして、尋ね出で奉る之由、之を申す。
――武衛、手を合わせ、直に請け取り奉り給ふ。
――御信心、弥(いよいよ)強盛すと<云々>。

――今日重衡朝臣、平相國禪閤の使いとして、數千の官軍を相率いて、南都の衆徒を攻めんが爲、首途すと<云々>。

小像正觀音というのは治承四年8月16日の所に出てくる。聖観音です。これを石橋合戦の時、武将が神仏にすがっていると思われては遺憾であると、鵐窟屋に納めて来たのでした(8月24日の項)。

ここでまた、頼朝の信心深さを記録に残しています。これはどういう意味だったのかな・・・と考えたり・・・この記録を書いた時点での宗教の位置づけ、などという事も大事なポイントなのかな、とか。まあ単に頼朝自身が信心深い人であった、と言う事なのか、あるいは、鎌倉幕府が安定してくる頃から始まる頼朝の源氏粛清に対して、本来はこれほど信心深い人だったのだ、という煙幕なのだろうか、とかね・・・。頼朝像に対するスタンスの持ち方で、この辺はいかようにも取れる記述ですね。

もひとつ、俗に、信長・秀義・家康をワンセットにして色々比較するけれど、私は、この中に頼朝を入れてカルテットでいい(実は家康をはずして頼朝ヲ入れたい)と思うのですね。清盛も入れてもいい。つまり個人で天下統一を成そうとした人たちとして。そして、まあ、清盛は天下統一には至らなかったけれど、まあ、ほぼ天下を握ったとして、ですね。

そうした、個人で天下を取った人々が、其の後どうなるか・・・で、「奢れる物は久しからず・・・」になっていく。天下人シンドロームというのか、天下人五月病というのか、ね。それをジーッと見て、巧く回避したのは徳川家康だったわけ、だと思うのです。粛清の仕方も、彼はかなり頼朝の血族粛清から学んでいるんじゃないかな・・・と考えてます。・・・ムム?おばさんの下手な考え休むに似たりm(__)m

重衡がいよい、南都焼き討ちに出かけます。勿論、もともと焼討ちするつもりはなかったのですが・・・その辺は「平家物語」巻四・南都炎上をご参考にm(__)mえ?載せないのか?もう疲れたのでパスm(__)m「東鑑目録」さんのところでは「玉葉」からの記録が載っています。・・・我ながら手抜きだなぁm(__)m

○廿六日甲辰。佐々木五郎義清爲囚人被召預于兄盛綱。是早河合戰之時。属澁谷庄司。殊奉射之故也。

――26日 甲辰(コウシン)
――佐々木五郎義清、囚人爲として兄盛綱に召し預けらるる。
――是は早河合戰之時、澁谷の庄司に属し、殊に射奉る之故也。

このへん、先生から、ちゃんと講義を受けないと、微妙な所ですが・・・佐々木一族は、治承四年8月9日の記録のところで述べられているとおり、頼朝の旗揚げ前から、自分たちから頼朝の元に馳せ参じていたいわば股肱の臣!な訳です。それでも、五男の義清は渋谷重國(一応平家方ということになってる)女の処世でもあり、妻は大庭景親女であるからには、どうしたって、平家方に付かざるを得ないのですねぇ(^_^;
当時としては、当然の如く、平家方として戦闘に加わり、まあ頼朝にも弓を引くでしょう(^^ゞでも、其の後の佐々木一族の働きと、その間の渋谷重國の佐々木一族に対する温情のかけ方を思えば、これはどうしたって助けにゃならない!!梶原氏だって、まだこの時は、そうそう佐々木にチョッカイ出せない状況だったでしょうし、ね・・・って、梶原も参前(治承五年の正月だ)前だった(^^ゞ・・・筆者の呟き



○廿八日丙午。出雲時澤可爲雑色長之旨被仰。朝夕祗候雑色等雖有數。征伐之際。時澤之功異他故被抽補彼職<云々>。
今日。重衡朝臣燒拂南都<云々>。東大興福兩寺郭内。堂塔一宇而不免其災。佛像經論同以回禄<云々>。

――28日 丙午(ヘイゴ)
――出雲の時澤、雑色の長爲るべし之旨仰らる。
――朝夕祗候する雑色等、數有ると雖も、征伐之際、時澤之功、他に異なるの故、彼の職に抽補せらると<云々>。
――今日、重衡朝臣、南都を燒拂すと<云々>。
――東大興福兩寺の郭内、堂塔一宇、其災を免れず。佛像經論同じく以って回禄すと<云々>

頼朝は、雑色とうのを大事にします。これは、朝廷で言えば蔵人というところなのかな・・・いわば私設秘書間みたいなものでしょ。蔵人は帝の私設秘書官から、公的色彩が強くなっていった物ですよね。雑色はそこまでいかず、結局私設秘書のままで終わった役職だと受け止めていますが、如何に?・・・筆者の疑問

吾妻鏡第一 



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