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9月12日(月)「吾妻鏡」第二 養和元年(治承五年)正月1日〜18日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。


いやはや、やっとこさぁ〜のご出席m(__)m先生、ごめんなさい、です。先月配布されてていた新しいテキストを頂き、資料も二枚!
「平家物語」の重衡の南都焼き討ちの所、今日の資料は「玉葉(治承四年12月〜五年1月)」です。

冒頭に、幹事のSさんが先月お亡くなりになった旨のご報告が有り、皆様ショック!今日初めて伺いましたが61歳だったそうです。合掌。(関連記事母の日記8月5日参照

で、先生がおもむろに切り出されたのは来月10月12日の遠足の件♪行く先は函南の長源寺。北條宗時の墓所といわれるところです。(最近確定したんだっけ(^^ゞ)後は三島大社の宝物館。これは前回のお話で、先生が見学にお骨折りくださったというところ。
お昼が、「鰻よし」という、何でも三島では有名な鰻やさんだそうです・・・筆者も漠然と聞いたことがあるような・・・吉田首相が大磯からお忍びで食べに行った、とか言うとこかな?そのためもあって会費8000円也!それはいいけど、午前八時に平塚駅に集合!などと恐ろしげな事を(^_^;

まあ、どちらにしても、私は源氏の日で、しかも、午後は母の定期健診というのは分かっているのでいかれません(;_;)
(イマニして思えば無理やり参加していなくてよかった♪ついフラフラと梅若さんの「楊貴妃」のチケットを取ってしまったのだ〜!!)

また、その次に今日の資料の説明で、「玉葉」について触れられたら、生徒席からブーイング(^_^;
早く入ってほしいのですネェ、吾妻鏡本文に(^^ゞ「吾妻鏡・第二」の治承五年のお正月だもの(^_^;というわけで、先生も、「ん〜、玉葉は吾妻鏡やりながら触れていこう・・・ん〜、でもねぇ、ん〜まず・・・まあ、吾妻鏡・・・」と煮え切らない!分かりますけどね、先生がまず「玉葉」から、というのは(^^ゞ
でも、生徒側から言わせれば、5月頃から、何時だ、何時だ、という気分で待っていたのです(^^)脱線が多かったおかげで、私も欠席ばかりしていたわりに、何とか新刊オープンに間に合ったのですが・・・ぽりぽり(^^ゞ
あ、私も前振り長いですm(__)m

はい、いよいよ本文!!
というところで、次回書きます。ナンセ10月は17日だというので気が長くなってる(^_^;頑張りまっす!!

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

吾妻鏡第二
  辛丑  治承五年  七月十七日改元養和元年
  壬寅  養和二年  五月廿七日改元寿永元年
  ■卯  依闕帖次第四用第三

――辛丑(シンチュウ)  治承五年  七月十七日改元養和元年
――壬寅(ジンイン)  養和二年  五月廿七日改元寿永元年
――癸卯(キボウ)  依闕帖次第四用第三
・・・治承五年は1181年です。この年の七月に養和に改元されますが、ソレは京都の朝廷の命令で、鎌倉ではずっと治承五年、六年、七年と言ってました。しかし、歴史上は七月から養和元年になります。その翌年の養和二年には5月にまた改元があって、寿永元年になります。このへんは1180―治承四年、1181―養和元年、1182―寿永元年、1184―元暦、1185―文治、1190―建久元年で、これは長くて1199年まで・・・このへんは改元が多いので(よく憶えておいて、とおっしゃつたのですかねぇ・・・(^_^;)

治承五年辛丑 <七月十四日爲養和元年>
正月大
○一日戊申。卯尅、前武衛參鶴岳若宮給。不及日次沙汰。以朔旦被定當宮奉幣之日<云々>。三浦介義澄。畠山次郎重忠。大庭平太景義等率郎從。去半更以後警固辻々。御出儀御騎馬也。著御于礼殿。専光房良暹豫候此所。先神馬一疋引立寳前。宇佐美三郎祐茂。新田四郎忠常等引之。次法華經供養。御聽聞。事終還御之後。千葉介常胤献[土完]飯。相具三尺里魚。又上林下客不知其員<云々>。

――治承五年辛丑(シンチュウ)。七月十四日、養和元年と爲す。
――正月大
――一日 戊申(ボシン)。卯尅(うのこく)、前の武衛、鶴岳若宮に参り給ふ。
――日次(ひなみ)の沙汰に及ばず。
――朔旦(さくたん)を以って、當宮の奉幣之日と定めらると<云々>。・・・鶴ヶ岡八幡宮は源氏の氏神、鎌倉幕府のシンボルです。関東武士の心の拠り所ですね。朔旦(さくたん)は1日の朝、正月1日の朝を、年首の奉幣の日と定める、ということ。

――三浦介義澄、畠山次郎重忠、大庭平太景義等、郎從を率いて、去んぬる半更(はんこう)以後、辻々を警固す。
――御出の儀、御騎馬也。
――礼殿(はいでん)に著御す。
――専光房良暹、豫め(あらかじめ)此の所に候ず。
――先ず神馬(しんめ)一疋、寳前に引立て、宇佐美三郎祐茂・新田四郎忠常等、之を引く。
・・・三浦介義澄は相模、畠山重忠は武藏、大庭景義は茅ヶ崎、宇佐美・新田はいずれも伊豆の武士。(・・・相模・武藏伊豆一帯を率いている、ということですね・・・筆者の呟き)

――次いで法華經供養、御聽聞。
――事終えて還御之後、千葉介常胤、椀飯(おうばん)を献ず。・・・椀飯(おうばん)は将軍の爲に御家人が振舞うんでしたね。
――三尺の里魚(りぎょ)を相具す。・・・里魚(りぎょ」は鯉です。「文選」の中に鯉の中に手紙を入れて妻が夫に送った、と言う話が載っています。
――又上林(じょぅりん)下客(かじゃく)、其の員(かず)を知らずと<云々>。・・・「上林(じょぅりん)」は始皇帝が作った長安の果樹園。転じて宴席の事を言います。「下客(かじゃく)」は「下若(かじゃく)」のこと。逝江省長興県の若渓(じゃっけい)という清流を使って銘酒を造ることから銘酒を意味します。三尺に及ぶ大きな鯉と多くの肴や銘酒がその数を知らず、という豪勢な振る舞いをした。

筆者の呟き――新田四郎忠常等引之のところが、活字を貰いに行っている「国文学建久史料館(底本は、国文学研究資料館蔵の寛永版)」の所では「仁田四郎忠常」になってるので、ありゃ?と思ったら、「仁田四郎忠常、新田とも書く」という注釈などがあって、アララ(^_^;このテキストは「吉川弘文館の国史大系」を使っているのですが、空白文字が埋まっていることが多くていいと思うのですが、どちらかと言うと少数派の字や名前を使っているような気がしています。「東鑑目次」さんの所も今回はたまたま新田でしたが、「国文学研究史料館」の文と々事が多いですね。先生はそんなことはおっしゃらないので・・・私一人の思い込みかな(^_^;
ホントはそういうこともメモに入れておくといいのでしょうけど・・・エヘヘ・・・ちょっと大変m(__)m

○五日壬子。關東健士等廻南海。可入花洛之由風聞。仍平家分置家人等所々海浦。其内。差遣伊豆江四郎警固志摩國。而今日熊野山衆徒等競集于件國菜切嶋。襲攻江四郎之間。郎從多以被疵敗走。江四郎經太神宮御鎮坐神道山遁隠宇治岡之處。波多野小次郎忠綱<義通二男>。同三郎義定<義通孫>。等主從八騎。折節相逢于其所。爲抽忠於源家。遂合戰誅江四郎之子息二人<云々>。忠綱。義定者。相傳故波多野次郎義通遺跡。住于當國。右馬允義經有不義。於相摸國雖蒙誅罰。於此兩人者。依思舊好。所勵勲功也。

――五日 壬子(ジンシ)。
――關東の健士等、南海を廻り、花洛に入るべき之由、風聞す。・・・南海は南海道。五街道というのは東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道とありますが、それは江戸時代。平安時代以前から畿内七道というのがあって、「資料手帳(歴史散歩便利帳)」の48ページ、天皇陛下の都を京師といい・・・、と書いて有りますね。

(「天子の住む都を京師、その周辺地域を畿内とよんだ。大化の改新後、唐の制度に倣って定められ大和・山城・摂津・河内の四畿内になつた。757年に和泉國が分置され五畿内になった。畿内以外の地は七道となり、道ごとに都から放射状に官道が各国府へ向けて走った。この時、山陽道だけが大路、東海道・東山道・北陸道は中路、山陰道・南海道・西海道は小路となっており、どの地域がじゅうしされていたかがわかる―歴史散歩便利帳・山川書店―より」)

――仍って、平家の家人等を所々の海浦(かいほ)に分かち置く。
――其内、伊豆の江(こう)の四郎を差し遣き(おき)、志摩國を警固す。
――而るに、今日、熊野山の衆徒等、件の國、菜切嶋(なきりじま)に競集し、江の四郎を襲い攻むる之間、郎從は多く以って疵を被り敗走す。・・・菜切嶋(なきりじま)というのは今の三重県英虞郡菜切町。南海は四国四カ国(伊予・讃岐・安房・土佐)と紀伊・淡路という平氏の領する地域。ところがこの時期、熊野は源氏の繁栄を祈っていました。

――江の四郎は太神宮の御鎮坐の神道山を經て、宇治岡に遁隠(とんいん)する之處、波多野の小次郎忠綱<義通二男>、同三郎義定<義通孫>等主從八騎、折節、其所に相い逢ふ。
――忠を源家に抽せんが爲、合戰を遂げ、江の四郎之子息二人を誅すと<云々>。
――忠綱・義定者(は)、故波多野の次郎義通の遺跡を相傳し、當國に住む。
――右馬允義經、不義有りて、相摸國に於いて、誅罰を蒙ると雖も、此の兩人に於いて者(は)、舊好を思ふに依りて、勲功に勵む所也。

○六日癸丑。工藤庄司景光生取平井紀六。是去年八月早河合戰之時。害北条三郎主之者也。而武衛入御鎌倉之後。紀六逐電。不知行方之間。仰駿河伊豆相摸等之輩。被捜求之處。於相摸國蓑毛邊。景光獲之。先相具參北条殿。即被申事由於武衛。仍被召預義盛訖。但無左右不可梟首之旨被仰付之。糺問之處。於所犯者令[羔のレンガが水になる]伏<云々>。

――六日 癸丑(キチュウ)。
――工藤の庄司景光、平井の紀六を生取る。
――是は去んぬる年の八月、早河合戰之時、北条三郎主(ぬし)を害する之者也。・・・平井紀六久重、治承四年8月4日、北條宗時を殺したという記事がありました。
――而るに、武衛、鎌倉に入御する之後、紀六逐電し、行方を知らざる之間、駿河・伊豆・相摸等之輩(やから)に仰せて、捜し求めらる之處、相摸國蓑毛の邊りに於いて、景光、之を獲る。・・・蓑毛は丹沢の麓。大山に登った日本武尊に村人が蓑と笠を贈ったという伝説から付いた地名です。
――先ず相具して北条殿に參り、即ち事の由を武衛に申せらる。
――仍って義盛、召し預けられ訖(おわんぬ)。
――但し、左右無く梟首すべからざる之旨、之を仰付けらる。
――糺問する之處、所犯に於いて者(は)、承伏せ令むと<云々>。


○十一日戊午。梶原平三景時依仰初參御前。去年窮冬之比。實平相具所參也。雖不携文筆巧言語之士也。専相叶賢慮<云々>。

――十一日 戊午(ボゴ)。
――梶原平三景時、仰せに依り、御前に初めて參る。
――去んぬる年、窮冬之比(ころほひ)、實平相具し參ずる所也。
――文筆を携わらずと雖も、言語巧み之士也。専ら賢慮に相叶ふと<云々>。
・・・梶原景時が始めて、頼朝の所に参上しました。治承四年の8月4日の石橋山で頼朝を助けたんでしたね。「筆を携わらずと雖も、言語巧み之士也」どういう意味でしょうか?この書き方は?(先生も意味ありげな笑いです(^^ゞ


○十八日乙丑。去年十二月廿八日。南都東大寺。興福寺已下堂塔坊舎。悉以爲平家燒失。僅勅封倉寺封倉等免此災。火焔及大佛殿之間。不堪其口。周章投身。燒死者三人。兩寺之間。不意燒死者百餘人之由。今日風聞于關東。是相摸國毛利庄住人僧印景之説也。印景爲學道。此兩三年在南都。依彼滅亡帰國<云々>。

――十八日 乙丑(イツチュウ)。
――去んぬる年、十二月廿八日、南都東大寺・興福寺已下の堂塔坊舎、悉く以って平家の爲に燒失す。
――僅かに(わずかに)、勅封倉・寺封倉等、此の災を免がる。・・・「勅封倉」というのは天皇の許可がなければ開けられない倉。寺封倉は綱封倉ともいう。
――火焔は大佛殿に及ぶ之間、其の口に堪えず、周章し身を投げ、燒死する者三人。
――兩寺之間、不意(こころならずも)、燒死者百餘人之由、今日關東に風聞す。
――是れは、相摸國毛利庄の住人僧印景之説也。・・・相摸國毛利庄というのは、厚木市の「森」の庄です。
――印景は學道の爲に、此の兩三年南都に在り。彼の滅亡に依りて帰國すと<云々>。


○廿一日戊辰。熊野山惡僧等。去五日以後亂入伊勢志摩兩國。合戰及度々。至于十九日。浦七箇所皆悉追捕民屋。平家々人爲彼・或捨要害之地逃亡。或伏誅又被疵之間。弥乗勝。今日燒拂二見浦人家。攻到于四瀬河邊之處。平氏一族關出羽守信兼相具姪伊藤次已下軍兵。相逢于舩江邊防戰。悪僧張本戒光<字大頭八郎房>。中信忠之箭。仍衆徒引退于二見浦。搦取下女<齢三四十者>。并少童<十四五者>。等。以上三十余人令同船。指熊野浦解纜<云々>。尋此濫觴。南海道者。當時平相國禪門虜掠之地也。而彼山依奉祈關東繁榮。爲亡平氏方人。有此企<云々>。平相國禪門驕奢之餘。蔑如朝政。忽緒神威。破滅佛法。惱亂人庶。近則放入使者於伊勢國神三郡。<大神宮御鎮坐>。充課兵粮米。追捕民烟。天照太神鎮坐以降千百餘歳。未有如此例<云々>。凡此兩三年。彼禪門及子葉孫枝可敗北之由。都鄙貴賎之間。皆蒙夢想。其旨趣雖?分。其料簡之所覃。只件氏族事也。

――廿一日戊辰(ボシン)。
――熊野山の惡僧等、去んぬる五日以後、伊勢・志摩兩國に亂入す。
――合戰の度々(どど)に及び、十九日に至り、浦七箇所の皆、悉く民屋を追捕(ついぶ)す。
――平家の家人、彼の・の爲、或いは要害之地を捨て逃亡す。
――或いは誅に伏し、又、疵を被る之間、弥(いよいよ)勝に乗じ、今日二見が浦の人家を燒拂い、四瀬河邊りに攻め到る之處、平氏の一族、關(せき)の出羽の守信兼、姪の伊藤次已下の軍兵を相具し、舩江の邊りに相い逢ひ、防戰す。・・・「關の出羽の守信兼」というのは、山木兼隆(治承四年8月4日の項)の父ではないか、と言われています。
――悪僧張本戒光<字は大頭八郎房>、信兼之箭に中り、仍って、衆徒は二見が浦に引き退き、下女<齢三四十者>并びに少童<十四五者>等を搦め取る。
――以上三十余人同船せしめ、熊野の浦を指して纜(ともずな)を解くと<云々>。
――此の濫觴(らんしょう)を尋ぬれば、南海道者(は)、當時、平相國禪門の虜掠之地也。・・・「濫觴(らんしょう)」の濫は杯、觴は浮かべる、揚子江の(この後聞こえなくて・・・m(__)m
――而るに、彼の山は、關東繁榮を祈り奉るに依りて、平氏の方人(かたうど)を亡ぼさんが爲、此の企て有りと<云々>。・・・南海道は、四国四カ国(伊予・讃岐・安波・土佐)と紀伊・淡路を結ぶ街道、平氏の領する地域だった。ところがこの時期、熊野は源氏の繁栄を祈る。
――平相國禪門、驕奢之餘り、朝政を蔑如(べつじょ)し、神威を忽緒し、佛法を破滅し、人庶を惱亂す。
――近くは、則ち使者を伊勢の國、神三郡(かみさんぐん)<大神宮御鎮坐>に放ち入れ、兵粮米を充課し、民烟を追捕(ついぶ)す。
――天照太神鎮坐して以降(このかた)千百餘歳、未だ此の例の如くは有らずと<云々>。
――凡そ此の兩三年、彼の禪門及び子葉孫枝は敗北すべき之由、都鄙貴賎之間、皆夢想を蒙る。
――其の旨趣分け?難しと雖も、其の料簡之覃(およぶ)所は、只、件の氏族の事也。

熊野が源氏の繁栄を祈るようになった、と先生は仰いましたけど、それって、要するに後白河が平家を見限って、源氏についたって事ですよね♪後白河は生涯で34回も熊野詣をしたという熊野狂いなわけで、後白河の意向は熊野に直結したんじゃないでしょうか(^^ゞ忠でさえ落ち目になると見限るのが早いのも宗教者の常だしね・・・筆者の呟き)

○廿三日庚午。於武藏國長尾寺。并求明寺等者。以僧長榮可致沙汰之旨被定下。是源家累代祈願所也。

――廿三日 庚午(コウゴ)。
――武藏の國長尾寺并びに求明寺等に於いては、僧長榮を以って、沙汰致すべき之旨、定め下さる。・・・「求明寺」は、今「弘明寺」と書く。
――是は源家累代の祈願所也。

弘明寺は弘明寺観音という国宝に指定された仏様がいらっしゃる小さなお寺です。実は昔のやや地元です。アホ娘が留学生寮のチューターをしたのも弘明寺の留学生寮でした♪門前町のようなアーケード商店街がそれなりにあって、今も昔の値段で暮らせる住み安い町です(^^)そういえば、国文学史料館なんて所も住所は品川ですが、戸越銀座なんて、とってもローカルでレトロで、昔の商店街そのままのいい感じの町です。いつか失ってしまった日本の町の生活に密着した賑わいのある通りです・・・こういうトコなくなって欲しくないな・・・筆者の呟き)

今日は後半一時間で大変な進みようでした♪
来月は第二月曜日が祝日だし、その週の水曜日に遠足!?があるし、で、第三月曜日の17日になります(^^)ホクホク。少し余裕かな♪


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