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10月17日(月)「吾妻鏡」第二 養和元年(治承五年)2月小1日〜閏2月大4日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

今回は、又もお休みしてしまいましたm(__)m実は、翌日が国文研の古今集第一回で、こりゃどうしてもそちらに出なくては、と思ったからです。最近の体力の低下は酷い物で連荘は二日でも大変です(;_;)
もし、明日第一回に出られないとやはりまずいので、そういう時はどうしても通年のセミナーが犠牲になっちゃう!!(´∧`)〜ハァー溜息
いつものことですが、こういうときは、「東鑑目録」さん、「吾妻鏡入門」をご参考になさってくださいませm(__)m

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○二月小
○一日 戊寅。足利三郎義兼嫁于北条殿息女。又加々美次郎長清爲上総權介廣常之聟。兩人共存隠便插忠貞。御氣色快然之餘。依別仰今及此儀<云々>。

○二月小
――一日戊寅(ぼいん)。
――足利の三郎義兼、北条殿の息女を嫁とす。又、加々美の次郎長清、上総權介廣常之聟と爲る。
筆者の呟き――初っ端からここは、困った!!ここは、必ず、「東鑑目録」さん、「吾妻鏡入門」をご参照ください。加々美次郎の方はいいんだけど、足利三郎の方はね、「息女に嫁す」というのを聞いたことがあるんですよ。・・・ご両所を読み比べると丁度ミックスして二で割ったみたいで可笑しいんですけどねぇ(^_^;)
――兩人共、隠便を存じ、忠貞を插(挿)す。御氣色快然之餘り、別の仰せに依って、今、此儀に及ぶと<云々>。

筆者の呟き――これは、けっこう意味深な記事です。つ・ま・り、足利氏が北條に取り込まれた、或いは頼朝がそれを望んだ、ということですね(^_^;でー、ここでは、北條氏の閨閥の中に足利氏が取り込まれたわけですけど、鎌倉時代末期の足利氏の台頭の仕方を考えると、波乱含みですよね♪
加々美次郎については治承四年10月19日の項に――その後加々美の次郎長清参着す。・・・甲斐源氏です――ということで、資料の系図参照、と言う事になりますが・・・ネットでは見当たらない(^_^;仕方ないので下に書きますか、と書いたのに書いてない!!いい加減な私m(__)m八月の上旬に京を出て、道中病気をしながらたどり着いたのに、先生も甲斐源氏の扱いについて、頼朝は冷たい。後々の扱いを考えると、この記事は興味深いものがあります。と仰ってましたねぇ。それを踏まえて考えると、またここで千葉氏とくっつけるというのは、千葉氏を目付け役にする、という意味があったのでしょうか、ねぇ(^_^;

東鑑目録」さんのところには「玉葉」の記事が一緒にアップされていますが、やはり、関東の常陸・上野・下野辺りの反鎌倉分子の押さえ、ということも考えていたのでしょうね。


○九日 丙戌。去年冬。於河内國、爲平家所被[?][?]源氏前武藏權守義基之首。今日渡大路。懸獄門之樹。先檢非違使左衛門少尉中原章貞。源仲頼。右衛門少尉中原基廣。安倍資成。右衛門志中原明基。左衛門府生大江經廣。右衛門府生紀兼康等。行向七条河原。平氏家渡彼頚。又義基弟石河判官代義資。紺戸先生義廣。被生虜之間。相具兄之首。被遣左獄舎<云々>。

――九日。丙戌(へいじゅつ)。
――去んぬる年の冬、河内の國に於て、平家の爲、殺害せらるる所の源氏、前の武藏權守義基之首、今日、大路を渡し、獄門之樹に懸く。
――先ず、檢非違使、左衛門少尉中原の章貞・源の仲頼・右衛門の少尉中原の基廣・安倍の資成・右衛門の志中原の明基・左衛門の府生大江經廣・右衛門の府生紀の兼康等、七条河原に行向す。
――平氏の家、彼の頚を渡す。
――又、義基弟、石河の判官代義資・紺戸の先生義廣・生け虜らるる之間、兄之首を相具し、左の獄舎に遣さると<云々>。

これはけっこう生々しい記事です。前武藏權守義基というのは、スミマセン知りませんでしたm(__)m まあ「前武藏權守」と言うのだからそれなりの人なんだろう、曝し首にする価値もある人なんだろう、と。でー、今、検索したら、ウィキベデイァに引っかかって、それによれば、なかなかの武将でした・・・当然か(^_^;
そちらには、河内源氏の棟梁としての義基を危険視した平清盛によって、だまし討ち?にされたような書き方でしたが、要するに「だまし討ち」にされるような重要な武将だったわけです。だからこそ、曝し首にする価値もあるわけですしね。詳しくは↑に行ってお読みくださいm(__)m

で〜、更に、ここで清盛がそういう「だまし討ち」みたいな手を使う男だ、という言い方をしているのは、もうじき清盛死にますからね・・・ああいう奴だからろくな死に方はしないんだ!と言いたいのかな〜、と(^^ゞ



○十日 丁亥。於安房國洲崎神領。在廳等成煩之由。有神主等之訴。仍可停止之由。今日所令下知給也。
   下  [シ頁]宮神官等
     可早令安房國[シ頁]宮免除万雜公事事
   右件宮万雜公事者。先日御奉免畢。重神官等訴申。事實者尤不敵也。早可令免除之状如件。仍在廳等宜承知勿違失。
        治承五年二月 日

――十日 丁亥(ていがい)。
――安房の國洲崎の神領に於いて、在廳等煩い成す之由、神主等之訴え有り。仍って停止すべき之由、今日下知せしめ給ふ所也。
――下  [シ頁]宮神官等
――早く安房の國須の宮わして万雜公事を免除せしむべきの事
――右件宮(みぎ、くだんのみや)、万雜公事者(まんざつくじは)、先日御奉免し畢(おわんぬ)。
――重ねて神官等、訴え申す。事實者尤も不敵也。
――早く免除せしむべきの状、件の如し。
――仍って在廳等、承知し違失勿かれと宜ふ。
――治承五年二月 日

筆者の呟き――[シ頁]も「す」と読むそうです。神領における万雜公事というのがどういうことを意味するのか、セミナー欠席者にはわっかりましぇ〜んm(__)m年貢を取るということなのか?そういうことなら免除せよなんて言わないでしょ・・・なんだろう?鎌倉の事務代行ということなんでしょうか(^_^;調べたら書きます。何方か教えてくだされば嬉しいですm(__)m


○十二日 己丑。左兵衛督知盛卿。左少將清經朝臣。左馬頭行盛等。自近江國上洛。是爲追討源武衛從軍等發向之處。左武衛依處勞如此<云々>。於美濃國所被討取之源氏并相從之勇士等頚。今月入洛。知盛卿相具之歟。所謂小河兵衛尉重清。蓑浦冠者義明<兵衛尉義經男>。上田太郎重康。冷泉冠者頼典。葦敷三郎重義。伊達冠者家忠。同彦三郎重親。越後次郎重家<越後平氏>。同五郎重信<同上>。神地六郎康信<上田太郎家子>等也。

――十二日 己丑(きちゅう)。
――左兵衛の督知盛卿・左の少將清經朝臣・左馬頭行盛等、近江の國自り上洛す。
――是は源の武衛の從軍等を追討せんが爲、發向する之處、左の武衛、處勞するに依って此の如しと<云々>。
――美濃の國に於いて、討取らるる所之源氏并びに相從之勇士等の頚(くび)、今月入洛す。知盛卿、之に相具す歟(か)。
――所謂(いわゆる)、小河の兵衛尉重清・蓑浦の冠者義明<兵衛尉義經男>・上田の太郎重康・冷泉冠者頼典・葦敷三郎重義・伊達冠者家忠・同彦三郎重親・越後次郎重家<越後平氏>・同五郎重信<同上>・神地の六郎康信<上田太郎家子>等也。

筆者の呟き――知盛は病気ガチだつた!という話有りましたよね。「平家物語」の方で。知盛が元気印だったら、平家の棟梁は宗盛じゃなかったかもしれないし・・・そしたら、鎌倉幕府はなかったかも・・・Ifの世界
美濃の国で、源平の地方戦があったんですね。
各人名については、「吾妻鏡人名索引・吉川弘文館」を見てるんですが、これって其の人名が出ている日付しかないので、誰が誰だかはわかりませんm(__)m
まあ、今相関図を書いてますが、これが何度書いても分からないのですよネェ・・・摂津源氏・河内源氏・甲斐源氏・・・などと言う縦の線はナントカなっても、そこから流れて行く線や、微妙に入り組んだ閨閥の線と地縁の線がクロスしてくると、何度書き直しても頭に入ってこない(^_^;
しかも、なんであんなに似たような名前がついてるんでしょうか?!って、そりゃあ血統を現すためなんだけどさ・・・んー、大変です(;_;)
治承四年からの、初出の武士の名前を書きとめておいたメモが行方不明だし・・・(^_^;メモと言っても、ノートにしてあるので、どこかに綴った、と言うことなんですが・・・ノートが増えて分類もほ〜んとに大変なんですよ(^_^;



○十八日 乙未。大河戸太郎廣行。同弟次郎秀行<号清久>。同三郎行元<号高柳>。四郎行平<号葛濱>。以上四人。日來蒙御氣色。今日有免許。廣行者爲三浦介義明之聟。就其好。義澄預守護之間具參之。武衛於簾中覽畢。見其面。皆備勇士之相之間。及御感<云々>。彼等父下総權守重行者。依属平家之咎。去年配流伊豆國蛭嶋。適有厚免。被召還之處。於路次痢病發動。遂亡卒<云々>。

――十八日 乙未(いつび)。
――大河戸の太郎廣行・同弟次郎秀行<清久と号す>・同三郎行元<高柳と号す>・四郎行平<葛濱と号す>・以上四人、日來御氣色を蒙る。
――今日免許有り。
――廣行者(は)、三浦介義明之聟爲して、其の好(よしみ)に就き、義澄の預り守護する之間、之に具し參る。
――武衛は簾中に於いて覽じ畢(おわんぬ)。
――其の面(おもて)を見るに、皆、勇士之相を備ふる之間、御感に及ぶと<云々>。
――彼等の父、下総權の守重行者(は)、平家に属する之咎に依り、去んぬる年、伊豆の國蛭が嶋配流す。
――適(たまたま)厚免有り、召し還さるる之處、路次に於いて、痢病發動し、遂に亡卒すと<云々>。

筆者の呟き――ここは、また父子・兄弟の源平に分かれて闘っていた諸事情が伺えます。大河戸氏については未詳。よく手で来る名前だし、三浦氏の婿になるくらいなので相当の武士でしょう・・・既出だと思いますが、記憶にないので調べますm(__)m三浦介義明は、これは、衣笠城を枕に劇的な死に戦をした老武者でした。義澄は、その父の命によって、あえて父と城を捨て、頼朝に馳せ参じた股肱の臣です。これは、それほどの三浦氏にかなりの気配りをした、というお話ですよね(^^ゞ


○廿七日 甲辰。安田三郎義定飛脚自遠江國參上于鎌倉。申云。平氏大將軍中宮亮通盛朝臣。左少將維盛朝臣。薩摩守忠度朝臣等。相率數千騎下向。已至尾張國。重差軍士。可被搆防戰儀歟<云々>。

――廿七日 甲辰(こうしん)。
――安田の三郎義定の飛脚、遠江の國自り鎌倉に參上す。
――申して云く、平氏の大將軍、中宮の亮通盛朝臣・左少將維盛朝臣・薩摩守忠度朝臣等、數千騎を相率いて下向す。已に尾張の國に至る。重ねて軍士を差し、防戰の儀、搆へらるべきかと<云々>。

筆者の呟き――甲斐源氏が出てくるたびに、先生は「頼朝さんは甲斐源氏に冷たいんですネェ」と仰います。この時も、きっとそうおっしゃったんじゃないでしょうか。私も、甲斐源氏は、一生懸命頼朝に尽くしていると思うんだけど、何でもかんでも石橋山の旗揚げの時に、遅れてきたことがネックになって虐められ続けるような気がします(^_^;まあ武田の武士軍団としての結束の仕方も尋常じゃないから、ある意味で寄せ集め的鎌倉軍団としては、恐れたのも無理は有りませんけど。武田軍団を生かしてうまく使えなかったことが、後々の鎌倉幕府に、大きな影響があった、とも思います。竜は虎をうまくいなして飼いならしてこそ大きく飛び上がることができるんですよね。虎に食われるようでは本物の竜ではない!頼朝には、そこまでの器量がなかったんだな・・・(´∧`)〜ハァー
そうそう、後で、ここの見直しのとき、「數千騎を相率いて下向す」のところ、「玉葉」には「万と出ています」と先生からの注釈が有りました。


○廿八日 乙巳。志太三郎先生義廣濫悪掠領常陸國鹿嶋社領之由。依聞食之。一向可爲御物忌沙汰之由被仰下。散位久經奉行之<云々>。今日。和田小太郎義盛。岡部次郎忠綱。狩野五郎親光。宇佐美三郎祐茂。土屋次郎義清等差遣遠江國。平氏等發向之由依有其告也。

――廿八日 乙巳(いっし)。
――志太三郎先生義廣(しだのさぶろうせんじょうよしひろ)、濫悪に常陸の國鹿嶋社領を掠領する之由、之を聞こし食すに依りて、一向御物忌の沙汰爲(す)べき之由、仰せ下さる。
――散位の久經、之を奉行すと<云々>。
――今日、和田小太郎義盛・岡部次郎忠綱・狩野五郎親光・宇佐美三郎祐茂・土屋次郎義清等を遠江の國に差遣す。
――平氏等、發向之由、其の告げ有るに依って也。



○廿九日 丙午。於鎮西有兵革。是肥前國住人菊地九郎隆直。豊後國住人緒方三郎惟能等反平家之故也。同意隆直之輩。木原次郎盛實法師。南郷大宮司惟安。相具惟能者。大野六郎家基。高田次郎隆澄等也。此外。長野太郎。山崎六郎。同次郎。野中次郎。合志太郎。并太郎資泰已下。率六百餘騎精兵。固關止海陸往還。仍平家方人原田大夫種直相催九州軍士二千騎。遂合戰。隆直等郎從多以被疵<云々>。

――廿九日 丙午(へいご)。
――鎮西に於いて兵革有り。
――是は肥前の國の住人、菊地の九郎隆直・豊後の國の住人、緒方三郎惟能等平家に反する之故也。
――隆直に同意する之輩は、木原次郎盛實法師・南郷大宮司惟安。
――惟能に相具す者は、大野六郎家基・高田次郎隆澄等也。
――此外、長野太郎・山崎六郎・同次郎・野中次郎。・志太郎・太郎資泰已下(いか)、六百餘騎の精兵を率いる。
――關を固め、海陸の往還を止む。
――仍って、平家の方人、原田の大夫種直、九州軍士二千騎を相催し、合戰を遂ぐ。
――隆直等の郎從、多く以って疵を被ると<云々>。

筆者の注――このあたりは「玉葉」の方に詳しく出ています。「東鑑目録」さんのサイトには、当該の「玉葉」本文もあっぷされています。
うちも、リンクで使える「玉葉」サイト探していますが、手っ取り早く、↑で失礼しますm(__)m

「玉葉」2月29日
刑部卿頼輔朝臣来たりて云く、豊後の国に下向すべし。これ彼の国の住人等、謀叛を 企て目代を追い出しをはんぬ。凡そ鎮西謀叛に依って、追討使を遣わさるべしと。もし然れば、当国滅亡すべし。諸身を取るに、任国の外他の計略無し。賊徒と云い、追 討使と云い、旁々以て国中損亡の基なり。仍って国司下向し、住人の梟悪を鎮むべし。 追討使を境内に入れらるべからざるの由、禅門に申せしめ、すでに可許有り。仍って 思い立つ所なりと。(中略)伝聞、尾張の賊徒等、少々美乃の国に越え来たり。阿波民部重良の徒党を射散らす。相互に疵を被るの者数有り。官軍方、池田の太郎と云う者有り。件の者を捕り、生きながら持ち去りをはんぬと。この事実事なり。




○閏二月大
○四日 庚戌。戌剋。入道平相國薨。<九条河原口盛國家>。自去月廿五日病惱<云々>。遺言云。三ヶ日以後可有葬之儀。於遺骨者納播磨國山田法花堂。毎七日可修如形佛事。毎日不可修之。亦於京都不可成追善。子孫偏可營東國歸往之計者。

――閏二月大
――四日 庚戌(こうじゅつ)。
――戌剋(いぬのこく)。入道平相國、薨ず。<九条河原口盛國の家>。
――去んぬる月の廿五日自より病惱すと<云々>。
――遺言に云く、三ヶ日以後、葬之儀有るべし。遺骨に於いて者(は)、播磨の國山田の法花堂に納め、七日毎に形の如く佛事修むべし。毎日之を修むべからず。亦、京都に於いて追善成すべからず。子孫は偏へに東國歸往之計(はからい)を營むべし者(とてへり)。

筆者の疑問――「玉葉」でも当日は清盛が死んだらしい、というふうにしか伝わってなくて「実否知り難し」と言うことだったらしいでする翌日になって、「禅門薨逝、一定なり」という文が見えます。この「三ヶ日以後、葬之儀有るべし」という意味はなんなんでしょう(^_^;二日間は死を秘めよ、と言う意味なのか、其の間に東国に肩入れする公卿たちを見分けよ、或いは京都から福原に遺骸を移しておけ、と言う程度の意味なのか・・・「子孫は偏へに東國歸往之計(はからい)を營むべし」と言う遺言なら、やはり、それなりの意味があると思うのですが・・・(^^ゞ



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いやぁ・・・つかれますネェ・・・授業サボると大変よ!!
まず、読みに困って、次に地名と氏名に困りますよ(^^ゞ
ここは、ちょっと置いといて、次の講義ノートに行きます。
もしおかしな所や、間違いを発見なさったら、是非是非教えてくださいませm(__)m





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