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11月14日(月)「吾妻鏡」第二 養和元年(治承五年)閏2月7日〜同月20日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です

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初っ端、今朝の朝刊で蘇我氏の邸跡が見つかった、というお話で盛り上がりました(^^)
もう、新聞記事にリンクするのは無理そうなので、簡単に書いておきますと

奈良県明日香村の 甘樫丘東麓遺跡で、5棟におよぶ建物の遺構が発見されたそうです。ここは飛鳥時代に栄華を誇った蘇我氏の本拠地で、周辺に焦土も発見されているので、「 日本書紀にある蘇我入鹿邸跡」だと考えられる、ということです。
なぜ「焦土」か、というのは、入鹿が飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で殺され、蝦夷が邸に火を放ち自害したという言い伝えがあり、今回は建物跡付近に焦土もあったため、まず確かのようです。

「日本書紀」では「甘樫丘」には丘の上に蝦夷の邸があり、谷間に入鹿邸があったと書くれている、そうで・・・(すみません筆者は未確認!これ書く前に書き写そうと思ったのですがm(__)m)
今回は、甘樫丘東麓の谷間で発見されているので、入鹿邸跡ではないかと見られているようです。
というと、蝦夷は当時入鹿の邸にいたんでしょうか・・・(聞き損ねたな(^_^;・・・内容・文責筆者ですm(__)m)


でー、ここでまた、「山川の66ページ」の蘇我氏の系図を開いて、蘇我氏と天皇家の姻戚関係の話になっちゃいまして・・・(^_^;
蘇我稲目に始まって馬子・蝦夷・入鹿の縦の線(男系)と、堅塩媛(きたしひめ)と欽明天皇の閨閥系から聖徳太子までの系図の確認(解説)になりました。

でー、前回の「閏2月4日の入道薨去」について、「平家物語」の入道薨去に触れられて、「今日は絶対“墨俣の戦い”まで行きたい、という願望で資料配りました」と仰って始まったのですが・・・時に、2時55分だったそうで(^_^;(←書いてあるのさ、時間が・・・絶対無理だ、と思ったんですね、ワタクシ(^_^;)

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○七日 癸丑。武衛御誕生之初被召于御乳付之青女<今者尼。号摩々。>。住相摸國早河庄。依有于御憐愍故。彼屋敷田畠不可有相違之由。被仰含惣領地頭<云々>。

――七日 癸丑(きちゅう)。
――武衛御誕生之初め、御乳付(おんちちづけ)に召さる之青女<今は尼なり。摩々と号す。>

・・・ここでは、「武衛」は頼朝ではなく「義朝」のことです吾妻鏡では、義朝は「左典厩」、頼朝は「左兵衛佐、左衛門尉」と言うことが多くて、義朝を武衛というのは珍しいのですが、ここでは、「武衛」は頼朝ではなく「義朝」のことです。
「武衛」というのは五衛府の将軍の中国の呼び方です。左兵衛佐、左衛門尉も五衛府の中の官職です。五衛府は近衛府・衛門府・兵衛府とあり、近衛は中心、兵衛府は真ん中、衛門府は外回り、の警護で、兵衛府・衛門府は左右に分かれているので五衛府といいます。左典厩というのは馬寮―「まりょう」とも「めりょう」とも読みます―の中国読みです。これも左右に分かれていて左馬頭・右馬頭(さまのかみ・うまのかみ)です。・・・これは墨俣は無理だなぁ・・・(先生の溜息と、生徒のクスクス笑いでした(^_^;)
・・・御乳付(おんちちづけ)・・・乳母のこと。青女は若い女、で蔑んでいうのではありません。青二才、というのも若い男っていうことです。
・・・<今は尼なり。摩々と号す。>・・・「乳母」のことを「摩々(まま)」という呼び方をする例が多いので固有名詞ではないかもしれないのですが、「源氏物語」にも例があります。(ほ〜い♪「浮舟」のトコでも出てきます♪)しかし、ここでは、「摩々の局」という尼さんです。
それは、「吾妻鏡」文治3年(1187)6月13日、建久3年(1192)2月5日に、「摩々の局」という乳母が出てきて「故・左典厩の乳母」とあり、醇酒(じゅんしゅ)を持ってきた、とある。齢92歳を越えて、とあるので、この時は82歳くらいです。

――相摸の國早河の庄に住す・・・
――御憐愍有るに依って故(より)、彼の屋敷・田畠を相違有る可からざる之由、惣領地頭に仰せ含めらると<云々>
・・・惣領地頭というのは武士団の頭領。惣領地頭に言いつけて領地の安堵をしたという。乳母と幼君の絆は強い。自分のお乳を飲ませて育てます。自分の子どもも幼君に一緒に仕えて、幼君にとっては一番信頼できる家臣になります。頼朝の場合は比企の尼が有名ですが、小山正光の妻の寒川尼とその子の結城朝光、山内俊道の妻山内尼と呼ばれた山内首藤経俊の母がいます(治承4年11月26日参照)。

あー!肝心な乳母がもう一人いたはずですよね!三善康信の伯母さん!!治承四年6月19日参照m(__)m)

(筆者の呟き・・・「御憐愍有るに依って故(より)」という読みですが、これは、うちの国史大系の返り点と、先生の読みでこうなったんですが、これは、東鑑目次さんの「御憐愍の故有るに依って」の方がピンときますよね(^_^;↓の読み方も国史大系の返り点にあわせるとおかしな読み堅になるんですが・・・)

文治3年(1187)6月13日
十三日 癸未。 故左典厩御乳母參上。則召御前。談徃事。令落涙給。是平治牢籠之後。自京都下向相摸國早河庄。而爲庄内田地七町作人。令世渡之由言上。仍永可領掌彼地之旨。被仰下<云々>。

――十三日 癸未(きび)。 故左典厩御乳母參上す。則ち御前に召し、徃事を談じ、落涙せしめ給ふ。是は平治の牢籠之後、京都自り相摸國早河庄に下向す。而るに庄内の田地、七町の作人と爲して世渡り令むる之由言上す。仍って永く彼の地を領掌す可き之旨、仰せ下さると<云々>。

建久3年(1192)2月5日
五日 戊申。 故左典厩の御乳母。<字摩摩局>。自相摸國早河庄參上。相具淳酒献御前。年齒已九十二。難期且暮之間。拜謁之由申之。幕下故以憐愍給。是有功之故也。有所望者。雖何[古の下に又=事]可令逹之旨。被仰下之間。早河内知行地。可免除課役之由。可被仰惣領之旨望申之。仍被相加三町新給之上。任申請之旨。即召盛時。可下知土肥彌太郎之趣。被仰<云々>。

――五日 戊申(ぼしん)。 故左典厩の御乳母。<字は摩摩局>。相摸の國、早河の庄自り參上す。淳酒を相具し、御前に献ず。年齒は已に九十二。且暮を期し難き之間、拜謁之由を申之す。幕下の故を以って憐愍し給ふ。是は有功之故也。所望有者(は)、何事と雖も達せ令む可き之旨、仰せ下さる之間、早河内知行地、課役を免除す可き之由、惣領に仰らる可き之旨、望み申す。仍って三町新給を相加へらるる之上、申請之旨に任せて、即ち盛時を召し、土肥の彌太郎下知す可き之趣、仰せらルと<云々>。

これ―文治3年・建久3年―はまだやった所ではないので筆者の読みです。間違っていたらごめんなさいm(__)m)

でー、ここで、ですね・・・実は次回(12月)に訂正が入るのですが、便宜上ここに書いてしまいます。
「摩々の尼」と「摩摩局」は別人だそうで・・・。
従来は、荘園史の研究で有名な、吉岡虎之助氏他の説で、「摩々の尼」と「摩摩局」は同一人物、というのが定説だったのだそうて、先生も納得していらしたそうです。ところが、吉川弘文館発行の「乳母の力」(田端泰子著)によると、「摩々の尼と摩摩局は別人である」という記事があって、「摩々の尼は摩摩局の娘で、母の摩摩局が義朝乳母として仕え、娘の摩々の尼は、頼朝の乳母となつた」ということだそうです。年齢的なこともカウントしても成り立つそうで、先生も納得なさつたということでした。そうすると、ここの「武衛」はいつもどおり頼朝で良い!ということになるそうです。だから、頼朝の乳母は従来知られている比企尼・寒川尼・山内尼、とこの魔々尼と四人いる、ということになります。
難しい!ややこしい!!・・・で魔々の尼という人は誰なんでしょう・・・その説明はナシでした(^_^;・・・誰か分からないのかな・・・検索してもHITしませんでした・・・筆者m(__)m)

○十日 丙辰。前右大將<宗盛卿。>家人大夫判官景高以下千餘騎。爲襲前武衛發向東國<云々>。

――十日 丙辰(へいしん)。
――前の右大將<宗盛卿。>、家人の大夫判官景高以下千餘騎、前の武衛を襲はんが爲、東國に發向すと<云々>。

・・・宗盛は重盛亡き後の平家の棟梁。「吾妻鏡」は「玉葉」の記事をそのまま載せています。「玉葉」は、同時期に書かれた公家の日記です。いろいろ思惑もあって全部本当かどうかわからない所もあるけれど、百年後に書かれたもの(吾妻鏡)より信頼できる、ね。
筆者の呟き――「紫式部日記」のほうでも「日記文学というものは・・・」と先生が仰ってましたね。「日記に書かれた事にドノテイドノ信頼を置くか〜という問題もあるが、書かれている事と書かれていなかった事というのが大事」だというのは文学的にも歴史的にも共通してますねぇ(^^ゞ)

○十二日 戊午。伊豫國住人河野四郎越智通清爲反平家。率軍兵押領當國之由。有其聞<云々>。

――十二日 戊午(ぼご)。
――伊豫の國の住人、河野(こうの)の四郎・越智の通清(おちのみちきよ)平家に反するが爲に、軍兵を率いて當國を押領する之由、其の聞こえ有りと<云々>。

・・・河野四郎は河野水軍。河野水軍が平家に反する爲、伊予の国を横領したんです。
河野四郎は越智通清の息子(越智通信というらしいです・・・筆者の補足)です。河野水軍ははじめ、広島県・今治の港から伊予に渡ってきた越智郡(おち・えちとも言う)にいた人々が河野(かわの・こうの)の土地をもらって武士化した。それが更に風早に移って「河野(こうの)」を名乗った。(筆者の言い訳・・・広島県今治であるはずがないのに、メモが「広島県・今治」になってましたm(__)mおそらく、広島から今治港を経て越智という土地に土着した、それから、さらに風早という土地に土着してそこで武士となった、ということだと思います。 水軍については、 今治おもしろ百科というところに詳しいのでそちらを御覧下さいm(__)m

○十五日 辛酉。被下院廳御下文於東海道之諸國。藏人頭重衡朝臣帯之。率千餘騎精兵。發向東國。是爲追討前武衛也。

――十五日 辛酉(しんゆう)。
――院廳御下文(いんのちょうおくだしぶみ)を東海道之諸國に下さるる。
――藏人の頭重衡朝臣、之を帯して、千餘騎の精兵を率い、東國に發向す。是は前の武衛追討の爲也。

・・・「千餘騎の精兵」は、「玉葉」では「万」と言う。

○十七日 癸亥。安田三郎義定相率義盛。忠綱。親光。祐茂。義清。并遠江國住人横地太郎長重。勝●田平三成長等。到于當國濱松庄橋本邊。是依前武衛仰也。此所爲要害之間。可相待平氏襲來之故也。

――十七日 癸亥(きがい)。
――安田の三郎義定、義盛・忠綱・親光(ちかみつ)・祐茂(すけもち)・義清并びに遠江の國の住人横地の太郎長重・勝間田(かつまた)平三成長等を相率いて、當國の濱松の庄、橋本の邊りに到る。
――是は前の武衛の仰せに依って也。
――此の所は要害爲る之間、平氏襲來を相待つ可きの之故也。

・・・「橋本」は浜松の浜名湖にかかる橋の下と言う意味で「橋本」の地名がついた宿駅である。東海道の宿駅であることから川止めなどがあると人が溜まって賑わう。橋本の遊女というのは有名。伊勢神宮の蒲の御厨(がまのみくりや)も近い。(敷智(うかち)郡〜浜名郡新井町大字浜名、頼朝が建久元年――というメモが途中で切れてる!!・・・なんだったんだろう(^_^;筆者)

・・・悪源太義平(義朝の長男)の母は橋本の遊女だったという。海道記東関紀行にも取り上げられている(土地です)。
筆者の呟き――そういえば、範頼の母は遠江国池田宿の遊女です。義朝って遊び人、というより、左馬頭としては、ちょつとお行儀悪い!)。

○十九日 乙丑。中宮大夫屬康信状到著鎌倉。進一通記。所載洛中巨細也。又去四日平相國禪門薨。爲送遺骨。下向播磨國已畢。世上聊令落居者。可參向之由<云々>。

――十九日 乙丑(いっちゅう)。
――中宮大夫屬(ちゅうぐうだいぶのさかん)康信の状鎌倉に到著す。
――一通の記を進め、洛中の巨細(こさい)を載せる所也。
――又、去んぬる四日、平相國禪門、薨ず。
――遺骨を送らんが爲、播磨國に下向し已に畢(おわんぬ)。
――世上、聊か落居せしめば、參向す可き之由と<云々>。

・・・「康信」は三善氏。元暦元年(1184)4月14日、京都より来る。その年に問注所が出来る。
・・・「洛中の巨細」は洛中の細かい情報。

○廿日 丙寅。武衛伯父志田三郎先生義廣忘骨肉之好。忽率數萬騎逆黨。欲度鎌倉。縡已發覺。出常陸國。到于下野國<云々>。平家軍兵襲來之由。日來風聞之間。勇士多以被遣駿河國以西要害等畢。彼此計會。殊思食煩。爰下河邊庄司行平。在下総國。小山小四郎朝政在下野國。彼兩人者雖不被仰遣。定勵勲功歟之由。尤令恃其武勇給。依之朝政之弟五郎宗政。并同從父兄弟關次郎政平等。爲成合力。各今日發向下野國。而政平參御前申身暇。起座訖。武衛覽之。政平者有貳心之由被仰。果而自道不相伴于宗政。經閑路馳加義廣之陣<云々>。

――廿日 丙寅(へいいん)。
――武衛伯父、志田の三郎先生(せんじょう)義廣(よしひろ)、骨肉之好(よしみ)を忘れ、忽ち數萬騎の逆黨を率いて、鎌倉を度からんと(はからんと)欲す。
――縡(こと)、已に發覺す。
――常陸の國を出で、下野の國に到ると<云々>。
――平家の軍兵、襲來する之由、日來(ひごろ)風聞する之間、勇士は多く以って、駿河の國以西の要害等に遣わされ畢。
――彼此(かれこれ)計會(けいかい)し、殊に思食(おぼしめし)煩ふ。
――爰に下河邊の庄司行平、下総の國に在り。
――小山の小四郎朝政、下野の國に在り。
――彼の兩人者(は)、仰せ遣はさざると雖も、定めて勲功に勵む歟之由、尤も其の武勇を恃み令め給ふ。
――之に依って、朝政之弟五郎宗政・并びに同從父兄弟・關の次郎政平等、合力を成さんが爲、各(おのおの)、今日、下野の國に發向す。
――而るに、政平、御前に参り身の暇(いとま)を申し、座を起ち訖(おわんぬ)。
――武衛、之を覽じ、政平者(は)、貳心(ふたごころ)有る之由、仰せらる。
――果して道自り、宗政に相伴せず、閑路を經て、義廣之陣に馳加わると<云々>。

・・・(源氏間の)同族で、関東の覇権を争って、源氏方・平家方に分かれる。
・・・「彼此(かれこれ)計會(けいかい)し、殊に思食(おぼしめし)煩ふ。」・・・今までの大将は自らも戦場に行ったが、頼朝はリモコンで操る!
なぜ、頼朝は征夷大将軍になりたかったか?なぜ鎮守府将軍では駄目だったのか?鎌倉を離れないためだったのか、ということが、1961年の東大の石井進先生の論文が「中世の窓」という大学院の同人誌に掲載されて、後に「鎌倉御家人たちの実像」に収録されました。
「鎌倉御家人たちの実像」というのは見当たらなくて、「鎌倉武士の実像」という本がここで見つかりました・・・これかなぁ(^_^;・・・筆者)

・・・嗚呼野木宮合戦までいかなかったなぁ・・・(とは、先生の溜息でしたm(__)m)






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