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12月12日(月)「吾妻鏡」第二 養和元年(治承五年)閏2月大21日〜同28日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です


。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

今日は野木宮合戦です。やっときました!資料4頁を見てください。(というわけで野木宮の場所は・・・今の栃木の「寒川郡」の近くですね・・・筆者)

○廿一日 丁卯。今日以後七ヶ日。可有御参鶴岡若宮之由立願給。是東西逆徒蜂起事爲靜謐也。未明參給。被行御神樂<云々>。

――廿一日 丁卯(ていぼう)。
――今日以後七ヶ日(にち)、鶴岡若宮御参有る可き之由、立願し給ふ。
――是は、東西の逆徒蜂起の事、靜謐の爲也。
――未明參り給ふ。
――御神樂行わると<云々>。

○廿三日 己巳。義廣率三萬餘騎軍士。赴鎌倉方。先相語足利又太郎忠綱。忠綱本自背源家之間。成約諾亦小山与足利。雖有一流之好。依爲一國之兩虎。爭權威之處。去年夏之比。可誅滅平相國一族之旨。高倉宮被下令旨於諸國畢。小山則承別語。忠綱非其列。太含欝憤。加平氏。渡宇治河。敗入道三品頼政卿之軍陣。所奉射宮也。異心未散。且以次爲亡小山。有此企<云々>。次義廣相觸可与之由於小山小四郎朝政。朝政父政光者。爲 皇居警衛。未在京。郎從悉以相從之。仍雖爲無勢。中心之所之在武衛。可討取義廣之由凝群議。老軍等云。早可令與同之趣。僞而先令領状之後。可度之也者。則云遣其旨。義廣成喜悦之思。來臨于朝政舘之邊。先之。朝政出本宅。令引籠于野木宮。義廣到于彼宮前之時。朝政廻計義而令人昇于登々呂木澤地獄谷等林之梢。令造時之聲。其音響谷。爲多勢之粧。義廣周章迷惑之處。朝政郎從太田菅五。水代六次。々郎和田。池二郎。蔭澤次郎。并七郎朝光郎等保志秦三郎等攻戰。朝政著火威甲。駕鹿毛馬。時年廿五。勇力太盛而懸四方。多亡凶徒也。義廣所發之矢中于朝政。雖令落馬。不及死悶。爰件馬離主。嘶于登々呂木澤。而五郎宗政<年廿>。自鎌倉向小山之處。見此馬。合戰已敗北。存令朝政夭亡歟之由。馳駕向于義廣陣方。義廣乳母子多和利山七太揚鞭。隔于其中。宗政逢于弓手。射取七太訖。宗政小舎人童取七太之首。其後義廣。聊引退。張陣於野木宮之坤方。朝政宗政自東方襲攻。于時暴風起於巽。揚焼野之塵。人馬共失眼路。横行分散。多曝骸於地獄谷登々呂木澤。又下河邊庄司行平。同弟四郎政義。固古我。高野等渡。討止餘兵之遁走<云々>。足利七郎有綱。同嫡男佐野太郎基綱。四男阿曽沼四郎廣綱。五男木村五郎信綱。及大田小權守行朝等。取陣于小手差原小堤等之處々合戰。此外八田武者所知家。下妻四郎清氏。小野寺太郎道綱。小栗十郎重成。宇都宮所信房。鎌田七郎爲成。湊河庄司太郎景澄等加朝政。蒲冠者範頼同所被馳来也。彼朝政者嚢祖秀郷朝臣。天慶年中追討朝敵。<平将門。>兼任両國守。令叙従下四位以降。傳勲功之跡。久護當國。為門葉棟梁也。今聞義廣之謀計。思忠軽命之故。臨戦場得乗勝<矣>。

――廿三日 己巳(いつみ)。
――義廣は、三萬餘騎の軍士をを率いて、鎌倉方に赴く。
――先ず、足利の又太郎忠綱に相語らふ。
――忠綱は本自り源家に背く之間、約諾(じゃくだく)を成す。
――亦た、小山・足利与(と)は、一流之好(よしみ)有ると雖も、一國之兩虎爲るに依って、權威を争ふ之處、去んぬる年の夏之比(ころほひ)、平相國一族誅滅す可き之旨、高倉宮、令旨を諸國に下され畢。
――小山、則ち別語を承り、忠綱は其の列に非ず。
――太だ(はなはだ)、欝憤を含み、平氏に加わり、宇治河を渡り、入道三品頼政卿之軍陣を敗り、宮を射奉る所也。
――異心、未だ散ぜず。
――且つは次いでを以って小山を亡ぼさんが爲、此の企て有りと<云々>。

・・・下野の国の中に竜虎と呼ばれた二氏・・・小山・足利、共に秀郷流であるのに主導権争いをしていた。他にも秀郷流には太田・志田(信太)がいる。志田は霞ヶ浦。今の茨城県稲敷郡信太、美浦(土浦)の近く。
・・・源氏旗揚げの時、小山氏は頼朝から特別の誘いがあった。その時、足利氏のほうには誘いがなかった。そのため足利は平家に着く。同族で北関東の覇権を争って源氏方・平家方に分かれる。

――次に義廣は、与(くみ)す可き之由小山小四郎朝政に相觸るる。
――朝政父政光者(は)、 皇居の警衛の爲、未だ在京す。
――郎從は悉く以って之に相從ふ。
――仍って無勢爲ると雖も、中心之所は、之(これ)、武衛に在り。

・・・志田義廣は小山朝政を自分の方に誘う。朝政の父政光は京都の内裏警護のため、京都にいる。しかし、内心は頼朝にある。朝政
の姉妹は頼朝の乳母。(←これ、オカシイですよね(^_^;朝政の義母の誤りじゃないかな・・・(^_^;筆者の呟き)

・・・野木宮合戦関連記事が、建久3年9月12日に出ています。

参考・・・筆者の読みです。間違ってたらごめんなさいm(__)m)

十二日辛巳。小山左衛門尉朝政、先年の勲功に募り恩沢に浴す。常陸の国村田下庄也。而るに、今日政所御下し文を賜る。其の状に云く。
   将軍家政所下す  常陸國村田下庄<下妻の宮等>
     地頭職補任の事
       左衛門の尉藤原の朝政
     右、去んぬる寿永二年、三郎先生義廣謀反を發し、闘乱を企つ。爰に朝政、偏に朝威を仰ぎ獨り相禦さんと欲す。即ち官軍を待ち具し、同年二月廿三日、下野の國野木宮邊りに於いて合戦の刻(みぎり)、抽て以って軍功致し畢(おわんぬ」。仍ってかの時地頭職に補任する所なり。庄官・宜しく承知して違失すべからずの状、仰せの所、件の如し。以下
       建久三年九月十二日    案主藤井
     令民部少烝藤原         知家事中原 
     別當前の因幡の守中原朝臣
       下総守源朝臣

・・・将軍家政所下文として、鎌倉幕府が出来て頼朝個人の花押でなく、政所下し文となる。下妻八幡宮というのは大豊八幡宮で、その「地頭職補任の事」という下し文です。吾妻鏡で扱う野木宮合戦は違う。吾妻鏡では寿永二年は欠分なのに、その二年前の養和元年に野木宮合戦が書かれている。それが、吾妻鏡(本文)の記事で、寿永二年の出来事であったことがわかるんです。
(な〜んとねぇ・・・いい加減なもんですが(^_^;・・・どういう意味か、政治的な意味があるんでしょうか?単に後で書いた記録で単純ミスだったのか・1183年の出来事を1181年の出来事として書く。でー、1192年にその褒賞人事がある・・・と。まあ褒美をもらうには、どっちにしても長く間が開きすぎた気もしますが、要するに1192って、鎌倉幕府が成立した時期だから、それは仕方ないのかな。そういう風に考えると、なんでか、1182年の記録がなくなっちゃったから、合戦記録だから書いておかなくと困る、でー、この辺に書いておこう、という意味もあるんでしょぅか??・・・ワッカリマヘンナァ(^_^;)

――義廣討取る可き之由、群議を凝らし、老軍等に云はく、
――早く與同せしむ可き之趣、僞りて先ず領状せしむ之後、之を度ふ可き也と者(てへれば)、則ち其の旨を示し遣す。

――義廣は喜悦之思いを成し、朝政舘之邊りに來り臨む。
――之に先んじ、朝政は本宅を出で、野木宮に引籠らしむ。
――義廣、彼の宮前に到る之時、朝政計義を廻らし、登々呂木澤地獄谷の等林之梢に人を昇らしめ、時之聲を造らしむ。
――其の音谷に響き、多勢之粧ひを爲す。
――義廣周章迷惑する之處、朝政の郎從、太田の菅五・水代の六次・次郎和田・池の二郎・蔭澤の次郎・并びに七郎・朝光郎等保志秦(ほしはた)の三郎等攻戰す。
――朝政は火威甲(ひおどしのよろい)を著し、鹿毛の馬に駕す。時に年廿五。勇力太だ盛んにして四方を懸け、多く凶徒を亡ぼす也。
・・・小山一族は、もともと頼朝に心を寄せているので、志田氏に組するかのようにして、だまし討ちにしようと相談する。志田・足利二氏を一度に討つ。

――義廣、發する所之矢、朝政に中り、落馬せしむと雖も、死悶に及ばず。
――爰に件の馬は主を離れ、登々呂木澤に嘶く(いななく)。
――而るに五郎宗政<年廿>、鎌倉自り小山に向かう之處、此の馬を見る。
・・・結城七郎朝政25歳、長沼五郎は20歳。朝光は朝政の弟で、次のページに15歳と書いてある。

――合戰は已に敗北す。朝政は夭亡せしむ歟之由存じ、駕(うま)を馳せ義廣の陣方に向う。
――義廣の乳母子(めのとご)多和利山七太は鞭を揚げ、其中を隔てて、宗政は弓手を逢はせ、七太を射取り訖。
――宗政の小舎人童、七太之首を取る。
――其後、義廣は聊か引き退き、陣を野木宮之坤方に張る。
――朝政・宗政、東方自り襲攻む。
――時に暴風、巽に起き、焼野之塵を揚ぐ。
――人馬共に眼路を失ひ、横行分散し、多く骸(しかばね)を、地獄谷登々呂木澤に曝す。
・・・凄い所ですねぇ・・・地獄谷というんですよ、「地獄谷登々呂木澤に曝す」・・・凄いネェ。(先生、こういう表現お好きらしくてご機嫌です(^^ゞ白髪三千丈の口ですが〜♪)

――又、下河邊庄司行平・同弟四郎政義・古我・高野等の渡しを固め、餘兵之遁走を討止むと<云々>。

――足利の七郎有綱・同嫡男佐野の太郎基綱・四男阿曽沼の四郎廣綱・五男木村の五郎信綱・及び、大田の小權守行朝等、陣を小手差原小堤(こてさしがわらこつづみ)等之處々に陣を取り、合戰す。

――此外八田武者所知家・下妻の四郎清氏・小野寺の太郎道綱・小栗の十郎重成・宇都宮所の信房・鎌田の七郎爲成・湊河の庄司の太郎景澄等、朝政に加わる。
・・・八田武者所知家は筑波山南(信太の上小田)。

ここで、先生が解説していらしたのに、私は意識を失って、ノート空白m(__)mで・・・一応調べてきましたm(__)m
八田武者所知家は名前だけは知ってる有力御家人なんですが、どう有力なんだか知りませんでしたm(__)m鎌倉御家人てそういうの多いですよね。地域的な事情で何気に名前だけは聞き覚え!ってパターンが多いからかな(^^ゞ
えー、とにかく知家さんは藤原北家の流れを汲む宇都宮宗円の孫で、頼朝の弟、とも噂される有力御家人であった!と。へぇ〜聞いて見なくちゃわからん物で・・・噂は真偽が分からないが、とにかく頼朝には重用され常陸國守護職となり、頼朝の死後は頼家専横を抑える十三人集の合議制のメンバーでもあった、と。詳しいサイトも見つけましたゆえ、ご容赦m(__)m・・・筆者


(でー、意識が戻ったら、義朝と義賢・義廣の解説でした。)
為義の息子の義朝・義賢・義憲・・・・とおりますが、この義憲というのが志田義廣です。義賢はもう皆さん知ってますね。木曾義仲のお父さんね。はじめ、義廣は義賢と仲がよくて一緒に義朝に対抗したり、行動していました。義賢は武藏秩父党の秩父重隆女と結婚して上野多胡に行ってしまいます。義廣は常陸信太に土着します。その後、義賢は義朝の長男の悪源太義平に討たれてしまいます。頼朝が旗揚げしてからも反旗を翻します。ここで敗れてからは、義仲の旗揚げに加わって、それが頼朝と義仲との不和の原因とも言われます。

――蒲の冠者、範頼は、同じく馳せ来たる所也。
・・・範頼は蒲の御厨で育ったので蒲の冠者、と呼ばれます。

――彼の朝政者(は)、嚢祖(のうそ)秀郷朝臣、天慶年中、朝敵<平将門。>を追討し、両國守を兼任し、従下四位を叙せしめて以降、勲功之跡を傳へて、久しく當國を護り、門葉の棟梁と爲る也。
――今、義廣之謀計を聞き、忠を思い命を之軽んずる故に、戦場に臨んで勝に乗じ得るか<矣>。

・・・小山氏は下野。当主の政光は、この時は京都の内裏警護のために留守だった。そこで四郎朝政・五郎宗政・七郎朝光の三兄弟が留守番をしていて、手柄をたてた。従兄弟の関の次郎政平は志田義廣の陣に加わった。
(同族のなかでも意見も違えばいろいろあるんですねぇ・・・(^_^;)


為義――義朝
    |
    └義賢(上野多胡)・・・義朝上洛の留守を狙って、義朝の鎌倉の領地を奪おうとした――義仲(庶子)
    |  ‖
    | 武藏父舞踏秩父重隆女
    |
    └義広(常陸信太)・・・志田義廣


小山政光―――四郎 朝政(この時25歳)
  ‖    |
  ‖    └五郎 宗政(この時20歳)
  ‖
  ‖――――七郎 朝光(この時15歳、頼朝の奉幣の太刀持ちをするほどの側近)   
  ‖
寒川尼 (頼朝乳母、政光後妻)      


○廿五日 辛未。足利又太郎忠綱雖令同意于義廣。野木宮合戦敗北之後。悔先非。耻後勘。潜籠于上野國山上郷龍奥。招郎從桐生六郎許。數月蟄居。遂隨桐生之諌。經山陰道。赴西海方<云々>。是末代無雙勇士也。三事越人也。所謂。一其力對百人也。二其聲響十里也。三其齒一寸也<云々>。

――廿五日 辛未(しんび)。
――足利の又太郎忠綱は、義廣に同意せしむと雖も、野木宮合戦敗北之後、先非を悔い、後勘を耻じ、潜かに上野の國、山上の郷、龍奥(たつおく)に籠り、郎從の桐生六郎許(ばかり)を招き、數月蟄居す。
――遂に桐生之諌めに隨い、山陰道を經て、西海方に赴くと<云々>。
――是は末代無雙の勇士也。
――三事人に越へる也。所謂(いわゆる)、一は其の力百人に對する也。二は其の聲十里に響く也。三の其の齒一寸也<云々>

・・・上野の國、山上の郷は今の勢多郡新里村。
・・・三事人に越へる也・・・というのは、力は百人力で、声は十里も先まで届き、その歯は一寸、一寸て三センチですね。三センチもある歯です!!凄いですねえ。


○廿七日 癸酉。武衛奉幣若宮給。今日所滿七ヶ日也。而跪寳前。三郎先生蜂起如何之由。獨被仰出。于時小山七郎朝光持御劔。候御共。承此御旨云。先生已爲朝政被攻落訖歟<云々>。武衛顧面曰。少冠口状者。偏非心之所發也。尤可用神詑。若如思於令属無爲者。可被行優賞者。朝光今年十五歳也。御奉幣事終。還向給之處。行平朝政使參著之。義廣逃亡之由申之。及晩朝政使又參上。相具先生伴黨頚之由言上。仍仰三浦介義澄。比企四郎能員等被遣彼首於[要の下に月]越。被梟之<云々>。

――廿七日 癸酉(きゆう)。
――武衛は若宮に奉幣し給ふ。
――今日七ヶ日に滿つる所也。
――而して寳前に跪き(ひざまずき)、三郎先生の蜂起如何之由、獨り仰せ出ださる。
――時に小山の七郎朝光、御劔(みつるぎ)を持ちて、御共に候ず。
――此の御旨(おんむね)を承りて云く、先生は已に朝政の爲、攻め落とされ訖歟(おわんぬか)と<云々>。
――武衛、面(おとがい)を[厄頁]て(かえして)曰く、少冠(しょうかん)の口状者(こうじょうは)、偏へに、心之發する所に非ず也。
――尤も神詑爲る可し。若し思いの如く無爲を属せしめるに於いては者(とてへり)。
――優賞を行わる可き者(とてへり)。
――朝光は今年十五歳也。御奉幣の事、終りて、還向し給ふ之處、行平・朝政の使、參著し、義廣逃亡之由、之を申す。
――晩に及び、朝政の使い、又、參上す。
――先生の伴黨(ばんとう)の頚、相具す之由言上す。
――仍って、三浦の介義澄・比企の四郎能員(よしかず)等に仰せて、彼の首を腰越に遣わされ、之を梟せらると<云々>。

・・・廿七日、閏廿七日に参る。
・・・武衛、面(おとがい)を[厄頁]て(かえして)曰く・・・おとがいをたたく→あごをしゃくる、おとがいをならす→減らず口をたたく、どちらもあまり良い感じではない。
・・・腰越は、義經の首実験も腰越でした。首実検というのは「丹塗り」という朱につけて腐らないようにしているので、人相が変わっている。それを本物かどうか確めるためにやります。

筆者注――朝光については、2004年に結城章さんの、「ようこそ黒部のエーワイの館へ」 から「結城の歴史」をご紹介させていただいてます。頼朝のご落胤という説もあるんですよね(^_^;

○廿八日甲戌。宗政爲朝政名代。<朝政依被疵不參。>相率一族及今度合力之輩。參上于鎌倉。武衛有御對面。被感仰勲功。宗政行平以下一族列居西方。知家重成以下、亦列東方。所生虜之義廣從軍廿九人。或梟首。或被召預行平有綱等<云々>。次常陸下野上野之間。同意三郎先生之輩所領等。悉以被收公之。朝政朝光等預恩賞<云々>。

――廿八日 甲戌(こうじつ)。
――宗政は朝政の名代爲して<朝政、疵を被るに依り不參。>一族及び今度(このたび)の合力之輩を相率いて、鎌倉に參上す。
――武衛は御對面有り。勲功に感じ仰せらる。
――宗政・行平以下の一族は、西方に列居し、知家・重成以下、亦た東方に列す。
――生虜(いけど)る所之義廣の從軍廿九人。
――或いは梟首し、或いは行平・有綱等に召預けらると<云々>。
――次に、常陸・下野・上野之間、三郎先生に同意之輩の所領等、悉く以って之を收公せらる。
――朝政・朝光等、恩賞に預かると<云々>。

・・・行平・有綱、行平は下河辺行平。有綱は足利七郎有綱。有綱は足利の一族にも関わらず頼朝方についていた。佐野辺りに残り、忠綱(足利又太郎忠綱)は消えるが、弟たちは頼朝方として助かったので残った。

○藤原流足利 ・・・以仁王の令旨が来なかったため平家について、宇治川で源三位頼政を討った!
   ┌足利又太郎忠綱→西海へ
   |
   └足利七郎有綱――嫡男 佐野太郎基綱
             |
             └四男 阿曽沼四郎廣綱
             |
             └五男 木村五郎信綱

兄弟で敵味方に分かれて戦う、というのは、今の感覚で言えば残酷なようですけど、関が原の時の真田家のように、どちらが勝っても負けても、とにかく真田の血と名を残せるように、という深慮遠謀というか、戦時の心得みたいな物があったんでしょうねぇ(^_^;まあ、嫡男の又太郎は元から仕えている平家方に付かなければならなかっただろうし、弟の方が自由に動けた、とも言えますよね(^^ゞ・・・筆者の呟き)

来月は新年会です。また美味しいお饅頭とお茶が出ますから楽しみにしてください、とのことでした\(^^)/


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(´∧`)〜ハァー、久々に系図なんてアップしてみました(^^ゞこれちゃんとアップされますかねぇ(^_^;
以前のは全然罫線がずれてアップされたので下ろしたりしてしまったのです・・・微妙だ!!
ホントは、書いたものをスキャナーしようと思ったんだけど、それも難しそうなので・・・駄目ですネェm(__)m




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