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1月16日(月)「吾妻鏡」第二 養和元年(治承五年)3月小1日〜同10日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です

○三月小
○一日 丁丑。今日。武衛依爲御母儀御忌月。於土屋次郎義清龜谷堂。被修佛事。導師筥根山別當行實。請僧五人。專光房良暹。大夫公承榮。河内公良■、専性房全淵。浄如房本月等也。武衛令聽聞給。御布施。導師馬一疋。帖絹二疋。請僧口別白布二端也。

――三月小
――一日 丁丑(ていちゅう)。
――今日、武衛の御母儀(おんぼぎ)の御忌月(おんいみづき)の爲に依って、土屋の次郎義清の龜谷(かめがやつ)の堂に於いて、佛事を修めらる。
――導師は筥根山の別當行實(ぎょうじつ)。請僧(うけそう)五人、專光房良暹(せんこうぼうりょうせん)・大夫公承榮(じょうえい)・河内公良■(りょうよう)・専性房全淵(せんしょうぼうぜんせん)・浄如房本月(じょうにょぼうほんげつ)等也。
――武衛聽聞せしめ給ふ。
――御布施は、導師馬一疋・帖絹(ちょうけん)二疋(にひき)。請僧(うけそう)口別(くちべつ)白布(はくふ)二端(にたん)也。

・・・「武衛御母儀」については、熱田大宮司藤原範季女というのがわかっています。「尊卑文脈」の頼朝の項を見ると。「保元4年(1159)3月1日服解(ふくげ)」とある。運慶に依頼した母の像が岡崎に残っています。
・・・「龜谷」は今の扇谷(おうぎがやつ)全体を指します。
・・・鶴岡八幡宮にも熱田神宮の末社があった。今はありません。

・・・土屋義清は、元は中村党。中村の庄の庄司。今の神奈川大学の平塚キャンパス辺り。芳盛寺・大乗院、両寺とも土屋氏の菩提寺。近くに館址もあり、五輪塔が遺っている。

・・・河内公良■(りょうよう)については、我が国史大系も、国文研のテキストも字が出せないのですが「東鑑目録」さんでは「河内公良睿」と出していらっしゃいました。


○六日 壬午。大中臣能親自伊勢國。通書状於中八維平之許。是去正月十九日。号熊野山湛増之從類。濫入伊雜宮。鑚破御殿。犯用神寳之間。爲一祢宜成長神主沙汰。奉遷御躰於内宮之處。同廿六日。件輩亦襲來山田宇治兩郷。焼失人屋。奪取資財訖。天照大神鎮坐以來千百餘歳。 皇御孫尊垂跡之後六百餘年。未有如此例。當時源家再興之世也。尤可有謹慎之儀者。維平覽此状。湛増候御方。有此企。殊驚聞食。爲敬神可有御立願之旨。被報仰<云々>。

――六日 壬午(じんご)。
――大中臣の能親、伊勢の國より、書状を中八(ちゅうはち)の維平(これひら)之許へ通はす。
――是は去んぬる正月十九日、熊野山の湛増(たんぞう)之從類(じゅうるい)と号し、伊雜(いさわorいそう)の宮に濫入す。
――御殿を鑚破(さんぱ)し、神寳(しんぽう)を犯用する之間、一の祢宜(ねぎ)成長(なりなが)神主の沙汰爲して、御躰を内宮に遷し奉る之處、同廿六日、件の輩、亦た、山田・宇治兩郷に襲來す。
――人屋を焼失し、資財を奪取し訖(をわんぬ)。
――天照大神(あまてらすおおみかみ)の鎮坐以來千百餘歳、 皇御孫尊(こうぎょそんそん)垂跡之後六百餘年、未だ此(かく)の如き例(ためし)有らず。
――當時、源家再興之世也。
――尤も謹慎之儀有るべきと者(てへり)。
――維平は此の状を覽じ、湛増、御方に候ず。
――此(かく)の企(くわだて)有るに、殊に驚き聞食(きこしめし)す。
――敬神の爲に御立願有るべき之旨、報じ仰せらると<云々>。

・・・「大中臣の能親」は伊勢神宮の神官。熊野の悪僧たちの暴力沙汰を知らせてきた。「中八維平」というのは中原氏。
・・・「熊野山の湛増」は熊野の副別當か。源氏の見方というのに、
・・・「一の祢宜成長神主」というのは伊勢神宮の一の祢宜。荒木田氏(荒木田成長)。
・・・「御躰を内宮に遷し奉る」伊勢神宮は内宮・外宮に別れて、内宮は皇太神宮(御神体)、外宮は神様の食事を作る所。
・・・「伊雜(いさわorいそう)の宮」志摩の国、伊雑宮に内宮がある。
・・・「山田・宇治兩郷に襲來す」山田郷は伊勢の国渡合郡、外宮がある所。宇治郷は内宮がある。
・・・「垂跡」というのは、神道というのは、日本古来の宗教で、教義もしっかり固まった物がない素朴な宗教。そこへ、仏教が入ってきて、仏教は世界宗教ですから教義もしっかりしている。そこで仏教の教義を借りて、日本では、仏様が神様の形をして現れた、ということで説明した。垂迹(すいじゃく)というのは、このことです。
・・・「敬神の爲に御立願有るべき之旨」↑熊野の副別當の湛増が源氏の見方というのに、その配下の悪僧たちが伊勢神宮を荒らすのは一大事である。慌てて「立願」して敬意を示す。頼朝の願文というのはこれ一通のみ。頼朝といえば、鶴ヶ岡・石清水・熱田だが、願文が残っているのは伊勢神宮のみである。伊勢は平家だが、源氏にも色目を使っていた。願文の爲に、砂金・馬・莫大な所領を献上している。

○七日 癸未。大夫屬入道送状申云。去月七日。於院殿上有議定。仰武田太郎信義。可被下武衛追討廳御下文之由被定。又諸國源氏平均可被追伐之條者無其實。所限武衛計也。風聞之趣如此者。依之。於武田非無御隔心。被尋子細於信義之處。自駿河國今日參著。於身全不奉追討使事。縱雖被仰下。不可進奉。本自不存異心之條。以去年度々功。定思食知歟之由。陳謝及再三之上。至于子々孫々。對御子孫。不可引弓之趣。書起請文。令献覽之間。有御對面。此間。猶依有御用心。召義澄。行平。定綱。盛綱。景時。令候于御座左右<云々>。武田自取腰刀与行平。入御之後退出。返取之<云々>。

――七日 癸未。
――大夫屬(だゆうのさかん)入道[三善康信]状を送りて申して云く。
――去んぬる月の七日、院の殿上(でんじょう)に於いて議定(ぎじょう)有り。
――武田の太郎信義に仰せて、武衛追討廳(ついちょうの)御下文(おんくだしぶみ)下せらるべき之由、定らる。
――又、諸國の源氏を平均に追伐(ついばつ)せらるべき之條者(は)、其實(そのじつ)無し。限る所は武衛計(ばかり)也。
――風聞之趣、此くの如し者(とてへれば)、之に依って、武田に於いては、御隔心(ごかくしん)無きに非ず。
――子細を信義に尋らるる之處、駿河國自り今日參著す。
――身に於いては全く追討使の事、奉らず、縱(たとえ)、仰せ下さるると雖も、奉(うけたまわり)進むべからず。
――本自り、異心存ぜず之條、去んぬる年、度々の功を以って、定めて思し食し知る歟(か)之由、陳謝、再三に及んだる之上、子々孫々に至るまで、御子孫に對し、弓を引くべからず之趣、起請文に書き、献覽せ令む之間、御對面有り。
――此間、猶(なお)御用心有るに依って、義澄・行平・定綱・盛綱・景時を召し、御座の左右に候ぜしむと<云々>。
――武田は自ら腰刀を取り、行平に与へ、入御之後退出し之を返し取ると<云々>。

・・・「大夫屬(だゆうのさかん)」は三好康信、出家して善信。後の問注所執事。頼朝が伊豆に配流されている時代から京の動静を伝えていた。

(筆者注・・・三善氏については↓の乳母の話ととも
治承四年6月19日参照

もひとつ、筆者注・・・頼朝の乳母についての話は
 @治承四年6月19日もあります。
「康信の母は頼朝の乳母の妹です。康信は京都にいながら頼朝に心を寄せ、情報を送るんですね。山川を凌ぎ、ね、京都から鎌倉まで470キロくらい離れている。そこを月に三度づつ知らせてくる。」と言う先生のご講義がありました

 A 養和元年(治承5年)2月7日
「摩々の尼は摩摩局の娘で、母の摩摩局が義朝乳母として仕え、娘の摩々の尼は、頼朝の乳母となつた」ということだそうです。
「頼朝の乳母は従来知られている比企尼・寒川尼・山内尼、とこの魔々尼と四人いる、ということになります。」とのことでした。

・・・そして、この三善氏の母の妹も乳母だとすると五人じゃない(^^ゞ
これはどうなっておるのでしょうか、ねぇ(^_^;親王の乳母でさえ三人と言われるのに、時代が江戸に下っても大名の子供につける乳母はやはり三人、と聞いてますが・・・俗に言う、「お指し抱き乳母御乳の人」ってやつですが・・・(^_^;
永井路子・著「源頼朝の世界」(中公文庫)なんかでも、やはり、「義朝くらいの大物になると」とあって、比企尼のほかに「同じ東国の大豪族小山政光の妻とか、山内経俊の母とか、都の官吏である三善康信の叔母とか、そのほかにも何人かいたらしい」と書かれていました。大物ったって・・・左典厩って、左馬頭だよね・・・その程度の息子でも五人も乳母がいたのかなぁ・・・乳母のバブル期だ去ったのですかねぇ・・・筆者の呟き)



・・・「武田に於いては、御隔心(ごかくしん)無きに非ず」甲斐源氏は武田信義(駿河守護)と安田義定(遠江守護)でどちらも頼朝は信頼してない。
・・・「起請文に書き」ただの紙に書いたのでは駄目で、熊野が出している「牛王宝印(ごおうほういん)」という祈祷済みの用紙に書く。誓いに背いた場合、何なりと罰を受ける、といろんな神様に誓う。「血書」というのは、朱に自分の血を混ぜて書く。足利持氏が書いた物が鶴ヶ岡に遺っている。
・・・「御座の左右に候ぜしむ」疑い深い頼朝の性質を現しています。

○十日 丙戌。十郎藏人行家。<武衛叔父>。子息藏人太郎光家。同次郎。僧義圓<號卿公>。泉太郎重光等。相具尾張參河兩國勇士。陣于墨俣河邊。平氏大將軍頭亮重衡朝臣。左少將維盛朝臣。越前守通盛朝臣。薩摩守忠度朝臣。參河守知度。讃岐守左衛門尉盛綱<號高橋>。左兵衛尉盛久等。又在同河西岸。及晩侍中廻計。密々欲襲平家之處。重衡朝臣舎人金石丸爲洗馬至河俣之間。見東士之形勢。奔歸告其由。仍侍中未出陣之以前。頭亮隨兵襲攻源氏。縡起楚忽。侍中從軍等頗失度。雖相戰無利。義圓禪師爲盛綱被討取。藏人次郎爲忠度被生虜。泉太郎。同弟次郎被討取于盛久。此外軍兵。或入河溺死。或被傷殞命。凡六百九十余人也。

――十日 丙戌。
――十郎藏人(くろうど)の行家<武衛叔父>、子息藏人の太郎光家。同次郎。僧義圓<卿の公と號す>。泉の太郎重光等、尾張參河兩國の勇士を相具し、墨俣河(すのまたがわ)の邊りに陣す。
――平氏大將軍頭亮(とうのすけ)重衡朝臣、左少將維盛朝臣・越前守通盛朝臣・薩摩守忠度朝臣・參河守知度・讃岐守左衛門尉盛綱<高橋と號す>・左兵衛尉盛久等、又、同河の西岸に在り。
――晩に及び、侍中(じちゅう)、計(はからい)を廻らし、密々に平家を襲わんと欲する之處、重衡朝臣の舎人金石丸、馬を洗はんが爲河俣に至る之間、東士之形勢を見るに、奔(あわ)て歸り、其の由を告ぐ。
――仍って侍中は未だ出陣せざる之以前、頭亮(とうのすけ)の隨兵、源氏を襲攻す。
――縡(こと)は楚忽に起こり、侍中の從軍等、頗る度(はからひ)を失い、相戰ふと雖も利無く、義圓禪師は盛綱が爲に討取らる。
――藏人次郎は忠度の爲に生け虜らる。
――泉の太郎・同弟次郎は盛久に討取らる。
――此の外、軍兵、或いは河に入りて溺死し、或いは傷を被り命を殞(おと)す。
――凡そ六百九十余人也。

・・・「墨俣河」これが「墨俣の戦い」です。京都から関東に至る大きな関門になる。今の長良川(揖斐川・根尾川)
・・・「頭亮」は蔵人の頭。
・・・「侍中」というのは蔵人の唐名。ここでは行平のこと。

「平家物語」の該当部分も読みましたけど、本日は、ちょっとここまでm(__)m
また後で書き足すつもりです(^^ゞ





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