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2月13日(月)「吾妻鏡」第二 養和元年(治承五年)3月12日〜 5月28日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です

○十二日 戊子。諸國未靜謐。武衛非無御怖畏。仍諸社有御立願。今日。先以常陸國塩濱。大窪。世谷等所々。被奉寄鹿嶋社。其上御敬神之餘。於宮中爲不令現狼籍。以鹿嶋三郎政■。被定補當社惣追補使。

――12日 戊子(ぼし)。
――諸國未だ靜謐(せいひつ)せず。
――武衛は御怖畏(ごふい)無きに非ず。
――仍って、諸社に御立願(ごりゅうがん)有り。
――今日、先ず常陸の國、塩濱・大窪・世谷等の所々を以って、鹿嶋社に寄せ奉らる。
――其の上、御敬神(ごけいしん)之餘り、宮中に於いて、狼籍を現せ令めざるが爲に、鹿嶋の三郎政[朝の偏に夸]、當社の惣追補使(そうついぶし)に定め補さる。

・・・「諸社に御立願」・・・「墨俣合戦」の勝利の後も諸国はまだ静まらず、頼朝はまだ心配をして諸社に願を立てる。
・・・「鹿嶋社」・・・鹿島神宮は軍の神。京都へ行って春日大社(藤原氏の守護神)、興福寺は藤原氏の氏寺。常陸の神も(藤原氏の)ルーツとして大事にされている。
・・・その地の神に敬意を表して神寺領を寄進したりする。

○十三日 己丑。安田三郎使者武藤五自遠江國參著鎌倉。申云。爲御代官。令守護當國。相待平氏襲來。就中請命向橋本。欲搆要害之間。召人夫之處。淺羽庄司宗信。相良三郎等。於事成蔑如。不致合力。剰義定居地下之時。件兩人乍乗馬打通其前訖。是已存野心者也。隨而彼等一族當時多属平家。速可被加刑罰歟<云々>。

――13日 己丑(きちゅう)。
――安田の三郎の使者、武藤の五、遠江の國自り、鎌倉に參著し、申して云く。
――御代官爲して、當國を守護せしめ、平氏の襲來を相待つ。就中(なかんずく)、命を請け、橋本に向い、要害を搆えんと欲する之間、人夫を召す之處、淺羽の庄司宗信と、相良の三郎等、事に於いて蔑如(べつじょ)を成し、合力を致さず。剰(あまつさ)へ、義定地下に居る之時、件の兩人は馬に乗り乍ら、其の前を打ち通り訖(おはんぬ)。是は已に野心を存ずる者也。隨而(したがって)、彼等一族は當時、多く平家に属す。速に刑罰を加へらるべき歟と<云々>。

・・・安田義定は、頼朝の代官として遠江の守護となっているが、現実には、頼朝には守護を任命するほどの力はない。
・・・「遠江の國淺羽の庄」静岡県磐田郡浅羽町。
・・・「相良三郎等」相良は静岡県山名郡。


○十四日 庚寅。淺羽庄司。相良三郎等事。就一方欝陶。難被處罪科之由。被仰含于武藤五之處。武藤申云。爲訴彼等奇恠。被進使者之由。披露國中畢。而不蒙裁許而空令歸國者。其威勢如無歟。後日若聞食虚訴之旨者。可被行使於斬罪者。依之。於彼領者。義定主可領掌之旨。有御消息。但宗信等後日陳謝。若有其謂者。還可被處訴人於罪科之趣。被載之<云々>。

――14日 庚寅(こういん)。
――淺羽の庄司、相良三郎等の事、一方の欝陶(うっとう)に就いて、罪科に處せられ難き之由、武藤の五に仰せ含めらるる之處、武藤は、申して云く、彼等の奇恠(きっかい)を訴えんが爲、使者として進めらるる之由、國中に披露し畢(おはんぬ)。
――而るに、裁許を蒙らずして、空しく歸國せしめ者(ば)、其の威勢は無きの如き歟。
――後日、若し虚訴之旨、聞食(きこしめさ)者(ば)、使いを斬罪に行はるべき者(とてへり)。
――之に依って、彼の領に於いて者(は)、義定主(よしさだぬし)領掌すべき之旨、御消息有り。
――但し宗信等は後日、陳謝し、若し其の謂われあら者(ば)、還りても、訴人を罪科に處さるべき之趣、之を載せらると<云々>。

・・・建久4年2月14日に、安田三郎は浅羽庄も取られてしまう。最後には息子義介が謀反を起こしたことにかこつけて義定も誅される。頼朝は、同じ源氏に対して疑い深い。甲斐源氏・常陸源氏・新田氏・志田氏など関東の武士で「源氏姓」を持った者には冷たく疑い深い。

(筆者注・・・この辺は、HON氏の「坂東千年王国」の源氏諸族の項に頗る詳しく解説されています。・・・こういうサイト拝見しちゃうと、私がやっていることは何なんだ〜?と、思うけど、これはあくまで自分のためのノートですからね(^^ゞ自分が年取ってから、楽しみに読むために書いているんであります!!故に、詳しいサイトがあれば、それだけ助かります!ということで、まずもって感謝しなくてはいけませんねm(__)m

(筆者の呟き・・・源氏はどんどん同族を潰して行って、結局自分から丸裸になってしまうのですが・・・最近、何で読んだんだっけ?もともと、源氏に味方した殆どは、平家の在関東武士団であった(北條は勿論、大庭も畠山も元平家ですから)。そこで源氏の内部抗争を起こさせて、源氏を内部崩壊させ、結局は関東平氏(北條氏)が鎌倉幕府を乗っ取った、みたいなこと書いてありました。前にもそういうの読んだんですが、最近のそれは、具体的に御家人の出自などを上げていて、あれも平家、これも平家・・・で、改めてごもっとも〜と思ったのでした♪)


○十九日 乙未。尾張國住人大屋中三安資馳參鎌倉。申云。去十日。侍中於墨俣河。与平氏●合戰。侍中<行家>從軍悉以滅亡。平家乗勝之間。去其所被籠熱田社訖。一陣敗之上者。重衡朝臣以下定近來歟<云々>。當國在廳等多以從平氏之處。安資抽忠直。尤神妙之旨被仰含<云々>。

――19日 乙未(いつび)。
――尾張の國の住人、大屋の中三安資(ちゅうざやすすけ)鎌倉に馳せ參じて、申して云く。
――去んぬる十日、侍中は墨俣河に於いて、平氏・与(と)合戰す。侍中<行家>の從軍は悉く以って滅亡す。
――平家は勝に乗ずる之間、其の所を去り熱田社に籠(ろう)ぜられ訖(をはんぬ)。
――一陣敗る之上者(は)、重衡朝臣以下、定めて近く來たる歟(か)と<云々>。
――當國の在廳等、多く以って平氏に從ふ之處、安資は忠直(ちゅうじき)を抽す。
――尤も神妙之旨仰せ含めらると<云々>。

・・・「尾張の國の在庁官人」尾張の国府に勤めている役人たち。
・・・「大屋中三安資」は元暦元年4月3日、和田義盛の婿として、鎌倉劣勢の中にも源氏に尽くした武士です。


○廿七日 癸卯。片岡次郎常春依有謀叛之聞。遣雜色於彼領所下総國被召之處。稱亂入領内。乃御使面縛<云々>。仍罪科重疊之間。被召放所帶等之上。早可進件雜色之由。今日被仰下<云々>。

――27日 癸卯(きぼう)。
――片岡の次郎常春(つねはる)、謀叛之聞こえ有るに依り、雜色を、彼の領所たる下総の國に遣し、召さるる之處、領内に乱入すると稱して、乃ち、御使を傷つけ面縛すと<云々>。
――仍って、罪科重疊之間、所帶等を召し放たる之上、早く件の雜色に進むべき之由、今日、仰せ下さると<云々>。

・・・「雜色」を疑わしい所領に遣る、というのはどういうことか?徳川時代のお庭番的に存在だったののか?頼朝は鎌倉を動かず、反対勢力は各地で動いている。
↑と、メモには書いてあるんだけど、これ意味通じませんよね(^_^;まあ、頼朝は動かずに、反対勢力の動向を雑色に探らせた、という意味でしょう(^_^;・・・筆者の呟き・・・メモはきちんと取りましょうm(__)m反省)

○四月大
○一日 丙午。前武衛參鶴岳給。而廟庭有荊棘。瑞籬藏草露。仍被掃除。大庭平太景能參上。終日有此沙汰<云々>。

――四月大
――1日 丙午(へいご)。
――前の武衛、鶴岳(つるがおか)に参り給ふ。
――而るに、廟庭に荊棘(けいきょく)有り。瑞籬(みずがき)に草露を藏す。仍って掃除せらる。
――大庭の平太景能(かげよし)參上す。終日此の沙汰有りと<云々>。
の沙汰有りと。

・・・頼朝八幡宮に参る。境内が汚れている、というので掃除する。
・・・大庭の兄弟、兄・景能、弟・景親
・・・鶴ヶ岡八幡宮も、頼朝の鎌倉入御に際して、前年に「とりあえず建立した」。境内もまだ整備されていなかった。

「仍って掃除せらる」って、頼朝本人がやったわけじゃないでしょうけど、やりそうな所が、頼朝のイメージで・・・嫌な奴!!細かい所に目を配り、人の落ち度ばかりを拾って歩いているような気がするのは私だけ?例えば、障子の桟を指でナゾッテ、フッと埃払うような奴(^_^;最近は、永井路子・杉本苑子両御大始として、頼朝の人気はけっこう大変なのですが、どうも好きになれないのですねぇ。義経もアンマリ好きじゃなくて・・・こっちの方は、どっちかと言うとお人よしの馬鹿!って感じだし・・・つまんない兄弟ですね・・・。だから鎌倉時代ってメジャーになれないんじゃないかな(^_^;それなのに、私が「吾妻鏡」を必死こいてやっているのはナンデだろう?やっぱり、平家を追い落とした鎌倉武士団というか、この時代のマイナーさが、気にかかる。それと平家というのは、あくまでも貴族化して政権を取ろうとしたわけで、武家政治では無かったですから、武家政権の始として一種のクーデターを起こしたわけですよ。だからここを通り越さなくては、次に繋がらない、ということでしょうか・・・ねぇ・・・筆者の呟き)



○七日 壬子。御家人等中。撰殊達弓箭之者亦無御隔心之輩。毎夜可候于御寢所之近邊之由被定<云々>。
   江間四郎     下河邊庄司行平    結城七郎朝光    和田次郎義茂
   梶原源太景季  宇佐美平次實政    榛谷四郎重朝    葛西三郎清重
   三浦十郎義連  千葉太郎胤       八田太郎知重

――七日 壬子(じんし)。
――御家人等の中(うち)、殊に弓箭(きゅうせん)に達する者、亦(また)御隔心(ごかくしん)無き之輩を撰び、毎夜御寢所之近邊に候べき之由、定めらるると<云々>。
   江間四郎(時政の息子、義時)  
   下河邊(下総)の庄司行平(行平)  
   結城(小山)の七郎朝光(朝政の弟)  
   和田(相模)の次郎義茂(よしもち、義盛の弟)  
   梶原源太景季(景時の息子) 宇佐美(伊豆)の平次實政(さねまさ)
   榛谷(はんがや)の四郎重朝(政子の妹を妻にしている。小山田有重の息子。稲毛重成の弟)・・・榛谷の四郎重朝は小山田有重の息子。小山田氏というのは秩父氏の一流。多摩川の流域に領地を持ち、畠山氏の縁戚。です。小山田の庄というのは町田の近くの多摩村。小山田城址が残ってます。大泉寺(だいせんじ)というお寺がある。今の日大・桜美林の近くで、交通の要所。
   葛西(下総)の三郎清重(豊島清元の息子) 
   三浦(相模)の十郎義連(よしつら) 
   千葉(下総)の太郎胤正(たねまさ、常胤の息子)
   八田(常陸の国下館)の太郎知重(八田知家の息子)
・・・この人たち・・・相模・武蔵の一部の者ばかり。北関東は殆どいない。関東も治めきれていない。この人たちと頼朝との関係は、これ以後どうなって行くか・・・@出身 Aどういう関係か B今後の関係は・・・大変重要。

ウンウン「この人たちと頼朝との関係は、これ以後どうなって行くか」って、ホントに重要です。よく政権の主らなると、信長でも秀吉でも人格が代わっちゃうでしょ。一度政権を取った者が、その政権を守るために、自分を神格化したり、猜疑心が強くなりすぎて正常な判断力がなくなる!おかしくなってしまう。ちゃんとナントカシンドロームって病名もあるんだそうです。聞いたけど、忘れちゃったm(__)mまあ、頼朝は確実に、そのナントカシンドロームというか、政権固執病になって、その時の御家人たちとの関係の変化に興味深いものがあります・・・家康の偉い所は、その轍を踏まなかった所ですね(^^ゞまあ一番最後の登場だし、先人の誤りに多く学んでいたのでしょうけどね・・・筆者の思い込み(^_^;)

○十九日 甲子。於腰越濱邊。梟首囚人平井紀六。是射北条三郎主。罪科不輕之間。日來殊所被禁置也。

――19日 甲子(こうし)。
――腰越の濱邊に於いて、囚人平井の紀六(平井久重)を梟首す。
――是は北条の三郎主を射る罪科輕からざる之間、日來(ひごろ)、殊に禁置(きんち)せらるる所也。

・・・平井の紀六久重、治承四年八月4日、石橋山に於いて北條三郎宗時(四郎義時の兄)を殺す。養和元年(治承五年)正月6日の項、参照。

○廿日 乙丑。小山田三郎重成。聊背御意之間。成怖畏籠居。是以武藏國多西郡内吉富。并一宮蓮光寺等。注加所領之内。去年東國御家人安堵本領之時。同賜御下文訖。而爲平太弘貞領所之旨。捧申状之間。糺明之處無相違。仍所被付弘貞也。

――20日 乙丑(いっちゅう)。
――小山田の三郎重成、聊か御意に背く之間、怖畏(ふい)を成し、籠居(ろうきょ)す。
――是は武藏の國多西郡内吉富、并びに一の宮蓮光寺等を以って、所領之内に注加し、去んぬる年、東國の御家人本領安堵之時、同じく御下文を賜り訖(おわんぬ)。
――而るに、平太弘貞の領所爲る之旨、申状を捧げる之間、糺明する之處、相違無く、仍って弘貞に付けらるる所也。


○卅日 乙亥。遠江國淺羽庄司宗信。依安田三郎義定之訴。雖被收公所領。謝申之旨不等閑之間。安田亦執申之。仍且返給彼庄内柴村并田所職畢。是子息郎從有數。尤可爲御要人之故<云々>。

――30日 乙亥(いつがい)。
――遠江の國淺羽の庄司宗信、安田の三郎義定之訴へに依り、所領を收公せらるると雖も、謝し申す之旨、等閑せざる之間、安田は亦た之を執申す。
――仍って、且つは、彼の庄内の柴村、并びに田所職を返給し畢(おわんぬ)。
――是は子息・郎從、數有り、尤も御要人(ごようじん)爲るべき之故と<云々>。

・・・「遠江國淺羽庄司宗信」・・・甲斐の大物安田氏と地元の豪族浅羽氏・相良氏などとの関係、頼朝と、その豪族たちとの関係。双方にいろんな利害を含んでいる。
・・・頼朝にとっては、結構大事な家。安田に対する牽制の意味もあるかもしれません。


○五月大
○八日 癸未。園城寺律靜房日胤弟子僧日惠<號師公>。參著于鎌倉。彼日胤者。千葉介常胤子息。前武衛御祈祷師也。仍去年五月。自伊豆國。遥被付御願書。日胤給之。一千日令參籠石清水宮寺。無言而令見讀大般若經。六百ヶ日之夜。眠之内。自寳殿賜金甲之由感靈夢。潜成所願成就思之處。翌朝聞高倉宮入御于三井寺之由。誂武衛御願書於日惠。奔參宮御方。遂同月廿六日於光明山鳥居。爲平氏被討取訖。而日惠。相[羊の下に水]先師之行業。果千日所願。守遺命欲參向之處。都鄙不靜之間。于今遅引之由申之<云々>。

――五月大
――8日 癸未(きび)。
――園城寺の律靜房(りつせいぼう)日胤(にちいん)弟子僧日惠(にちえ)<師公(そちのきみ)と號す。>鎌倉に參著す。
――彼の日胤者(は)、千葉介常胤の子息、前武衛の御祈祷師也。
――仍って去んぬる年の五月、伊豆の國自り、遥かに御願書を付せられ、日胤之を給わる。
――一千日、石清水宮寺に參籠せしめ、無言にして大般若經を見讀せしむ。六百ヶ日之夜、眠る之内に、寳殿自り金の甲(よろい)を賜る之由、靈夢を感じ、潜かに所願成就の思い成す之處、翌朝、高倉宮、三井寺に入御する之由を聞き、武衛の御願書を日惠に誂え、宮の御方に奔參し、遂に同月廿六日、光明山鳥居に於いて、平氏の爲に討取られ訖(おわんぬ)。
――而るに日惠、先師之行業を相承し、千日の所願を果たし、遺命を守り參向せんと欲する之處、都鄙靜かならざる之間、今遅引之由、之を申すと<云々>。

・・・「園城寺の律靜房日胤は千葉常胤の息子。
・・・「去んぬる年の五月」は治承四年5月。以仁王とともに討死してしまう。弟子の日惠はその後を継いで千日の残り四百日を参篭する。「吾妻鏡」12月11日には日惠入滅の記事があるる

○十三日 戊子。爲鶴岳若宮營作。材木事有其沙汰。土肥次郎實平。大庭平太景能等爲奉行。當宮。去年假雖有建立之号。楚忽之間。先所被用松柱萱軒也。仍成花搆之儀。専可被賁神威<云々>。

――13日 戊子(ぼし)。
――鶴岳若宮の營作の爲、材木の事、其の沙汰有り。
――土肥の次郎實平、大庭の平太景能等奉行と爲す。
――當宮は、去んぬる年、假(かり)に建立之号有りと雖も、楚忽(そこつ)之間、先ず松の柱、萱の軒を用いらるる所也。
――仍って、花搆(かこう)之儀成り、専ら、神威を賁らるべしと<云々>

・・・鶴岡八幡宮の本格的造営が始まる。
・・・治承四年10月12日に鶴ヶ岡八幡宮をこの地に遷した、という記事があります。今「花搆の儀―華やかな立派な門を建てる」が華やかに行われた。7月二十日に上棟式をするんですが、この時、義經が馬を引くことを命じられる。一度は渋るが、経ってと言われてやるんです。この時点で、兄弟から主従になるんです。


筆者の呟き・・・ありゃぁ・・・困った「賁」という字が、、読みは「ヒ」と「フン」だけなんですよ・・・これ訓読みないの?!でー、「東鑑目録」さんに行ったら「専ら神威を賁らるべしと」と書いてあって、読みは振ってないんですよ・・・これが(;_;)後で時間があったら漢和辞典チェックしますのでm(__)m)



○十六日 辛卯。村山七郎源頼直本知行所。今更不可有相違之由被仰。其書様。村山。米用。件所如本可爲村山殿御沙汰<云々>。是武衛安否未定之時。運懇志。以戰于城四郎等之功。於事被優恕<云々>。

――16日 辛卯(しんぼう)。
――村山の七郎頼直の本知行所、今更相違有るべからざる之由、仰せらる。
――其の書様、村山の米用(よねもち)、件の所、本の如く村山殿の御沙汰爲るべしと<云々>。
――是は武衛の安否、未だ定まらず之時、懇志を運び、城の四郎等と戦ふ之功を以って、事に於いて優恕せらると<云々>。

・・・「村山の七郎頼直」は村上義直というのが本当で、これは吾妻鏡の錯綜。城四郎資永(すえなが)と戦う時名乗る。


○廿三日 戊戌。御亭之傍。可被建姫君御方并御厩。且土用以前。爲被始作事。不論庄公別納之地。今明日内可召進工匠之旨。被仰遣安房國在廳等之中<云々>。昌寛奉行之。

――23日 戊戌(ぼじつ)。
――御亭之傍に、姫君の御方、并びに御厩を建てらるべし。且つは土用の以前に、作事を始められんが爲に、庄公の別納之地を論ぜず、今・明日の内に工匠を召進すべき之旨、安房國の在廳等之中に仰せ遣さると<云々>。
――昌寛之を奉行す。

・・・土用以前・立夏の前
・・・「安房國の在廳」安房の国衙のあった所。鎌倉には、まだ宮などを建てる大工がいなかった。
・・・「昌寛」は一品坊(いっぽんぼう)昌寛(しょうかん)、頼朝の祐筆となった。成勝寺(じょうしょうじ)の執行(しぎょう)。

○廿四日 己亥。被曵小御所御厩等之地。景能。景時。昌寛等奉行之。御家人等面々召進疋夫。

――24日 己亥(きがい)。
――小御所御厩等之地を曳かる。景能・景時・昌寛等之を奉行す。御家人等、面々に疋夫(ひきふ)を召し進む。

○廿八日 癸卯。去夜。安房國大工參上。仍今日。件屋々立柱上棟<云々>。

――28日 癸卯(きぼう)。
――去んぬる夜、安房の國の大工、參上す。
――仍って今日、件の屋々(おくおく)、立柱(りっちゅぅ)上棟すと<云々>。


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資料の書き込みが出来ないのですが、いろいろ頂いてます(^^ゞ資料については後日書き込みしますm(__)m

5月24日(水)に下総・安房方面に遠足をするそうです。金谷からフェリーで獵嶋の洲崎神社に行くそうです、小網寺の物部国光の釣鐘を見学して横須賀線〜東海道線で帰って来る、という計画だそうですが・・・私は?といえば、舟は駄目!おまけに2日続きの源氏の日で、ちょっと無理です(^_^;残念







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