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3月13日(月)「吾妻鏡」第二 養和元年(治承五年)6月小13日〜7月14日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です

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○六月小
○十三日 戊午。新所御移徙也。千葉介常胤献[土完]飯以下<云々>。

――六月小
――13日 戊午(ぼご)。
――新所(しんじょ)の御移徙(おんいし)也。
――千葉の介常胤、[土完]飯以下(おうばんいか)を献ずると<云々>。

・・・5月から造成中だった新邸が出来た。
・・・[土完]飯(おうばん)は振る舞い。この時、頼朝は31歳、常胤は57歳、頼朝は常胤を父と呼んだ。千葉の介というのは、総の国の介である。介というのは、律令制度の四等官制度の守・介・掾・目(カミ・スケ・ジョウ・サカン・・・いろんな字を当てます・・・筆者注

○十九日 甲子。武衛爲納涼逍遥。渡御三浦。彼司馬一族等兼日有結搆之儀。殊申案内<云々>。陸奥冠者以下候御共。上総權介廣常者。依兼日仰。參會于佐賀岡濱。郎從五十餘人悉下馬。各平伏沙上。廣常安轡而敬屈。于時三浦十郎義連令候御駕之前。示可下馬之由。廣常云。公私共三代之間。未成其礼者。尓後令到于故義明舊跡給。義澄搆盃酒[土完]飯。殊盡美。酒宴之際。上下沈酔。催其興之處。岡崎四郎義實所望武衛御水干。則賜之。依仰乍候座着用之。廣常頗嫉之。申云。此美服者。如廣常可拜領者也。被賞義實様老者之條存外<云々>。義實嗔云。廣常雖思有功之由。難比義實最初之忠。更不可有對揚之存念<云々>。其間●及過言。忽欲企闘諍。武衛敢不被發御詞。無左右難宥兩方之故歟。爰義連奔來。叱義實云。依入御。義澄勵經營。此時。爭可好濫吹乎。若老狂之所致歟。廣常之體又不叶物儀。有所存者。可期後日。今妨御前遊宴。太無所據之由。再往加制止。仍各罷言無爲也。義連相叶御意。併由斯事<云々>。

――19日 甲子(こうし)。
――武衛、納涼逍遥の爲、三浦に渡御す。
――彼の司馬一族等、兼日の結搆之儀有り。殊に案内申すと<云々>。
――陸奥の冠者以下御共に候ず。
――上総權の介廣常者(は)、兼日の仰せに依って、佐賀岡濱(さがおかのはま)に參會す。
――郎從五十餘人、悉く下馬し、各(おのおの)沙上(さじょう)に平伏し、廣常は轡(くつわ)を安じ敬屈す。
――時に三浦の十郎義連(よしつら)、御駕(おんが)之前に候ぜしめ、下馬すべき之由を示す。
――廣常云く、公私共三代之間、未だ其の礼(は成さず)者(とてへり)。
――尓後(いご)、故義明の舊跡(きゅうせき)に到らしめ給ふ。
――義澄は盃酒[土完]飯(はいしゅおうばん)を搆へ、殊に美を盡くす。
――酒宴之際、上下沈酔し、其の興を催す之處、岡崎の四郎義實、武衛の御水干を所望す。
――則ち之を賜ふ。
――仰せに依って、座に候ぜ乍ら之を着用す。
――廣常は頗る之を嫉み、申して云く、
――此の美服者(は)、廣常の如き拜領すべき者也。義實様の老者に賞せらる之條、存外と<云々>。
――義實嗔(いか)りて云く。
――廣常は、有功之由を思ふと雖も、義實最初之忠に比べ難し。更に對揚(たいよう)之存念有るべからずと<云々>。
――其の間、互いに過言に及び、忽ちに闘諍を企てんと欲す。
――武衛は敢て御詞(おんことば)を發せられず。
――左右無く(そうなく)、兩方宥難(なだめがた)き之故歟(か)。
――爰(ここ)に、義連、奔(はし)り來りて、義實を叱りて云ふ。
――入御に依りて、義澄、經營を勵(つく)す。此の時、爭可(いかでか)濫吹(らんすい)を好むべき乎(や)。
――若しや老狂之致す所歟(か)。
――廣常之體(ていたらく)、又、儀に叶わざる物なり。所存有者(あらば)、後日に期すべし。
――今、御前の遊宴(ゆうえん)を妨ぐるは、太(はなは)だ、據所(よんどころ)無き之由、再往(さいおう)に制止を加ふ。
――仍って各(おのおの)言(げん)を罷(や)め、無爲也。
――義連が御意に相叶ふは、併せて斯の事に由ると<云々>。

・・・「司馬」・・・「掾」の中国読み。軍事を司った一族をさす。
・・・「陸奥の冠者」は源氏の一族、毛利頼隆。八幡太郎義家の陸奥の六郎(六男義隆)の息子です。厚木の方に毛利の地名が残る。
アレレ・・・陸奥六郎の息子で毛利を名乗ったのは長男の義広じゃなかったか?頼隆は三男で若槻氏だよねぇ・・・?筆者の疑問・・・調べておきますm(__)m)
・・・「三浦の十郎義連」・・・今の佐原。満願寺のあるところ。運慶の作った仏像があります。
・・・「故義明の舊跡」治承四年8月27日の義明の戦死。建久五年9月29日には、義明の爲に衣笠に寺を建立した。満昌寺といいます。寺内に「御霊明神社」と言うのを作って義明を神とした。この寺は大矢部の郷の三浦のシンボルになった地です。石橋山にも佐奈田与一(岡崎義實の息子)の御霊社がありましたね。

筆者注・・・建久五年9月29日の記事は・・・丙辰三浦の矢部郷の内、一堂を建立すべき之由、思食(おぼしめし)立つ。故介義明没後を訪れられんが爲也。今日仲業に仰せて其地を巡檢すと<云々>ということで、筆者の勝手な読みです。いずれにしても、義明の爲に御寺を建立したと言うことで、それ程義明の忠義と壮絶な死を悼んでいる、ということですね。

・・・義澄はこの時54歳。岡崎の四郎義實は義明の甥に当たりますが大体70歳くらい。西相模の中村党の女を妻として平塚にいる。佐奈田与一の父です。
・・・廣常は40代、房総の武士。三浦の繁栄が面白くない。吾妻鏡の書き方では、頼朝が最初に触れを回した時、廣常は日和見をしていて体勢が決まるまで来なかった!結局、寿永二年に、頼朝に刺客を送られて暗殺されます。


(筆者の呟き・・・ここで、上総権の介廣常の横柄・横暴振りが強調されてますよネェ(^^ゞ千葉氏・三浦氏などの股肱の臣とは、違うぞよ、という頼朝の意思も感じられて(治承四年9月1日)、それが廣常の苛立ちや反発に繋がっているのでしょう。岡崎義實は↓(7月5日の項)でも、人情あるお爺ちゃんという感じで書かれていて、頼朝にも愛されてる♪のです。ここでも、酔った勢いで、頼朝の装束をねだって許されて、しかも、おい、お前、ここで着てごらんよ♪なんて調子で御前で着る事を許される(^^)義實にとっては頗る名誉で、ひいては三浦一党の誉れでもある。
故に廣常は面白くない無いわけですよね!!でー、義實にケチをつけるけれど、それは、そういうことを許した頼朝にケチをつけているわけです(^^ゞだから、これがこじれると、頼朝に対する謀反ということにもなり、まだまだ廣常の力が欲しい鎌倉幕府としては困っちゃう(^_^;そこで、義連が名捌きを見せたわけですよね(^^)自分ちの親戚の義實を先に窘めておいて、返す刀で廣常に「所存有者(あらば)、後日に期すべし」と刃を突きつけたわけです(^^)あー、廣常も親戚か(^_^;廣常は常胤の又従兄弟だって・・・ウーム、いずれにしても、あくまでも、宴席の私怨の段階でけりをつけさせた、三浦義連の判定勝ちで、そこが頼朝の「御意に相叶ふ」たんですよね(^^)
しかし、書き方にもよるんだけど、廣常って嫌な親父だよね・・・吾妻鏡の中では(^_^;


○廿一日 乙丑。令還鎌倉給。義澄献甲以下。又進馬一疋。號髪不捺。度々合戰駕之。無雌伏之例<云々>。

――21日 乙丑 (いっちゅう)。
――鎌倉に還らしめ給ふ。
――義澄は甲(よろい)以下を献ず。又馬一疋を進む。髪不捺(かみなてず―なでず)と號す。
――度々(たびたび)の合戰に之を駕し、雌伏之例無しと<云々>。

・・・雌伏と雄飛は対句です。

○廿五日 庚午。戌尅。客星見艮方。鎮星色青赤有芒角。是寛弘三年出見之後無例<云々>。

――25日 庚午(こうご)。戌尅(いぬのこく)。
――客星(きゃくせい)、艮方(うしとらのかたを見る。
――鎮星(ちんせい)、色は青赤、芒角(ぼうかく)有り。
――是は、寛弘三年、出見之後、例無しと<云々>。

・・・「客星」
・・・「鎮星」は土星。
・・・「芒」は禾(のぎ)。麦の穂の先端の一番細い穂。
・・・寛弘三年、1006年と言う時期は、一条天皇の時代、左大臣道長の時代。末法思想の時代でした。それが、この年175年ぶりに出た凶事を予測する星です。寛弘三年の時は吉野の金武山に金メッキした経筒に三経を書いて納めた。

筆者の注・・・6月28日付けの「玉葉」にも「去る二十五日より、客星内天(壬艮傍らと)に出る。以ての外の変異なり。左右に能わず。天下の大事、足を挙げて待つべしと。」という記事があるそうです。
  

○廿七日 壬申。鶴岳若宮材木。柱十三本。虹梁二支。今朝且著由比浦之由申之。

――27日 壬申(じんしん)。
――鶴岳若宮の材木、柱十三本、虹梁(こうりょう)二支(にんし)、今朝(こんちょう)、且つ由比浦に著すの由、之を申す。

・・・「虹梁(こうりょう)」柱と柱の間を強固にする梁。
・・・「二支(にんし)」単位の読み方。
・・・製材した物を鎌倉に取り寄せた。タブン伊豆の海から舟で送ったんでしょうる


○七月大
○三日 丁丑。若宮營作事。有其沙汰。而於鎌倉中。無可然之工匠。仍可召進武藏國淺草大工字郷司之旨。被下御書於彼所沙汰人等中。昌寛奉行之。

――七月大
――3日 丁丑(ていちゅう)。
――若宮營作の事、其の沙汰有り。
――而るに鎌倉中に於いて、然るべき之工匠(こうしょう)無し。
――仍って、武藏の國、淺草の大工、字(あざな)郷司を召し進むべき之旨、御書を彼の所の沙汰人等中に下さる。
――昌寛之を奉行す。

・・・若宮造営についての沙汰があった。
・・・「武藏の國、淺草の大工、字(あざな)郷司」・・・浅草の地名の地史資料(以外での?)の初出。吾妻鏡には隅田川の名しかない。建久3年5月8日の後白河法皇の四十九日の法要の所で「浅草寺」という記事が見える。
・・・昌寛は一本房昌寛。頼朝の祐筆。


○五日 己卯。長尾新六定景蒙厚免。是去年石橋合戰時。討佐奈田余一義忠之間。武衛殊被處奇恠。賜于義忠父岡崎四郎義實。々々元自專慈悲者也。仍不能梟首。只爲囚人送日之處。定景令持法華經。毎日轉讀敢不怠。而義實稱去夜有夢告。申武衛云。定景爲愚息敵之間。不加誅戮者。雖難散欝陶。爲法華持者。毎聞讀誦之聲。怨念漸盡。若被誅之者。還可爲義忠之冥途讎歟。欲申宥之者。仰云。爲休義實之欝陶。下賜畢。奉優法華經之條。尤同心也。早可依請者。則免許<云々>。

――5日 己卯(きぼう)。
――長尾の新六定景(さだかげ)厚免を蒙る。
――是は去んぬる年の石橋合戰の時、佐奈田の余一義忠を討つ之間、武衛、殊に奇恠(きっかい)に處せられ、義忠の父、岡崎四郎義實に賜る。
――々々(義實)は、元自り慈悲を專らにする者也。
――仍って梟首する能わず。
――只囚人爲(と)して日を送る之處、定景、法華經を持せしめ、毎日轉讀(てんどく)し、敢て怠らず。
――而して、義實、去んぬる夜、夢告有りと稱して、武衛に申して云く。
――定景は愚息の敵爲る之間、誅戮(ちゅうりく)加へずん者(ば)、欝陶を散じ難しと雖も、法華の持者爲(と)して、讀誦(どくしょう)之聲を聞く毎に、怨念漸く盡く。
――若し、之を誅ずれ者(ば)、還って義忠之冥途の讎(あだ)爲るべき歟(か)。
――之を申し宥(ゆる)せんと欲す者(とてへり)。
――仰せに云く。
――義實之欝陶を休んずるが爲に下し賜い畢(おわんぬ)。
――法華經に優じ奉る之條、尤も同心也。
――早く請(こい)に依るべし者(とてへれば)、則ち免じ許すと<云々>。

・・・「長尾定景」は鎌倉権五郎の子孫。戸塚の長尾台。定景は許されて鎌倉御家人として活躍する。実朝が暗殺された時、公暁を討つ。

義實は↑の記事も含めて、ナカナカに吾妻鏡のヒーローです。この辺りは読みながら泣いちゃう所ですよ(^_^;「若し、之を誅ずれば、還って義忠之冥途の讎(あだ)爲るべきか」なんて、親心炸裂です(^_^;・・・筆者の呟き



○八日 壬午。淺草大工參上之間。被始若宮營作。先奉遷神體於假殿。武衛參給。相摸國大庭御廚[广の中に寺]一古娘依召參上。奉行遷宮事。亦輔通景能等沙汰之。來月十五日可有遷宮于正殿。其以前可造畢之由<云々>。

――8日 壬午(じんご)。
――淺草の大工、參上する之間、若宮の營作を始めらる。
――先ず、神體を假殿に遷し奉る。
――武衛參り給ふ。
――相摸の國、大庭の御廚の[广の中に寺](まうけ)の一古(いちこ)の娘、召しに依りて參上し、遷宮の事を奉行す。
――亦た、輔通・景能等、之を沙汰す。
――來月十五日、正殿に遷宮有るべし。其の以前に、造畢(ぞうひつ)すべき之由と<云々>。

・・・「相摸の國、大庭の御廚」は伊勢神宮の荘園。
・・・[广の中に寺](まうけ)の一古(いちこ)の娘というのは巫女。
・・・來月十五日は8月15日に正殿を遷させるように、と言う命令る一ヶ月弱ではたいしたものではなかったのではないか。建久2年、大火事によって消失。上宮・下宮に建替える。これ以後鶴岡八幡宮では、8月15日が大事な日になります。文治元年には、15日に放生会、16日に流鏑馬が行われた。神仏分離以後は「中秋」


養和元年

○十四日 戊子。改元治承五年。爲養和元年。

――14日 戊子(ぼし)。
――治承五年を改元し、養和元年と爲す。

・・・改元というのは天皇が変わって、代替わりをした、と言う意味で行う。ところが頼朝はずつと治承を続ける。寿永2年に関東の政権を認められる。東海道・東山道の政権が認められた。「寿永二年十月の宣旨」の存在があった、と言われている。ところが、「吾妻鏡」には、ソノブンの記事が抜けている!
↑へぇ〜、北條氏に都合の悪い分だけが抜けているわけではなくて、いろんな記事がアットランダムに落ちていたり、間違えて書かれていたり・・・だから、「吾妻鏡の資料的価値は〜?」といはれるわけですねぇ(^_^;・・・筆者の呟き)

ここから、やっと養和に入ります♪半年立ってるんですよね・・・こういうの難しい・・・ただでさえ年号の記憶がはっきりしてないのに・・・筆者の嘆き(^_^;





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