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4月17日(月)「吾妻鏡」第二 養和元年(治承五年)7月20日〜7月21日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です


養和元年の記事・・・今回から改元された「養和年間」の記事になります。


幹事さんが私的な旅行で「吉川史料館」にいらっしゃったそうです。で、そのご報告を受けて先生から解説がありました。
吾妻鏡第一巻の最初の時のお話ですが、あれから、また途中で入られた方もいらっしゃるので、ここらで丁度良いお話でしょう。
「吾妻鏡」に原本はありません。各家に残る写本のみで、小田原北條氏の小田原本・吉川家の吉川本・島津家に伝わる島津本、これらを底本として国史大系本が編集されています。」
「吉川本は吉川藩士の三重田氏の書写による本です。」
1180年4月14日吾妻鏡袖書に、先生からの解説を書いてあります・・・筆者m(__)m)

○廿日 甲午。鶴岳若宮寳殿上棟。社頭東方搆假屋。武衛著御。々家人等候其南北。工匠賜御馬。而可引大工馬之旨。被仰源九郎<義經>主之處。折節無可引下手者之由被申之。重仰云。畠山次郎。次佐貫四郎等候之上者。何被申無其仁之由哉。是併存所役卑下之由。寄事於左右。被難澁歟者。九郎主頗恐怖。則起座引兩疋。初下手畠山次郎重忠。後佐貫四郎廣綱也。此外。土肥次郎實平。工藤庄司景光。新田四郎忠常。佐野太郎忠家。宇佐美平次實政等引之。申剋事終。武衛令退出給。爰未見之男一人。相交供奉人。頻進行于御後。其長七尺余。頗非直也者。武衛覽之。聊御思慮令立留給。未被出御詞之前。下河邊庄司行平虜件男訖。還御之後。召出庭中。曵柿直垂之下著腹卷髻付札。安房國故長佐六郎々等左中太常澄之由注之。事之躰可謂奇特。被推問事由之處。不能是非陳謝。只稱可被斬罪<矣>。行平云。可被梟首之条勿論也。但不知食其意趣者。爲汝無所據。早可申之者。于時常澄云。去年冬。於安房國。主人蒙誅罸之間。從類悉以牢籠。寤寐難休其欝陶之間。爲果宿意。此程佇立御亭邊。又曝死骸之時。爲令知姓字於人。髻付簡<云々>。仰云。不及子細早可誅。但今日宮上棟也。可爲明日者。被召預梶原平三景時畢。次召行平仰云。今日儀尤神妙。募此賞。所望一事直可令達者。行平申云。雖非指所望。毎年貢馬事。土民極愁申事也<云々>。仰云。行勲功賞時可庶幾者。官禄之兩途也。今申状雖爲比興。早可依請者。仍於御前。成給御下文。成尋奉行之。
      々総國御厩別當所
      可早免除貢馬事
        行平所知貢馬
     右件行平所知貢馬者。令免除畢。仍御厩別當。宜承知勿違失。故下。

――20日 甲午(こうご)
――鶴岳若宮の寳殿上棟す。
――社頭の東方に假屋を搆へ、武衛著御す。御家人等、其の南北に候ず。
――工匠御馬を賜る。
――而るに大工の馬を引くべき之旨、源九郎<義經>主に仰せらるる之處、折節(おりふし)下手(したて)を引くべき者無き之由、之を申さる。
――重ねて仰せて云く。
――畠山の次郎、次いで佐貫の四郎等、候之上者(そうろうのうえは)、何ぞ其の仁無き之由を申さるる哉。
――是は併せて所役の卑下之由を存じて、事を左右に寄せ、難澁せる歟(か)者(とてへれば)、九郎主、頗る恐怖し、則ち起座して兩疋を引く。
――初めの下手(したて)は畠山の次郎重忠。後は佐貫四郎廣綱也。此の外、土肥の次郎實平・工藤の庄司景光・新田の四郎忠常・佐野の太郎忠家・宇佐美の平次實政等、之を引く。
――申の剋、事終わりて、武衛、退出せしめ給ふ。
――爰に未だ見ず、今見る之男一人、供奉人に相交りて、頻りに御後を進行す。
――其の長(たけ)七尺余り、頗る直也者(ただなるもの)に非ず。
――武衛之を覽じ、聊か御思慮を立て留めしめ給ふ。
――未だ御詞の出でざる之前、下河邊の庄司行平、件の男を虜(いけどり)訖(おわんぬ)。
――還御之後、庭中に召し出だす。
――曵柿(ひきがき)の直垂之下に腹卷を著(つ)け、髻(もとどり)に札を付す。
――安房の國、故長佐の六郎、郎等(ろうとう)左中太の常澄之由之を注す。
――事之躰(ことのてい)、奇特と謂ふべし。
――事の由を推問せらるる之處、是非に陳謝するに能わず。只、斬罪にさるべきと稱す<矣>。
――行平云く、梟首せらるべき之条は勿論也。但し其の意趣を知食(しろしめ)ざれ者(ば)、汝の爲に據所(よんどころ)無きと。
――早く之を申すべし者(とてへれば)、時に常澄云く。
――去んぬる年の冬、安房の國に於いて、主人誅罸を蒙る之間、從類悉く以って牢籠し、寤寐(ごび)其の欝陶(うっとう)に休み難き之間、宿意を果たさんが爲に、此の程、御亭の邊りに佇立(たたずみた)つ。
――又、死骸(しかばね)を曝す之時、姓字を人に知らしめんが爲、髻に簡を付すと<云々>。
――仰せて云く。
――子細に及ばず早く誅すべし。但し今日は宮の上棟也。明日爲るべし者(とてへれば)、梶原の平三景時に召し預けられ畢(おわんぬ)。
――次いで行平を召して仰せて云く。
――今日の儀は尤も神妙なり。此の賞を募り、所望の一事を直(ただ)に達せしむべし者(とてへれば)、行平、申して云く。
――指せる所望の非ずと雖も、毎年の貢馬(くめ)の事、土民は極めて愁し申す事也と<云々>。
――仰せて云く。
――勲功の賞を行ふ時、庶幾(しょき)すべき者(は)、官禄之兩途(かんろくのりょうと)也。
――今の申し状は、比興(ひっきょう)爲ると雖も、早く請(こい)に依るべき者(とてへれば)、仍って御前に於いて、御下文を成し給ふ。――成尋(じょうじん)、之を奉行すと。
      下総の國御厩の別當の所
      早く貢馬(くめ)を免除すべき事
        行平所知の貢馬
     右、件の行平所知の貢馬者(くめは)、免除せしめ畢(おわんぬ)。仍って御厩別當、宜しく承知し違失勿れと。故に下す。


・・・鶴ヶ岡八幡宮の本殿上棟の日。頼朝の南北に御家人たちが並ぶ。
・・・大工に馬を与えたがその馬を引くように弟の義経に引いて来い、と言う。義經は頼朝を兄として一生懸命に仕えようとするが、頼朝のほうは、義経を御家人の一人として扱う。
・・・馬の手綱を引くのに、上手・下手が要る。
・・・畠山重忠は桓武平氏、坂東七平氏の一。
・・・佐貫廣綱は秀郷流藤原氏。群馬県佐貫の庄、邑楽(おうら)郡(今の群馬県館林市辺り)。治承四年に平家方として、宇治川で頼朝や以仁王と対戦した平家方である。

・・・申の尅は午後四時ごろ。
・・・曵柿(ひきがき)の直垂・・・曵柿は柿渋を塗ったもの。
・・・腹卷・・・軽装の鎧。今ならさしづめ防弾チョッキる
・・・安房の国長佐・・・は「長狭」・・・治承四年、九月4日・5日、頼朝が獵嶋に渡った時にも、危険視されてました。
・・・建久3年1月21日、新堂の御堂工事の時、片目の不自由な男が頼朝を襲った(?付けねらった、くらい(^_^;)。それを佐貫四郎が捕らえた。
・・・「所望の事」とは、勲功の賞をもらう時に望むのは、ふつうは官位・官録です。
・・・「比興(ひっきょう)」は、ある物事を他の物事に比べて、「おもしろいor不都合」・・・普通のことではない
・・・「成尋」は義勝坊成尋(ぎしょうぼうじょうじん)
・・・「  下総の國御厩の別當の所」下総の別當に当てて命令をする。・・・「総の国」は大化の改新以前からある。上・下と安房の三国に分かれる。「総の国」の総は麻のこと。神武天皇から、麻の取れる国を開拓せよ、と命ぜられて出来た。
・・・「総の国」の国造・国衙については、治承四年、九月4日・5日



○廿一日 乙未。和田太郎義盛。梶原平三景時等。奉仰相具昨日被召取之左中太。向固瀬河。而追而遣遠藤武者於稲瀬河邊。被仰云。景時者若宮造營之奉行也。早可令歸參。天野平内光家爲彼替。義盛相共可致沙汰者。仍光家相具之。中太云。是程事。兼不被思定。輕々敷哉<云々>。遂到彼河邊梟首之。雜色濱四郎時澤。爲別御使實檢之。今夜。武衛御夢想。或僧參御枕上。申云。左中太者。武衛先世讎敵也。而今造營之間露顯<云々>。覺後被仰云。謂造營者奉崇重大菩薩。宮寺上棟之日有此事。尤可信者。仍不改時剋被奉御厩御馬<號奥駮。>於若宮。葛西三郎爲御使<云々>。

――21日 乙未(いつみ)
――和田の太郎義盛・梶原の平三景時等、仰せを奉り、昨日召し取らるる之左中太を相具し、固瀬河に向ふ。
――而るに、追而(おって)、遠藤武者を稲瀬河の邊りに遣わして、仰せられて云く。
――景時者(は)若宮造營之奉行也。早く歸參せしむべし。天野の平内光家を彼の替り爲して、義盛相共に沙汰致すべし者(とてへり)。
――仍って光家は之を相具す。
――中太云く。是程の事、兼ねて思定められざるは輕々敷哉(かるがるしきや)と<云々>。
――遂に彼の河邊に到り之を梟首す。
――雜色、濱の四郎時澤、別の御使爲して之を實檢す。
――今夜、武衛の御夢想、或る僧、御枕上に参り、申して云く。
――左中太者(は)、武衛の先世(せんせい)の讎敵(ちゅうてつ)也。而るに今、造營之間露顯すと<云々>。
――覺めて後、仰せて云く。
――謂ゆる造營者(は)、大菩薩を崇重し奉る。宮寺上棟之日に此事有り。尤も信ずべき者(とてへり)。
――仍って、時剋を改めず、御厩の御馬<奥駮(おくのむち)と號す。>を若宮に奉らる。葛西の三郎を御使と爲すと<云々>。

・・・当初は和田義盛・梶原景時が命じられたけれど、景時は造営奉行のため、天野光家に交代する。光家は天野藤景の弟。
・・・「雑色(人)」は一般の御家人とは別の役割があった。徳川幕府の隠密みたいなものか。
・・・「奥駮(おくのむち)」は奥州の名馬であろう。
・・・「左中太は、武衛の先世の讎敵(ちゅうてつ)也」・・・義朝が南関東を治めに下った時、上総氏と手を組んで反源氏の立場に有った。



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感想、その他は明日以降にアップします・・・って書いたんですけど、ここは感想と言う物がアンマリ無いですネェ(^_^;
それより、「雑色」というのが、やっぱり気になりますね。










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