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6月12日(月)「吾妻鏡」第三 養和二年正月大1日〜2月小8日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

本日は第295回だそうです。
5月に行った遠足の総括から始まりました。(私は「源氏」の日で不参加でしたm(__)m)

久里浜からフェリーで金谷まで行き、獵島から、洲崎神社 → 安房神社 を参拝して、先年ご病気のため断念された、頼朝の真鶴からの東京湾横断の気持ちを味わっていらっしゃったようです(^^ゞ
小網寺 で、重文の梵鐘を拝観し、石堂寺 で、重文建築の見学をして、たまたま深大寺から移籍していらしたご住職がいらして、詳しい解説をしてくださったとか、で大変充実した遠足になったそうです。

筆者注・・・ 小網寺は、行基開山伝承のある古刹。「弘安九年銘の物部国光作の梵鐘」というのが國の重文指定、鎌倉期の聖観音立像がゆうめいだそうて゛す。他にも仏教の法具を伝えていることで有名だそうです。
石堂寺 の重文建築とは「本堂」で、室町時代に建立された唐様・寄棟造りです。サイトに行くと写真がアップされていました。国指定重要文化財がもう一つあるようで、そちらは、本堂裏の空地に改修移築された「旧尾形家」という民家のようです。これもサイトで写真が見られます。)


でー、先生からの一言!
「資料を読んで学ぶのも大事だけど現地踏査も大変大事です。機会があれば是非又行きましょう」とのことでした。
何でも部屋の中にネッコロガッテ、人が書いたものを読んですまそう、という私にとっては、耳の痛〜い一言でしたm(__)m

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いよいよ寿永元年(1181)に入ります。まだ、お正月は養和二年で、5月に改元されて寿永になります。「吾妻鏡」は頼朝が鎌倉に入った治承四年から87年間の記録ですが、そのうち12年分の欠分があります。
それが、寿永2年の一年間と、建久7・8・9年と10年1月、という頼朝が死ぬ直前の記事がない、んですね。
其の他の欠分は東鑑目録さんのTOPに、欠分になっている年号が一目でわかるようになっていますm(__)m・・・筆者注)

寿永元年(1181)の改元理由ですが(資料年表の京畿の欄をみてください)・・・ふつう改元というと飢饉・兵革(ひょうかく―戦乱)・病事(やまいのこと)が原因です。
しかし、「寿永元年1月、飢饉に依り、京中に強盗・放火が頻発(百錬抄)」とあります。寿永元年は殆ど合戦が無い。飢饉だからです。「3月14日に、(後白河法皇が)院宣を下し、諸国・諸荘より兵糧を挑発(吉記)」とあります。そして、
「10月3日 平宗盛を内大臣とする(玉葉)」とあります。

関連資料としてよく出てくる「百錬抄」・「吉記」・「玉葉」などについては、
「百錬抄」は鎌倉末期に成立した著者不明の歴史書。(「百錬抄」については、   ここ
「吉記」は吉田経房という、吉田に住んでいる藤原氏。鎌倉幕府の議奏公卿。
「玉葉」は九条兼実。これも九条に住んでいる藤原氏。親鎌倉派の公卿です。
「吉記」と玉葉については、手鞠さん「きらめきの刹那」から「平家随想」の「我楽多文庫」に詳しく掲載されています。)

寿永元年の様相を伺うということで、しばし資料年表の項目チェックをしました。)

京畿は、
「11月に、賀茂重保、月詣和歌集を選ぶ(玉葉)」・・・賀茂重保は賀茂神社の祢宜。月詣和歌集は神社関係者の和歌集。
「12月、多武峰の墓守らが前武者所当麻倫康(たいまのともやす)宅を襲うが、殺害される(多武峰略記)」・・・多武峰は鎌足の墓がある所。今は談山神社

この年飢饉による餓死者数万人に及ぶ(方丈記)

東國は
「2月25日 源義仲追討のため、平教盛を北陸道に派遣する(吉記)」・・・平教盛は門脇中納言と言われる人です。
「3月15日 源頼朝、由比浜より鶴岡に至る新道を作らせる(吾妻鏡)」・・・今の若宮大路。政子の安産祈願のために作らせた。
「4月26日 僧文覚、鎌倉に到り源頼朝に会見する(吾妻鏡)」・・・4月5日に来て、21日間江ノ島に参篭しました。「江ノ島」の地名が資料に出てくる初めです。
「5月16日 伊勢豊受大神宮禰宜が鎌倉に到り、遠江守安田義定が遠江國鎌田御厨を押領することを訴える(吾妻鏡)」
「5月30日 源頼朝、熊谷直実を武蔵國旧領の地頭とする(吾妻鏡)」・・・「吾妻鏡」6月5日に書かれている「本領安堵」ということです。
「8月11日 讃岐守重季、以仁王の子(北陸宮ほくろくのみや)を奉じて越前國に入る(玉葉)」
「この年、尾張國龍勝院りゅうしょういん十一面観音像できる(銘)」・・・海部あま郡蟹江町大字須成、昭和六年に重文指定。仏師ショウエン

西國は
「4月12日 鎮西の菊池隆直、平貞能に降伏する(吾妻鏡)」・・・菊池隆直は源氏、平貞能は平家九代の家人と言われる清盛専一の家来です。
「4月28日 周防國与田保の野寺住僧弁慶、院主職などにつき国衙に訴える(8/9弁慶を同寺院主職とする 東大寺文書)」・・・この弁慶は義経の(家来の)弁慶とは違う人です。
「5月19日 比叡山の僧顕真が源義仲に通じたことに依り、土佐國に配流される(源平盛衰記)」
「10月   豊後國緒方惟英これひで等、大宰府を攻撃する(平家物語)」・・・緒方惟英は初め平家だったが、この時、源範頼たちが九州に侵攻するのを待っている。
「11月20日 源頼朝が伊豆有綱を土佐國に派遣し、蓮池家綱・平田俊遠を討たせる(吾妻鏡)」・・・土佐冠者源希義(まれよし)という源頼朝の異母弟が土佐に流されていました。治承四年に頼朝の旗揚げに馳せ参じようとして討たれてしまいます。その敵討ちです。地元の夜須行宗(やすゆきむね)・伊豆有綱、これは源三位頼政の孫です。この時、みんな平家を憚って希義の供養もできなかった所、僧侶の琳猷(りんゆう)が供養をして頼朝に知らせてくれた。
高知市歴史散歩」というサイトさんで、その間の事情を詳しく書いていらっしゃいました・・・筆者注)


そして、寿永2年(1182)、「吾妻鏡」がない年です。天皇も変わっているし木曾義仲も活躍している。
「7月9日  多武峰(とうのみね)・金峯山(きんぷせん)の僧徒が源氏に応じて蜂起する(吉記)」・・・多武峰は藤原鎌足を祀った談山神社があります。金峯山(きんぷせん)は吉野の修験道の寺です。
「7月24日 法皇、密かに延暦寺に移る(玉葉)」
「7月25日 平宗盛が天皇・建礼門院を奉じ、平氏一門を率いて京都より西海へ向かう(玉葉)」
「7月28日 源義仲・行家が入京、法皇が平氏追討の宣旨を下す(玉葉)」


東國は

「6月1日  源義仲・行家、加賀國篠原で平氏軍を破る(吾妻鏡)」・・・と書いてあるけれど、吾妻鏡はないんですね。どうなってんでしょうね。
「10月14日院宣を下し、東海・東山両道の国衙領・荘園の本所還付の処置を源頼朝に任せる(百錬抄・玉葉)」・・・東海道は東海地区〜相模を通って常陸まで。東山道は近江・美濃〜陸奥・出羽まで行く。
筆者注・・・東海道――伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武藏・安房・上総・下総・常陸
東山道――近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽)

「この冬   義仲追討のため、源範頼・義経が兵六万を率いて京都に向かう(玉葉)」

養和二年壬寅<五月廿七日爲壽永元年>

○正月大
○一日 壬申。卯尅。武衛御參鶴岳宮。被奉神馬一疋。佐野太郎忠家引之。其後。於寳前令法樂法花壽量品給<云々>。

――養和二年壬寅<五月廿七日爲壽永元年>
――正月大
――1日 壬申(じんしん)。
――卯尅(うのこく)。武衛、鶴岳の宮に御參す。
――神馬一疋を奉らる。佐野の太郎忠家、之を引く。
・・・佐野太郎は下野地頭、秀郷流足利氏。有綱の長男です。
――其の後、寳前に於いて、法花壽量品(ほっけじゅりょうぼん)の法樂(ほうらく)せしめ給ふと<云々>。
・・・「寳前」は本殿。
・・・法華経八巻の前後を入れると十巻になります。それを朝夕一日に二巻ずつ読んでいく。

○三日 甲戌。武衛御行始。渡御于藤九郎盛長甘縄之家。佐々木四郎高綱懸御調度。在御駕之傍。足利冠者。北条<時政>殿。畠山次郎重忠。三浦介義澄。和田小太郎義盛以下列御後<云々>。

――3日 甲戌 (こうじゅつ)。
――武衛、御行始め。藤九郎盛長の甘縄之家に渡御す。
・・・「御行始め」は年の外出の初め、その一番最初の外出に甘縄、というと長谷の辺り、今の甘縄神明社の所ですが、その安達盛長の邸に出かけたんです。
・・・安達盛長は、頼朝旗揚げ前から仕えて、後の北條氏の時代になっても大きな権力を持った。松下禪尼(北条時頼の母)の実家でもあります。「蒙古襲来絵詞」には、恩賞が少ないと訴えて来た御家人(竹崎季長)が、安達泰盛に直訴している絵があります。
九州大学の電子ギャラリーのサイトでは、「蒙古襲来絵詞」の画像と詳しい解説が見られます!!筆者大々感激m(__)m)

――佐々木の四郎高綱、御調度(みちょうど)を懸け、御駕(おんが)之傍(かたわら)に在り。
――足利の冠者・北条<時政>殿・畠山次郎重忠・三浦介義澄・和田小太郎義盛以下、御後(おんご)に列すと<云々>。
・・・「足利の冠者」は足利義兼です。三浦介の義澄、「三浦の介」というのは相模の次官。

この当時の頼朝のお気に入り、というのがよくわかりますよねぇ(^^)まあ、お気に入り、と言うだけでなく、北條氏は気を使わなくちゃならない岳父というわけですが、実際は北條意外はお気に入りで固めてご満悦、というところなのでしょう(^^ゞ・・・筆者の感想

○八日 己卯。鶴岳若宮被始行長日不動十一面等供養法。供僧等奉仕之。爲御素願成辨也<云々>。

――8日 己卯(きぼう)。
――鶴岳若宮、長日の不動・十一面等の供養法を始行せらる。供僧(ぐそう)等之を奉仕す。御素願成辨(ごそがんじょうべん)の爲也と<云々>。
・・・「供僧」は別當の下に仕える僧。
・・・「御素願」は頼朝の願。鎌倉の政権樹立か?
・・・「成辨」確実に達するために。

○廿三日 甲午。伯耆守時家初參武衛。是時忠卿息也。依繼母之結搆。被配上総國。司馬令賞翫之。爲聟君。而廣常去年以來御氣色聊不快之間。爲贖其事擧申之。武衛愛京洛客之間。殊憐愍<云々>。

――23日 甲午(こうご)
――伯耆の守時家、武衛に初めて參る。是は時忠卿の息也。繼母之結搆に依り、上総國に配せらる。
・・・時家は堂上平氏の平時忠の次男です。というより、時子の弟の息子です。「繼母之結搆に依り」と言っても良いことではない。伯耆は鳥取ですが、その伯耆の守であったのに、上總の国に遠流になります。
・・・時忠は平の關白とも呼ばれて「平家に非ざれば人に非ず」といった人ですが、凄い姉妹が二人いました。(同母)姉の方が清盛の妻の時子ですが、(異母)妹が大変重要な建春門院という滋子という人。この妹が後白河法皇の寵愛を得て高倉天皇を産みます。そこから平家にあらざれば・・・という平家の栄華が絶好調になる。
・・・平家滅亡して、時忠は能登に配流になり、文治五年(1189)3月5日に死去します。頼朝が非常に惜しんだ。地元でも代々血筋が残って、上時国家かみときくにけ・下時国家しもときくにけと、言うのは、皆さんも知ってますね。
吾妻鏡にも、朝廷から二品が位贈せられた、とあったようで、つまり頼朝の意思もそういうことだったんでしょうかね?・・・筆者の呟き)
・・・長男の時実は壇ノ浦で捕らえられ、周防に配流されるが、妹を義経の妻にして助かります。これも頼朝と義経が不和になつた本となる。

手鞠さん「きらめきの刹那」には、「源平人物辞展」がアップされてあります。そちらの一覧表をクリックすると、時忠家の詳細がわかりますm(__)m)

――司馬<廣常>之を賞翫せしめ、聟君と爲す。
・・・ところが・・・、「司馬」は掾の唐読みです。(上總の介)廣常が時家を婿にしています。
――而るに廣常、去んぬる年以來、御氣色聊か不快之間、其の事を贖(あがな)わんが爲に之を擧げ申す。
・・・廣常はここ数年頼朝からにらまれています。それで頼朝さんのご機嫌をとろうと、時家を連れてきた。何故かというと・・・
――武衛、京洛の客を愛する之間、殊に憐愍すと<云々>。
・・・頼朝は都の客人が大好きなんです。自分も都生まれの都育ち(ここで、「だと思っているから」って仰ったのか、ちょっと聞き取れなかったのですが・・・私自身が頼朝のことを、確かに13歳までは都にいたけど、そのあと、ずーっと田舎暮らしじやない、と思ってるからね(^_^;;まあ都に憧れてるオヤジですよね・・・と、筆者は思ってる(^^ゞなんで、私が頼朝があんまり好きじゃないかというと、その辺がネックなのですね。大して都にいたわけでもないのに、自分は都人だと思い込んでいて、そのくせ関東を利用している所が嫌なんだ(^_^;・・・筆者の呟き)


○廿八日 己亥。可被奉太神宮之神馬砂金等事。日者有其沙汰。今日潔齊之輩献此等。依於營中覧之。直所令採用給也。先金百兩。千葉介常胤。小山小四郎朝政等進之。次神馬十疋引立庭上。俊兼候簀子。勒毛付。
  一疋鴇毛 <江戸太郎進>    一疋河原毛 <下河邊四郎進>
  一疋栗毛 <武田太郎進>    一疋栗毛駮 <吾妻八郎進>
  一疋青黒 <高塲次郎進>    一疋鴇毛駮 <豊田太郎進>
  一疋鹿毛 <小栗十郎進>    一疋葦毛  <葛西三郎進>
  一疋白栗毛<河越太郎進・額白>   一疋黒瓦毛 <中村庄司進>
已上御馬。撰定之後。被預置于生倫神主宅。各相副飼口<云々>。

――28日 己亥(きがい)。
――太神宮(だいじんぐう)に奉らるべき之神馬・砂金等の事。日者、其の沙汰有り。
・・・「太神宮」は伊勢神宮。
――今日潔齊之輩、此等を献ず。
――依って、營中に於いて之を覧ず。直に採用せしめ給ふ所也。
――先ず金百兩、千葉の介常胤・小山の小四郎朝政等之を進む。
――次に神馬十疋、庭上に引きて立つ。俊兼、簀子に候ず。毛付(けづけ)を勒(ろく)す。
・・・俊兼は藤原俊兼、頼朝の祐筆です。
・・・「毛付(けづけ)を勒(ろく)す」というのは馬の毛並みをチェックする、ということです。
フムフム・・・帳付けしたということですよね・・・筆者の呟き・・・なので別メモ風にしました)

一疋鴇毛(いっぴき、ときげ) <江戸の太郎、進む> ・・・鴇毛はちょっと白くて頭の上にピンク。江戸太郎は重長。武藏。   
一疋河原毛(いっぴき、かわらげ) <下河邊の四郎、進む>・・・河原毛は鬣の黒い白馬。下河邊政平。
一疋栗毛(いっぴき、くりげ) <武田の太郎、進む>・・・ 栗毛は赤褐色。武田信義。甲斐。  
一疋栗毛駮(いっぴき、くりげのブチ)<吾妻の八郎、進む>・・・吾妻は上野の国吾妻郡。吾妻の八郎という名前が出てこない。常陸大掾の一族か?
一疋青黒(いっぴき、あおくろ)<高塲(たかば)の次郎、進む>・・・高塲(たかば)の次郎については所領もわからない。
一疋鴇毛駮(いっぴき、ときげのぶち)<豊田(とよた)の太郎、進む>・・・豊田(とよた)は下総。豊田太郎は幹重(もとしげ)。
一疋鹿毛(いっぴきかげ)<小栗の十郎、進む>・・・小栗の十郎は常陸武士。小栗判官の先祖。  
一疋葦毛(いっぴき、あしげ)<葛西の三郎、進む>・・・葦毛。葛西の三郎は清重。葛西武士。
一疋白栗毛(いっぴきしらくりげ)<河越の太郎、進む、額白(ひたいしろ)>・・・重頼。武藏武士。
一疋黒瓦毛(いっぴき、くろのかわらげ)<中村の庄司、進む>

――已上(いじょう)の御馬、撰定之後、生倫神主(いくともかんぬし)宅に、預け置かる。
・・・生倫神主は伊勢神宮の禰宜。「光」と書いて「いく」と読ませることもある。
――各(おのおの)飼口(かいくち)を相副えると<云々>。
・・・飼口は牛馬を飼育する人。馬の世話をする人を添えた。
・・・もっと先に行くと馬の毛並みが何十種類も出てきます。「馬の博物館」に問い合わせてみたら、「(当時は)百種類くらいあったようだが、今分かるのは30種類くらい」ということでした。


○二月小
○二日癸卯。高塲次郎郎從生澤五郎蒙御氣色。被召預小山小四郎朝政。是神馬進發之前。殊可勞飼之旨。被仰含之處。此男有緩怠事之故也。但生倫神主。如此刑罰不可叶神慮之由。頻依傾申。被厚免<云々>。

――二月小
――2日 癸卯(きぼう)。
――高塲の次郎、郎從生澤の五郎、御氣色を蒙り、小山小四郎朝政に召し預けらる。
――是は、神馬進發之前、殊に勞飼(ろうし)すべき之旨、仰せ含めらるる之處、此の男(おとこ)は緩怠の事有る之故也。
・・・「緩怠」は怠けること。
――但し生倫神主(いくともかんぬし)、此くの如き刑罰は、神慮に叶ふべからざる之由、頻りに傾け申すに依り、厚免せらると<云々>
・・・生倫神主はこのような罰は不吉なことだと、「傾け申す」というのはしきりに諭した、ということです。
・・・高塲の次郎の郎從の「生澤の五郎」と言う男を、小山小四郎朝政に召し預けた。高塲の次郎については(↑の通り)所領も不明なんだけれど、この「生澤の五郎」については、文治元年(1185)・文治2年(1186)に名前が見えます。
・・・雑色というのは、御家人とは違う。頼朝の私的隠密と言うような物です。「雑色鶴次郎」というのはよく出てくる名前です。生沢の五郎もいつの間にか、頼朝の雑色になっていた。

参考
文治元年12月16日
十六日 乙丑。去七日所被副上洛御使之黒法師丸自途中馳歸。申云。雜色濱四郎至駿河國岡部宿。俄病悩。心神失度。待平愈之期。雖經兩日。當時起居猶不任其意。況難向遠路<云々>。依之不廻時剋。被差上雜色鶴次郎。生澤五郎。黒法師丸猶所相副也。又被遣北條殿御返事。靜者可被召下<云々>。
――16日 乙丑(いっちゅう)。去んぬる七日、上洛の御使に副えらるる所之黒法師丸、途中自り馳せ皈る。申して云く。雜色濱四郎、駿河の國岡部の宿に至り、俄かに病悩す。心神度いを失ふ。平愈之期を待ち、兩日を經ると雖も、當時、起居猶ほ其の意に任せず。況んや遠路に向かい難し<云々>。之に依りて時剋を廻らさず、雜色鶴次郎・生澤五郎を差し上らせらる。黒法師丸猶ほ相い副ふ所也。又、北條殿御返事遣わさる。靜者(は)召し下さるべしと<云々>。


文治2年11月17日
十七日 庚申。雜色鶴次郎并貢馬御使生澤。御厩舎人宗重等自京都皈參。北條兵衛尉書状到來。貢馬去二日經御覽訖。同日木工頭兼皇后宮亮範季解却見任之<云々>。
――17日 庚申(こうしん)。雜色鶴次郎并びに貢馬の御使生澤・御厩舎人宗重等、京都自り皈參す。北條兵衛尉の書状到來す。貢馬は去んぬる二日、御覽を經訖(へおわんぬ)。同日木工頭兼皇后宮亮範季、見任を解却すと<云々>。

いずれも読みは筆者ですm(__)m


「吾妻鏡人名索引」(吉川弘文館)では、文治元年の分しか掲載されてない。文治二年の分はフルネームではなくて、「生沢の五郎」と断定できないからでしょうか・・・筆者注)

○8日己酉。被奉御願書於伊勢太神宮。大夫屬入道善信献草案。是爲四海泰平萬民豐樂也<云々>。生倫著衣冠。参營中賜之。則進發。中四郎維重被相副之。長江太郎義景爲神寳奉行同首途。義景先祖權五郎景政抽擲重信心。去永久五年十月廿三日。以私領相摸國大庭御厨。永奉寄神宮之間。彼三代孫尤可相叶神慮歟之由。被經御沙汰。應其撰<云々>。

御願書云。
  維當歳次治承六年<壬寅>二月八日<己酉>吉日良辰<遠>撰定<天>。前右兵衛佐從五位下源朝臣頼朝。礼代御幣。砂 金神馬等令捧齊持<天>。天照「百」皇太神廣前<仁>恐<天毛>申<天>申<久>。頼朝訪遠祖<波>。神武天皇初<天>日本國豊葦原水穗<尓>令濫觴<天>五十六代<仁>相當<礼留>清和天皇<乃>第三<乃>孫<与利>。携武藝<天>護國家<利>。居衛官<天>耀朝威<[シ頁]>。自尓以來。插野心凶徒征罰<[シ頁]留>依勲功<天>。惠澤身<仁>餘<利>。武勇世<仁>聞<倍>。和國無爲<仁志天>。有截克調<天>。星霜三百餘歳<仁>覃<布>處。保元年中<与利>。洛陽<仁>兵乱起<留>。時人不訪湯王<乃>化。不存鎮護<乃>誓<[シ頁]>。犯否<於>押混<天>。賞罰<於>申行<布>間。平治年中<仁>。頼朝無咎過<天>。覃罪科<布>。含愁憤<天>送春秋<留>處<仁>。前平大相國驍勇<乃>令徒黨<天>。去々年<乃>秋。頼朝<於>擬誅<志>日。依有天運<天>。黥布<加>鏑<遠>令遁<留>。本自<利>不誤<加>故<仁>。神<乃>冥助<奈利>。而彼平大相國還<天>頼朝<加>謀叛<乃>由叡聞<於>驚<[シ頁]>。即奏事不實<奈利>。披陳<仁>無便<志天>。只仰蒼天<久>間<多仁>。華夷不靜<[シ頁]>。逆濫重疊<勢利>。厥中<仁>。聖武天皇草創鎮地<乃>後。歴四百餘歳<多留>蓮宮<遠>令焚燒條。蒼生誰不悲歎哉。凡朝務<遠>押行<比>。郡郷滅亡<[シ頁]留>。是豈<仁>非謀叛乎。爰平大相國俄早世<勢留>。神慮不快<乃>由露顯<奈利>。但頼朝殊所恐<波>。如風聞<波>。熊野<乃>衆徒号<志天>。[奸の偏が女二つ]濫<遠>巧<牟>類等。去年正月<仁>。皇太神宮<乃>別宮  伊雑宮<仁>濫入<志天>。御殿<於>破損<志>。神寳<遠>犯用<[シ頁]>。[巨|]茲御躰<遠>。皇太神<乃>御殿<乃>砌<利>。五十鈴<乃>河上<乃>畔<仁>。假奉遷<云々>。亦同月<仁>。彼凶賊等。二所太神宮<乃>御殿近邊<乃>人宅<仁>亂入<志>。資財<遠>捜取<利>。舎宅<遠>焼失<[シ頁]留>刻。祠官等成恐怖<天>。參宮中<天>令騒動<牟>。此兩條。全頼朝不謬。神明<乃>仰照鑒<久>。方今無爲無事<仁>遂參洛<天>。防朝敵<天>。世務<遠>如元。一院<仁>奉任<天>。禹王<乃>慈愍<遠>令訪。神事<遠>如在<仁>奉崇<天>。正法<乃>遺風<遠>令繼<牟>。縱雖平家<毛>。雖源氏<毛>。不義<遠波>罰<志>。忠臣<遠波>賞<志>賜<倍>。兼又古今<乃>例<遠>訪<天>。二宮<仁>新加<乃>御領<於>申立<天>。伊雑宮<遠>造替<志>。神寳<遠>調進<勢牟土>所[示斤]請<奈利>。抑東州御領。如元<久>。不可有相違<留>由。任二宮注文。染丹筆<天>。奉免畢。此[ノの下に几]不訛謬<[シ頁]>。皇太神此状<遠>令照納<チ>。上<美>始自政王<免>。下<毛>迄于百司民庶<天>。安隠泰平<仁>令施惠護<天>。頼朝<加>伴類<仁>臻<万天>。夜<乃>守<利仁>日<乃>守<利仁>護幸<倍>給<倍止>恐<天>恐<天毛>申<天>申<久>
    治承六年二月八日    前右兵衛佐從五位下源朝臣頼|

――8日 己酉(きゆう)。
――御願書を伊勢太神宮に奉らる。
・・・これは「吾妻鏡」に残る唯一の「頼朝の願書」です。当時、伊勢神宮は体制側のはず。そこへ願書を出す、ということは、(政治的な)モーションをかける、と言うことです。「平家は駄目だよ、源氏はいいよ」という意味です。
――大夫の屬(だゆうのさかん)入道善信、草案を献ず。
・・・こういう文体は「宣命体(せんみょうたい)」と言います。草案の三善善信は問注所の執事です。
――是は四海泰平・萬民豐樂の爲也と<云々>。
――生倫は衣冠を著し、營中に参り之を賜り、則ち進發す。
――中の四郎維重、之に相い副えらる。
・・・中の四郎維重は中原四郎。以仁王の令旨をつけた旗を持った(治承4年8月23日)。何かというと中心になって出てくる。

――長江の太郎義景、神寳奉行爲して同じく首途す。
・・・「長江義景」の長江は今は長柄と書く。妹が和田義盛の父・杉本義宗の妻になっています。

――義景の先祖、權五郎景政は、擲重信心(てきちょぅしんじん)を抽んで(ぬきんで)、去んぬる永久五年(1117)十月廿三日、私領相摸の國大庭の御厨を以って、永く神宮に寄せ奉る之間、彼の三代の孫は、尤も神慮に相叶ふべき歟(か)之由、御沙汰を經られ、其撰に應ずると<云々>。
・・・權五郎景政は平家鎌倉流。私領の大庭の御厨を伊勢神宮に寄進した。寄進しても、管理は自分たちでするんだけれども、ふさわしい人選だった。

――御願書に云く。・・・つまり、平家は駄目だよ、源氏はいいんだよ、ということを言いたいんです。
――維當歳次治承六年<壬寅>二月八日<己酉>(すみません!「維當歳次」の読みを聴きそこなったm(__)m・・・筆者のお詫び・・・これはとうさいにつぐ治承六年ということなんでしょうかねぇ
東鑑目録 では、「これ歳次治承六年(壬寅)二月八日(己酉)に当たり」となっていました。そうなると、いつもながらの事で返り点の位置がちょっと違う、ということになります。うちのテキスト(国史大系本)では「維當歳次」に返り点はついてないのですねぇ・・・(^_^;

――吉日良辰<遠>(きちじつりょうしんを)撰定<天>(えらびさだめて)、
・・・「吉日良辰」は良い日
――前右兵衛佐從五位下源朝臣頼朝(さきのうひょうえのすけ じゅごいげ みなもとのあそんよりとも)、礼代御幣(いやしろのみてぐら)に、砂金神馬等(さきんしんめとう)、捧げ齊持(いつきもた)令<天>(しめて)、
・・・「礼代」は「いやしろ」「みやしろ」

――天照「百」皇太神廣前<仁>(あまてらす ももよ こうたいしん の おんまえ)<に>
――恐<天毛>(かしこみて)申<天>(もうして)申<久>(もうさく)。
――頼朝、遠祖を訪れ<波>(たどれば)、神武天皇初<天>(はじめて)、日本國豊葦原水穗<尓>(にほんこく とよあしはら みずほに)濫觴(らんしょう)令<天>(せしめて)、五十六代<仁>(に)相い當た<礼留>(れる)清和天皇<乃>(の)第三<乃>(の)孫<与利>(より)、武藝を携え<天>(たずさえて)、國家を護<利>(まもり)、衛官(えいかん)に居<天>(いて)、朝威<[シ頁]>(ちょういを)耀す(かがやかす)。
・・・「豊葦原」は豊かに葦が実っている
・・・「濫觴」とは黄河を遡れば杯を浮かべるような小さな川である。
・・・「武藝を携え<天>(たずさえて)、國家を護<利>(まもり)」は武芸に依って国家を守る。

――自尓以來(これよりいらい)、野心を插む(はさむ)凶徒を征罰<[シ頁]留>(する)勲功に依<天>(よりて)、惠澤(けいたく)身<仁>餘<利>(みにあまり)、武勇、世<仁>(よに)聞<倍>(きこへ)、和國無爲<仁志天>(わこく むいにして)、截克調(せつよくちょう)有<天>(ありて)、星霜三百餘歳<仁>(に)覃<布>(およぶ)處、保元年中<与利>(より)、洛陽<仁>(に)兵乱起<留>(おこる)。
・・・「惠澤」は恵み、恩沢。

――時に人は湯王<乃>(の)化を訪はず、鎮護<乃>(の)誓<[シ頁]>(ちかいを)存ぜず。・・・「湯王」は殷の初代の王。賢王として知られる。
――犯否<於>(はんぴを)押混<天>(おしなれて)、賞罰<於>(を)申行<布>間(もうしおこなふあいだ)、平治年中<仁>(に)、頼朝、咎過無<天>(きゅうかなくして)、罪科に覃<布>(およぶ)。
・・・「犯否」は罪を犯す。

――愁憤(しゅうふん)を含<天>(ふくみて)、春秋を送<留>(る)處<仁>(に)、前の平大相國驍勇<乃>(へいだいしょうこくぎょぅゆうの)徒黨に令し<天>(れいして)、去々年<乃>(きょきょねんの)秋、頼朝<於>(を)誅せんと擬<志>(し)日、天運有るに依り<天>(て)、黥布<加>(げいふは)鏑<遠>(かぶとを)遁れ令<留>(のがれしむる)。
・・・「黥布」は秦〜漢時代の武将。

――本自<利>(もとより)、誤<加>故<仁>(あやまらざるがゆえに)、神<乃>(の)冥助<奈利>(なり)。
――而るに、彼の平大相國は還<天>(かえりて)、頼朝<加>(が)謀叛<乃>(の)由、叡聞<於>(を)驚<[シ頁]>(おどろかす)。
――即ち、奏事不實<奈利>(そうじふじつなり)。
――披陳<仁>(ひちんに)便無<志天>(びんなくして)、只(ただ)、蒼天を仰<久>間<多仁>(あおぐあいだに)、
――華夷不靜<[シ頁]>(かいしずかならず)、逆濫重疊<勢利>(ぎゃくらんちょうじょうせり)。
――厥中<仁>(そのなかに)、聖武天皇草創鎮地<乃>後(ちんじののち)、四百餘歳を歴<多留>(へたる)蓮宮<遠>(れんきゅうを)焚燒令(ふんしょうせしむ)の條、蒼生誰か悲歎せざる哉(や)。
――凡そ、朝務<遠>(を)押行<比>(おしおこなひ)、郡郷滅亡<[シ頁]留>(ぐんごうめつぼうする)は、是れ豈<仁>(あに)謀叛に有らざる乎(や)。
――爰に、平大相國、俄かに早世<勢留>(せる)。
――神慮不快<乃>(の)由、露顯<奈利>(なり)。

――但し頼朝、殊に恐るる所<波>(は)、風聞の如き<波>(は)、熊野<乃>(の)衆徒と号<志天>(して)、奸濫<遠>(かんらんを)巧<牟>(たくむ)類等(たぐひとう)、去んぬる年の正月<仁>(に)、皇太神宮<乃>(の)別宮伊雑宮<仁>(べつぐう いさわのみや)に濫入<志天>(して)、御殿<於>(を)破損<志>(し)、神寳<遠>(しんぽうを)犯用<[シ頁]>(はんようす)。
――茲(ここ)に因りて、御躰<遠>(ぎょたいを)、皇太神<乃>(の)御殿<乃>(の)砌<利>(みぎり)、五十鈴<乃>河上<乃>畔<仁>(いすずのかわかみのたもとに)、假に遷し奉ると<云々>。
――亦た同月<仁>(に)、彼の凶賊等、二所太神宮<乃>(の)御殿近邊<乃>(の)人宅<仁>(に)亂入<志>(し)、資財<遠>(を)捜し取<利>(り)、舎宅<遠>(を)焼失<[シ頁]留>刻(するみぎり)、祠官等(しかんとう)恐怖を成<天>(なして)、宮中に參<天>(まいりて)騒動令<牟>(せしむ)。
・・・この『』の部分は、吾妻鏡の治承五年3月6日に書かれている部分です。

――此の兩條、全く頼朝は謬らず(あやまらず)。神明<乃>(の)照鑒を仰<久>(ぐ)。
――方今、無爲無事<仁>(に)參洛を遂げ<天>(て)、朝敵を防ぎ<天>(て)、世務<遠>(を)元の如く、一院<仁>(に)任せ奉り<天>(て)、禹王<乃>(うおう の)慈愍<遠>(じみん を)訪なわしめ、神事<遠>(を)、如在<仁>(にょざいに)崇め奉り<天>(て)、正法<乃>(の)遺風<遠>(を)繼令<牟>(つがしむ)。
――縱(たとえ)、平家と雖<毛>(も)、源氏と雖<毛>(も)、不義<遠波>罰<志>(ふぎをば ばっし)、忠臣<遠波>(をば)賞<志>(し)賜<倍>(へ)。
――兼ねて又、古今<乃>(の)例<遠>(ためしを)訪<天>(おとなひて)、二宮<仁>(に)新加<乃>(の)御領<於>(を)申立<天>(て)、伊雑宮<遠>(いさわのみやを)造替<志>(つくりかえし)、神寳<遠>(を)調進<勢牟土>(せむと)祈請する所<奈利>(なり)。
――抑(そもそも)東州の御領は、元の如<久>(く)、相違有るべからざ<留>(る)の由。
――二宮(にぐう)の注文に任せ、丹筆(たんぴつ)を染め<天>(て)、奉り免じ畢(おわんぬ)。
・・・「二宮」は内宮と外宮のこと
・・・これは「建暦元年5月3日」のこと、
とおっしゃつたと聴いたのですが・・・吾妻鑑の建暦元年5月3日には、これに関する事書いてないんですね。というより5月3日の記事がない!!・・・というわけで、どっかに聞きに行きますm(__)mしばらくお待ちください・・・筆者のお詫び)

というより、ここまででギリギリになってしまいまして、時間切れ!!後数行(テキストなら二行だったのですが、ご講義が出来なかったのです。なので、次回の講義でなさったんだろうと思いますが・・・私は、世界史の今学期最終講義とぶつかってしまい欠席でしたm(__)m)

読みだけは、先生の読みですから、大丈夫です・・・聞き違えていなければ!!)

――此は凡そ訛謬(しびゅう)を不<[シ頁]>(せず)。
――皇太神、此の状<遠>(を)、照納せしめ<チ>(て)、上<美>(は)政王自り始<免>(はじめ)、下<毛>(も)于百司民庶迄<天>、安隠泰平<仁>(に)惠護を施せ令<天>(しめて)、頼朝<加>(が)伴類<仁>(に)臻る<万天>(いたるまで)、夜<乃>(の)守<利仁>(りに)日<乃>(の)守<利仁>(りに)護幸(かんがみ)<倍>給<倍止>(たまへと)
――恐<天>恐<天毛>申<天>申<久>(かしこみ かしこみ もうして もうさく)
    治承六年二月八日    前右兵衛佐從五位下源朝臣頼|



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いやぁ・・・願書は大変です!!
大体「申して申さく」なんて普段、どこを押しても出てこない言い回しですから(^_^;

ちょっと脱線・・・実は、鎌足と談山神社と聞いて、あれ?氏神は春日大社でしょうが・・・?なんで鎌足祀るのに春日大社じゃないの?でー、オバサン風連想の八艘飛びで連想が飛んだのが春日大社!
興福寺は藤原氏の氏寺で、春日大社は不比等が建立した藤原氏の氏神というのは知っておりました!何しろ源氏物語ファンのおばさんですから(^_^;ところが、なんで春日大社が藤原氏の氏神か分かっておりませんでしたm(__)m中臣氏だったんだよねぇ・・・もともと鎌足は(^_^;中臣氏というのは忌部氏などと同様の神祇官の家系です。それは、こないだ、宝塚の観劇記「飛鳥夕映え―蘇我入鹿―」で、「権力家の家に生まれた入鹿と中臣という単なる神祇官の家に生まれた鎌足の戦いです」なんて分かったこと書いていたわりには、ちっとも春日大社に結びつかなかったのでした(^_^;春日大社の神官は中臣氏ですよね・・・そこで、やっと気が付いた!!だから、春日大社が藤原氏の氏神なんですね(^^ゞというか藤原氏の氏神が春日大社であるということが(^_^;アララ♪アララ♪アラアララ♪
ついでに、ここまで書いて、悟ったこと!!源氏の紫式部が興福寺からの桜の使者を迎える歌(「いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな」って超有名なヤツ♪)を譲った伊勢大輔は伊勢神宮祭主の大中臣能宣の孫です。ここに至って悟ったね!!あの煩いおばさんが、カッコいいお役目をそうあっさり新人に譲るかな?と大疑問だったのですが・・・そうか〜伊勢神宮の祭主の孫だったんだ(^_^;ボーと解説だけ鵜呑みで聴いてるから、後になってあ!そっかー!!となるんですね(^^ゞどうしてその時理解できないのか?私自身理解できないことだわ(^_^;


でー、来月からというか、八月はお休みなので、9月の新学期から、ですが、地元の「吾妻鏡の会」に転籍させていただくことになりました。
先生は勿論同じです。ただ、私としては、吾妻鏡はどうしても鎌倉で受講したかったのです!!なんたっち吾妻鏡ですから(;_;)
でも、体調が著しく悪化してきて、鎌倉まで通うことが難しくなって、欠席が多くなっては元も子もありません。とにかく通える、と言うことが第一なので、地元に転籍させていただくことに致しました。

ただ、進度が違っていますし、鎌倉の幹事さんが一度頂いた会費をお返しする、ということは出来ないので、都合が付く時だけでもいらっしゃい、と言ってくださったので、体調次第で、厚かましくあちらにも出られたらいいな、と思っております。
・・・難しいでしょうけど(^_^;

というわけで、7月からは「吾妻鏡 第三」の寿永3年に突入してしまいます。
その間の読みは、欠席した時のように私流で読んだ物をアップさせていただくつもりです。もはや、「古典継色紙」は宛にできん!と思われる方は、申しわけございませんが、

「三浦三崎ひとめぐり」から「東鑑目録」さんや、鎌倉歴史散策@加藤塾別館「吾妻鏡入門」など、素晴らしいサイトがございますので、そちらをご参考になさってくださいませm(__)m

また、時々は、古典継色紙の吾妻鏡もやってるかな〜♪と覗いて頂ければ幸いですm(__)m

   


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