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養和二年・二月十四日〜5月26日 乙未
寿永元年・廿七日〜12月30日 丙辰

ここから、当分は勝手にシンドバッドが続きます。
体調不良で、鎌倉の吾妻鏡が続けられなくなったためです。ありがたいことに同じ先生が地元でもご講義をなさっていらっしゃったので、そちらに映らせていただくことに致しました。
でもそちらとは進度が違っていまして、少し先行しているのです。よって、追っかける形になりますので、あいた分は独学m(__)m
但し、体調さえよければ、鎌倉にもいらっしゃい、と幹事さんが言ってくださったので、できれば伺いたいとは思っております。
うまく、鎌倉に出席できた時には、ちゃんと先生のご講義でアップいたしますのでお許しくださいm(__)m


○十四日 乙卯。伊東次郎祐親法師者。去々年已後。所被召預三浦介義澄也。而御臺所御懷孕之由風聞之間。義澄得便。頻窺御氣色之處。召御前。直可有恩赦之旨被仰出。義澄傳此趣於伊東。伊東申可參上之由。義澄於營中相待之際。郎從奔來來云。禪門承今恩言。更稱耻前勘。忽以企自殺。只今僅一瞬之程也<云々>。義澄雖奔至。已取捨<云々>。

――14日 乙卯(いつぼう)。
――伊東の次郎祐親法師者は、去々年已後、三浦介義澄に召し預けらるる所也。
――而るに御臺所御懷孕之由風聞する之間、義澄、便を得て、頻りに御氣色を窺ふ之處、御前に召し、直に恩赦有る可き之旨、仰せ出さる。
――義澄、此の趣を伊東に傳ふ。
――伊東は參上す可きの之由を申す。
――義澄、營中に於いて相待之際、郎從奔り來り云く。
――禪門、今、恩言を承り、更に前勘を耻ず、と稱す。忽ち以って自殺を企つ。只今僅か一瞬之程也と<云々>。
――義澄、奔り至ると雖も、已に取り捨つと<云々>。

○十五日 丙辰。義澄參門前。以堀藤次親家。申祐親法師自殺之由。武衛且歎且感給。仍召伊東九郎。<祐親子。>父入道其過雖惟重。猶欲有宥沙汰之處。令自[敏の田が一の下にヨ]畢。後悔無益食臍。况於汝有勞哉。尤可被抽賞之旨被仰。九郎申云。父已亡。後榮似無其詮。早可給身暇<云々>。仍被加不意誅殺。世以莫不美談之。武衛御・豆州之時。去安元々年九月之比。祐親法師欲奉誅武衛。九郎聞此事。潜告申之間。武衛逃走湯山給。不忘其功給之處。有孝行之志如此<云々>。

――15日 丙辰
――義澄門前に參り、堀の藤次親家を以って、祐親法師自殺之由を申す。
――武衛、且つは歎き、且つは感じ給ふ。
――仍って伊東九郎。<祐親子。>を召す。
――父入道、其の過、惟に重しと雖も、猶、宥し(ゆるし)の沙汰有らんと欲する之處、自殺せしめ畢(おわんぬ)。
――後悔の臍(ほぞ)を食むは益無し。
――况んや汝の有勞に於いてを哉。
――尤も抽賞せらる可き之旨、仰せらる。
――九郎、申して云く。
――父、已に亡く、後榮、其の詮無きに似て、早く身の暇を給ふ可しと<云々>。
――仍って意ならず誅殺を加えらる。
――世を以って之を美談と不(せざる)莫し。
――武衛、豆州に御・之時、去んぬる安元元年九月之比(ころほひ)、祐親法師、武衛を誅し奉らんと欲す。
――九郎、此くの事を聞き、潜かに告げ申す之間、武衛は走湯山に逃れ給ふ。
――其の功、忘れ給はざる之處、孝行之志有りて此くの如しと<云々>。

・・・では「豆州に御・之時」を「豆州に御座すの時」と読んでいらっしゃいました。「・」の部分に書かれている字ですが、常識的に考えて「在」か「座」ですよね。

○三月大
○五日 乙亥。山田太郎重澄日來朝夕祗候。殊竭慇懃之忠。仍今日賜一村地頭職。

――3月大
――5日 乙亥(いつがい)。
――山田の太郎重澄、日來(ひこ゜ろ)朝夕祗候す。殊に慇懃之忠を竭す。仍って今日、一村の地頭職を賜ふ。

○九日 己卯。御臺所御著帶也。千葉介常胤之妻。依殊仰。以孫子小太郎胤政爲使献御帶。武衛奉令結之給。丹後局候陪膳。

――9日 己卯(いつぼう)。
――御臺所御著帶也。
――千葉の介常胤之妻、殊に仰せに依り、孫子小太郎胤政を以って、使と爲して御帶を献ず。
――武衛、之を結びしめ奉り給ふ。
――丹後の局、陪膳に候ふ。

○十五日 乙酉。自鶴岳社頭。至由比浦。直曲横而造詣徃道。是日來雖爲御素願。自然渉日。而依御臺所御懷孕御祈故。被始此儀也。武衛手自令沙汰之給。仍北条殿<時政>已下各被運土石<云々>。

――15日 乙酉(いつゆう)。
―― 鶴岳社頭自り、由比の浦に至り、曲横を直し(ただし)、而して詣徃の道を造る。
――是は日來(ひごろ)、御素願爲ると雖も、自然(じねん)、日を渉る。
――而るに御臺所御懷孕御祈に依りての故、此の儀を始めらる也。
――武衛、手自ら(てづから)之を沙汰しめ給ふ。
――仍って北条殿<時政>已下、各(おのおの)土石を運ばらると<云々>。

○廿日 庚寅。太神宮奉幣御使歸參。二宮一祢宜各領納幣物。可抽懇祈之由。内々申之。但不奉状。是若憚平家之後聞歟之旨。有御疑<云々>。

――20日 庚寅(こういん)。
―― 太神宮奉幣の御使、歸參す。
――二宮の一の祢宜、各(おのおの)幣物を領納し、懇祈(こんき)を抽んずるべき之由、内々之を申す。
――但し状は奉らず。
――是は、若しや平家之後聞を憚る歟之旨、御疑有りと<云々>。

○四月小
○五日 乙巳。武衛令出腰越邊江嶋給。足利冠者。北条殿。仁田冠者。畠山次郎。下河邊庄司。同四郎。結城七郎。上総權介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文學上人。爲祈武衛御願。奉勸請大辨才天於此嶋。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事爲調伏鎮守府將軍藤原秀衡也<云々>。今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗澤邊。有牛追物。下河邊庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。

――4月小
――5日 乙巳(いつみ)。
―― 武衛、腰越邊りの江の嶋に出でしめ給ふ。
――足利の冠者。北条殿。仁田の冠者。畠山の次郎。下河邊の庄司。同四郎。結城の七郎。上総權の介。足立右馬の允。土肥の次郎。宇佐美の平次。佐々木の太郎。同三郎。和田の小太郎。三浦の十郎。佐野の太郎等、御共に候ふ。
――是は高雄の文學上人、武衛の御願を祈らんが爲、大辨才天を此嶋に勸請奉り、供養法を始行する之間、故を以って監臨せしめ給ふ。
――密議す。
――此くの事、鎮守府將軍藤原の秀衡調伏の爲也と<云々>。
――今日、即ち鳥居を立てらる。
――其の後、還りしめ給ふ。
――金洗澤邊りに於いて、牛追物有り。
――下河邊の庄司。和田の小太郎。小山田の三郎。愛甲の三郎等、箭員有るに依って、各(おのおの)、色皮紺絹等を賜ふ。

○十一日 辛亥。貞能爲平家使者。此間在鎮西。而申下官使。相副數輩私使。稱兵粮米。廻國郡。成水火之責。庶民悉以爲之費。仍肥後國住人菊池次郎高直。爲去當時之難。令歸伏之由申之<云々>。

――11日 辛亥(しんがい)。
――貞能、平家の使者して、此間鎮西に在り。
――而るに官使に申し下し、數輩の私使を相副え、兵粮米と稱して國郡を廻る。
――水火之責(せめ)を成し、庶民、悉く以って之が爲に費す。
――仍って肥後の國の住人、菊池の次郎高直、當時之難を去らんが爲、歸伏せしむるの由、之を申すと<云々>。

○廿日 庚申。圓浄房依召自武藏國參上。爲抽御祈丹誠。此間候營中。是爲左典厩<義朝>護持僧。武衛御胎内之昔加持御帶者也。而平治逆乱以後。出洛陽來武藏國。草創一寺<号蓮生寺。>爲住所<云々>。仍且感往年之功。且被優當時懇祈。以田五町。纉c五丁。限未來際。寄附彼寺給。

――20日 庚申 (こうしん)。
――圓浄房、召しに依りて、武藏の國自り參上す。
――御祈り丹誠を抽んずるが爲、此間營中に候す。
――是は左典厩<義朝>護持僧爲り。
――武衛御胎内之昔、御帶を加持する者也。
――而るに平治の逆乱以後、洛陽を出で、武藏の國に来たり、一寺<蓮生寺と号す。>を草創し住所と爲すと<云々>。
――仍って且つは往年之功に感じ、且つは當時の懇祈に優ぜられ、田五町、縺i桑)田五丁を以って、未來の際に限り、彼の寺に寄附し給ふ。

○廿四日 甲子。鶴岳若宮邊水田<号絃巻田>。三町余。被停耕作之儀。被改池。専光。景義等奉行之。

――24日 甲子(こうし)。
―― 鶴岳若宮の邊りの水田<絃巻田と号す>三町余り、耕作之儀を停められ、池に改めらる。
――専光、景義等、之を奉行す。

○廿六日丙寅。文學上人依請參營中。自去五日。參籠江嶋。歴三七ヶ日。昨日退出。其間断食而懇祈碎肝膽之由申之。

――26日 丙寅(へいいん)。
―― 文學上人、請に依り營中に參る。
――去んぬる五日自り、江の嶋に參籠し、三七ヶ日を歴て(へて)、昨日退出す。
――其の間、断食す、而して懇祈肝膽(かんたん)を碎く之由、之を申す。
  
・・・膽は「きも」


○五月大
○十二日 辛巳。伏見冠者藤原廣綱初參武衛。是右筆也。馴京都者。依有御尋。安田三郎被擧申之。日來住遠江國懸河邊<云々>。

――5月大
――12日 辛巳(しんみ)。
―― 伏見の冠者、藤原の廣綱、武衛に初參す。
――是は右筆也。
――京都に馴れる者、御尋ね有るに依って、安田の三郎、之を擧げ申さる。
――日來(ひごろ)、遠江の國、懸河の邊りに住むと<云々>。

○十六日 乙酉。及日中。老翁一人正束帯把笏。參入營中。候西廊。僮僕二人從之。各著淨衣。捧榊枝。人恠之。面々到其座砌。雖問參入之故。更不答。前少將時家到問之時。始發言語。直可申鎌倉殿<云々>。羽林重問名字之處。不名謁。即披露此趣。武衛自簾中覽之。其躰頗可謂神。稱可對面。令相逢之給。老翁云。是豐受太神宮祢宜爲保也。而遠江國鎌田御厨者。爲當宮領。自延長年中以降。爲保數代相傳之處。安田三郎義定押領之。雖通子細。不許容。枉欲蒙恩裁<云々>。以此次。神宮勝事。[方|]古記所見述委曲。武衛御仰信之餘不能被問安田。直賜御下文。則以新藤次俊長。爲御使可沙汰置爲保使於彼御厨之由。被仰付之<云々>。

――16日 乙酉(いつゆう)。
――日中に及んで、老翁一人、束帯に正して笏を把り、營中に參入し、西廊に候ふ。
――僮僕二人之に從ふ。
――各(おのおの)淨衣を著し、榊の枝を捧ぐ。
――人、之を恠しむ(あやしむ)。
――面々、其の座に到る砌、參入之故を問ふと雖も、更に答えず。
――前の少將時家、問ふに到る之時、始めて言語を發し、直に鎌倉殿に申す可きと<云々>。
――羽林、重ねて名字を問ふ之處、名を謁せず、即ち此の趣を披露す。
――武衛、簾中自り之を覽ず。
――其の躰、頗る神と謂ふ可く、對面すべしと稱し、之に相い逢わしめ給ふ。
――老翁云く。
――是は豐受太神宮の祢宜禰宜爲保也。
――而して遠江の國、鎌田の御厨者(は)、當宮の領爲り。
――延長年中自り以降、爲保數代相傳する之處、安田の三郎義定、之を押領す。
――子細を通わすと雖も、許容せず。枉げて(まげて)恩裁を蒙らんと欲すと<云々>。
――此のついでを以って、神宮の勝事、古記見る所を引き、委曲を述べる。
――武衛、御仰信之餘り、安田に問わるる能ず(あたわず)、直に御下文を賜ふ。
――則ち新藤の次、俊長を以って、御使と爲し、爲保の使いを彼の御厨に沙汰し置くべき之由、之を仰せ付けらると<云々>。

○十九日 戊子。十郎藏人行家在參河國。爲追討平家。可令上洛之由内儀。先爲祈請。相語當國目代大中臣藏人以通。密勒告文。相副幣物等。奉二所大神宮。
  奉送 御幣物
   美紙拾帖   八丈絹貳疋
   右奉送如件   
        治承五年五月十九日      參河御目代大中臣以通
   依藏人殿仰。所令申候也。太神宮御事。自本内心御祈念候之上。旁御夢想候歟。仍所思食御意趣之告文。御幣物送文等献上之。以此趣。可有御祈念候也。仰之旨如此。謹言。
         五月十九日             大中臣以通<奉>
       内外宮政所大夫殿

――19日 戊子(ぼし)。
――十郎藏人行家、參河の國に在り。
――平家を追討爲んとして、上洛せしむべき之由、内儀す。
――先ず祈請の爲、當國目代大中臣藏人を以通と相い語らい密かに告文を勒し(ろくし)、幣物等を相副え、二所大神宮に奉る。
――送り奉る 御幣物
――美紙拾帖
――八丈絹貳疋
――右、送り奉る、件の如し   
――治承五年五月十九日      
――參河御目代大中臣以通
――藏人殿仰せに依って、申せしめ候ふ所也。
――太神宮の御事、本自り内心御祈念候之上、旁(かたがた)御夢想候歟。
――仍って御意の趣(ぎょいのおもむき)思食す(おぼしめす)所之告文(つげぶみ)。
――御幣物、送文(おくりぶみ)等、之を献上す。
――此の趣を以って、御祈念有るべく候也。
――仰之旨(おおせのむね)此の如し。謹言。
――五月十九日
――大中臣以通<奉>
――内外宮政所大夫殿

○廿五日 甲午。相摸國金剛寺住侶等捧解状。群參營中。是所訴申古庄近藤太非法也。彼状被召出御前。相鹿大夫光生讀申之。  金剛寺住僧等[角午…午の横棒が三本]申請 鎌倉殿御裁定事
    請被特蒙 慈恩停止古庄郷司近藤太致非例濫行[の下に可]法難堪子細状 
   副進所課注文一通
右。住僧等謹言上。倩案。當寺爲躰。大日如來變身不動明王靈地也。仰其利生之倫。破惡魔怨敵。趣十善尊位者也。爰住僧聖禪。切拂幽々山中。安置明王尊像。招集無縁禪徒。勸晝夜勤行。朝叩鐘聲。奉祈大主尊閣。夕[屈]蘿衾。祈請國土安隱。而當郷司猥耽一旦之貪利。永忘三寶之冥助哉。依此[の下に可]責。住僧等各閇庵室之・樞。捨供養之法器畢。寺中無耕作田畠。唯懸露命於林菓許也。就中爲山狩。追出僧衆之條。希代事也。依如此之責。住僧等已迯散。加之。聖禪於破壞精舎。雖企修造之勵。誰留安堵之踵哉。若無御裁許者。誰住僧留浮跡<矣>。望請。早任注文之状被停止者。住僧等各凝三業一心之丹誠。可奉祈千秋之御寶[竹の下に弄]<矣>。以[角午…午の横棒が三本]
      治承六年五月日      金剛寺住僧等

――25日 甲午(こうご)
――相摸の國金剛寺の住侶等、解状を捧げ、營中に群參す。
――是は、古庄、近藤太の非法を訴申する所也。
――彼の状、御前に召し出だされ、相鹿の大夫光生、之を讀申す。  
――金剛寺住僧等解申請 鎌倉殿御裁定の事
――特に 慈恩を蒙り停止さるる古庄の郷司、近藤太、非例濫行を致す苛法、堪え難き子細の状 
――副え進むる所を課す注文一通
――右、住僧等、謹しんで言上し、倩案す。
――當寺の躰を爲すは、大日如來の變身、不動明王の靈地也。
――其の利生を仰ぐ之倫、惡魔怨敵を破り、十善尊位に趣く者也。
――爰に住僧聖禪、幽々たる山中を切拂い、明王尊像を安置す。
――無縁の禪徒を招集し、晝夜勤行に勸しむ(いそしむ)。
――朝叩(ちょうこう)の鐘聲、大主尊閣を祈り奉り、夕[屈](せきくつ)の蘿衾(らきん)、國土安隱を祈請す。
――而るに、當郷司、猥りに一旦之貪利に耽り、永く三寶之冥助を忘れん哉。
――此くの苛責に依りて、住僧等、各(おのおの)庵室之・樞を閇ざし(とざし)、供養之法器を捨て畢。
――寺中耕作の田畠無く、唯、露命を林菓に懸くる許(ばかり)也。
――就中(なかんずく)、山狩を爲し、僧衆を追出す之條、希代の事也。
――此の如き之呵責に依り、住僧等、已に迯散す。
――之に加へ、聖禪、破壞の精舎に於いて、修造之勵を企てると雖も、誰が安堵之踵を留める哉。
――若し御裁許無く者(ば)、誰が住僧の浮跡を留めむや<矣>。
――望請す。早く注文之状を任せ停止さるる者(とてへれば)、住僧等、各(おのおの)三業一心之丹誠を凝らし、千秋之御寶算(ごほうさん)を祈り奉るべし<矣>。
――以って解す。
――治承六年五月日      金剛寺住僧等


・・・相鹿大夫光生は、国文研版では「先生」
・・・「東鑑目録」さんでは「殊に慈恩を蒙り、古庄郷司近藤太が致す非例・濫行を停止することを請う」となつてます。これは、返り点の打ち方がかなり違っている例でしょう。
・・・濫行[の下に可]法は国文研版で「苛」
・・・夕[屈]は国文研版は「屈」
・・・苛責の方の[の下に可]は「呵」
・・・閇は「閉」
・・・迯は「逃」
・・・御寶[竹の下に弄]は御寶算
  

○廿六日 乙未。金剛寺僧徒訴事。昨日擬有其沙汰之處。已及秉燭之上。昌寛申障而不參之間。今日被經沙汰。被成下外題<云々>。
 如僧徒等申状者。課有謂山寺<仁>公事。并狩山蚕養召仕事。見苦事也。速可令停止状。仰處如件。

――26日 乙未(いつび)。
――金剛寺僧徒訴えの事。
――昨日其の沙汰有るを擬す之處、已に秉燭に及ぶ之上、昌寛障りを申して不參之間、今日、沙汰を經られ、外題を成し下さるると<云々>。
――僧徒等申し状の如き者(とてへれば)、謂れ(いわれ)有る山寺<仁>(に)公事を課し、并びに狩山、蚕養、召し仕る事、見苦しき事也。速かに停止令しむ可きの状、仰せの處、件の如し。



・・・ここで「養和2年」は終わります。よく27日には治承元年に改元されます。
諸所の解説?などは後日にアップします。一応本文・読み下し(独断ですm(__)m)まで。


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