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9月09日(土)「吾妻鏡」第三 寿永三年正月小21日〜2月大6日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

(国文研版、  →  )というのは、ここで使用している国史大系版に対して、活字をもらっている国文研版では、こうなっている、と言う意味です。違っている活字は太字にしてあります。(但し、躰と體、并と並など、同意の活字は除きます。)

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今月は、眩暈で欠席でした(^^ゞ前回、移籍後、初めて伺って、「次回が会費納入月だから、今回はお試しということでいいですよ」と言われていたのに、それで欠席では、来月にあわせる顔がないので、ダンナが整体に行く前に会費だけでも払い込んできてもらいました(^^ゞ

というわけで、読みは「勝手にシンドバッド♪」です(^_^;・・・でも、1月29日の所までは、前回読みだけ行ってますので、「勝手にシンドバッド♪」は2月1日〜6日までです。

○廿一日 辛亥。源九郎義經主獲義仲首之由奏聞。今日及晩。九郎主搦進木曽専一者樋口次郎兼光。是爲木曽使。爲征石川判官代。日來在河内國。而石河逃亡之間。空以皈京。於八幡大渡邊。雖聞主人滅亡[古の下に又→事]押以入洛之處。源九郎家人數輩馳向。相戰之後生虜之<云々>。

――廿一日 辛亥。
――源九郎義經主は義仲の首を獲る之由、奏聞す。
――今日、晩に及び、九郎主、木曽専一の者樋口の次郎兼光を搦め進む。
――是は木曽の使い爲して、石川の判官代を征さんが爲、日來、河内の國に在り。
――而して石河、逃亡する之間、空しく以って皈(帰)京す。
――八幡大渡りの邊りに於いて、主人滅亡の事を聞くと雖も、押し以って入洛(にゅうきょう)する之處、源九郎家人(けにん)數輩(すうばい)馳せ向き、相い戰ふ之後、之を生虜ると<云々>。

○廿二日 壬子。下総權守藤原爲久。依召自京都參向。是豐前守爲遠三男。無雙畫圖達者也。

――廿二日 壬子。
――下総權守藤原爲久、召しに依って京都自り參向す。
――是は豐前の守爲遠の三男、無雙の畫圖(がこ)の達者也。
・・・「畫圖(がこ)の達者」は絵が上手ということですよね。・・・と、思ったら4月18日で聖観音像を書かせたのは、この爲久でした。例の「横浜吾妻鏡の会の鎌倉御家人々名事典」で見ると「生没年不詳の鎌倉初期の宅磨派の絵仏師」だそうです。なかなか検索が難しい人らしいのに、よく調べ上げて大変詳しいのです!全部書きたいのですが、著作権ということもあるので・・・パスm(__)m
でも、そのアドバイスで、藤原爲久では調べられないが宅磨派で調べると一発で出て来る、書かれていたので、「たくまは」で検索してみると・・・
大辞泉・・・絵仏師の一派。宅磨為遠(たくまためとお)を祖とし、鎌倉時代には京都中心の長男勝賀(しょうが)の系統と、鎌倉中心の三男為久の系統とが活躍。宋画の様式を取り入れて仏画に新生面を開いた。東寺所蔵「十二天図屏風」など。
大辞林・・・日本画の一派。平安末期に宅磨為遠が出、その子勝賀(しようが)は京都を中心に、また弟の為久は鎌倉に下ってそれぞれ活躍。宋画の要素を取り入れた新様式の仏画を描いたが、室町時代に入って衰滅した。代表作に「十二天屏風」(勝賀筆)、「明恵上人像」(恵日房成忍(えにちぼうじようにん)筆)などがある。


○廿三日 癸丑。常陸國鹿嶋社祢宜等進使者於鎌倉。申曰。去十九日社僧夢想曰。當所神。爲追罰義仲并平家。赴京都御<云々>。而同廿日戌尅。黒雲覆寶殿。四方悉如向暗。御殿大震動。鹿鷄等多以群集。頃之彼黒雲亘西方。鷄一羽在其雲中。見人目。是希代未聞竒瑞也者。武衛令聞之給。則御湯殿<ヨリ>下庭上。遥拜彼社方給。弥催御欽仰之誠<云々>。件時尅。京鎌倉共以雷鳴地震<云々>。

――廿三日 癸丑。
――常陸の國、鹿嶋社の祢宜等、使者を鎌倉に進め、申して曰く、
――去んぬる十九日、社僧の夢想に曰く、當所の神、義仲并びに平家を追罰の爲、京都に赴き御(たまふ)と<云々>。
――而るに同廿日戌尅(いぬのこく)、黒雲は寶殿を覆ひ、四方悉く暗きに向かうが如し。
――御殿は大震動し、鹿鷄等、多く以って群集す。
――頃之彼の黒雲西方に亘る。鷄一羽(とりいちわ)、其の雲中(くもなか)に在り。人目見る。・・・(国文研版、頃彼黒雲 →頃彼黒雲  )
――是は希代未聞(みもん)の竒瑞也者(とてへれば)。武衛は之を聞きしめ給ふ。則ち御湯殿<ヨリ>庭上に下り、遥かに彼の社の方を拜し給ふ。・・・(国文研版、希代未聞竒瑞也者。武衛→希代未聞竒瑞也。者武衛 ) 
――弥(いよいよ)御欽仰(ごきんごう)之誠を催すと<云々>。
――件の時尅、京鎌倉共に以って雷鳴地震すと<云々>

えーっと・・・こういうこと書くと、クレームがつくのかな・・・?神社もけっこう商売巧いな(^_^;とかね・・・(^^ゞ鹿島神宮としては、源氏の勢力勃興に乗り遅れまい、という気が見え見えだと思うのですよ〜(^_^;
すでに、諏訪神社が、頼朝の旗揚げ早々のことから源氏に肩入れしてるし、伊勢も源氏になびいてる!関東の武門の神社としては黙っていられない、という所なのじゃないか〜、というのは考えすぎでしょうか(^_^;・・・筆者の呟き)

○廿六日 丙辰。晴。今朝。檢非違使等於七條河原。請取伊豫守義仲并忠直。兼平。行親等首。懸獄門前樹。亦囚人兼光同相具之被渡訖。上卿藤中納言。職事頭弁光雅朝臣<云々>。

――廿六日 丙辰。晴。
――今朝(こんちょう)、檢非違使等、七條河原に於いて、伊豫の守義仲并びに忠直・兼平・行親等の首を請取る。
――獄門の前の樹に懸け、亦た囚人兼光、同じく之を相具し、渡され訖。
――上卿は藤の中納言、職事(しきじ)は頭の弁光雅朝臣と<云々>。・・・(国文研版、職事頭弁光雅朝臣→職事頭辨雅光朝臣)
・・・義仲と兼平は「平家物語」の「木曾殿最期」で紅涙を振り絞られるところですが、近江の国の粟津でついに二人だけになってしまい、ここの義仲はだらしないけど、兼平が素晴らしくて、ねぇ〜♪男の友情というか、武士以前の武者の魂を感じます(^^)V

○廿七日 丁巳。未尅。遠江守義定。蒲冠者範頼。源九郎義經。一條次郎忠頼等飛脚參著鎌倉。去廿日遂合戰。誅義仲并伴黨之由申之。三人使者皆依召參北面石壺。聞食巨細之處。景時飛脚又參著。是所持參討亡囚人等交名注文也。方々使者雖參上。不能記録。景時之思慮猶神妙之由。御感及再三<云々>。

――廿七日 丁巳。未尅。
――遠江の守義定、蒲冠者範頼・源の九郎義經・一條の次郎忠頼等の飛脚、鎌倉に參着す。
――去んぬる廿日、合戰を遂ぐ。義仲并びに伴黨を誅する之由、之を申す。
――三人の使者は皆、召しに依って北面の石壺に參る。
――巨細を聞こし食す之處、景時の飛脚も又、參著す。
――是は討亡(とうぼう)の囚人等、交(かたがた)、名を注文持參する所也。
・・・(「注文」というのが一寸理解できないので、「広辞苑」を引くと、第一番目に「注進の文書。注進状」とあって、一発で理解できました。Web辞書ではどっかなぁ〜?と、確認のために引いてみたら・・・
「大辞泉」の3番目に「注進状に同じ」とあるのでそちらにクリックしてみたら、「中世の上申文書の一。荘園の代官が現地の状況や年貢の収支を本所に報告するときなどに用いた。注文。」とあって「?」
「大辞林」の4番目にも 「注進状に同じ。」とありまして、そちらに行くと「平安時代後期から室町時代にかけて、事物の明細(土地の状況などであることが多い)を細かく記し、上部機関に差し出す文書。注文。勘録状。」
これは広辞苑の勝だと思いますがぁ(^^ゞ

――方々の使者、參上すると雖も、記録能わず。
――景時之思慮、猶、神妙之由、御感再三に及ぶと<云々>。
・・・(このあたりが頼朝が景時贔屓になる理由だったんでしょうね。要するに気が利くってことなのでしょう。秘書課長としては有能でも、専務・社長の器ではない、ということは大いに有ります。というか、秘書課長で有能な人って、大体上に立つと駄目なんだけど・・・つまりね自分の主人の気持ちしか読めない人が多いのですね。主人の気持ちだけは巧く読んで、その好むとおりにするけれど、そのために周囲を押しつぶしても知らん振り、自分自身も主人の権力を乱用したりとかね。まあ、たまには、主人の気持ちだけでなく、周囲への気配りもできる、という人もいるけど。景時は、全く前者で。しかも、先に其の主人に死なれては・・・末路は既に見えていたのですよ(^_^;筆者の呟き)



○廿八日 戊午。小山四郎朝政。土肥次郎實平。澁谷庄司重國已下。可然御家人等使者參鎌倉。各所賀申合戰無爲之由也。

――廿八日 戊午。
――小山の四郎朝政・土肥の次郎實平・澁谷の庄司重國已下、然るべき御家人等の使者、鎌倉に參着す。
――各(おのおの)合戰無爲之由、賀申する所也。


○廿九日 己未。關東兩將爲征平氏。率軍兵赴西國。悉以今日出京<云々>。

――廿九日 己未。
――關東の兩將、平氏を征ぜんが爲、軍兵を率いて西國に赴く。
――悉く以って今日、出京すと<云々>。・・・(国文研版、悉今日出京 →悉今日出京 )


○二月大
○一日 庚申。蒲冠者範頼主蒙御氣色。是去年冬爲征木曾。上洛之時。於尾張國墨俣渡。依相爭先陣。与御家人等闘亂之故也。其[古の下に又→事]今日已聞食之間。朝敵追討以前。好私合合戰。太不穏便之由被仰<云々>。

――二月大
――一日 庚申。
――蒲の冠者範頼主御氣色を蒙る。
――是は、去んぬる年の冬、木曾を征ぜんが爲、上洛する之時、尾張の國墨俣の渡しに於いて、先陣を相い爭ふに依って、御家人等与(と)闘亂之故也。
――其の事、今日、已に聞こし食す之間、朝敵追討以前に私の合戰を好むは、太だ穏便ならざる之由と仰せらると<云々>。・・・(国文研版、 好私合戰 →好私合戰 )


○二日 辛酉。樋口次郎兼光梟首。澁谷庄司重國奉之。仰郎従平太男。而斬損之間。子息澁谷次郎高重斬之。但去月廿日合戰之時依被疵。爲片手打<云々>。此兼光者。与武藏國兒玉之輩。爲親眤之間。彼等募勲功之賞。可賜兼光命之旨。申請之處。源九郎主雖被奏聞[古の下に又→事]由。依罪科不輕。遂以無有免許<云々>。

――二日 辛酉。
――樋口の次郎兼光梟首す。
――澁谷の庄司重國、之を奉る。郎従平太の男に仰せらる。・・・「仰せらる」じゃないんだ!「被」がないからね(^_^;でー、東鑑目録さんでは、と覗きに言ったら「重国これを奉り、郎従平太の男に仰す」になっていました。はぁ〜ン、ナルホドm(__)m
――而るに斬り損ふ之間、子息澁谷の次郎高重、之を斬る。
――但し、去んぬる月の廿日、合戰之時、疵を被るに依って、片手打ちを爲すと<云々>。
――此の兼光者(は)、武藏の國、兒玉之輩与(と)、親眤を爲す之間、彼等の勲功之賞を募り、兼光の命を賜ふるべき之旨、申請する之處、源九郎主、事由を奏聞せらると雖も、罪科輕からざるに依って、遂に以って免許有るは無しと<云々>。

・・・「遂に以って免許有るは無しと」ってのは、筆者の読みですm(__)mこれでは不自然かな、と思って東鑑目録さんに行ってみたら、東鑑目録さんでは「遂に以て免許有ること無しと。 」と読み下していらっしゃいました。其の方が自然ですよね。
・・・で、もって〜、樋口兼光を処刑したのは、ここでは義経の命令となっているじゃありませんか・・・これは頼朝の命令じゃなかったかな・・・確信がないので、今、Wikipediaに行ってみたら、やっぱりそう書いてあったのですが・・・あそこもあまり当てにならないと、論文での資料にしないように、と言われてますが、でも、一応ね。これは後で調べておきますm(__)m

○四日 癸亥。平家日來相從西海山陰兩道軍士數万騎。搆城郭於摂津与播磨之境一谷。各群集。今日迎相國禪門三廻忌景。修佛[古の下に又→事]。

――四日 癸亥。
――平家、日來(ひごろ)、西海・山陰、兩道の軍士、數万騎を相從え、城郭を摂津・播磨与之境、一の谷に搆へ、各(おのおの)群集す。・・・(国文研版、 群集→群集、)
――今日、相國禪門三廻忌景を迎へ、佛事を修む。・・・(国文研版、三廻忌景→廻忌景 )・・・筆者の注・・・これは国文研版が正しいでしょ。清盛が死んだのは治承五年(1181)ですから、寿永3年(1184)なら廻忌景でいいんじゃないですかね。でも、要するに国文研版は、その「底本がそうなっている」と言うことですから。


○五日 甲子。酉尅。源氏兩將到攝津國。以七日卯尅。定箭合之期。大手大將軍蒲冠者範頼也。相從之輩。
  小山小四郎朝政    武田兵衛尉有義   板垣三郎兼信    下河邊庄司行平
  長沼五郎宗政      千葉介常胤      佐貫四郎廣綱    畠山次郎重忠
  稲毛三郎重成      同四郎重朝      同五郎行重     梶原平三景時
  同源太景季       同平次景高      相馬次郎師常    國分五郎胤道
  東六郎胤頼       中條藤次家長     海老名太郎     小野寺太郎通綱
  曽我太郎祐信      庄司三郎忠家    同五郎廣方      塩谷五郎惟廣
  庄太郎家長       秩父武者四郎行綱  安保次郎實光    中村小三郎時經
  河原太郎高直      同次郎忠家      小代八郎行平    久下次郎重光
已下五萬六千餘騎也。搦手大將軍源九郎義經也。相從之輩。
  遠江守義定       大内右衛門尉惟義。 山名三郎義範    齋院次官親能
  田代冠者信綱      大河戸太郎廣行   土肥次郎實平    三浦十郎義連
  糟屋藤太有季      平山武者所季重   平佐古太郎爲重   熊谷次郎直實
  同小次郎直家      小河小次郎祐義   山田太郎重澄    原三郎清益
  猪俣平六則綱
已上二萬餘騎也。平家聞此[古の下に又→事]。新三位中將資盛卿。小松少將有盛朝臣。備中守師盛。平内兵衛尉清家。惠美次郎盛方已下七千餘騎。着于當國三草山之西。源氏又陣于同山之東。隔三里行程。源平在東西。爰九郎主如信綱實平加評定。不待暁天。及夜半襲三品羽林。仍平家周章分散畢。

――五日 甲子。酉の尅。
――源氏の兩將、攝津の國に到る。
――七日卯の尅(こく)を以って、箭合之期と定む。
――大手の大將軍は蒲の冠者範頼也。相い從ふ之輩。
――小山小四郎朝政・・・以下は↑の表に同じです。・・・(国文研版  大將軍蒲冠者範頼也→大將軍、蒲冠者範頼也  小山四郎朝政→小山四郎朝政 )・・・一覧表を割愛しちゃいましたが、既出と初出が入り混じっているので、後でピックアップします。
――已下五萬六千餘騎也。
――搦手の大將軍は源の九郎義經也。相い從ふ之輩。
――遠江守義定・・・以下は↑の表に同じです。・・・一覧表を割愛しちゃいましたが、既出と初出が入り混じっているので、後でピックアップします。
――已上二萬餘騎也。
――平家、此の事を聞くに、新三位中將資盛卿・小松少將有盛朝臣・備中守師盛・平内兵衛尉清家・惠美次郎盛方已下七千餘騎、當國の三草山之西に着す。・・・(国文研版  小松少將有盛朝臣。備中守師盛。平内兵衛尉清家。惠美次郎盛方已下七千餘騎。→小松少將有盛、已七千餘騎、)
――源氏又、同山之東に陣す。
――三里の行程を隔て、源平東西に在り。
――爰に九郎主は、信綱・實平の如き評定を加へ、暁天を待たず、夜半に及び三品羽林を襲ふ。・・・ここが坂東武者の坂東武者たるところですよね。夜討ち朝駆けは戦の習いなのです。それをボケーッと待っているのがやっぱり公家平氏なのでしょう。
――仍って平家は周章分散し畢(おわんぬ)。

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これは、9月のご講義を欠席したので、2月1日からの読みは、あくまでも、筆者の読みです。それ以前は、運のよいことに前回のご講義で「読み」だけはして有ったところなので、大丈夫だと思います。


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