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10月14日(土)「吾妻鏡」第三 寿永三年2月大7日〜2月大18日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

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先生から、展覧会のお知らせがありました。「秋は展覧会の季節ですが、今年は特にアチコチでいいものを展示している」ということで、これをアップする頃はとうに終わっているはずですが、一応記録m(__)m
一つは、鎌倉国宝館(10月20日〜11月28日)「武家の古都鎌倉―世界遺産登録へ向けて―」
二つ目、金沢文庫(10月5日〜12月3日)「霊験の仏教」佐原十郎の領地満願寺からも二体の仏像が出展されるそうです。それと仏様は螺髪(らほつ)―巻き毛がある、これはインドから伝来したから、ということでした♪
三つ目、東京国立博物館(月日〜月日)の「仏像展」
四つ目、九州国立博物館(10月8日〜11月26日)「海の神々」
五つ目、山梨県立博物館(10月14日〜11月20日)「祈りのかたち」―甲斐の信仰―
六番目、和歌山県立博物館(月日〜月日)「世界遺産登録記念―那智の大滝と信仰のかたち―
七つ目、秋田県立博物館(月日〜月日)「東北の山岳信仰」
八つ目、新潟県立博物館(9月30日〜12月12日)「中越大地震復興祈念」―佐渡国分寺―「中世人の生活と信仰―越後・佐渡の神と仏」

○七日 丙寅。雪降。寅剋。源九郎主先[方」]分殊勇士七十餘騎。着于一谷後山<号鵯越>。爰武藏國住人熊谷次郎直實。平山武者所季重等。卯尅。偸廻于一谷之前路。自海道競襲于舘際。爲源氏先陣之由。高聲名謁之間。飛騨三郎左衛門尉景綱。越中次郎兵衛尉盛次。上総五郎兵衛尉忠光。惡七兵衛尉景清等。[方」]廿三騎。開木戸口。相戰之。熊谷小次郎直家被疵。季重郎從夭亡。其後蒲冠者。并足利。秩父。三浦。鎌倉之輩等競來。源平軍士等互混乱。白旗赤旗交色。闘戰爲躰。響山動地。[几の上にノ]雖彼樊[口會]張良。輙難敗績之勢也。加之城廓。石巖高聳而駒蹄難通。澗谷深幽而人跡已絶。九郎主相具三浦十郎義連已下勇士。自鵯越<此山猪鹿兎狐之外不通險阻也。>被攻戰間。失商量敗走。或策馬出一谷之舘。或棹船赴四國之地。爰本三位中將<重衡>。於明石浦。爲景時。家國等被生虜。越前三位<通盛>。到湊河邊。爲源三俊綱被誅戮。其外薩摩守忠度朝臣。若狹守經俊。武藏守知章。大夫敦盛。業盛。越中前司盛俊。以上七人者。範頼。義經等之軍中所討取也。但馬前司經正。能登守教經。備中守師盛者。遠江守義定獲之<云々>。

――七日 丙寅。雪降る。
――寅の剋。源九郎主は、先ず殊なる勇士七十餘騎を引き分け、一の谷の後山<鵯越と号す>に着す。
――爰に武藏の國の住人、熊谷次郎直實・平山武者所(ひらやまむしゃどころ)季重等は、卯の尅に、一の谷之前路を偸廻し、海道自り舘際を競襲す。・・・「熊谷直實」は「平家物語」では情のある武士としててで来る。
――源氏の先陣爲る之由、高聲(こうせい)に名謁(めいえつ)する之間、飛騨の三郎左衛門の尉景綱・越中の次郎兵衛の尉盛次・上総の五郎兵衛の尉忠光・惡七兵衛の尉景清等、廿三騎を引きいて、木戸口を開き、相戰ふ。
――熊谷の小次郎直家疵を被る。
――季重の郎從は夭亡す。
――其の後、蒲の冠者、并びに足利・秩父・三浦・鎌倉之輩等競來す。
――源平の軍士等、互いに混乱す。
――白旗赤旗は色を交え、闘い戰ふ躰(ていたらく)を爲し、山に響き、地を動かし、凡そ、彼の樊會・張良と雖も、輙(すなわ)ち、敗績し難き之勢也。・・・樊會・張良は前漢の劉邦の家臣。
――加ふるに之の城廓は、石巖(いしいわ)高く聳え、而して駒蹄通い難し。
――澗谷(かんこく)は深幽(しんゆう)にして、人跡、已に絶え、九郎主は、三浦の十郎義連を已下勇士を相具し、鵯越<此山、猪鹿兎狐之外、通わざる險阻也。>自り、攻め戰はるの間、商量を失い敗走す。
――或いは馬に策し一谷之舘に出で、或いは船に棹さし、四國之地に赴く。
――爰に本三位中將<重衡>は、明石の浦に於いて、景時・家國等の爲に生虜らる。・・・「家國」というのはここにだけ出て来る。詳しく事はわからない。
――越前三位<通盛>、湊河の邊りに到り、源三俊綱の爲に誅戮せらる。
――其の外、薩摩守忠度朝臣・若狹守經俊・武藏守知章・大夫(だゆう)敦盛・業盛・越中の前司盛俊、以上七人者(は)、範頼・義經等之軍中(ぐんちゅう)討ち取る所也。・・・知章・敦盛は少年。敦盛は熊谷との有名な話がある。このへんは「平家物語」に、事細かに名文で書いてある。
――但馬の前司經正・能登の守教經・備中の守師盛者(は)、遠江の守義定、之を獲ると<云々>。

国文研版・・・[方」]は引  互は俗字?出せないのでそのまま。亂は乱。體は躰。凡は[几の上にノ]としたが読み下しではそのまま凡そを使用。樊會も同様に[口會]だが會を使用。

手前味噌ですが、おばさんの「国文研連続講演『平家物語転読・第四回・戦いの現実/一の谷合戦の酷』も併せてお読みいただければと存じますm(__)m

○八日 丁卯。關東兩將。自攝津國。飛脚進於京都。昨日於一谷遂合戰。大將軍九人梟首。其外誅戮及千餘輩之由申之。

――八日 丁卯。
――關東の兩將、攝津の國自り、飛脚を京都に進む。・・・關東の兩將は範頼・義経。京都は後白河法皇の許へ。
――昨日、一の谷に合戰を遂げ、大將軍九人を梟首し、其の外、誅戮は千餘輩に及ぶ之由、申す。

○九日 戊辰。源九郎主入洛。相具之輩不幾。從軍追可參洛歟。是平氏一族首可被渡大路之旨。爲奏聞。先以揚鞭<云々>。

――○九日 戊辰。源九郎主入洛す。相具す之輩は幾(いくばく)ならず。・・・義経はわずかな人数で京に入る。
――從軍は追って參洛すべき歟(か)。
――是は平氏一族の首、大路を渡さるべき之旨、奏聞の爲、先ず以って鞭を揚げると<云々>。・・・平氏の頚を大路を渡すための願いを後白河法皇に願い出るため。これは、義経が自分の算段で動くことを現しているのか?(筆者注・・・国文研版では平家一族になっていた)

筆者のお奨め――この八日・九日の段は、是非東鑑目録」さんの所に行って、「玉葉」を読まれることをお奨めします。朝廷側の対応や梶原景時の行動が記録されています。・・・私はなかなかそこまで打てないのでm(__)m


○十一日 庚午。平氏等之首可被渡大路之由。源氏兩將經奏聞。仍慱陸三公。堀川亞相<忠親卿>。等被預勅問。彼一族仕朝廷已年尚。可有優恕沙汰歟。將又範頼。義經爲果私宿意。所申請非無道理歟。兩様之間。難決 叡慮。宜計申之由<云々>。而意見雖區分。兩將強申請之間。遂可被渡之由治定<云々>。勅使右衛門權佐定長數度往反<云々>。

――十一日 庚午。
――平氏等之首は、大路を渡さるべき之由、源氏兩將奏聞を經る。
――仍って慱陸三公・堀川亞相<忠親卿>等、勅問に預けらる。・・・慱陸は攝政・關白の唐名。三公は太政大臣と左右大臣。亞相は大納言でする(筆者の疑問・・・「勅問に預かる」じゃないのかな・・・メモ取り違いですかね(^_^;
――彼の一族は、朝廷に仕へ、已に年尚し。優恕(ゆうじょ)の沙汰有るべき歟。
――將又(はたまた)、範頼・義經、私宿の意を果たさんが爲、申請する所、道理無きに非ざる歟。
――兩様之間、 叡慮は決し難し。計い申すに宜(むべ)なる之由と<云云>。・・・叡慮というのは後白河法皇の、ということ。
筆者の疑問・・・「計い申すに宜(むべ)なる之由と<云々>」というのは「宜計申之由云々」という返り点の打ち方なので、そのまま読んだんですね(^_^;東鑑目録」さんのとこに覗きに行ったら、やっぱり「宜しく計り申すべきの由と」とありました。そっちの方が無理がないと思うんですが(^_^;)

――而して、意見は區分に雖も、兩將の強いて申請する之間、遂に渡さるべき之由、治定すと<云々>。
――勅使、右衛門の權の佐定長、數度往反すと<云々>。・・・「右衛門の權の佐定長」は後白河の近臣。院の判官代。關白基通の家司でもある。木曾義仲は、關白基通を廃して師家にしていたが、○○は(聞こえなかった)基通を後援していた。

○十三日 壬申。平氏首聚于源九郎主六條室町亭。所謂通盛卿。忠度。經正。教經。敦盛。知章。經俊。業盛。盛俊等首也。然後。皆持向八條河原。大夫判官仲頼以下請取之。各付于長鎗刀。又付赤簡。<平某之由。各注付之。>向獄門懸樹。観者成市<云々>。


――十三日 壬申。
――平氏の首は、源九郎主の六條室町の亭に聚(あつまし)む。
――所謂(いわゆる)、通盛卿・忠度・經正・教經・敦盛・知章・經俊・業盛・盛俊等の首也。
――然後(しかるのち)、皆、八條河原に持ち向かう。
――大夫判官(だゆうほうがん)仲頼以下、之を請取り、各(おのおの)長鎗刀(ながやりがたな)を付け、又、赤簡を付く。<平某之由、各(おのおの)之に注付す。>・・・「大夫判官(だゆうほうがん)仲頼」は、もともと北面の武士で検非違使の長官。後には鎌倉の御家人にもなる。文治元年12月24日の吾妻鏡には、平家が壇ノ浦で滅亡後、頼朝が勝長寿院を建立しした。その落慶供養の日の参列の御家人の中に「皇后宮亮仲頼」という名が見えます。
・・・「長槍刀」は柄の長さが3.6メートル以上ある。「赤簡」は名札。
――獄門の向きに樹に懸ける。観る者は市を成すと<云々>。・・・獄門の首をかけるのは「樗(おうち)の木」(棟木ともいう。)

○十四日 癸酉。晴。右衛門權佐定長奉[来力]定。爲推問本三位中將重衡卿。向故中御門中納言<家成卿>。八條堀川堂。土肥次郎實平同車彼卿。來會件堂。於弘庇問之。口状條々注進之<云々>。今日。上総國御家人等。多以私領本宅。如元可令領掌之旨。給武衛御下文。彼輩去年依爲廣常同科。所被收公所帯也。

――十四日 癸酉。晴。
――右衛門の權の佐定長、勅定を奉り、本三位中將重衡卿を推問せんが爲、故中御門中納言<家成卿>の八條の堀川堂に向ふ。
――土肥の次郎實平は、彼卿に同車し、件の堂に來會し、弘庇に於いて之を問ふ。・・・「弘庇(ひろびさし)」は孫庇(まごびさし)ともいう。寝殿造の母屋の外側。
――口状(こうじょう)の條々、之を注進すと<云々>。
――今日、上総の國の御家人等、多く私領本宅を以って。元の如く領掌せしむべき之旨、武衛の御下文を給ふ。
――彼の輩は去んぬる年、廣常の同科爲るに依って、所帯を收公せらる所也。・・・「去んぬる年」は寿永2年。吾妻鏡が欠分になっている年。この時に何かがあった。この一月の記事から廣常にかけられた嫌疑が晴れて所領を戻したと思われる。

[来力]は勅

○十五日 甲戌。辰剋。蒲冠者範頼。源九郎義經等飛脚。自攝津國。參著鎌倉。献合戰記録。其趣。去七日於一谷合戰。平家多以殞命。前内府已下浮海上赴四國方。本三位中將生虜之。通盛卿。忠度朝臣。經俊。<已上三人。蒲冠者討取之>。經正。師盛。教經。<已上三人。遠江守義定討取之。>敦盛。知章。業盛。盛俊。<已上四人。義經討取之。>此外梟首者一千餘人。[几の上にノ]武藏。相摸下野等軍士。各所竭大功也。追可注記言上<云々>。

――十五日 甲戌。辰の剋。
――蒲冠者範頼・源九郎義經等の飛脚は、攝津の國自り鎌倉に參著し、合戰の記録を献ず。
――其の趣は、去んぬる七日、一の谷に於いて合戰し、平家は多く以って命を殞(おと)す。
――前の内府已下は、海上の方に浮かび四國の方に赴く。
――本三位中將、之を生虜る。
――通盛卿・忠度朝臣・經俊<已上三人、蒲冠者、之を討取る>。
――經正・師盛・教經<已上三人、遠江の守義定、之を討取る。>
――敦盛・知章・業盛・盛俊<已上四人、義經、之を討取る。>
――此の外、梟首の者は一千餘人。凡そ武藏・相摸・下野等の軍士、各(おのおの)、大功を竭げる(あげる)所也。
――追って注記、言上すべしと<云々>。・・・「注記」は本文を挙げて、その詳しい注釈を書く。

[几の上にノ]は凡

○十六日 乙亥。今日。又定長推問重衡卿。[古の下に又]次第同一昨日<云々>。

――十六日 乙亥。
――今日、又、定長は重衡卿を推問す。事の次第は一昨日に同じと<云々>。


[古の下に又]は事


○十八日 丁丑。武衛被發御使於京都。是洛陽警固以下[古の下に又]所被仰也。又播磨。美作。備前。備中。備後。已上五箇國。景時。實平等遣専使。可令守護之由<云々>。

――十八日 丁丑。
――武衛は、御使(みつかい)を京都に發せらる。
――是は洛陽の警固の以下の事、仰せらるる所也。
――又、播磨・美作・備前・備中・備後已上五箇國、景時・實平等を専使を遣わし、守護令しむべき之由と<云々>。・・・「已上五箇國」は瀬戸内の五カ国。武衛は御使いを京都に発せられる。瀬戸内海掌握を、頼朝から都へ通告した。

[古の下に又]は事


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今回は読みが?と思うことが多くて、それに引っかかると、先生の解説についていけなくて大変でした(^_^;
もともと、日本的漢文で書かれているものを、また適当に?!返り点を打って読むわけですから、どれが正解、と言うことはないわけです。読み下しの語尾も違うし、続き方も違います。また、うちの先生の読み方は主語に必ず助詞をつけていらっしゃいますが、漢文的に読むと主語に助詞がつかないことが多いし、その助詞も「の」と「が」では微妙なニュアンスの違いがあるそうです(国文研連続講演「万葉集」・佐竹先生)が、内の先生は、そこまでは拘っていらっしゃらない(^_^;と思います。そこは国文学者と歴史学者の違いだと思う(^_^;

いやぁ・・・しかし、大変ですよ(^_^;以前に吾妻鏡程度の文章ならまあ、そこそこ一人でも読めます、とか大見得切りましたけど、こんなトコ―返り点が不自然な所―にぶち当たると、やっぱり一人では無理だったろうな・・・と、反省中です(^^ゞ



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