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11月11日(土)「吾妻鏡」第三 寿永三年2月大20日〜2月大30日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

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なかなか注をつけるまでに時間が掛かりそうなので、読みだけアップしますm(__)m

○廿日 己卯。去十五日。本三位<重衡>中將遣前左衛門尉重國於四國。告 勅定旨於前内府。是舊主并三種寳物可奉皈洛之趣也。件返状今日到來于京都。備 叡覧<云々>。其状云。
 (筆者注・・・ここから、書状の文章なので別枠にします)

      
 去十五日御札今日<廿一日>。到來。委承候畢。藏人右衛門佐書状同見給候畢。主上國母可有還御之由。又以承候畢。去年七月。行幸西海之時。自途中可還御之由。 院宣到來。備中國下津井御解纜畢之上。依洛中不穩。不能不日立歸。憖被遂前途候畢。其後云日次之世務世理。云恒例之神[古の下に又]佛[古の下に又]。皆以擁怠。其恐不少。其後頗洛中令屬靜謐之由。依有風聞。去年十月。出御鎮西。漸還御之間。閏十月一日。稱帯 院宣。源義仲於備中國水嶋。相率千艘之軍兵。奉禦万乗之還御。然而爲官兵。皆令誅伐凶賊等畢。其後著御于讃岐國屋嶋。于今御經廻。去月廿六日。又解纜遷幸攝州。奏聞[古の下に又]由。爲随 院宣行幸近境。且去四日。相當亡父入道相國之遠忌。爲修佛[古の下に又]。不能下船。經廻輪田海邊之間。去六日修理權大夫送書状云。依可有和平之儀。來八日出京。爲御使可下向。奉[来力]答不歸參之以前。不可有狼藉之由。被仰關東武士等畢。又以此旨。早可令仰含官軍等者。相守此仰。官軍等本自無合戰志之上。不及存知。相待院使下向之處。同七日。關東武士等襲來于 叡船之汀。依 院宣有限。官軍等不能進出。各雖[方亅]退。彼武士等乗勝襲懸。忽以合戰。多令誅戮上下官軍畢。此條何様候[古の下の又]哉。子細尤不審。若相待 院宣。可有左右之由。不被仰彼武士等歟。將又雖被下 院宣。武士不承引歟。若爲緩官軍之心。忽以被廻奇謀歟。倩思次第。迷惑恐歎。未散蒙霧候也。爲自今以後。爲向後將來。尤可承存子細候也。唯可令垂賢察御。如此之間。還御亦以延[方亅]。毎赴還路。武士等奉禦之。此條無術[古の下に又]候也。非難澁還御之儀。差遣武士於西海依被禦。于今遅引。全非公家之懈怠候也。和平[古の下に又]。爲朝家至要。爲公私大功。此條[シ頁]被逹奏之處。遮被仰下之條。兩方公平。天下之攘災候也。然而于今未斷。未蒙分明之 院宣。仍相待慥御定候也。[几の上にノ]夙夜于 仙洞之後。云官途。云世路。我后<キミ>之御恩。以何[古の下に又]可奉報謝乎。雖涓塵不存踈略。况不忠之疑哉。况反逆之儀哉。行幸西國[古の下に又]。全非驚賊徒之入洛。只依恐 法皇御登山也。朝家[古の下に又]可爲誰君御進止哉。主上女院御[古の下に又]。又非 法皇御扶持者。可奉仰誰君哉。雖[古の下に又]躰奇異。依恐御登山一[古の下に又]。周章楚忽。遷幸西國畢。其後又稱 院宣。源氏等下向西海。度々企合戰。此條已依賊徒之襲來。爲存上下之身命。一旦相禦候計也。全非公家之發心。敢無其隱也。云平家。云源氏。無相互之意趣。平治信頼卿反逆之時。依 院宣追討之間。義朝朝臣依爲其縁坐。有自然[古の下に又]。是非私宿意。不及沙汰[古の下に又]也。於 宣旨院宣者非此限。不然之外。[几の上にノ]無相互之宿意。然者頼朝与平氏合戰之條。一切不思寄[古の下に又]也。公家仙洞和親之儀候者。平氏源氏又弥可有何意趣哉。只可令垂賢察給也。此五六年以來。洛中城外各不安穩。五畿七道皆以滅亡。偏營弓箭甲冑之[古の下に又]。併抛農作乃貢之勤。因茲。都鄙損亡。上下飢饉。一天四海。眼前煙滅。無双之愁悶。無二之悲歎候也。和平儀可候者。天下安穩。國土靜謐。諸人快樂。上下勸娯。就中合戰之間。兩方相互殞命之者不知幾千萬。被疵之輩難記楚筆。罪業之至。無物于取喩。尤可被行善政。被施攘災。此條。定相叶神慮佛意歟。還御[古の下に又]毎度差遣武士。被禦行路之間。不被遂前途。已及兩年候畢。於今者。早停合戰之儀。可守攘災之誠候也。云和平云還御兩條早蒙分明之 院宣。可存知候也。以此等之趣。可然之様。可令披露給。仍以執啓如件
    二月廿三日

――廿日 己卯。
――去んぬる十五日、本三位<重衡>中將、前左衛門尉重國を四國に遣わし、 勅定の旨を前内府に告ぐ。
――是は、舊主并びに三種の寳物皈洛奉るべき之趣也。
――件の返状今日京都に到來す。 叡覧に備えると<云々>。其の状云。・・・(国文研版は、ここで既に「今日〈二十一日〉」となり、そのまま書状の内容に入っています)

廿日△己卯△去十五日、本三位中將前左衛門尉、
L10於四國、告△勅定旨於前内府。是舊主、並三種寳物、
L11可奉歸洛之趣也。件返状、今日〈二十一日〉到來。委承候畢。
L12藏人右佐書状、同見給候畢


(ここから、書状の文章なので別枠にします)

――去んぬる十五日、御札今日<廿一日>到來す。
――委しく承り候ひ畢(おわんぬ)。
――藏人右衛門佐の書状同じく見給ひ候ひ畢。・・・(国文研版は藏人右佐
――主上・國母、還御有るべき之由、又以って承り候ひ畢。
――去んぬる年の七月、西海に行幸する之時、途中自り還御するべき之由、 院宣到來す。
――備中の國下津井に御解纜(ごかいらん)畢之上、洛中穩やかならざるに依って、不日(ふじつ)立歸り能わず。
――憖(なまじい)に、前途を遂げられ候ひ畢。
――其後、日次之世務世理(せむせり)と云ひ、恒例之神事佛事と云ひ、皆以って擁怠す。
――其の恐れ少なからず。
――其の後、頗る洛中の靜謐を屬せしむる之由、風聞有るに依り、去んぬる年十月、鎮西に出御し、漸く還御する之間、閏十月一日、 院宣を帯びると稱し、源の義仲、備中國水嶋に於いて、千艘之軍兵を相率いて、万乗之還御を禦げ奉る。
――然るに官兵の爲に、皆、凶賊等を誅伐せしめ畢。
――其後、讃岐國屋嶋に著御し、今御經廻す。
――去んぬる月廿六日、又、解纜し、攝州に遷幸す。
――事由を奏聞し、 院宣に随がわんが爲、近境に行幸す。
――且つ去る四日、亡父入道相國之遠忌(おんき)に相當り、佛事修むる爲、船を下りるに能わず。
――輪田の海邊を經廻する之間、去んぬる六日、修理權の大夫、書状を送りて云く、和平之儀有るべきに依り、來る八日出京し、御使爲して下向すべしと。
――勅答を奉り歸參せざる之以前、狼藉有るべからず之由、關東武士等に仰せられ畢。
――又、此旨を以って、早く官軍等に仰含ませしむべくは、此仰を相守り、官軍等の本自り合戰の志無き之上、存知に及ばず。
――院の使いの下向を相待つ之處、同七日、關東武士等 叡船之汀に襲來す。
―― 院宣の限り有るに依って、官軍等進出能わず。
――各(おのおの)、引き退くと雖も、彼の武士等は、勝に乗じて襲い懸り、忽ちに以って合戰し、多く上下の官軍を誅戮せしめ畢。
――此の條、何様(いかよう)に候ふ事哉(や)。
――子細の尤も不審なり。
――若しや、 院宣を相待ち、左右有るべく之由、彼の武士等に仰せられざる歟。
――將又、 院宣を下さるると雖も、武士の承引せざる歟。
――若し官軍之心を緩(なだ)めんが爲、忽(もしや)、以って奇謀を廻らさるる歟。・・・(「忽(もしや)」と聞いたと思ったのだが、これは「たちまち」だな、と思って東鑑目録さんを見ると「忽ち以て」とありました。仮名は振ってないけど、この送り仮名なら「たちまち」ですね
――倩(つらつら)次第を思ふに迷惑恐歎。未だ蒙霧散ぜず候也。
――自今以後の爲に、向後の將來の爲に、尤も子細を承り存ずべく候也。
――唯賢察を垂らしめ御可く。此くの如き之間、還御、亦、以延引す。・・・(「御可く」の読み聞き取れず。東鑑さん参照
――還路を赴く毎に、武士等禦げ奉るにて、此の條、術無き事に候也。還御之儀を難澁するに非ず。
――武士を西海に差し遣わし、禦げらるるに依って、今遅引す。全く公家之懈怠(けたい)に非ず候也。
――和平の事、朝家至要の爲、公私大功の爲、此の條、逹奏せらるを頂く之處、遮ぎりて仰せ下さる之條、兩方の公平、天下之攘災(じょうさい)候也。
――然而(しかるに)、今、未だ斷たず。・・・(然而・・・しかりしこうして・・・どういう風に繋がるのかな?
――未だ分明之 院宣を蒙らず。仍って慥(たしか)なる御定めを相待ち候也。
――凡そ 仙洞に夙夜(しゅくや)する之後、官途と亥云ひ、世路と云ひ、我后<キミ>之御恩は、何事を以って報謝奉るべき乎(や)。
・・・(我后之御恩→国文研では我君之御恩)
――涓塵(けんじん)と雖も踈略を存ぜず。况んや不忠之疑哉(うたがいおや)。况んや反逆之儀に哉(おいておや)。
――西國行幸の事も、全く賊徒之入洛に驚くに非ず。
――只、 法皇の御登山を恐れるに依って也。
――朝家の事、誰君(たれきみ)の御進止(ごしんじ)爲るべき哉(や)。
――主上女院の御事、又 法皇御扶持に非ざる者(は)、誰君に仰ぎ奉るべき哉(や)。
――事躰奇異と雖も、御登山の一事を恐れるに依り、周章楚忽し、西國を遷幸し畢。
――其後、又、 院宣と稱して、源氏等、西海に下向し、度々合戰を企つ。
――此の條、已に賊徒之襲來に依り、上下之身命を存ずるが爲、一旦、相禦候(あいふせぎそうろう)計也。・・・(賊徒之襲來→国文研版、賊之襲來)
――全く公家之發心(ほっしん)に非ず。敢て其の隱れ無き也。
――平家と云ひ、源氏と云ひ、相互之意趣無し。
――平治の信頼卿の反逆之時、 院宣に依り、追討する之間、義朝朝臣其縁坐を爲すに依り、自然の事有り。
――是は私宿の意に有らず。沙汰に及ばざる事也。
―― 宣旨院宣に於いて者(は)、此の限りに有らず。
――不然(しからざる)之外(ほか)は、凡そ相互之宿意は無し。
――然者(しからば)、頼朝と平氏与(と)合戰之條は、一切思ひ寄らざる事也。
――公家仙洞の和親之儀候者(そうらはば)、平氏も、源氏も、又、弥(いよいよ)何の意趣有るべき哉(や)。
――只に賢察垂らしめ給ふべき也。
――此、五六年以來、洛中城外各(おのおの)安穩ならず。
――五畿七道皆以って滅亡す。
――偏へに、弓箭甲冑之事を營み、併せて農作乃貢(みつぎ)之勤(つとめ)を抛(なげうつ)。・・・(併抛→国文研、彌抛
――茲に因り、都鄙(とひ)は損亡(そんぼう)し、上下は飢饉す。
――一天四海、眼前の煙滅、無双之愁悶、無二之悲歎に候也。(国文研は無二悲歎候也
――和平の儀候べく者(ば)、天下安穩、國土靜謐、諸人の快樂、上下の勸娯(かんご)、就中(なかんずく)、合戰之間、兩方相互、命を殞す之者、幾千萬を知らず。疵を被る之輩(やから)、楚筆に記し難し。
――罪業之至り、喩へに取る物無し。
――尤も善政を行われ、攘災を施されるべし。
――此の條、定めて神慮佛意に相叶歟。
――還御の事は、毎度武士を差し遣わし、行路を禦がるる之間、前途を遂げざるる、已に兩年に及び候ひ畢。
――今に於いて者(は)、早く合戰之儀を停め、攘災之誠を守べく候也。
――和平と云ひ、還御と云ひ、兩條、早く分明之 院宣を蒙り、存知べく候也。
――此等之趣を以って、然るべき之様、披露せしめ給ふべし。
――仍って以って執(と)り啓(もう)す件の如し。
    二月廿三日


気が付いた字の違いや、組み合わせ活字の現代字
歸→皈 状→() 事→[古の下に又] 萬→万 亡入道→亡父入道 舩→船[来力]→勅  [方亅]→引
奇→竒 此條須被逹奏之處→[シ頁]=頂  [几の上にノ]→凡そ
乎→耶 躰→體  依恐御登山→[古の下に又]→依恐御登山事  遷幸西國畢→遷幸西國矣。 五畿七道→五幾七道  


○廿一日 庚辰。尾藤太知宣者。此間屬義仲朝臣。而内々任御氣色。參向關東。武衛今日直令問子細給。信濃國中野御牧。紀伊國田中池田兩庄。令知行之旨申之。以何由緒。令傳領哉之由被尋下。自先祖秀郷朝臣之時。次第承繼處。平治乱逆之刻。於左典厩御方。牢籠之後得替。就愁申之。田中庄者。去年八月。木曽殿賜御下文之由申之。召出彼下文覽之。仍知行不可有相違之旨被仰<云々>。

――廿一日 庚辰。
――尾藤太知宣(びとうたとものぶ)という者有り、此の間、義仲朝臣に屬す。
――而るに、内々御氣色(みけしき)に任せて關東に參向す。
――武衛は今日に直(じき)に子細を問わしめ給ふ。
――信濃の國中野の御牧(みまき)、紀伊の國田中・池田の兩庄を、知行せしむ之旨之を申す。
――何の由緒を以って傳領(でんりょう)せしむ哉(や)之由、尋ね下さる。
――先祖秀郷朝臣之時自り、次第の承繼する處なり。
――平治乱逆之刻(みぎり)、左典厩の御方に於いては、牢籠(ろうちょう)之後、得替す。之を愁申するに就き、田中の庄者(は)、去んぬる年八月、木曽殿、御下文を賜ふ之由、之を申す。
――彼の下文を召し出し、之を覽ず。仍って知行相違有るべからざる之旨、仰せらると<云々>。


○廿三日 壬午。前右馬助季高。散位宗輔等依同意于義仲朝臣。被召禁之被下使廳<云々>。

――廿三日 壬午。
――前の右馬助季高・散位宗輔等、義仲朝臣に同意するに依って、之を召禁せられ、使廳に下さると<云々>。


○廿五日 甲申。朝務[古の下に又]。武衛。注御所存。條々被遣泰經朝臣之許<云々>。其詞云。
  言上
    條々
一  朝務等[古の下に又]
  右。守先規。殊可被施徳政候。但諸國受領等尤可有計御沙汰候歟。東國北國兩道國々。追討謀叛之間。如無土民。自今春。浪人等歸住舊里。可令安堵候。然者。來秋之比。被任國司。被行吏務可′。

一  平家追討[古の下に又]
  右。畿内近國。号源氏平氏携弓箭之輩并住人等。任義經之下知。可[方亅]率之由。可被仰下候。海路雖不輙。殊可[分の下に心]追討之由。所仰義經也。於勲功黨者。其後頼朝可計申上候。

一  諸社[古の下に又]
  我朝者神國也。往古神領無相違。其外今度始又各可被新加歟。就中。去比鹿嶋大明神御上洛之由。風聞出來之後。賊徒追討。神戮不空者歟。兼又若有諸社破壊顛倒[古の下に又]者。隨功程。可被召付處。功作之後。可被御裁許候。恒例神[古の下に又]。守式目。無懈怠可令勤行由。殊可有尋御沙汰候。

一  佛寺間[古の下に又]
  諸寺諸山御領。如舊恒例之勤、不可退轉。如近年者。僧家皆好武勇。忘佛法之間。行徳不聞。無用枢候。尤可被禁制候。兼又於濫行不信僧者。不可被用公請候。於自今以後者。爲頼朝之沙汰。至僧家武具者。任法奪取。可与給於追討朝敵官兵之由。所存思給也。
以前條々[古の下に又]。言上如件。
     壽永三年二月日         源頼朝


――廿五日 甲申。
――朝務の事。武衛は御所存に注し、條々泰經朝臣之許に遣わさると<云々>。其の詞に云ふ。

 言上
    條々
一  朝務等の事
  ――右、先規を守り、殊に徳政を施さるべく候。
  ――但し諸國の受領等、尤も計(はからい)御沙汰有るべく候歟。
  ――東國・北國、兩道の國々、謀叛を追討する之間、土民無きが如し。
  ――今春自り、浪人等、舊里に歸住し、安堵せしむべく候。
  ――然者(しからば)、來秋之比(ころほひ)、國司に任ぜられ、吏務を行わるに≠オかる可く候。

一  平家追討の事
  ――右、畿内近國、源氏平氏と号し、弓箭(きゅぅぜん)を携(と)る之輩、并びに住人等、義經之下知に任じ、引率すべき之由、仰せ下さるべく候。・・・(義經之下知に任じ→東鑑目録版では早く義経が下知に任せ、)
  ――海路輙ずと雖も、殊に[分の下に心]追討すべき之由、義經に仰する所也。・・・([分の下に心]追討→国文研版、急追討)
  ――勲功の賞に於いて者(は)、其の後、頼朝の計い申上べく候。・・・(頼朝の計い申上べく候→東鑑目録版ではその後頼朝遂って計り申し上ぐべく候。 )

一  諸社の事
  ――我朝者(は)神國也。往古の神領相違無し。
  ――其の外(ほか)、今度(このたび)始めて又、各(おのおの)新たに加えらるべき歟。・・・(各可被新加歟→国文研版、各被新加歟)
  ――就中(なかんづく)、去んぬる比(ころほひ)、鹿嶋大明神御上洛之由、風聞出來之後、賊徒追討す。
  ――神戮(しんりく)空者歟(むなしからざるものか)。
  ――兼ねて又、若し諸社の破壊顛倒の事有ら者(ば)、功程(こうてい)に隨ひ、召付けらるべき處、功作之後、御裁許せらるべく候。
  ――恒例の神事は式目を守り、懈怠無く、勤行せしむべき由、殊に尋ねる御沙汰有るべく候。

一  佛寺間の事
  ――諸寺諸山の御領、舊の如く恒例之勤め退轉すべからず。・・・(如舊恒例之勤→国文研版、如舊例之勤

  ――近年のごとき者(は)、僧家は皆、武勇を好み、佛法を忘る之間、行徳を聞かず。用枢(ようひつ)は無く候。
  ――尤も禁制せらるべく候。
  ――兼ねて又、濫行不信の僧に於いて者(は)、公請に用いらるべからず候。
  ――自今以後に於いて者(は)、頼朝之沙汰爲(と)して、僧家武具に至ら者(ば)、法に任せて奪取り、朝敵追悼の官兵に与え給ふべき之由、存じ思い給ふ所也。・・・(返り点の違い?東鑑目録さん参照)
  以前、條々の事。言上件の如し。
     壽永三年二月日         源頼朝

[古の下に又]→事  =ィ宜  [方亅]→引

○廿七日 丙戌。近江國住人佐々木三郎成綱参上。子息俊綱。一谷合戰之時。討取越前三位<通盛>訖。可預賞之由申之。於勲功者。尤所感也。但日來者屬平氏。殊奉蔑如源家之處。平氏零落都之後始參上。頗非眞實志之由被仰<云々>。

――廿七日 丙戌。
――近江の國の住人佐々木三郎成綱(しげつな)参上す。
――子息俊綱、一谷合戰之時、越前三位<通盛>を討取り訖。賞に預かるべき之由、之を申す。
――勲功に於いて者(は)、尤も感ずる所也。
――但し日來(ひごろ)者(は)平氏に屬し、殊に源家を蔑如し奉る之處、平氏都零落之後、始めて參上す。頗る眞實の志に非ざる之由仰せらると<云々>。・・・(日來者屬平氏→国文研版、日來屬平氏)

○三十日 己丑。信濃國東條庄内狩田郷領主職。避賜式部大夫繁雅訖。此所被没收之處。爲繁雅本領之由。愁申故<云々>。

――三十日 己丑。
――信濃の國、東條の庄の内の狩田の郷の領主職(しき)、式部大夫(しきぶのだいぶ)繁雅(しげまさ)避賜(さいたまわり)訖(おわんぬ)。
――此の所は、没收せらるる之處、繁雅本領爲る之由、愁い申す故と<云々>。


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