吾妻鏡用ノート

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 2007年01月13日(土)「吾妻鏡」三 寿永3年 3月小01日〜3月28日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

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地元の吾妻鏡の会に移って初めてのお正月の会でした。こちらは、新年のお茶会などはなくて、いつもどおり。但し会則の改正と会議室借用場所の臨時変更などの報告がありました。
その会それぞれに幹事さんが変わるといろいろ運営方法も変わるものです(^^ゞ
こちらは、先生への謝礼から、「盆暮れ挨拶」などということまで事細かに書かれた決算報告書なども配布されます。
凄いネェ〜(^_^;
鎌倉は、私等が心配するほど丼勘定で・・・悪い意味ではなくて・・・新年の紅白饅頭の配布とか、300回記念のカレンダー製作とか、ですね。あれじゃ、幹事さんは持ち出しじゃないか?と気に罹るほどですが、特別なご報告もないので頂く物だけ頂いて知らん振りを決め込んでいました(^_^;・・・いいのかなぁ。


なかなか注をつけるまでに時間が掛かりそうなので、読みだけアップしますm(__)m

○三月小
○一日 庚寅。武衛被遣御下文於鎮西九國住人等之中。可追討平家之趣也。[ノの下に几]雖被召聚諸國軍兵。彼國々依令与同平氏。未奉歸往之故也。件御下文云。

 下 鎮西九國住人等
   可早爲鎌倉殿御家人且如本安堵且各[方亅]■追討平家賊徒事。
 右。彼國之輩皆悉[方亅]■。可追討朝敵之由。奉 院宣所仰下也。抑平家謀叛之間。去年追討使。東海道者遠江守義定朝臣。北陸道者左馬頭義仲朝臣。爲鎌倉殿御代官。兩人上洛之處也。兼又。義仲朝臣爲平家和議。謀反之条。不慮之次第也。仍 院宣之上。加私勘當。令追討彼義仲畢。然而平家令經廻四國之邊。動出浮近國之津泊。奪取人民之物。狼■不絶者也。於今者。云陸地云海上。遣官兵。不日可令追討也者。鎮西九國住人等。且如本安堵。且皆引■彼國官兵等。¥ウ知不日全勲功之賞矣。以下。
     壽永三年三月一日
   前右兵衛佐源朝臣

次四國之輩者。大畧以雖令與力平家。土佐國者。爲宗者奉通其志於關東之間。爲北條殿御奉。同遣御書。其詞云。
 下  土佐國大名國信。國元。助光入道等所
   可早源家有志輩同心合力追討平家事
 右當國大名并御方有志之武士。且企參上且同心合力。可追討平家之旨。被 宣下之上。依鎌倉殿仰。所令下知也。就中當時上洛御家人信恒可令下向。如舊令安堵。不可有狼藉。大名武士同心合力不可見放之状如件。¥ウ知敢勿違失。以下。
     壽永三年三月一日        平

[ノの下に几]→凡  ■→率  院宣所仰下也→院宣所仰也  加私勘當 →加勘黨
狼■不絶者也→狼喉不絶者・・・狼「唳」に近い字だが、要するに狼の遠吠えということを意味すると思うが
 ¥ウ知→≠ネし  且企參上→且企參

――三月小
――一日 庚寅。
――武衛、御下文を鎮西九國住人等之中(うち)に遣さる。
――平家を追討するべき之趣也。
――凡そ、諸國の軍兵を召聚(しょうしゅう)せらるると雖も、彼の國々、平氏与同せしむに依って、未だ歸往奉らず之故也。
――件の御下文に云く。

――下す 鎮西九國の住人等に
――早く鎌倉殿御家人爲(と)して、且(かつう)は本の如く安堵、且(かつう)は各々引率し平家の賊徒を追討すべきの事。・・・事書き
――右、彼國(かこく)之輩、皆悉く引率し、朝敵を追討すべき之由、院宣を奉り仰下さる所也。
――抑(そもそも)、平家謀叛之間、去んる年、追討使、東海道者(は)遠江の守義定朝臣、北陸道者(ほくろくどうは)左馬の頭義仲朝臣、鎌倉殿の御代官(ごだいかん)爲して、兩人上洛之處也。
――兼ねて又、義仲朝臣は平家と和議を爲し、謀反之条、不慮之次第也。
――仍って院宣之上、私の勘當を加へ、彼の義仲を追討せしめ畢(おわんぬ)。
――然而(しかれども)、平家は四國之邊りを經廻せしめ、動いて近國之津泊(つはく)を出浮し、人民之物を奪取し、狼唳絶えざる者也。・・・(ここは、ちょつと先生の解説が聞こえなくてm(__)m・・・狼■不絶者也→国文研では「狼喉不絶者」とありました。東鑑目録さんでは「狼唳」になってました。この■は「唳」に近い字だが、要するに狼の遠吠えということを意味すると思いますが・・・筆者)
――今に於いて者(は)、陸地と云ひ、海上と云ひ、官兵を遣わし、不日に追討せしむべき也と者(てへれば)、鎮西九國住人等、且(かつう)は本の如く安堵し、且(かつう)は皆、彼國(かこく)の官兵等を引率し、≠オく承知し不日に勲功之賞を全うせん。以って下す。・・・(本文では≠フ後に三の返り点があって、最後に読むようになっていますが、先生は↑のように最初にお読みになりました。そのほうが自然ですよね・・・筆者注
――壽永三年三月一日  前右兵衛佐源朝臣


――次に四國之輩者(は)、大畧(たいりゃく)を以って、平家に與力せしむと雖も、土佐の國者(は)、宗(むね)爲る者は、其の志を關東に通じ奉る之間、北條殿の御奉(おんたてまつり)爲して、同じく御書を遣す。其の詞(ことば)に云く。

――下す  土佐國の大名國信・國元・助光入道等の所
――早く源家の志有る輩を同心合力し、平家を追討すべき事
――右、當國大名、并びに御方に志有る之武士、且は參上を企て、且は同心合力し、平家を追討すべき之旨、被宣を被る之上、鎌倉殿の仰せに依って、下知せしむる所也。
――就中(なかんずく)、當時の上洛の御家人信恒、下向せしむべし。
――舊の如く安堵せしめ、狼藉有るべからず。
――大名・武士、同心合力し見放すべからざる之状、件の如し。
――≠オく承知し、敢て、違失勿(いしつな)かれ。以って下す。
―― 壽永三年三月一日        平


○二日 辛卯。三位中將重衡卿。自土肥次郎實平之許。渡源九郎主亭。實平依可赴西海也。

――二日 辛卯。
――三位中將重衡卿、土肥次郎實平之許自り、源九郎主の亭に渡る。・・・(国文研、源九郎主→源九郎
――實平西海に赴くへきに依って也。

○五日 甲午。去月於攝津國一谷被征罰平家之日。武藏國住人藤田三郎行康先登令討死訖。仍募其勲功賞。於彼遺跡。子息能國可傳領之旨。今日被仰下。御下文云。
 件行康。平家合戰之時。[ウ冠に取]前進出。被討取其身訖。仍彼跡所知所領等。無相違。男小三郎能國可令相傳知行之由<云々>。

――五日 甲午。
――去んぬる月、攝津の國一の谷に於いて、平家、征罰せらるる之日、武藏の國の住人藤田の三郎行康(ゆきやす)、先登(せんとう)の討死にせしめ訖(おわんぬ)。・・・(国文研版、平家之日→平家之月  平家合戰之時 →平家合戰時
――仍って、其の勲功の賞を募り、彼の遺跡に於いて、子息能國(よしくに)傳領すべき之旨、今日仰下さる。
――御下文に云く。
――件の行康は、平家合戰之時、最前に進み出で、其身を討ち取られ訖。・・・([ウ冠に取]→最
――仍って、彼の跡の所知所領等相違無く、男小三郎能國、相傳知行せしむべき之由と<云々>。


○六日 乙未。蒲冠者蒙御氣色[古の下に又]免許。日來頻依愁申之也。

――六日 乙未。
――蒲の冠者、御氣色(みけしき)を蒙り事を免許す。・・・([古の下に又]→事)
――日來、頻りに之を愁ひ申すに依って也。

○九日 戊戌。去月十八日 宣旨状到著鎌倉。是近日武士等寄[古の下に又]於朝敵追討。於諸國庄園打止乃貢。奪取人物。而彼輩募關東威歟。無左右難處罪科之由。公家内々有其沙汰<云々>。武衛依令傳聞之給下官全不案煩庶民之計。其事早可被糺行之由。被申請之<云々>。

 壽永三年二月十八日 宣旨
 近年以降。武士等不憚 皇憲恣耀私威。成自由下知。廻諸國七道。或押黷神社之神税。或奪取佛寺之佛聖。况院宮諸司及人領哉。天譴遂露。民憂無空。自今以後永從停止。敢莫更然。前[古の下に又]之存。後輩可慎。若於有由緒。散位源朝臣頼朝相訪子細。觸官言上不道行旨。猶令違犯者。専處罪科。不曾寛宥。
                          藏人頭左中辨兼皇后宮亮藤原光雅<奉>

――九日 戊戌。
――去んぬる月の十八日、 宣旨の状、鎌倉に到著す。
――是は近日、武士等、事を朝敵の追討に寄せ、諸國の庄園に於いて乃ち貢を打止め、人の物を奪い取る。([古の下に又]→事)(国文研版、武士等→武士輩)
――而るに彼の輩は關東の威を募る歟(か)。
――左右無く罪科に處し難き之由、公家は内々に其の沙汰有りと<云々>。
――武衛は之を傳へ聞しめし給ふに依って、下官は全く庶民の煩ふ之計いを案ぜず。
――其の事、早く糺し行わらるべき之由、之を申請さるると<云々>。

――壽永三年二月十八日 宣旨
――近年以降(このかた)、武士等 皇憲を憚らず、 恣(ほしいまま)に私威を耀かし、自由に下知を成し、諸國七道を廻り、或いは、神社之神税を押黷(おしけが)し、或いは佛寺之佛聖を奪い取る。
――况んや院宮諸司、及び人領においてお哉(や)。
――天譴(てんけん)遂に露(あらわ)れ、民の憂ひは空しきこと無し。
――自今以後、永く停止に從い、敢て、更然する莫し。・・・(国文研版永從停止 →永被停止)
――前事(ぜんじ)之存ずるは、後輩の慎しむべし。・・・([古の下に又]→事)
――若し由緒の有るに於いては、散位源朝臣頼朝、子細を相訪ね、官に觸れ、道行(みちゆき)せざるの旨、言上せよ。・・・「道行(みちゆき)」は、事が進行してしまうこと。
――猶、違犯せしむる者、専ら罪科に處し、曾て寛宥(かんゆう)せず。
――藏人の頭、左中辨、兼、皇后宮の亮、藤原光雅、<奉(うけたまわ)る>


この辺の読み下しは、返り点のままに読むと日本語的に?な所もある気がするんだけど・・・東鑑目録さんと比較してみてください


○十日 己亥。晴。三位中將重衡卿今日出京赴關東。梶原平三景時相具之。是武衛依令申請給也。今日。被召因幡國住人長田兵衛尉實經<後日改廣經>。賜二品御書云。右人同心平家之間。雖可罪科。父資經<高庭介也>。以藤七資家。伊豆國「迄」送[古の下に又]。至子々孫々更難忘。仍本知行所不可有相違者。去永暦御旅行之時。累代芳契之輩。或夭亡或以變々之上。爲左遷之身。敢無從之人。而實經奉副親族資家[古の下に又]。不思食忘之故也。

――十日 己亥。晴。
――三位中將重衡卿、今日、京を出で關東に赴く。
――梶原平三景時、之を相具す。是は武衛、申請せしめ給ふに依って也。
――今日、因幡の國の住人、長田の兵衛の尉、實經(さねつね)<後日、廣經と改む>を召さる。
――二品、御書を賜ひて云く。
――右の人、平家に同心する之間、罪科にべきと雖も、父資經(すけつね)<高庭の介也>。藤七資家を以って伊豆國「迄」送る事、子々孫々に至るまで更に忘れ難し。
――仍って本知行所相違有るべからざると者(てへり)。
――去んぬる永暦の御旅行之時、累代の芳契之輩、或いは夭亡し、或いは以って變々する之上、左遷之身と爲り、敢て、從ふ之人無し。
――而るに實經、親族の資家を副え奉るの事、思し食し忘れざる之故也。



○十三日 壬寅。尾張國住人原大夫高春依召參上。是故上総介廣常外甥也。又爲薩摩守忠度外甥。雖爲平氏恩顧。就廣常之好。背平相國。去治承四年馳參關東以来。偏存忠之處。去年廣常誅戮之後。成恐怖半面邊土。而今廣常無罪而賜死。潜有御後悔之間。彼親戚等多以免許。就中高春依有其功。本知行所領。如元令領掌之。可抽奉公之旨。被仰含<云々>。

――十三日 壬寅。
――尾張の國の住人、原の大夫高春、召しに依って參上す。
――是は故上総の介廣常の外甥也。
――又、薩摩守忠度の外甥爲り。・・・(国文研版、東鑑目録さん、忠度外甥→忠度外舅これは年から言っても甥でいいんじゃないですかね)
――平氏恩顧爲ると雖も、廣常之好(よしみ)に就き平相國に背き、去んぬる治承四年關東に馳參じて以来、偏へに忠を存ずる之處、去んぬる年、廣常の誅戮之後、恐怖を成し邊土に半面す。
――而るに今、廣常の罪無く死を賜ふ。
――潜かに御後悔有る之間、彼の親戚等、多く以って免許す。
――就中(なかんずく)、高春は其の功有るに依って、本知行の所領を元の如く之を領掌せしめ、奉公を抽すべき之旨、仰含めらると<云々>。・・・(国文研版、本知行所領→本知行所)


○十四日 癸卯。遠江國都田御厨。如元從神宮使。可致沙汰之由。被定下<云々>。

――十四日 癸卯。
――遠江の國、都田(みやこだ)の御厨、元の如く神宮の使ひに從ひ、沙汰致すべき之由、定め下さると<云々>。

○十七日 丙午。板垣三郎兼信飛脚去夜到來鎌倉。今日判官代邦通披露彼使者口状。其趣。應貴命。爲追討平家所赴西海。<去八日出京云云。>也。而適列御門葉。奉一方追討使。可爲本懐之處。實平乍相具此手。稱蒙各別仰。於事不加所談。剰云西海雑務。云軍士手分。不交兼信口入。獨可相計之由。頻結搆。始終爲如此者。頗可失勇心。居住西國之間。諸[古の下に又]兼信可爲上司之旨。賜御一行。欲當于眉目<云々>。此[古の下に又]曾無許容。不可依門葉。不可依家人。[ノの下に几]實平貞心者。難混傍輩之上。守眼代器。委付西國巨細訖。如兼信者。只向戦場。可弃命一段也。其猶以不可定。今申状可謂過分者。使者空走歸<云々>。

――十七日 丙午。
――板垣の三郎兼信の飛脚、去んぬる夜、鎌倉に到來す。
――今日、判官代、邦通、彼の使者の口状を披露す。
――其の趣は。
――貴命に應じて、平家に追討爲さんと西海に赴く所<去んぬる八日、出京と云同じ。>也。
――而るに適(たまたま)御門葉に列し、一方の追討使を奉り、本懐と爲すべき之處、實平は此手に相具し乍ら、各別の仰せを蒙ると稱して、事に於いて所談に加わらず、剰(あまつさえ)、西海の雑務と云ひ、軍士の手分と云ひ、兼信の口入(くにゅう)に交わず、獨り相計ふべき之由、頻りに結搆す。・・・「口入(くにゅう)」は指示
――始終、此くの如きを爲さ者(ば)、頗る勇心を失うべし。
――西國に居住する之間、諸事、兼信の上司爲るべき之旨、御一行(ごいっこう)を賜り、眉目に當たらんと欲すと<云々>。・・・「御一行(ごいっこう)」はお墨付き。・・・(国文研版、欲當于眉目→當于眉目)
――此の事、曾て許容無し。
――門葉に依るにべからず、家人に依るにべからず、凡そ實平の貞心者(は)、傍輩に混じ難き之上、眼代の器を守り、西國巨細を委付(いふ)し訖。・・・([ノの下に几]→凡)(国文研版、依門葉→依門築 、委付西國巨細→示付西國巨細 )
――兼信の如き者(は)、只、戦場に向(おもむ)き、命を弃つべき一段也。・・・(国文研版、可弃命一段也→可棄命一段也
――其れ猶以って定むべからず。
――今の申状、過分と謂ふべしと者(てへれば)、使者は空しく走り歸ると<云々>。

○十八日 丁未。武衛進發伊豆國給。是爲覽野出鹿也。下河邊庄司行平。同四郎政義。新田四郎忠常。愛甲三郎季隆。戸崎右馬允國延等。可爲御前之射手由被定<云々>。

――十八日 丁未。
――武衛、伊豆の國を進發し給ふ。
――是は野出(ので)の鹿を覧ずるが爲也。
――下河邊の庄司行平・同四郎政義・新田の四郎忠常・愛甲の三郎季隆・戸崎(こざき)右馬の允國延(くにのぶ)等、御前之射手(いて)爲るべきの由定めらると<云々>。・・・(国文研版、新田四郎→仁田四郎

○廿日 己酉。去夜着御北條。今日。大内冠者惟義可爲伊賀國守護之由。被仰付之<云々>。

――廿日 己酉。
――去んぬる夜、北條に着御す。・・・(国文研版、着御北條→著御北条
――今日、大内の冠者惟義(これよし)、伊賀の國守護爲るべき之由、之を仰に付めらると<云々>。


○廿二日 辛亥。大井兵衛次郎實春欲向伊勢國。是平家々人爲宗者。潜籠當國之旨。依有其聞。行向可征之由。令下知給之故也。

――廿二日 辛亥。
――大井の兵衛の次郎實春、伊勢の國に向かはんと欲す。・・・(国文研版、欲向伊勢國→預向伊勢國
――是は平家々人、宗(むね)爲る者、潜かに當國に籠ずる之旨、其の聞こえ有るに依って、行き向かひ征すべき之由、下知せしめ給ふ之故也。・・・(国文研版、平家々人爲宗者→平家人爲宗者)


○廿五日 甲寅。土肥次郎實平爲御使。於備中國行釐務。仍在廳散位藤原資親已下數輩還補本職。是爲平家失度者也。

――廿五日 甲寅。
――土肥の次郎實平は、御使(おんつかい)爲して、備中の國に於いて釐務(ぎむ)を行ふ。
――仍って在廳の散位藤原の資親(すけちか)已下(いか)數輩、本職を還補(かんぽ)す。
――是は平家の爲度(はからひ)を失ふ者也。

○廿七日 丙辰。三品羽林<重衡>着伊豆國府。境節武衛令坐北條給之間。景時以專使伺子細。早相具可參當所之由被仰。仍伴參。但明旦可遂面謁之由。被仰羽林<云々>。

――廿七日 丙辰。
――三品羽林<重衡>伊豆の國府に着す。・・・(国文研版、着伊豆國府→著伊豆國府)
――境節(きょうせつ)武衛は北條に坐せしめ給ふ之間、景時は、專使を以って子細を伺ふ。
――早く相具し當所に參ずべき之由、仰せらる。・・・(国文研版、北條→北条)
――仍って伴い參る。
――但し明旦(みょうたん)、面謁(めんえつ)を遂ぐべき之由、羽林に仰せらると<云々>。

○廿八日 丁巳。被請本三位中將<藍摺直垂。引立烏帽子。>於廊令謁給。仰云。且爲奉慰君御憤。且爲雪父尸骸之耻。試企石橋合戦以降。令對治平氏之逆乱如指掌。仍及面拜。不屑眉目也。此上者。謁槐門之[古の下に又]。亦無所疑歟者。羽林答申曰。源平爲天下警衛之處。頃年之間當家獨守朝廷之。許昇進者八十餘輩。思其繁榮者二十餘年也。而今運命之依縮。爲囚人參入上者。不能左右。携弓馬之者。爲敵被虜。強非耻辱。早可被處斬罪<云々>。無繊介之憚奉問答。聞者莫不感。其後被召預狩野介<云々>。今日就武家輩[古の下に又]。於自仙洞被仰下[古の下に又]者。不論是非可成敗。至武家帯道理[古の下に又]者。追可奏聞之旨被定<云々>。

――廿八日 丁巳。
――本三位中將<藍摺の直垂。引立烏帽子。>請ぜられて、廊に於いて謁せしめ給ふ。
――仰せて云く。
――且つうは君の御憤(おんいきどおり)を慰め奉らんが爲、且つうは父の尸骸(こがい)之耻(はじ)を雪がんが爲に、試みに石橋合戦を企てて以降(このかた)、平氏之逆乱に對治せしむること掌を指すが如し。
――仍って面拜(めんばい)に及ぶは不屑(ふびょう)の眉目(びもく)也。
――此上者(は)、槐門(かいもん)に謁する之事、亦、疑ふ所無き歟(か)と者(てへれば)、羽林答へ申して曰く。・・・(国文研版、亦無所疑歟者→亦無疑歟者)
――源平天下の警衛(けいえい)爲る之處、頃年(きょうねん)之間、當家獨り朝廷を守る。・・・(国文研版、當家獨守朝廷之→當家獨爲朝廷之計)
――昇進を許さる者八十餘輩、其の繁榮を思ふ者(は)二十餘年也。・・・(国文研版、許昇進者八十餘輩→昇進者、八十許輩
――而るに今、運命之縮むに依りて、囚人と爲り參入する上者(は)、左右に能わず。
――弓馬を携ふる之者、敵が爲に虜われるは強(あなが)ち耻辱に非ず。早く斬罪に處さるべしと<云々>。・・・(携弓馬之者の後→国文研版では、「携斬罪〈云云〉。」〜「無繊介之憚」の間に爲敵被虜。強非耻辱。早可被所斬罪<云々>。が抜けている。)
――繊介(せんかい)之憚り無く問答奉る。
――聞く者は感ぜざる莫し。
――其の後、狩野の介に召し預けらると<云々>。

――今日、武家の輩の事に就き、仙洞自り仰せ下せらる事に於いて者(は)、是非を論ぜず成敗すべし。
――武家の道理を帯する事に至ら者(ば)、追って奏聞すべき之旨、定らると<云々>。





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