表紙へ/古典継色紙へ

2007年2月10日(土)「吾妻鏡」  寿永3年4小月1日〜元暦元年4月20日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜


本日配布の資料説明
@ 「武蔵野」という会の機関誌で昭和48年に「中世東国武士団の一覧」という企画があったそうです。そのコピーを先生が許可を得てくださったそうで、ありがたや〜!凄いお宝企画です。先生も「古い資料でも役に立つと言う好例ですね」と嬉しそう。
A 鎌倉廃寺地図
B 「平家物語」の千手の前、頼盛の段

○四月小
○一日 己巳。自北條御歸着鎌倉。藤九郎盛長献盃酒入夜。於北面屋有此儀。召行平。政義。忠常。季隆。國延等於御前。給鹿皮。<各一枚。>去比於伊豆國所射取之鹿歟。

――四月小
――一日己巳。
――北條自り鎌倉に御歸着す。
――藤九郎盛長、盃酒を献ず。夜に入りて。・・・頼朝が帰着し、安達盛長が迎えて酒宴を張った。(国文研版、藤九郎盛長献盃酒入夜。→入夜於北面屋、有此儀。「入夜」の接続は国文研版の方が自然ですよねぇ(^_^;)
――北面の屋に於いて此の儀有り。・・・邸の図面がないが寝殿造りを想像させる。
――行平・政義・忠常・季隆・國延等を御前に召し鹿皮<各一枚。>給はる。・・・(ここで資料「中世東国武士団の一覧」の見方の説明がありました。)例。行平は下河辺氏、秀郷流太田氏。現代地名では野田市木野崎。それぞれに「姓氏家系大辞典」(太田亮博士著)・「大日本地名辞書」(吉田東伍博士著)の掲載ページが記載されています。両辞典とも中世史研究のための必携書。
筆者・・・発見!「東鑑目録」さんでは(各々三枚)になってました!参照してくださいm(__)m)
――去んぬる比(ころほひ)、伊豆國に於いて射ち取る所之鹿歟。


○三日 辛未。尾張國住人大屋中三安資。依有其功。如元管領所帯。剰可鎮國中狼唳之由。給御下文。筑前三郎奉行之。當國之輩悉以順平氏之處。安資、爲和田小太郎義盛之聟、獨候源家之間、如此〈云云〉。

――三日 辛未。
――尾張の國の住人、大屋中三安資、其の功有るに依って、元の如く所帯を管領す。・・・ここで、横浜吾妻鏡の会編集の「鎌倉御家人人名辞典」参照。大屋安資は尾張の国の武士。中三とか中三郎と称し、和田義盛の婿となった。墨俣川の激戦の時、勝った平家が熱田神宮に駐屯して鎌倉を狙った時に、危険を冒して墨俣の戦況を頼朝に知らせた。その功で頼朝から所領安堵をしてもらった。
――剰(あまつさえ)、國中の狼唳を鎮むべき之由、御下文を給ふ。
――筑前の三郎、之を奉行す。・・・筑前の三郎は、これも、横浜吾妻鏡の会編集の「鎌倉御家人人名辞典」参照。惟宗孝尚(これむねたかひさ)。「『吾妻鏡』元暦元年4月3日の條に初出。この時期、平家は屋島にあって、東國武士団の多くは西國に遠征中であったが、筑前三郎は鎌倉の頼朝に近侍し、東國諸国支配における下し文の奉行役として活躍していた――以下中略――孝尚は鎌倉草創期より執権泰時の新制度制定まで役五十年間にわたり、鎌倉政権の政所奉行として行政担当の能吏であったことが分かる」・・・(凄いですネェ!横浜の会の資料!!個別に担当が決まっていて、これは南部さんという女性が書かれたものです。・・・こんなの書いちゃっていいのかな(^_^;
――當國之輩は悉く以って平氏に順ずる之處、安資、和田の小太郎義盛之聟爲して、獨り源家に候ずる之間、此くの如きかと<云々>。・・・(国文研版、當國之悉以順平氏之處→當國者悉以順平氏之處、)


○四日 壬申。御亭庭櫻開敷艶色其濃也。仍被招請申大宮亮能保朝臣。相共終日令翫此花給。前少將時家接其座。又有管絃詠哥之儀。

――四日 壬申。
――御亭の庭の櫻、開き敷く、艶色は其れ濃(こまやか)也。・・・翌朝、御所の桜が開いた。
――仍って、大宮の亮、能保朝臣を招請申さるる。・・・能保は頼朝の母の妹の婿(ってことは叔父さんですね)。時家は平忠時の次男。忠時は宮廷平氏で、妹の時子は清盛の奥さんの二位の尼、後白河法皇の奥さんが平滋子でしたが、この滋子さんが死んで後白河と清盛はだんだん仲が悪くなる。忠時は時忠の後妻の讒言にあって、上総の国に流され、そこで廣常の知遇を得て娘婿になります。寿永元年に廣常の推挙で頼朝の側近になります。・・・(頼朝って、とにかく都の人が好きだったのよネェ〜♪自分は、今は鎌倉なんかに住んでいるけど、本当は都の人間なんだ!ってね都コンプレックスの塊だったんですよねぇ(^_^;筆者の呟き
・・・(国文研版は、大幅に違っていました→御亭庭櫻、開敷艶色也。仍宮亮能保朝臣、被招請申也。・・・中宮職亮と大宮職亮、どっちでしょう(^_^;)
――相共に終日此の花を翫(め)でしめ給ふ。
――前の少將時家其の座に接し、又、管絃の詠哥之儀有り。



○六日 甲戌。池前大納言并室家之領等者。載平氏没官領注文。自公家被下<云々>。而爲酬故池禪尼恩徳。申宥彼亞相勅勘給之上。以件家領卅四箇所。如元可爲彼家管領之旨。昨日有其沙汰。令辞之給。此内。於信濃國諏方社者。被相慱伊賀國六ヶ山<云々>。
    池大納言沙汰
 走井庄 <河内>     長田庄 <伊賀>
 野俣道庄 <伊勢>    木造庄 <同>
 在田庄 <播磨>     這田庄  <同>
 由良庄 <淡路>     弓削庄 <美作>
 佐伯庄 <備前>     山口庄 <但馬>
 矢野領 <伊与>     小嶋庄 <阿波>
 大岡庄 <駿河>     香椎庄 <筑前>
 安冨領 <筑前>     三原庄 <筑後>
 球[王摩]臼間野庄 <肥後>
 右庄園拾[シヒの下に木]箇所。載没官注文。自「於」院所給預也。然而如元爲彼家沙汰。爲有知行。勤状如件。
     壽永三年四月五日
    池大納言家沙汰
 布施庄 <播广>    龍門庄 <近江> 
 安摩庄 <安藝>    稲木庄 <尾張>
    已上有由緒<云々>
 野邊長原庄 <大和> 兵庫三ヶ庄 <摂津>
 石作庄 <播广>    六人部庄 <丹波>
 熊坂庄 <加賀>    宗像社  <筑前>
 三ヶ庄 <同>      真清田庄 <尾張>
 服織庄 <駿河>    國冨庄  <日向>
     已上八條院御領
 麻生大和田領<河内> 諏方社<信濃。被相博伊賀六ヶ山了。>
    已上女房御領
 右庄園拾陸箇所。注文如此。任本所之沙汰。彼家如元爲有知行。勤状如件。
    壽永三年四月六日

――六日 甲戌。
――池の前の大納言、并びに室家之領等者(は)、平氏の没官領(もっかんりょう)として注文を戴く。・・・「池の前の大納言」は頼盛。清盛の異母弟。頼盛は正妻の子であるので、清盛にも遠慮があった。清盛は祇園の女御の子であるとか諸説があるが、いずれにしても妾の子です。忠盛の正妻は修理大夫宗兼女。この人が池禪尼で頼朝の命乞いをした。
――公家自り下さると<云々>。
――而るに、故・池の禪尼の恩徳に酬(むく)いんが爲、彼の亞相の勅勘を申し宥(なだ)め給ふ之上、以って、件の家領(けりょう)卅四箇所、元の如く彼の家の管領爲るべき之旨、昨日其沙汰有り。・・・頼朝は池禪尼の恩を感じて、「彼の亞相」というのは頼盛の勅勘をなだめて、許されるようとりなした。
――辞せしめ給ふ。
――此内、信濃の國、諏方社(すわしゃ)に於いて者(は)、伊賀の國六ヶ山(むこやま)と相博(そうはく)せらると<云々>。・・・相博(そうはく)というのは、元の領地と交換したところもあった、ということ。「伊賀の國六ヶ山」は「六箇山」とも書き。三重県名張市一帯の大きな地。伊勢神宮領であった所。これを交換した、ということ。
 

    池の大納言家の沙汰
 走井(はしりい)の庄 <河内→大阪の枚方市> 長田(ながた)の庄 <伊賀→三重県上野の長田市>
 野俣道(のまたじ)の庄 <伊勢>        木造(こづくり)の庄 <同>
 在田(ありた)の庄 <播磨>          這田(はいた)の庄  <同>
 由良(ゆら)の庄 <淡路>            弓削(ゆげ)の庄 <美作→岡山県久米郡久米町>
 佐伯(さえき)の庄 <備前>           山口(やまぐち)の庄 <但馬>
 矢野の領(りょう)<伊与>            小嶋庄 <阿波>
 大岡(おおおか)の庄 <駿河>         香椎(かしい)の庄 <筑前>
 安冨領(やすとみりょう) <筑前>        三原(みはら)の庄 <筑後>
 球[王摩]臼間野庄 <肥後>
 
右の庄園拾七箇所。没官(もっかん)注文に載せ、院自り給わり預かる所也。然而(しかれども)、元の如く、彼の家の沙汰爲して、知行有らんが爲、状を勤(ろく)する件の如し。
     壽永三年四月五日
    池大納言家沙汰
 布施(ふせ)の庄 <播广>    龍門(りゅうもん)の庄 <近江> 
 安摩(あま)の庄 <安藝>    稲木(いなぎ)の庄 <尾張>
    已上、由緒有ると<云々>

 野邊長原(のべながはら)の庄 <大和>    兵庫と三ヶ(さんが)の庄 <摂津>
 石作(いしづくり)の庄 <播广>          六人部(むとべ)の庄 <丹波>
 熊坂(くまさか)の庄 <加賀>           宗像社(むなかたしゃ)  <筑前>
 三ヶ(さんが)の庄 <同>             真清田社(まさだしゃ) <尾張>
 服織(はとり)の庄 <駿河>            國冨(くにとみ)の庄  <日向>
     已上八條院の御領

 麻生(あそう)・大和田(おおわだ)の領<河内> 諏方社(すわしゃ)<信濃。伊賀六ヶ山を相博(そうはく)せられ了(おわんぬ)。>
    已上女房御領

 右の庄園、拾陸(16)箇所。注文此くの如し。本所之沙汰に任せて、彼の家、元の如く知行有らんが爲、状を勤(ろく)す、件の如し。
    壽永三年四月六日・・・まだ屋島・壇ノ浦の戦をする前だが、この段階で源平の勝敗は決着していた!

(筆者から・・・ここは、国文研版と大分違っているので、国文研のをそのまま載せてしまいます。・・・駄目かな(^_^;)

六日△甲成△池前大納言、並室家之領等者。載平氏没官領注文、自公家被下〈云云〉。而爲酬故池禪尼恩徳。申宥彼亞相勅勘給之上、以件家領三十四箇所、如元可爲彼家管領之旨、昨日有其沙汰、令辞之給。此内、於信濃國諏方社者、被相慱伊賀國六箇山〈云云〉。
池大納言沙汰、
走井庄〈河内〉△長田庄〈伊賀〉△野俣道庄〈伊勢〉
木造庄〈同〉△△石田庄〈播磨〉△建田庄〈同〉
由良庄〈淡路〉△弓削庄〈美作〉△佐伯庄〈備前〉
山口庄〈但馬〉△矢野領〈伊豫〉△小嶋庄〈阿波〉
大岡庄〈駿河〉△香椎社〈筑前〉△安冨領〈同〉
三原庄〈筑後〉△球■臼間野庄〈肥後〉
右庄園、拾七箇所、載没官注文、自於院所給預也。然而如元、爲彼家沙汰、爲有知行、勤状如件
△壽永三年四月五日
池大納言家沙汰。
布施庄〈播磨〉△△石作庄〈同〉△△六人部庄〈丹波〉
兵庫三箇庄〈攝津〉熊坂庄〈加賀〉△真清田庄〈尾張〉
服織庄〈駿河〉△△宗像社〈筑前〉△三箇庄〈同〉
國冨庄〈日向〉
已上八條院御領、麻生大和田領〈河内〉△△諏訪社〈信濃、被相慱伊賀六箇山了、〉△已上女房御領、
右庄園拾陸箇所注文如此、任本所之沙汰、彼家如
元爲有知行、勤状如件
△壽永三年四月六日



○八日 丙子。本三位中將自伊豆國來着鎌倉。仍武衛點[土郭]内屋一宇。被招入之。狩野介一族郎從等毎夜十人令結番守護之。

――八日 丙子。
――本三位中將、伊豆の國自り鎌倉に來着す。・・・重衡が鎌倉に到着します。
――仍って、武衛は郭内(かくない)の屋(おく)一宇(いちう)に點じ、之を招き入れらる。
――狩野の介一族郎從等、毎夜十人、結番せしめ之を守護す。・・・狩野氏の一族宗茂が世話をする。3月10日に京を出て伊豆の国府北條で頼朝と対面。その後鎌倉に向かった。


○十日 戊寅。源九郎使者自京都參着。去月廿七日有除目。武衛叙正四位下給之由申之。是義仲追討賞也。持參彼聞書。此[古の下に又]。藤原秀郷朝臣天慶三年三月九日自六位昇從下四位也。武衛御本位者從下五位也。被准彼例<云々>。亦依忠文<宇治民部卿。>之例。可有征夷将軍 宣下歟之由有其沙汰。而越階[古の下に又]者。彼時准據可然。於将軍[古の下に又]者。賜節刀被任軍監軍曹之時。被行除目歟。被載今度除目之條。似始置其官。無左右難被 宣下之由。依有諸卿群議。先叙位<云々>。

[古の下に又→事]
――十日 戊寅。
――源九郎の使者、京都自り參着す。
――去んぬる月の廿七日、除目あり。・・・3月27日の除目の報告が来た。
――武衛、正四位下に叙し給ふ之由、之を申す。・・・頼朝は正四位の下に任ぜられた、という。元は從五位下でした。
――是は、義仲追討の賞也。(国文研版、義仲追討→義仲追罰)
――彼の聞書(ききがき)を持參す。
――此の事は、藤原の秀郷朝臣、天慶三年三月九日、六位自り從下四位に昇る也。・・・「從下四位」は、本来は「從四位下」と表記するのに、從下四位と書いてあるのは、「平家物語」を写したか?
――武衛の御本位者(は)從下五位也。彼の例(ためし)に准じらるると<云々>。・・・これは藤原秀郷の例に倣った。
――亦、忠文<宇治民部卿。>之例に依りて、征夷将軍の宣下有るべき歟之由、其の沙汰有り。・・・征夷大将軍の宣下があっても、いいのではないか、という話も出たのに。
――而るに、越階の事者(は)、彼の時に准據して然るべし。
――将軍の事に於いて者(は)、節刀(せっとう)を賜り、軍監軍曹(ぐんかんぐんそう)に任せらるる之時、除目を行はるべき歟。・・・「節刀」というのは、武士が兵を出す時、帝から刀を賜るもので、そういう例を踏まなかった、ということで、今回は見送られた。
――今度の除目に戴せらる之條は、其の官を始めに置くに似たり。
――左右無く宣下せらる難き之由、諸卿の群議有るに依りて、先ず叙位すと<云々>。
・・・このへん、後白河法皇のリーダーシップもあるんだろうけど、鎌倉に権力を与えたくない都側の意図がよくわかりますよねぇ。頼朝は都人のつもりだろうけど、都の貴族連中からしたら、吾妻戎で武士なんて番犬だと思っているんでしょうから・・・筆者の呟き)

○十一日 己卯。快霽。新典廐<能保。去月廿七日任>。被參鶴岡八幡宮。是被申慶之由也。次被參謁御亭。

――十一日 己卯。快霽。・・・「快霽と快晴の違い」は雨が上がった後快晴になること。もとから快晴だったわけじゃない。
――新典廐<能保。去んぬる月の廿七日、任ず>。鶴岡八幡宮に参らる。・・・「典廐」は馬寮の長官。
――是は慶び申せらるる之由也。・・・(除目の時に叙任すると、あちこちに御礼に行ったり自慢しに行ったりします。これを「慶び申し」というのですが、先生からは特にそういう解説はなかったですけど・・・ここは動詞として扱っていいのかな(^_^;・・・筆者の呟き
――次いで御亭に參謁(さんえつ)せらる。


○十四日 壬午。源民部大夫光行。中宮大夫属入道善信<俗名康信。>等自京都參着。光行者。豐前々司光季属平家之間爲申宥之也。善信者本自其志在關東。仍連々有恩喚之故也。

――十四日 壬午。
――源の民部の大夫光行(みつゆき)・中宮の大夫属(さかん)の入道善信(ぜんしん)<俗名康信。>等、京都自り參着す。・・・「中宮大夫属入道善信」は三好善信。母は頼朝の乳母の妹。ずっと前から、京都の情報を送ってきて、頼朝の信も厚かった。初めて鎌倉に来た。10月20日に問注所が出来てその長官になる。民部大夫光行というのは、豊前の前司。
――光行者(は)、豐前の前司光季(みつすえ)、平家に属する之間、申し宥(ゆる)す爲也。
――善信者(は)、本自り其の志、關東に在り。
――仍って、連々に恩喚有る之故也。



○十五日 癸未。武衛參鶴岡給。被奉御供之後。於廻廊對面属入道善信給。令參住當所。可輔佐武家政務之由。及嚴密御約諾<云々>。于時光行推參彼所之間被止言談<云々>。善信者甚穩便者也。同道之仁頗有無法氣歟之由。内々被仰<云々>。

――十五日 癸未。
――武衛は鶴岡に参り給ふ。御供(ごく)奉らる之後、廻廊に於いて属の入道善信と對面し給ふ。・・・「御供(ごく)と御供(おんとも)」同じ字を書きますが、読みが違うと意味も違ってくる。「御供(おんとも)」は御家人が供につく。「御供(ごく)」はお供物のこと。
――當所に參住(さんじゅう)せしめ、武家政務を輔佐すべき之由、嚴密の御約諾に及ぶと<云々>。
――時に光行、彼の所に推參する之間、言談を止めらると<云々>。
――善信者(は)、甚だ穩便の者也。同道之仁、頗る無法の氣(け)、有る歟之由、内々仰せらると<云々>。
・・・頼朝は、善信に鎌倉にとどまって政務を助けよ、と懇請していた。そこへ、光行が押しかけてきたので、善信は話を聞かれないように巧くかわす。光行の無法ぶり。




元暦元年
元暦元年・四月十六日

○十六日 甲申。改元。改壽永三年爲元暦元年。

――十六日 甲申。改元。
――壽永三年を改め元暦元年と爲す。・・・寿永2年8月に安徳天皇から後鳥羽天皇に代わっていたが、なかなか改元ができなかつた。


○十八日 丙戌。依殊御願。仰下下総權守爲久。被奉圖繪正觀音像。爲久着束帶役之。潔齊已滿百日。今日奉始之<云々>。武衛又御精進讀誦觀音品給<云々>。

――十八日 丙戌。
――殊なる御願に依って、下総權の守爲久に仰せ下し、正觀音像の圖繪を奉らる。・・・「下総權守爲久」は絵師。
――爲久は束帶を着し之を役す。・・・先生から、「役之」の間に返り点の注意あり。爲久については、寿永3年1月22日参照
――潔齊、已に百日に滿つ。・・・・・・4月18日は「観音様の日」。伊豆山中でやむなく捨てた観音像を取り戻した日。1月22日に来て、今日は4月の18日ですから百日には満たないが特別の日。爲久は百日の潔斎をして聖観音像を描く。
――今日、之を始めて奉ると<云々>。
――武衛、又、御精進し、觀音品(かんのんぼん)を、讀誦(とくしょう)し給ふと<云々>


○廿日 戊子。雨降。終日不休止。本三位中將依武衛御免有沐浴之儀。其後及秉燭之期。稱爲慰徒然。被遣藤判官代邦通。工藤一臈祐經。并官女一人<号千手前。>等於羽林之方。剰被副送竹葉上林已下。羽林殊喜悦。遊興移尅。祐經打鼓歌今様。女房彈琵琶。羽林和横笛。先吹五常樂。爲下官。以之可爲後生樂由稱之。次吹皇[鹿の下に章]急。謂徃生急。[ノの下に几]於[古の下に又]莫不催興。及夜半。女房欲皈。羽林暫抑留之。与盃及朗詠。燭暗數行虞氏涙。夜深四面楚歌聲<云々>。其後各皈參御前。武衛令問酒宴次第給。邦通申云。羽林。云言語。云藝能。尤以幽美也。以五常樂謂後生樂。以皇[鹿の下に章]急号徃生急。是皆有其由歟。樂名之中。廻忽者。元書廻骨。大國葬礼之時調此樂<云々>。吾爲囚人待被誅條。存在旦暮由之故歟。又女房欲皈之程。猶詠四面楚歌句。彼項羽過呉之事[古の下に又→事]。折節思出故歟之由申之。武衛殊令感[古の下に又→事]之躰給。依憚世上之聞。吾不臨其座。爲恨之由、被仰<云々>。武衛又令持宿衣一領於千手前。更被送遣。其上以祐經。邊鄙士女還可有其興歟。御在國之程可被召置之由。被仰之<云々>。祐經頻憐羽林。是往年候小松内府之時。常見此羽林之間于今不忘舊好歟。

――廿日 戊子。
――雨降る。終日休止せず。
――本三位中將、武衛の御免に依り沐浴之儀有り。・・・重衡に沐浴の許可を出す。
――其の後、秉燭(ていしょく)之期(ご)に及び、徒然を慰めんが爲と稱して、藤の判官代邦通・工藤一臈祐經・并びに官女一人<千手前と号す。>等を羽林之方に遣わさる。・・・その後、邦道・祐経・官女と酒宴。邦道は頼朝の眼となった公卿。
――剰(あまつさえ)、竹葉上林已下(ちくようじょうりんいか)を副送せらる。・・・「竹葉(ちくよう)」はお酒。「上林(じょうりん)」は果物。もともと上林園(じょうりんえん)という所で採れる果実、と言う意味。
――羽林、殊に喜悦す。
――遊興は尅(とき)を移す。
――祐經は、鼓を打ち今様を歌う。・・・工藤祐経は曾我兄弟に討たれてしまうが、もともとは文武に優れた趣味仁。今様を歌って鼓を打つ。
――女房は琵琶を彈き、羽林は横笛を和す。・・・官女は千手の前、琵琶を弾く。重衡は横笛を吹く。
――先ず五常樂(ごじょうらく)を吹き、下官の爲には、之を以って後生樂(ごしょうらく)と爲すべきの由、之を稱す。・・・重衡は「五常樂」を吹き、これは自分のためには「後生樂」となるものだ、と言う。
――次いで、皇[鹿の下に章]急(おうじょうきゅう)を吹き、徃生急と謂ふ。・・・同じく「皇[鹿の下に章]急(おうじょうきゅう)」は「徃生急」だと言う。もう、既に死を覚悟しているる
――凡そ、事に於いて興を催さざるは莫し。
――夜半に及び、女房は皈(帰)らんと欲す。
――羽林、暫く之を抑留し、盃を与え朗詠に及ぶ。・・・(国文研版、盃及朗詠→盃及朗詠)
――『燭暗ふして數行虞氏の涙。夜深ふして四面楚歌の聲<云々>。』・・・「項羽と虞美人」の最後の歌を歌う。
――其の後、各(おのおの)御前に皈參す。
――武衛は酒宴の次第を問わしめ給ふ。・・・頼朝は邦道らに酒宴の様子を聞く。・・・(それを聞きたいがために寝ないで待ってるのです・・・いじらしい♪・・・筆者の呟き)
――邦通、申して云く。
――羽林は、言語と云ひ、藝能と云ひ、尤も以って幽美也。
――五常樂を以って後生樂と謂ふ。皇[鹿の下に章]急(おうじょうきゅう)を以って徃生急と号す。是は、皆、其の由有らん歟。
――樂名之中(うち)、廻忽者(かいこつは)、元、廻骨(かいこつ)と書す。大國の葬礼之時、此の樂を調すと<云々>。
――吾は囚人爲して、誅せらるを待つの條、旦暮在る由を存ずる之故歟。
――又、女房皈(帰)らんと欲する之程、猶、四面楚歌の句を詠ず。彼の項羽の呉を過ぎる之事、折節、思ひ出だす故歟之由、之を申す。・・・(国文研版、彼項羽過之事→彼項羽過之事)
――武衛は殊に事之躰を感ぜしめ給ふ。
――世上之聞こえを憚かるに依って、吾は其の座に臨まずを、恨み爲る之由、仰せらると<云々>。・・・重衡の都人としてのセンスや武士としての覚悟の程を聞き、その宴に出なかったことを悔やむ(この重衡の潔さは「平家物語」の聞かせどころになっている。)
――武衛は又、宿衣一領を千手前に持たせしめ、更に送り遣わさる。・・・「宿衣(しゅくえ)」は寝巻き、パジャマ。パジャマを持たせて、また千手の前を重衡のところに送った。
――其上、祐經を以って、邊鄙の士女も還って、其の興有るへき歟、御在國之程は召し置かるべき之由、之を仰せらると<云々>。・・・その上、こんな田舎の女性もかえって良いところもあるだろろうから、鎌倉にいる間は使って良いよ、と祐経を通して言わせた。
――祐經、頻りに羽林を憐れむ。
――是は往年、小松の内府に候ずる之時、常に此の羽林を見る之間、今に舊好を忘れず歟。・・・祐経は、もともと京都で小松の重盛に仕えていたこともあり、そのことを思い出して特別な感慨がある。
小松殿に仕えていた、というだけで、趣味教養豊かで、情けを知る武士、というシチュエーションが成り立っている、と思うんですよ。少なくとも「平家物語」の方では、吾妻鏡が平家物語から多大な影響を受けているとすれば、このあたりは、全くそのまま平家物語の世界゛しょうね。・・・筆者の感想)

[ノの下に几→凡]
[古の下に又→事]




表紙へ/古典継色紙へ