吾妻鏡用ノート

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4月14日(土)「吾妻鏡」三 元暦元年5月大19日〜6月27日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

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この日はまたも眩暈を起こして欠席でしたm(__)m
ゆえにおばさんの勝手にシンドバッドの日です(^_^;まあ、先月5月いっぱいまでは先生の読みを伺えたので、六月が(^^ゞポリポリです。
読み方はけっこう慣れているつもりですが、返り点の打ち方が、「東鑑目録」さんの所とはちょっと違っていたりします。私は、国史大系の返り点のままで読んで、自分でも「?」という所もありますが、まあ、日本的漢文なので、どっちでもいいかぁ、となってきてしまいましたm(__)m
変だな?と思われる方は、いつも言うように、「東鑑目録」さんや、「吾妻鏡入門さんを確認してくださいませm(__)m

○十九日丙午。武衛相伴池亞相<頼盛>。<此程在鎌倉。>右典厩<一條能保>等。逍遥海濱給。自由比浦御乗船。令着杜戸岸給。御家人等面々餝舟舩。海路之間。各取棹爭前途。其儀殊有興也。於杜戸松樹下有小笠懸。是土風也。非此儀者。不可有他見物之由。武衛被仰之。客等太入興<云々>。

――十九日丙午。
――武衛、池の亞相<此の程鎌倉に在り>・右典厩<一條能保>等を相い伴ひ、海濱を逍遥し給ふ。・・・(国文研版では<頼盛>、<一條能保>の註はなし)
――由比の浦より御乗船し、杜戸(もりと)の岸に着ししめ給ふ。
――御家人等、面々舟舩に餝し、海路之間、各(おのおの)棹を取り前途を爭ふ。
――其の儀、殊に興有る也。
――杜戸の松樹(しょうじゅ)の下に於いて、小笠懸(おかさがけ)有り。
――是は士風也。・・・(士風→国文研版では、風)
――此の儀に非ざれ者(ば)、他に見物有るべからず之由、武衛仰せらる。
――客等、太(はなは)だ興に入ると<云々>。

池殿―頼盛が鎌倉に来てます(^^ゞ頼盛は、清盛の異母弟ですが、正室腹ということもあってか、仲が悪かったそうです。おまけに、その正室が頼朝の命乞いをして頼朝は大いに恩を感じて、池殿は粗略に思わぬ、とかなんとかしょっちゅう手紙なんぞ出していたらしい。だから、と言って、頼盛がすんなり平家を見限るのは?なんですが・・・そのへん、やはり平家内部の権力闘争があったのでしょうねぇ(^_^;
その辺のところ、「平家物語転読―第五回終曲と残影―」で書きましたので、参考にしていただけるといいかな、と(^^ゞ)

○廿一日 戊申。武衛被遣御書於泰經朝臣。是池前大納言。同息男。可被還任本官[古の下に又]。并御一族源氏之中。範頼。廣綱。義信等可被聽一州國司[古の下に又]。内々可被計奏聞之趣也。大夫属入道書此御書。付雜色鶴太郎<云々>。

[古の下に又]→事
――廿一日 戊申。
――武衛、御書を泰經朝臣に遣わさる。
――是は池の前の大納言・同息男、本官に還り任ぜらるべき事、并びに、御一族源氏之中(うち)、範頼・廣綱・義信等、一州の國司を聽(ゆる)さるべき事、内々、計らるるべき奏聞之趣(おもむき)也。・・・(東鑑目録さんのテキストとは、ちょつと返り点の打ち方が違うらしいです(^_^;)
――大夫属(だゆうのさかん)入道<善信>、此の御書を書き、雜色鶴太郎に付すと<云々>。・・・(国文研版では<善信>なし)


○廿四日 辛亥。左衛門尉藤原朝綱拜領伊賀國壬生野郷地頭職。是日來雖仕平家。懇志在關東之間。潜遁出都參上。募其功。宇都宮社務職無相違之上。重被加新恩<云々>。


――廿四日 辛亥。
――左衛門の尉藤原朝綱、伊賀の國、壬生野(みぶなの)の郷の地頭職を拜領す。・・・(藤原朝綱→国文研版では藤朝綱)
――是は日來(ひごろ)、平家に仕えると雖も、懇志は關東に在る之間、潜かに都を遁出し參上す。
――其の功を募り、宇都宮社務職相違無き之上、重ねて新恩を加へらると<云々>。

○六月小
○一日 戊午。武衛招請池前亞相給。是近日可有皈洛之間。爲餞別也。右典厩并前少將時家等在御前。先三献。其後數巡。又相互被談世上雜事等。小山小四郎朝政。三浦介義澄。結城七郎朝光。下河邊庄司行平。畠山次郎重忠。橘右馬允公長。足立右馬允遠元。八田四郎知家。後藤新兵衛尉基清等。應召候御前簀子。是皆馴京都之輩也。次有御[方」]出物。先金作劔一腰。時家朝臣傳之。次砂金一[果の下に衣]。安藝介[イ殳]之。次被[方」]鞍馬十疋。其後召客之扈從者。又欲賜引出物。武衛先召弥平左衛門尉宗清。<左衛門尉季宗男。>平家一族也。是亞相下着最初。被尋申之處。依病起遅留之由。被答申之間。定今者令下向歟之由。令思案給之故歟。而未參着之旨。亞相被申之。太違亭主御本意<云々>。此宗清者。池禪尼侍也。平治有[古の下に又]之刻。奉懸志於武衛。仍爲報謝其[古の下に又]。相具可下向給之由。被仰送之間。亞相城外之日。示此趣於宗清之處。宗清云。令向戦場給者。進可候先陣。而倩案關東之招[方」]。爲被酬當初奉公歟。平家零落之今參向之條。尤稱恥存之由。直參屋嶋前内府<云々>。

互は俗字が書いてある
[イ殳]→役  [方」]→引  [古の下に又]→事
  
 
――六月小
――一日 戊午。
――武衛、池の前の亞相を招請し給ふ。
――是は近日、皈洛有るべき之間、餞別の爲也。
――右典厩、并びに前の少將時家等、御前に在り。
――先ず三献。其の後、數巡し、又、相互に世上の雜事等を談ぜらる。
――小山の小四郎朝政・三浦の介義澄・結城の七郎朝光・下河邊の庄司行平・畠山の次郎重忠・橘の右馬允公長・足立の右馬允遠元・八田の四郎知家・後藤新兵衛の尉基清等、召しに應じて御前の簀子に候ふ。
――是は皆、京都に馴れる之輩也。
――次いで、御引き出物有り。
――先ず金作りの劔(つるぎ)一腰。時家朝臣之を傳ふ。
――次に砂金一嚢(のう)。安藝の介、之を役す。・・・(次砂金一[果の下に衣]→国文研版砂金一裹)
――次いで、鞍馬十疋引かるる。
――其の後、客之扈從者を召し、又、引き出物を賜わらんと欲す。・・・(又欲賜[方」]出物→国文研版では、又賜引出物)
――武衛は、先ず弥平左衛門の尉宗清<左衛門尉季宗の男。>を召す。平家の一族也。
――是は、亞相、下着して最初に尋ね申さるる之處、病い起こるに依って遅留之由、答へ申さるる之間、定めて今者(は)下向せしむ歟(か)之由、思案せしめ給ふ之故歟。・・・(依病起遅留之由→国文研版では、依病遅留之由)
――而るに未だ參着せざる之旨、亞相之を申されて、太だ亭主の御本意に違ふと<云々>。
――此の宗清者(は)、池の禪尼の侍也。
――平治に事有之刻、武衛に志を懸け奉る。
――仍って、其の事に報謝せんが爲、相具して下向し給ふべき之由、仰せ送らるる之間、亞相城外之日、此の趣を宗清に示す之處、宗清云く、戦場に向かいしめ給者(たまはば)、進んで先陣候べし。・・・(宗清之處→宗清處)
――而るに、倩じて關東之招引を案じ、當初の奉公に報われたる歟(や)。
――平家零落之今、參向する之條、尤も恥存之由と稱し、直ちに屋嶋の前の内府に參ると<云々>。

この宗清さんは、歌舞伎好きなら、すぐピンと来るはず♪「熊谷陣屋」のあのおじいさん=弥陀六さん(^^ゞ義経に呼び止められて、「エ〜、宗清さん、宗清さん、大将様がお呼びじゃが、はて、どちらにおいでかな?」てなこと言って空とぼけようとするんだけど、正体バレバレで、ウーム、平治のあの時、頼朝を助けたは一代の不覚〜(>_<)と、大見得切るんでした(^^ゞこういう記事が残っている所を戯作者はちゃんと見ているんですよね・・・凄い!
それにしても、家来にこう言われては、頼盛もどう思ったのかな(^_^;それをまたノメノメとここで披露するのもなんだかなぁ・・・(^_^;)



○四日 辛酉。石河兵衛判官代義資參着關東。可致朝夕官仕之由申之。是去養和元年爲平家所被生虜之河内源氏隨一也。近年者又爲義仲被襲。太失度<云々>。而依武衛被執申之免[来力]勘。去三月二日。右兵衛尉如元之由。被宣下<云々>。

[来力]→勅
  
――四日 辛酉。
――石河の兵衛、判官代義資、關東に參着す。
――朝夕官仕致すべき之由、之を申す。
――是は去んぬる養和元年、平家の爲生け虜らるる所之河内源氏の隨一也。
――近年者、又、義仲の爲襲われ、太だ度(はから)ひを失ふと<云々>。
――而るに武衛に依って、執り申さらるるに依って勅勘を免じ、去んぬる三月二日、右兵衛の尉、元の如く之由、宣下さるると<云々>。・・・(去三月二日→三月二日)


○五日 壬戌。池前大納言被皈洛。武衛令辞庄園於亞相給之上。逗留之間。連日竹葉勸宴酔。塩梅調鼎味。所被献之「又」金銀盡數。錦綉重色者也。

(亞相給之上→亞相給之上)
――五日 壬戌。
――池の前の大納言皈洛せらる。
――武衛、亞相に庄園を辞せ令め給ふ之上、逗留之間、連日、竹葉宴酔を勸め、塩梅鼎味を調へ、献ざらるる所之、又金銀數を盡くし、錦綉色を重ねる者也。


○十六日 癸酉。一條次郎忠頼振威勢之餘。插濫世志之由有其聞。武衛又令察之給之。仍今日於營中所被誅也。及晩景。武衛出于西侍給。忠頼依召參入。候于對座宿老御家人數輩列座。有献盃之儀。工藤一臈祐經取銚子。進御前。是兼被定于其討手訖。而對于殊武將。忽決雌雄之條。爲重[古の下に又]之間。聊令思案歟。顔色頗令變。小山田別當有重見彼形勢起座。如此御[木夕]者。称可爲老者之[イ殳]取祐經所持之銚子。爰子息、稲毛三郎重成。同弟榛谷四郎重朝等持盃肴物。進寄于忠頼之前。有重訓兩息云。陪膳之故實者上括也者。閣所持物。結括之時。天野藤内遠景承別仰。取太刀進於忠頼之左方。早誅戮畢。此時武衛開御後之障子。令入給<云々>。其後。忠頼共侍新平太。并同甥武藤与一及山村小太郎等。自地下見主人伏死。面々取太刀。奔昇于侍之上。縡起於楚忽。伺候之輩騒動。多爲件三人被疵<云々>。既參于寝殿近々。重成。重朝。結城七郎朝光等相戰之。討取新平太。与一畢。山村者擬戰遠景。々々相隔一ヶ間。取魚板打之。山村顛倒于縁下之間。遠景郎從獲其首<云々>。



(而對于殊武將→于なし)
[古の下に又]→事
[木夕]→杓
[イ殳]→役

――十六日 癸酉。
――一條の次郎忠頼、威勢を振るう之餘り、世を濫す志、插(さ)すか之由、其の聞こえ有り。
――武衛、又、察ししめ給ふ。・・・(武衛又令察給之→国文研版では、武衛又令察給之)
――仍って今日、營中に於いて誅せらる所也。
――晩景に及び、武衛、西侍に出で給ふ。
――忠頼、召に依って參入し對座に候ふ。
――宿老・御家人、數輩列座す。・・・(候于對座宿老→候畢。對座宿老)
――献盃之儀有り。
――工藤の一臈祐經、銚子を取り、御前に進む。
――是は、兼ねて其の討手と定められ訖。
――而るに、殊なる武將に對し、忽ち雌雄を決す之條、重事爲る之間、聊か思案せしむる歟、顔色頗る變わらしむ。
――小山田の別當有重、彼の形勢を見るに起座し、此の如き御杓者(は)、老者之役爲るべしと称し、祐經持つ所之銚子を取る。
――爰に子息、稲毛の三郎重成・同弟榛谷の四郎重朝等、盃肴の物を持ち、忠頼之前に進み寄る。
――有重の兩息に訓じて云く。
――陪膳之故實(ばいぜんのこじつ)者(は)上括也者(とてへれば)、持つ所の物を閣し、括り結う之時、天野の藤内遠景、別仰を承り、太刀を取り、忠頼之左方に進んで、早く誅戮(ちゅうりく)し畢(おわんぬ)。・・・(「陪膳之故實者上括也」って、たぶん出典があるんでしょうね。とにかく、其の一言を合図に持っていた銚子や杯を投げ上げて袖を括り挙げた、ということですよね。で、それを見た別の仰せを受けていた遠景が忠頼之の左側にサッと進んで一太刀?で射止めた、ってことですよね・・・筆者の想像
――此の時、武衛、御後之障子を開き、入りしめ給ふと<云々>。
――其の後、忠頼共侍、新平太・并びに同甥武藤の与一・及び山村の小太郎等、地下自り、主人伏死(ふくし)するを見て、面々、太刀を取り、侍之上に奔り昇る。
――縡、楚忽に起きたる伺候之輩(やから)騒動す。多く件の三人が爲、疵を被ると<云々>。
――既に寝殿の近々に參り、重成・重朝・結城の七郎朝光等、相戰い新平太・与一を討取り畢(おわんぬ)。
――山村者(は)と戰はんと擬す。遠景、一ヶ間を相隔て、魚板<まないた>を取り之を打つ。・・・「一ヶ間」って一間(いっけん)かな・・・?
――山村、縁下に顛倒する之間、遠景の郎從、其の首を獲ると<云々>。


○十七日 甲戌。召鮫嶋四郎於御前。令切右手指給。是昨夕騒動之間。有御方討罪科之故也。

――十七日 甲戌。
――鮫嶋の四郎を御前に召し、右手指を切らしめ給ふ。
――是は昨夕騒動之間、御方を討つの罪科有る之故也。


○十八日 乙亥。故一條次郎忠頼家人甲斐小四郎秋家被召出。是堪歌舞曲之者也。仍武衛施芳情。可致官仕之由。被仰出<云々>。

――十八日 乙亥。
――故一條の次郎忠頼の家人、甲斐の小四郎秋家、召出さる。是は歌舞の曲に堪える之者也。
――仍って武衛、芳情を施し、官仕致すべき之由、仰せ出さると<云々>。


○廿日 丁丑。去五日被行小除目。其除書今日到來。武衛令申給任人[古の下に又]無相違。所謂權大納言平頼盛。侍從同光盛。河内守同保業。讃岐守藤能保。參河守源範頼。駿河守同廣綱、武藏守同義信<云々>。

[古の下に又]→事

――廿日 丁丑。
――去んぬる五日、小除目行はる。其の除書、今日到來す。
――武衛、申せしめ給ふ任人の事相違無し。
――所謂(いわゆる)權の大納言平頼盛・侍從同光盛・河内の守同保業(やすなり)・讃岐の守藤能保(とうのよしやす)・參河(みかわ)の守源範頼・駿河の守同廣綱・武藏の守同義信と<云々>。・・・(權大納言平頼盛→国文研版、平なし)


○廿一日 戊寅。武衛召聚範頼。義信。廣綱等有勸盃。次被觸仰除目事。各令喜悦歟。就中。源九郎主頻雖望官途吹擧。武衛敢不被許容。先被擧申蒲冠者之間。殊悦其厚恩<云々>。

――廿一日 戊寅。
――武衛、範頼・義信・廣綱等を召し聚(あつ)め、勸盃有り。
――次いで、除目の事に觸れ仰せらる。
――各(おのおの)喜悦せしむる歟(か)。
――就中(なかんずく)、源九郎主、頻りに官途の吹擧(すいきょ)を望むと雖も、武衛、敢て許容せられず、先ず蒲の冠者を擧げ申さるる之間、殊に其の厚恩に悦ぶと<云々>。
(・・・そ〜ら来た!頼朝の義経苛めだよ〜ん(^_^;義経の武勇は頼朝にとって、けっこう脅威になって来ています。なんたって、まだ関東武士は戦上手が偉い!と思っている気風がありますから、関東武士団が戦上手の義経に靡くことを心配しているのでしょうね。
でも、現実は、関東武士団も、そう、馬鹿ではないから、時代が頼朝のように自分は闘わなくとも、戰上手を使って戦略と策略で全国制覇を目指す武将もいる、ということを理解してきているのですよね・・・それにしても、こういう苛めというか挑発に乗っちゃうところが、義経の甘いところなんだけど・・・筆者の(´∧`)〜ハァー)


○廿三日 庚辰。片切太郎爲安自信濃國被召出之。殊令憐愍給。是父小八郎大夫者。平治逆乱之時。爲故左典厩<義朝>御共之間。片切郷者。爲平氏被收公。已廿餘年空手。仍今日如元可領掌之由。被仰<云々>。

――廿三日 庚辰。
――片切の太郎爲安、信濃の國自り召し出さる。
――之。
――殊に憐愍せしめ給ふ。
――是、父小八郎大夫者(は)、平治逆乱之時、故左典厩<義朝>御共爲る之間、片切郷者(は)、平氏の爲收公せられ、已に廿餘年、手を空しうす。
――仍って、今日、元の如く領掌すへきの之由、仰せらると<云々>。

○廿七日 甲申。堀藤次親家郎從被梟首。是依御臺所御憤也。去四月之比。爲御使討志水冠者之故也。其[古の下に又]已後。姫公御哀傷之餘。已沈病床給。追日憔悴。諸人莫不驚騒。依志水誅戮[古の下に又]。有此御病。偏起於彼男之不儀。縱雖奉仰。内々不啓子細於姫公御方哉之由。御臺所強憤申給之間。武衛不能遁逃。還以被處斬罪<云々>。

[古の下に又]→事
――廿七日 甲申。
――堀の藤次親家の郎從、梟首せらる。
――是、御臺所の御憤りに依って也。
――去んぬる四月之比(ころほひ)、御使爲して志水の冠者を討つ之故也。(四月之比→国文研版では四月之比)
――其の事已後、姫公、御哀傷之餘り、已に病床に沈み給ひ、日を追って憔悴し、諸人驚騒(きょうそう)せざる莫し。
――志水誅戮の事に依り、此の御病有り。偏へに彼の男之不儀に起きる。
――縱え仰せを奉ると雖も、内々、子細を姫公の御方に啓さざる哉之由、御臺所、強く憤り申し給ふ之間、武衛、遁逃するに能わず、還って以って斬罪に處せらるると<云々>。(不能遁逃→国文研版では不能遁申迯


・・・なんとまあ・・・すまじきものは宮仕え!ですよねぇ(^_^;堀の藤次の郎從だって、好き好んで志水義高を討った訳じゃないですよ(^_^;
勿論、討ち取れば褒美を貰える、とは思ったでしょうけど・・・まさか、こんな褒美とは、ねぇ(^_^;
親分の堀氏だって面白くはないでしょう(^_^;
勿論、政子の言い分も分かります!内々に自分にだけでも耳打ちしてくれれば、何とか助けることも出来たに違いない、という気持ちはあるだろうけどさ・・・。坊主にするなりなんなりで・・・。でも、頼朝は、池の禪尼が自分を助けたおかげで平家がどうなった、ということを、よっくわきまえていますから、どっちみち助けはしないよね(^_^;ただ、この時直ぐ討ったか、どうかまでは分かりませんけど・・・。
それにしても、大姫の女としての情念て凄いですよね(*^-^*)だって、この時、まだ6歳or5歳!!
前回も書きましたけど、大姫の年齢は不詳で、つまり生まれた年が分からないらしい・・・治承2年(1178)か3年(1179)か、と言う所らしいです。そうすると、元暦元年(1184)のこの時は・・・人生はいろんな事があるんですよね!!



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