吾妻鏡用ノート

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5月12日(土)「吾妻鏡」三 元暦元年7月大2日〜8月大13日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

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○七月大
○二日 戊子。成就院僧正房使者。去夜戌尅參著。是寂樂寺僧徒令乱入高野山領紀伊國阿弖河庄。致非法狼藉之由。依訴申也。則進覧當山結界繪圖。并大師御手印案文等。筑後權守俊兼於御前釋申之。[ノの下に几]吾朝弘法者。併爲大師聖跡之由。武衛有御信仰之間。不日被經沙汰。可止狼藉之旨。被下御書。其状云。
 下 紀伊國阿弖河庄
   可早停止旁狼籍。如舊爲高野金剛峯寺領[古の下に又]
 右件庄者。大師御手印官府内庄也。而今自寂樂寺。致濫妨<云々>。[古の下に又]實不穩便事歟。御手印内。誰可成異論哉。早停止彼妨。如舊可爲金剛峯寺領之状如件。以下。
     元暦元年七月二日

[ノの下に几]→凡  [古の下に又]→事

([古の下に又]實者→事實、)
――七月大
――二日 戊子。
――成就院(じょうじゅいん)、僧正房の使者、去んぬる夜、戌の尅、參著す。・・・成就院は京都山科の高野山に関係する寺院。戌の尅は午後八時頃。
――是は、寂樂寺(じょうらくじ)僧徒、高野山領紀伊國阿弖河の庄に乱入せしめ、非法狼藉を致す之由、訴え申すに依りて也。
・・・寂樂寺は紀伊の国有田郡。喜多院寂樂寺という、元は個人の建立によるが、いつの間にか高野山の傘下に入れられてしまった。
・・・「阿弖河(あでがわ)の庄」は8〜9世紀頃に朝廷(国家)が、高野山の荘園として認めた由緒あるところ。荘園の地域は、有田の大部分を占める程広いが耕作地というより山岳地。
――則ち當山の結界繪圖(けっかいえず)、并びに大師の御手印(ごていん)の案文(あんもん)等を進覧す。
・・・「結界繪圖」というのは、寺院などでは、ふつうの寺院の区域ではない、一般の場所と区切った絵図がある。修行をしたりする所。金沢文庫称名寺の絵図は国宝。
・・・「大師の御手印」・・・弘法大師の手形を押した。「案文」というのは写しというかコピー。本物ではない。
――筑後權の守、俊兼、御前に於いて、之を釋(と)き申す。・・・「釋(と)き申す」は解説した。藤原俊兼はもとは京都の文官だが、鎌倉に下って頼朝の側近となる。洒落者で服装が華美の余り、頼朝に叱責されたことも。文治2年()8月16日、西行が頼朝に招かれた折の書き役を勤める。
――凡そ吾朝の弘法者(は)、併せて大師の聖跡(しょうせき)爲る之由、・・・我が朝の仏教は釈尊より弘法大師。
――武衛、御信仰有る之間、不日に沙汰を經られ、狼藉を止むべき之旨、御書を下せらる。
・・・(併爲大師聖跡之由→国文研版では、稱爲大師聖跡之由)
・・・御書・・・同日に、頼朝袖判の下し文が出されている。文面は「吾妻鏡」と同一。但し、本物かどうか?後代になって、高野山が、「吾妻鏡」を基にして作成したものか、という疑問も。
――其の状に云く、
――下す 紀伊の國阿弖河の庄
――早く旁(かたがた)の狼籍を停止(ちょうじ)し、舊(きゅう)の如く、高野金剛峯寺領たるべき事
――右、件(くだん)の庄者(は)、大師御手印の官府(かんぷ)の内の庄也。
――而るに、今、寂樂寺自り濫妨を致すと<云々>。
――事、實者(じつたらば)、穩便(おんびん)なるざる事歟。
――御手印の内、誰か異論成す可哉(べけんや)。
――早く彼の妨(さまたげ)を停止し、舊の如く金剛峯寺領と爲すべき之状、件の如し。以って下す。
――元暦元年七月二日




○三日 己丑。武衛爲追討前内府已下平氏等。以源九郎主。可遣西海[古の下に又]。被申仙洞<云々>。

――三日 己丑。武衛は前の内府已下(いか)の平氏等を追討せんが爲、源九郎主を以って、西海に遣わすべき事、仙洞に申さると<云々>。


○五日 辛卯。大内冠者惟義飛脚參着。申云。去七日於伊賀國。爲平家一族等被襲之間。所相恃之家人多以被誅戮<云々>。因茲諸人馳參。鎌倉中騒動<云々>。


――五日 辛卯。
――大内の冠者惟義(これよし)の飛脚參着し、申して云く、・・・大内の冠者惟義は信濃源氏。伊賀に所領をもらう。父は平賀義信。頼朝にとっては大事な御家人。
――去んぬる七日、伊賀の國に於いて、平家の一族等の爲に襲わるる之間、相恃(あいたの)む所之家人は、多く以って誅戮せらると<云々>。・・・(所相恃之家人→国文研版では、所恃之家人)
・・・「去んぬる七日」は?五日の記事である!とすると先月、6月7日のことか?「玉葉」を見ると7月のことなので吾妻鏡の誤記か?
大内惟義は腕の立つ武士なので、こんなことが起きるとは考えられなかった!!
――茲(これ)に因(よ)りて、諸人馳せ參り、鎌倉中は騒動す<云々>。

「玉葉の記事」については、「東鑑目録」さんのところに行くと見られます。どこか資料でアップしてある所を探します、と言ったきりで申し訳有りませんが、結局「東鑑目録」さんの所をご紹介するのが一番だとm(__)m・・・筆者の言い訳)

先生から、「横浜吾妻鏡の会」編纂の人名簿を参照しておくように言われて、見ました!ホントに凄い詳しいです。そこでは大内惟義として出ていまして、父平賀義信は、そのとおりですが、弟が北條時政の女婿平賀朝政で、あ〜!あの!という、まあ「平賀事件」とでも言いますか、牧の方に乗せられて実朝を廃して将軍職を乗っ取ろうと画策して義時に返り討ちに合っちゃうのですね。でー、惟義は朝政の兄なんですが、こちらは、それに無関係で、源氏諸流が軒並み粛清されていくのに、数国の守護を兼任して、「承久元年(1219)の将軍実朝の大臣拝賀の鶴ヶ岡御参の行列に列した」というところまで、吾妻鏡の記事があるそうです。もともと、父の平賀義信は、平治の乱から、義朝に最後まで付き従い、治承四年に頼朝挙兵と聞けば、父盛義共々馳せ参じ、義朝の遺骨埋葬の折には特別に参列を許された!という家柄だそうです。つまり、朝政は忠義の家に突然変異のように現れた鬼っ子だったんですねぇ・・・迷惑なヤッチャ(^_^;
義信・惟義共に生没年は不明。義時に誅された朝政が没年元久二年と分かっているのが皮肉といえば皮肉て゜す(^^ゞ・・・筆者の呟き)


○十日 丙申。今日井上太郎光盛於駿河國蒲原驛被誅。是依有同意于忠頼之聞也。光盛日來在京之間。吉香船越之輩含兼日嚴命。相待下向之期。討取之<云々>。



――十日 丙申。
――今日、井上の太郎光盛、駿河の國蒲原(かんばら)の驛に於いて誅せらる。・・・「井上光盛」も信濃源氏。信濃の北部高井郡。
――是は忠頼に同意する之聞こえ有るに依って也。
――光盛は、日來、在京する之間、吉香(きっか)・船越之輩は兼日の嚴命を含む。
・・・(吉香船越之輩→国文研版では、吾香舩越之輩)。
・・・吉香は吉川本の吉川氏のこと、周防に行く前には沼津の北にいた。中国地方に行ったのは戦国時代。
――下向之期を相待ち、之を討取ると<云々>。・・・(相待下向之期→国文研版では、相待下向其期)
・・・吉香氏と船越氏が、頼朝の命に依って待ち伏せしていた。



○十六日 壬寅。澁谷次郎高重者。勇敢之器。頗不耻父祖之由。度々預御感。[ノの下に几]於[古の下に又]快然之餘。彼領掌之所於上野國黒河郷。止國衙使入部。可爲別納之由。賜御下文。仍今日被仰含其由於國奉行人藤九郎盛長<云々>。

[ノの下に几]→凡 [古の下に又]→又
――十六日 壬寅。
――澁谷の次郎高重者(は)、勇敢之器(うつわ)、頗る父祖に耻ざる之由、度々御感に預かる。
・・・「澁谷高重」は澁谷氏の次男。
――凡そ事に於いて快然(かいぜん)之餘り、彼の領掌之所、上野の國、黒河郷に於いて國衙の使い入部を止め、別納爲るべき之由、御下文を賜る。
・・・「別納」というのは、要するに税を納めなくてよい、ということ。
・・・「黒河郷」は上野の国甘楽(かんら)郡、現富岡市黒川。

――仍って、今日、其の由を國に仰せふくめらる。奉行人藤九郎盛長と<云々>。・・・(奉行人→国文研版では奉行、)
・・・「國奉行人」安達盛長が、上野の国の国奉行をしていたことがわかる。
(ここは、返り点が「仍今日被二−含其由於國。奉行人藤九郎盛長<云々>。」となって、國の下に一と振って有りました。それだと、國奉行人という一続きの単語に読めないのです。返り点のうち違いですよね・・・筆者の呟き)

(「横浜吾妻鏡の会の人名簿」で、ビックリの話しがまた出てきました。↑の高重を調べるついでに、父親が、例の渋谷重國だと確認しようとして、重國を引いたら、あ〜らビックリ!重國の弟って、あの土佐坊昌俊なんだって\(^^)/こりゃあビックリでした!!渋谷重國は、佐々木兄弟の父を二十年も世話したり、その連れ子の佐々木兄弟に親身になって可愛がったり、有徳・有情の素晴らしい武士だと思っていたら、ヌァ〜ント、土佐坊の兄ちゃんだったのだ・・・皆さん、知ってました?こういう時、オバサンの無知&無恥がバレルのねぇ(^_^;)

○十八日 甲辰。伊賀國合戰之間[古の下に又]。被經其沙汰。可討亡平家隱逃之郎從等之由。被仰大内冠者。并加藤五景員入道父子。及瀧口三郎經俊等<云々>。雜色友行宗重兩人。帯彼御書等進發<云々>。

[古の下に又]→又
――十八日 甲辰。
――伊賀の國、合戰之間の事。其の沙汰を經らる。
――平家隱逃(おんとう)之郎從等を討亡すべき之由、大内の冠者・并びに加藤五景員(かとうごかげかず)入道父子・及び瀧口の三郎經俊等に仰せらると<云々>。
・・・加藤五景員入道父子とは、景員と景廉(かげかど)。瀧口の經俊は山内経俊
――雜色友行・宗重の兩人、彼の御書(ごしょ)等を帯して進發すと<云々>。


○廿日 丙午。此間。於鶴岡若宮之傍。被新造社壇。今日所被奉勸請熱田大明神也。仍武衛參給。武藏守義信。駿河守廣綱已下門客等。殊刷行粧列供奉。結城七郎朝光持御劒。河勾三郎實政懸御調度。此實政者。去年冬上洛之時。依渡舩之論。与一條次郎忠頼合戰之間。雖蒙御氣色。武勇之譽不耻上古之聞。不經幾旬月有免許。剰從此役奉眤近。觀者成不思議之念<云々>。御遷宮[古の下に又]終之後。爲貢税料所。被奉寄相摸國内一村。筑後權守俊兼被召寳前。書御寄附状<云々>。

[古の下に又]→又



――廿日 丙午。
――此の間(このかん)、鶴岡の若宮之傍に於いて社壇を新造せらる。
・・・鶴ヶ岡八幡宮に新しい宮を造営した。しかも「熱田大神宮」という頼朝の母の実家の神社を勧請した。大事な記事!寄付行為も伴う。
――今日、熱田大明神を勸請(かんじょう)し奉らるる所也。・・・(今日所被勸請→国文研版では、今日所被勸請)
――仍って武衛、參り給ふ。・・・(武衛參給→国文研版では、武衛參給)
――武藏の守義信・駿河の守廣綱已下の門客等、殊に行粧(ぎょうしょう)を刷(かいつくろ)い、供奉に列す。
――結城の七郎朝光、御劒(みつるぎ)を持つ。
――河勾(かわわ)の三郎實政、御調度(みちょうど)を懸く。
・・・「河勾」は武蔵の國都築郡、現埼玉県三郷町川和。「御調度を懸く」というのは将軍の弓矢を持つ。

――此の實政者(は)、去んぬる年の冬、上洛之時、渡舩之論に依って、一條の次郎忠頼と合戰する之間、御氣色を蒙ると雖も、武勇之譽(ほまれ)、上古に耻ざる之聞、幾旬月を經ずして免許有り。剰(あまつさえ)、此の役に從り眤近(じっこん)に奉る。
・・・内輪もめで頼朝から叱責されるも、武勇の誉れが高く、直ぐ許される。

――觀る者は、不思議之念を成すと<云々>。・・・↑それに周囲は疑問。
――御遷宮の事終わる之後、貢税(くぜい)の料所爲して、相摸の國の内、一村を寄せ奉らる。
――筑後の權守俊兼、寳前(ほうぜん)に召され、御寄附の状を書くと<云々>。
・・・「下し文」ではなく「寄進状」・・・資料@bR28「応永17年」の資料参照。出縄郷(いでなわごう)「鶴岡八幡宮の末社熱田宮の出縄郷」と言う記事。頼朝の鎌倉入から、若宮大路を通し、町の中央に鶴ヶ岡を据え、初めて末社が出来た。しかも熱田大神宮(頼朝の母の実家)。



○廿五日 辛亥。故井上太郎光盛侍保科太郎。小河原雲藤三郎等。爲降人參上。仍可爲御家人之由被仰下。藤内朝宗奉行<云々>。

――廿五日 辛亥。
――故井上の太郎光盛の侍、保科の太郎・小河原(おがわら)の雲藤(くもふじ)の三郎等、降人爲して參上す。・・・(小河原雲藤三等→国文研版では、小河原雲藤三等)
・・・保科太郎も信濃の北部高井郡。小河原雲藤三郎は現長野県須坂市に小河原(おがわら)という地名が残る。もとは井上光盛という誅された者の家来だが、武勇に功があったのか?
――仍って御家人爲るべき之由、仰せ下せらる。
――藤内朝宗奉行すと<云々>。・・・藤内朝宗は比企朝宗。比企尼の従兄弟(例の人名簿では甥でしたが(^_^;筆者注)で猶子となっている。比企能因の義兄となっているが元々は朝宗が比企氏を束ねていたが亡くなった後比企能因が束ねる。



○八月大
○二日 戊午。雨降。大内冠者飛脚重參着。申云。去十九日酉尅。与平家餘黨等合戰。逆徒敗北。討亡者九十餘人。其内張本四人。富田進士家助。前兵衛尉家能。家清入道。平田太郎家繼入道等也。前出羽守信兼子息等。并忠清法師等者。逃亡于山中畢。又佐々木源三秀能相具五郎義清。合戰之處。秀能爲平家被打取畢。惟義已雪會稽之耻。可預抽賞歟<云々>。

――八月大
――二日 戊午。雨降る。
――大内の冠者、飛脚を重ねて參着し申して云く。・・・大内の冠者は大内惟義。
――去んぬる十九日、酉の尅(午後4時)、平家餘黨等と合戰す。
――逆徒は敗北し、討亡者九十餘人。其の内張本四人。富田進士家助・前の兵衛尉家能・家清入道・平田の太郎家繼入道等也。
――前の出羽守の信兼の子息等、并びに忠清法師等者(は)山中に逃亡し畢(おわんぬ)。・・・前の出羽守の信兼は山木兼隆の父。忠清は上総の介忠清。悪七兵衛景清の父。
――又、佐々木の源三秀能(ひでよし)は、五郎義清を相具し、合戰する之處、秀能は平家の爲に打ち取られ畢。・・・佐々木源三秀能は近江源氏。佐々木四兄弟の父。
――惟義は已に會稽之耻(かいけいのはじ)を雪ぐ。
――抽賞に預かるべき歟(か)と<云々>。

あ〜ら!ヌァ〜ント!佐々木のお父ちゃんが平家に討ち取られてしまいました(;_;)号泣。戦場で死ぬのは勝ち負けにかかわらず、武士の誉れなんだけど、↑で渋谷重國のトコでも書きましたが、重國のような有徳仁が惚れこむようなよか男だったのですよ〜!!涙)


○三日 己未。雨降。召大内冠者使。賜委細御書。其趣。攻撃逆黨[古の下に又]。尤神妙。但可被抽賞之由被進申。頗背物儀歟。其故者。補一國守護之者。爲鎮狼■也。而先日爲賊徒被■害家人等訖。是無用意之所致也。豈非越度哉。然者。賞罰者宜任予之意者。又被發御使於京都。今度伊賀國兵革[古の下に又]。偏在出羽守信兼子息等結搆歟。而彼輩遁圍之中。不知行方<云々>。定隱遁京中歟。早尋捜之。不廻踵可令誅戮之趣。被仰遣源九郎主許<云々>。安逹新三郎爲飛脚首途<云々>。

[古の下に又]→事  ■→唳   ■→殺 

――三日 己未。雨降る。
――大内の冠者の使いを召し、委細の御書(ごしょ)を賜る。
――其の趣、逆黨を攻撃するの事、尤も神妙なり。
――但し、抽賞被るべき之由を進申せらるは、頗る物儀に背く歟(や)。
――其の故者(は)、一國の守護に補する之者は、狼唳を鎮めんが爲也。
――而るに、先日、賊徒の爲に家人等を殺害され訖。
――是は用意無きの致す所也。
――豈(あに)越度(おちど)に非ず哉(や)。
・・・大内惟義は、一国の守護として、平氏を平定するのは当然なのに、先日は家来を殺されてしまった!
――然者(しからば)、賞罰者(は)、予之意(こころ)に任すに宜しく者(とてへり)。
――又、御使を京都に發せられ、今度、伊賀の國の兵革の事、偏へに出羽の守信兼の子息等の結搆に在る歟(か)。
――而るに、彼の輩、圍(囲い)之中を遁(のが)れ、行方を知らずと<云々>。
――定めて、京中を隱遁する歟(か)、早く之を尋ね捜し、踵(きびす)を廻さず、誅戮せしむべき之趣、源九郎主の許に仰せ遣わさると<云々>。・・・「踵(きびす)を廻さず」というのは瞬時に、と言う意味。
――安逹の新三郎、飛脚爲(と)して首途(かどで)すと<云々>。

そういえば、さ・・・この頃、先生「御書」を「ごしょ」とお読みになるのですが、これ、以前は「みしょ」とお読みになってませんでした(^_^;まあ、古典の中で、一番難しいのが、この「御」の読み方なんですが・・・「書写本」などはみんなルビが振ってあるわけではないので、仮名で「おほん」とか「おん」とか「ご」とか「み」など書いてあれば、それで良いのですけど。時代によって、学説によって変わることもあって、「みしょ」から「ごしょ」になったのかしら?ホンマはなんと読むのでしょうね・・・筆者の呟き)

○六日 壬戌。武衛招請參河守。足利藏人。武田兵衛尉給。又常胤已下爲宗御家人等依召參入。此輩爲追討平家。可赴西海之間。爲御餞別也。終日有御酒宴。及退散之期。各引賜馬一疋。其中參州分秘藏御馬也。剰被副甲一領<云々>。

――六日 壬戌。
――武衛は、參河の守・足利藏人・武田兵衛尉を招請し給ふ。・・・參河の守は範頼。
――又、常胤已下、宗爲る御家人等、召に依って參入す。
――此の輩は、平家を追討せんが爲、西海に赴くべき之間、御餞別爲して也。
――終日御酒宴有り。退散之期に及んで、各(おのおの)、馬一疋を引き賜る。
――其中、參州の分は秘藏の御馬也。剰(あまつさえ)、甲(よろい)一領を副えらると<云々>。
(さあ、始まった♪頼朝の範頼贔屓!というより、義経を牽制したいがための範頼への肩入れですよね。義経はまたうまうまとその手に乗っちゃうのですよ!頭わるぅ〜(^_^;・・・筆者の呟き)

○八日 甲子 晴。參河守範頼爲平家追討使赴西海。午尅進發。旗差<旗巻之>一人。弓袋一人。相並前行。次參州<着紺村濃直垂。加小具足。駕栗毛馬。>次扈從輩一千餘騎。並龍蹄。所謂北條小四郎。足利藏人義兼。武田兵衛尉有義。千葉介常胤。境平次常秀。三浦介義澄。男平六義村。八田四郎武者知家。同男太郎朝重。葛西三郎清重。長沼五郎宗政。結城七郎朝光。藤内所朝宗。比企藤四郎能員。阿曽沼四郎廣綱。和田太郎義盛。同三郎宗實。同四郎義胤。大多和次郎義成。安西三郎景益。同太郎明景。大河戸太郎廣行。同三郎。中條藤次家長。工藤一臈祐經。同三郎祐茂。天野藤内遠景。小野寺太郎道綱。一品房昌寛。土左房昌俊以下也。武衛搆御棧敷於稲瀬河邊。令見物之給<云々>。

――八日 甲子 晴。
――參河の守範頼、平家追討使爲して西海に赴く。
――午の尅進發す。
――旗差<旗、之を巻く>一人。弓袋(ゆぶくろ)一人。相並びて前行す。
――次いで、參州<紺の村濃(むらご)の直垂を着し、小具足を加へ、栗毛の馬に駕す。>・・・(駕栗毛馬→国文研版では栗毛馬駕)
――次いで、扈從(こじゆう)の輩、一千餘騎、並びに龍蹄(りゅうてい)。
・・・(ここは、先生なんとお読みになったか聞き損ねたのですが(いっつも大事なトコ聞き落とすな<アホの筆者・・・「並びに龍蹄」では意味が通じないですよね。でも返り点がないのだ!「東鑑目録」さんでは「龍蹄を並ぶ」となってましたね。)

――所謂(いわゆる)
――北條の小四郎・足利の藏人義兼・武田の兵衛尉有義・千葉の介常胤・境の平次常秀・三浦の介義澄・男(なん)平六義村・八田の四郎武者知家・同男(なん)太郎朝重・葛西の三郎清重・長沼の五郎宗政・結城の七郎朝光・藤内所(ところ)の朝宗・比企の藤四郎能員・阿曽沼の四郎廣綱・和田の太郎義盛・同三郎宗實・同四郎義胤・大多の和次郎義成・安西の三郎景益・同太郎明景・大河戸(おおこうど)の太郎廣・同三郎・中條藤次家長・工藤一臈祐經・同三郎祐茂・天野藤内遠景・小野寺の太郎道綱・一品房(いっぽんぼう)昌寛・土左の房昌俊(しょうしゅん)以下也。
――武衛は、御棧敷を稲瀬河の邊りに搆へ、之を見物せしめ給ふ<云々>。・・・「稲瀬川」は旧鎌倉街道への出入り口。


国文研版では


L03所謂
L04△北條小四郎△△△△△足利藏人義兼
L05△武田兵衛尉有義△△△千葉介常胤
L06△境平次常秀△△△△△三浦介義澄
L07△男平六義村△△△△△八田四郎武者朝家
L08△同男太郎朝重△△△△葛西三郎清重
L09△長沼五郎宗政△△△△結城七郎朝光
L10△藤内所朝宗△△△△△比企藤四郎能員
L11△阿曽沼四郎廣綱△△△和田太郎義盛
L12△同三郎宗實△△△△△同四郎義胤
P147
L01△大多和次郎義成△△△安西三郎景益
L02△同太郎明景△△△△△大河戸太郎廣行
L03△同三郎△△△△△△△中條藤次家長
L04△工藤一臈祐經△△△△同三郎祐茂
L05△天野藤内遠景△△△△小野寺太郎道綱
L06△一品房昌寛△△△△△土左房昌俊
L07以下也。武衛、搆御棧敷於稲瀬河邊、令見物之給〈云云〉




○十三日 己巳。御寄進于鹿嶋社之地等事。常陸國奥郡内。有叛逆之輩。依致妨社[イ殳]不全<云々>。仍如元可爲社領之由。今日重被仰下<云々>。

[古の下に又]→又

――十三日 己巳。
――鹿嶋社に御寄進之地等事。
――常陸の國奥郡の内、叛逆之輩有り。
――妨げ致すに依って、社役全うせずと<云々>。
――仍って元の如く社領爲るべき之由、今日重ねて仰せ下さると<云々>。
・・・鹿島社のある北関東のあたりは、まだ鎌倉の力が及びきれていない。




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